3.9『』


 ――簡単に幸せになれるボタンを、あなたは押しますか?


 カタリ君のその問いかけに、僕は答えることができず、口を曲げてはぐらかす。

「まるでカルト宗教の勧誘だ」

「まさに最新の科学はカルトです。例えば、親鸞が他力本願をとなえはじめた時だって、異端と糾弾きゅうだんされたことでしょう。新しい角度からのアプローチは常にしてそうです」

「他力は、まぁ、今でも誤解されているけどね」


 他力本願は鎌倉時代に親鸞しんらんが唱えた教えだ。

 よく、他人の力を利用して自分は何もしない、などと誤解されているけれど実際はもっと深い意味がある。


「ふむ」とカタリ君は間を置いた。「そういえば、他力本願と脳ビリは似ていませんか? 自分の努力で幸せになることを否定する、という一点で」

「ちなみに、カタリ君が考える他力本願って?」

「親鸞による、この世界を信じることにしました宣言、ですかね」


 まるで、鎌倉時代を代表する高僧が、若さの勢いで盛大にやらかしちゃった感じに言う。


「と、いうと?」

「成功は自分の努力で失敗は他人のせい、そういう狭い世界観がこの世を窮屈にしています」と説教をはじめる。「この世界とは自分と他人の間に生まれる認識でしかありません。ゆえに他人を否定すると世界が不安定になる。どこかで、僕たちは他人を信じないと安定しない」


 意外にそれっぽいことを言い出した。

 この世界に生きるかぎり、どこかで他人とつながっている。だから、他力をちゃんと認識して、すべてが自力だと誤解しないように生きることの難しさを、親鸞は説いたのかもしれない。


「なるほどね」と僕は頬を叩いた。「例えば、ご飯の前に『いただきます』と言うのも他力本願だよね。他人のおかげで自分が生きていることを再確認するための習慣。修行と言ってもいいかも」

「ああ〜、もう無理。耐えられません!」

 急に大声を出されたので、スマホが耳から浮く。

「そういうキラキラした解釈は苦手なんです。ああ、限界だ。大体、僕は親鸞って大っ嫌いなんですよ」

 だったら、なぜ他力本願なんて言い出したのだろう?

「僕が言いたかったのは、他力本願が、他人を利用して成功してやるって誤解されていたように、脳ビリも誤解されているのでは? ってことです」

「……なるほど?」

「ねぇ、意味不明なんだけど」


 ツィリンが口を尖らして、会話に割り込んできた。


「シンランってだれ? ちゃんとした日本語をしゃべって。無視されているみたいで感じ悪いんだけど」

「あれ、検索は?」

 脳有りであれば、親鸞くらいすぐに脳内検索できるはずだ。

「私の脳は黒いの。社会大脳からはハブられてるから無理」

「あっ、そっかそっか」

 脳有りが免疫屋になると、社会大脳の感染を避けるため、共有脳ネットワークのブラックリストに登録されてしまう。彼らが経験をインストールするためにはオフラインの物理デバイスを脳に直接挿入する必要がある。

「辞書を脳にぶっ刺せば別だけどさ。私の脳容量は小さいから無駄使いしたくない。保健省の防疫経験プリセットだけでも結構なサイズあるし、ニィおじいちゃんの稽古も忘れたくないし」

 彼女は頭をふって、僕を見上げる。

「タリキホンガン、ってつまりどういうこと?」

「まぁ、簡単に言うと……。昔、偉いお坊さんがいて、自分の努力だけで幸せになろうとするのはちょっと違うかもしれませんね、っていう言ったんだよ」

「ふ〜ん」

 ツィリンは鼻で笑った。

「だとしたら、それはとんだご機嫌野郎よ」

 親鸞が嫌われすぎて、かわいそうになってきた。僕は好きですよ。

「私は産まれた時点でどん底で、間違いなくそれは親のせいだった。同じような子もいっぱいいたけど、私は自分で這い上がった。他人に頼って、だまされて、搾り取られて自滅する商売女とは私は違う」

「……」

「タリキホンガン? そういうぬるい考え方って、生まれた時点で幸せな奴の戯言たわごとよ。つまり、エスカレータの手すりをにぎっていればいいだけなら、そりゃ、自分の努力なんていらないわ。でも、そんな人生、お前の意味ないじゃん」


 幼いころから虐待され、家出して売春で稼ぎ、親に金をつきつけて絶縁を宣言した彼女であれば、まさにそうだろう。彼女のような生い立ちで他力本願と言われても、鼻で笑いたくなるだけだろう。


「ちなみに、」とカタリ君が割って入った。「ツィリンならボタンを押す?」

「私が脳ビリするかってこと?」

「ああ」

「絶対にしない」

 彼女は即答した。

「するわけがない。そういうのに頼らなかったから私がある。簡単に幸せになれる麻薬性経験なんて裏ではいくらでも売っていた。そういうのに手を出して自滅するバカ女とは、私は違う」

「そう、君は強い。いや、強くなったというべきかな。人は変わるものだね」

 とカタリ君が少し笑う。

「だけど、全員がそうじゃない。君だって、バクバさんがいなかったらどうなっていた? 君が追われていた売春組織から一人だけで逃げ切れただろうか?」

「……」

「ねぇ、バクバさんはどう思います?」

「う〜ん。まぁ、麻薬はダメだよね」

「それは思考停止ワードですよ。麻薬だって医療で有効利用されていますが、使い方を間違える人はゼロではない。それと同じで、脳ビリで救われた人は、そうじゃない人よりもずっと多い」


 ふと、蕎麦屋の店主のことを思い出した。

 彼は脳ビリをきっかけにして活力を取り戻し、仕事にうちこめるようになったらしい。他にもそういう人はいるだろう。


「結局は使い方か」

「そんな陳腐ちんぷな実践論もつまらないですね。何でもかんでも使い方次第になる。核兵器すら戦争をなくすための方便になるのだから」

「まぁね」

「僕は幸せの本質的な表現を知りたい。簡単に幸せになれる時代に、簡単に幸せになってしまっていいのか? そういう問いにちゃんと向き合いたいのです」

「……そういえば、そういう動物実験があったな」

 内容を覚えているのだけど、名前が出てこない。

「どの本で読んだかは忘れたけど、たしか、幸せなネズミと孤独なネズミ、どっちが麻薬中毒になりやすいか、っていう実験。ネズミの楽園だったかな? いや違うな」

「ラットパーク実験ですか」

「そう! それそれ」


 たしか、孤独なほど麻薬に依存しやすく、幸せな環境にいれば中毒にはならない、という仮説を検証した実験だ。

 まず、狭い檻にネズミを一匹だけ入れる。それとは別に広い檻にボールや回し車といったおもちゃと十数匹のオスメスを入れたネズミの楽園も用意する。その対照的な二つの環境にモルヒネが入った水を与え、ネズミの摂取量を比較するのだ。


「ラッドパーク実験は……」とカタリ君は考えるように少し間を置いた。「確かに、参考にはなりますね」

「あの実験結果では、幸せな環境ではネズミはモルヒネを飲まなかった、って聞いたけど」


 脳ビリもモルヒネと同じことが言えるかもしれない。少なくとも、ちゃんとした環境にいれば本来は不要なものである点は類似する。


「幸せになれる環境があれば、本来は脳ビリなんて不要なのでは?」

「東京のフローラ地区に住んでいるお花畑脳が言いそうな結論ですね」

 と、カタリ君が吐き捨てるように言った。

「ラットパーク実験はその後の追実験で異なる結果も出ています。ラットの遺伝要素、年齢、ヘロインではなくコカインを用いた場合などで薬物への嗜好性は変わる。まぁ、楽園が薬物への依存度を減らす傾向は、どの結果でもある程度は確認されていますが……」

「それが答えにはならない?」

「いえ、なりませんね。そもそも、ラッドパーク的楽園なんて東京の中心部のフローラ地区ぐらいですよ。ああいうところで幸せをキメてるネズミどもが『麻薬はダメ、脳ビリも麻薬と同じでしょ』なんてピーピーわめく」


 共生フローラ地区というのは、東京の中心にある実験エリアだ。

 いわゆる富裕層の脳有りだけがそこに住み、子どもたちに特別な情操教育を施している。赤子の時から共有脳をインプラントし、他人と積極的に繋がることで共感能力と脳容量が成長しやすいらしい。


「まぁ、一部の人の特権なのは間違いない」

「フローラ地区で醸造された幸せなんて、まさに他力本願アルコールですよ。それも立派な薬物だ。その証拠に、フローラ地区の幸せジャンキーどもは共感できない相手を見るだけで発狂して、必死に排除しようとする。あれも病的な何かです」


 極論だ、とは思うが完全には否定しにくい。実際にフローラ地区に脳無しが侵入すればすぐに通報されてしまう。


「あそこの住人どもは共感依存症におかされている。相手に共感を強制する点で、脳ビリよりもずっとタチが悪い。だったら、ほら、他人に迷惑をかけることなくポジティブになれる脳ビリのほうが、ずっとマシだと思いませんか?」

「う〜ん」

「どうです?」

「僕は、」と、何かを言いかけた時、


 けたたましい警報が「感染警報! 感染警報!」と待合室を騒がせた。


「トロルによる壁外襲撃が発生。壁外襲撃が発生。市民は共有脳をシャットダウンし市内に避難してください。繰り返します。共有脳をシャットダウンし、壁内に避難してください」

「せっかく、いいところだったのに」とカタリ君は舌を鳴らした。「仕方ありませんね。バクバさん、僕はスマイルに変わります」

「ああ」

「本当に最悪だ」とため息をついた後、次の瞬間には市長の声色に変わっていた。「……残念だったね。まさか襲撃とは」

「お忙しいでしょうから、失礼いたします」

「待ち給え」


 スマホを切ろうと瞬間、市長の野太い声に呼び止められてしまった。


「ちょうど良い。バクバ君も手伝ってくれたまえ」

「防壁に、ですか?」

「緊急時には東京や小田原に関係なく、防疫に協力すること。そういう協定があるだろう」


 免疫屋の契約条項には、自身が所属する都市に関わらず、現地都市の疫学的危機の際はその防疫に協力すること、があった気がする。ああいう誓約書って、あまり読まずにサインするから、あまり覚えていないけれど。


「協力は惜しみませんが」と慎重に言葉を探す。「状況は?」

「待ち給え。今、状況を確認している」


 長いこと免疫屋をやっていると防疫官を選ぶことを覚えてしまう。

 間違った判断や命令で死んでしまうのは嫌だ。さて、この市長はどうだろう? 彼の判断が微妙なら、アルナナさんを通してくれ、といって電話を切ってしまおう。


「ふむ」と市長の声がした。「国府津門と早川門の二方面にトロルの群れが確認されている。東西からの挟み撃ちだな」

「……」

「第一目標が壁の死守、第二に壁外にいる農業プラントの従業員の救助。であれば、門を閉ざすまでに何人回収できるかのスピード勝負になるだろう。バクバ君、今はどこにいるのかね?」

「早川の闇市あたりですが」

「そのまま、早川門に向かってくれたまえ。私も合流する」


 市長の判断は間違ってはいない。

 防壁は常にスピード勝負で、できるだけ早く閉門しなければならない。つまり、壁外の市民をどの程度見捨てるか? という意思決定が重要だ。市長が現場にいると、その意思決定をショートカットできることも多いだろう。

 幸い、小田原の防疫視察にも都合がよい。


「……わかりました。僕たちも早川門に向かいます」

「期待しているよ」

 電話の向こうで市長の声がはずんだ。

「東京ナンバーワンの免疫屋。バクバ君の活躍を!」


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