3.8『芋粥』


 蕎麦屋を後にした僕らは、次の視察として、脳ビリの手術をしている診療所を訪れることにした。


「本日は脳深部刺激療法のインプラントをご希望ということで?」


 担当してくれた医者は若い男で、笑うと清潔感が広がるイケメンだった。

 とてもヤクザが斡旋している診療所とは思えない。

 壁際に近い小さな診療所とはいえ、この若さで医者をしているなら脳有りだろう。ためしに、彼のうなじをのぞいたが、後ろ髪を肩のあたりまで伸ばして見えなかった。


「はぁ……」と頭をかいてみる。「実はまだ迷っているのですが。後ろのめいに勧められたので」

「そちらのお嬢さんに?」


 若い医者は僕の背後で立っているツィリンに視線を向けた。

 蕎麦屋の店主のように変な関係を勘ぐられるのは嫌だったので、姪ということにしたのだ。ツィリンは、その設定もわりとエロいけどね、とケタケタと笑いながら快諾してくれた。


「ええ……、どうも、この歳になるとこういうのは不安でして」

「同じことを言われる方は多いですね。自然脳の方は特に」

 と、若い医者は笑った。

「まぁ、とりあえずは脳検査の結果をお見せしましょう。その結果によっては、インプラントができないこともありますので」


 医者はモニタを回してこちらに向けた。

 僕の脳の断面がそこで表示されていた。ついさっきまで、自分の脳内を検査してもらったのだ。電極を埋め込むべき場所には微妙な個人差があるらしく、手術の前にそれを確認する必要もあるらしい。

 自分の脳の画像なんて見たことはないから興味がわいた。


「とくに大きな疾病は」と医者は僕の脳断面を指差しながらうなずく。「はい、見当たらないようですね」

「どうですか、例えば、僕はサイコパスだったりしませんか?」

「さいこぱす?」


 と医者は首筋をとんと指で叩いた。やはり、脳有りだ。


「なるほど、反社会性パーソナリティ障害のことでしょうか? それにしても、ずいぶんと昔の用語ですね」

「今ならトロルで言うのでしょう」

「私は医療経験をインストールしてからまだ数年の若造ですが、」若い医者は首筋をもみながら、爽やかに笑った。「単にトロルにも、スクリプト感染型と自然発症型、自然発症型からの感染型なんて細かく分かれます。治療法が確立されているものもあれば、現時点では殺処分しかないものも」

「はぁ……、なるほど」


 免疫屋なのでそんなことは知っている。とはいえ、視察なのだから、いかにも初めて聞いたという表情をつくった。


「それで、サイコパスの症状は……、恐怖の不感症、他者への共感能力欠如、自己報酬の過剰な欲求、ですか。たしかに、トロルに似ていますね。自然発症型の孤独系かな」

「僕の脳はサイコパスでしょうか?」

「ふむ……」と、医者は首筋をとんとんと叩く。「当時の研究ではサイコパスには扁桃体と海馬の活性不全や左右非対称などの特徴があると報告されていますね。他にも白質と灰白質の割合の違い。そのあたりを見てみましょうか」

「……」


 医者はモニタに僕の脳断面を表示して、「この二点があなたの扁桃体です」と二本の指で指差した。


「完全な左右対称ではありませんが、まぁ左右対称とも言える範囲です。海馬の形も綺麗ではありませんが、いびつでもない。前頭前皮質の白質と灰白質の分布は、まぁ個人差の範囲ではないでしょうか?」

「……つまり、僕はサイコパスではない?」

「よく分かりません」

 青年はさらりとかわした。

「なにせ、百年以上前の病名ですからね。実のところ、自然脳の方への脳医学はその頃と比べてもほとんど発展していませんよ。当院で実施している脳深部刺激療法も当時とほぼ同じものです」

「なるほど」

「共有脳が発明されてからは、シナプスコーディングによる介入治療が主流になり、自然脳の研究は停滞しました。おそらく、サイコパスと呼ばれた症状も共有脳で治療できると考えられたのでしょう。まぁ、その後、感染が大流行して十分な共有脳の生産ができなくなりましたが」


 少なくとも、僕がサイコパスなのかは診断できないようだ。自分を説明できる言葉を見つけたと思ったのに、少し残念なような、安心なような……。


「ご安心ください。あなたの脳は健康で、内出血も脳梗塞の影も見当たりません。電極のインプラントは問題なく行えますよ。ちょうど、今、オペロボットに空きがあります。よろしければ、今から手術されますか?」

「あっ、いえ」

 本当に手術を受けるつもりはなかった。

「実はまだ迷っていまして」

「そうでした。まだ手術の説明もしていませんでしたね。最近は、説明も聞かずに手術に同意する人も多かったですから。忘れていました」

「お願いします」

「今、説明書を表示しますね」


 医者は脳断面をうつしていたモニタを『脳深部刺激療法概要説明』と書かれたスライドに切り替えた。

 スライドには、頭蓋骨の脳天に穴を明け、そこから電極針をまっすぐ下に差し込む様子がアニメの絵で表現されている。電極針にはコードが伸びていて、それは皮膚の裏を伝って胸元に埋め込んだバッテリーに繋がっている。


「これが?」

「ええ、今から受けてもらう手術の説明になります」

「はぁ」

「頭蓋骨に穴をあけるだけなので体の負担は少ないです。術後の経過観察や電圧調整のために一週間だけ入院してもらいます。バッテリーは脳内ではなく胸に埋め込みます。非接触充電が可能なタイプで、外皮から電磁波を当てることで充電が可能です」

 と、スライドをめくっていく。

「あの……、思っていたよりも軽い感じなんですね」

「脳は意外に頑丈ですからね。頭蓋骨に穴をあけたくらいじゃあ、大した影響はありませんよ」

「あの、デメリットとかありませんか? 術後の障害とか」

「もちろん、あります」

 医者は白い歯をみせた。

「リスクがない手術はこの世の中にありません。脳深部刺激療法の場合は、脳内の出血と感染症それに脳脊髄の漏れなどが起こりえます。その確率は数%ですが、後にほとんどが完治します。過去に重篤じゅうとく化したのは0.5%以下ですね。極稀に言語機能や視覚に障害が見られるケースがありますが、その場合は電源をオフにすれば解消されました」


 それが危険なのか誤差なのか、すぐには判断できなかったが、脳有りである彼が嘘をつくことはないだろう。


「で、いかがされます?」

「あの……、もう少し考えさせてください。ここまでして頂いているのに申し訳ありませんが」

「いいえ、不安になるのは当然です。よく考えて、納得されてからまた来てください。この手術は小田原市から助成金が出ますから、術後の入院費も含めて無料となりますので、費用面のご心配は不要ですよ」

「ありがとうございました」


 頭を下げて、ツィリンと一緒に診察室を出た。

 廊下をぬけて、待合室に戻ると野球帽をかぶっている男以外には他の患者はいなかった。そこのソファにツィリンと腰掛けて、ふぅ、と息をはく。

 脳に電極を埋め込む、って聞いていたからもっと人体改造みたいな大掛かりなものを想像していたけど、実際はあっさりとしたもので、医者の対応も誠実に見えた。


「ツィリンはどう思った?」

「どうって言われても、私は最初から普通だと思っていたよ。実際に来てみたらやっぱり普通だった。それだけ」

 どこか勝ち誇ったように、ふふん、と彼女は鼻をならす。

「バクバさんは何に引っかかっているの?」

「アルナナさんが、」

 と言いかけたところで、ツィリンの目が尖った。

「あ、いや……。あの、脳科学が発達して人は幸福度を調整できるようになったでしょ。脳ビリや共有脳で幸福は操作可能な何かに変わったんだ」

「それで」

 と興味は半分程度といった様子で、ツィリンは肩をすくめた。

「え〜と、幸せになるために僕らは生きているだろ」

「まぁ、そうね」

「その目的が、さっき、診察で教えてもらったみたいに、とっても簡単な無料の手術で達成されてしまうんだ」

「ああ、なるほど」

「僕はちょっと、そういうのは違う気がするんだ」

「バクバさんの考えすぎじゃない?」

「そうはそう、なんだけどね」


 自分が面倒くさい奴なだけ、という自覚はわりとあったりする。脳無しのくせして、あーだこーだと考えてしまう。悩むだけ無駄なことなのに、頭にこびりついて離れないのだ。

 ソファに体重をあずけて、目を閉じてみた。

 この違和感はなんだろう。人は機械で簡単に幸せになってもいいのだろうか?


「よう、そこのお兄さん」と突然、声をかけられた。

 見ると、野球帽をかぶった患者がこちらに近づいてくる。

「脳ビリの手術に来たんか?」

「はぁ」

「だったら、こいつを」とチラシを差し出した。「興味があったらそこに書いてある番号に連絡してくれ」

「えっと」

 事情を聞こうとすると、野球帽の男はさっと待合室を出ていってしまった。どうもあやしい、と思いながら押し付けられたチラシに目を落としてみる。

「……脳ビリの改造サービス、か」


 チラシには埋め込んだ脳ビリの改造について、様々な料金テーブルと一緒に羅列されていた。電圧強化50万円、バッテリー増設200万円、精力増強刺激400万円などなど。

 チラシの写真には左右に美女をはべらせた筋肉質の男が歯を見せて笑っている。その吹き出しに「絶頂確実、快感エクスタシー!!」とやけにごきげんなキャッチがそえられていた。


「なるほど」

「なに」とツィリンもチラシをのぞきこむ。

「まぁ、こういう違法ビジネスが出てくるよな。モリタさんが麻薬と同じだと言った通りだ」

「……」

「やっぱり、そんな簡単なことじゃないよ。実は、脳ビリのことを書いていた本があるんだ。そこにも、幸せを操作することについて……」


 と『闇の脳科学』をかばんから取り出そうとしたら、ひらり、と白い紙が本から落ちた。

 なんだ? 市長がはさみ忘れていたメモだろうか、と拾い上げてみる。手書きの文字だ。バクバさんへ、と自分の名前を見たとき、思わず眉間にしわがよった。

 僕に手紙? あの市長が? 


——————

バクバさんへ


この本はどうでした?

百年前から本格化したこのテーゼに、未だに誰も解答できていないのです。議論すら不十分なまま、科学ばかりが発展して、誰もが幸せであることが前提の社会が成立してしまった。


これは僕の仮説ですけどね。

「与えられた幸せ」に疑問を感じる厄介やっかいな性格が、僕らの共通点だと思うのです。まるで、芥川龍之介の『芋粥』の主人公みたいに。


ふふ、バクバさんはどう思いますか?


この答えのない議論をあなたと交わしたい。一緒にこの劣情を慰め合いませんか? JP-X1234-56789にお電話くれたら嬉しいです。枕を濡らしてお待ちしています。


それでは。よろしく、つつがなく、あなかしこ。ばいばい。

カタリより

——————


「カタリ君?」

「えっ」ツィリンもそのメモを覗き込んだ。「本当だ。これ、カタリのだ」

「分かるの?」

「うん、この最後のとこ。『よろしく、つつがなく、あなかしこ。ばいばい』ってあるでしょう。これカタリがいつも使っているやつ」


 本当にカタリ君なのか。

 メモには電話番号も書いてあった。これにかけて繋がるなら彼は今、この小田原にいることになる。小田原の基地局から壁外への電波は完全に遮断されている。


「かけないの?」

「……かけてみる」


 一瞬だけ、先にアルナナさんに報告するべきか、と迷った。報告すればカタリを確保してください、と依頼されるのは確実だろう。それは……、本当に彼が小田原にいるのを確認してからでも遅くはないだろう。

 メモにあった電話番号をスマホに入力した。

 呼び音が一つ、二つ、……。

 四つ目で電話がつながった。


「はっはっはー!」


 爆笑が耳もとで爆発した。

 とっさにスマホを耳から離して鼓膜から遠ざける。くそ、だまされた、あの市長だ!


「おや、今、だまされたと思ったかね? ん、バクバ君」

「……いえ」

「ふむ、私を警戒しているようだ。いや〜、君がなかなか電話をくれないから、不安だったよ」

「こうはどういった?」

「それかい? それはカタリが書いたものだよ」

「……」

「正確には私の脳にいるカタリが書いた、と言えば分かってくれるかね」

 その鼻歌まじりの言葉を聞いて、思わず耳を疑ってしまった。

「今、なんと?」

「私と脳に住んでいるカタリがそのメモを書いて、君に渡すように本に仕込んだのだよ。まるで、花も恥じらう乙女の恋文のようだろ」

 恥じらいのある乙女は脳科学書を読むだろうか。

「つまり……、市長はカタリ君と脳を交換されたので?」

「したさ」


 唸り声を噛みしめる。

 大問題だ。流石に、アルナナさんに黙っているわけにいかない。


「カタリ君は、」

「残念ながら!」と市長にさえぎられた。「君たちが追っているオリジナルはもう小田原にはいない。ふむ、オリジナルというのはカタリがまさに嫌う表現だな。カタリいわく、カタリとは分散し偏在するにくらしい、ゆえにオリジナルなど存在せず、自己意識を曖昧にしたまま実存できるのだと」

 まるでカタリ君のような意味不明なことを言いはじめた。

「なんにせよ、実に愉快な試みだと思わないか? 事実、カタリあるいはカタリたちはトロルの治療に成功している。それも、東京がお手上げの重症をだ」

「ご自身が、今、何を言っているのか、それをご理解されていますか」

「だからこそ、君に言っている」

 ふっふっ、と溶鉱炉のふいごみたいな笑い声がスマホから鳴り響いてくる。

「そんな驚くことではないないだろう。君が治療したあの黒い脳の少女も、カタリと脳を分かち合った分脳だろうに」


 驚いてツィリンのほうに振り向いてしまった。彼女はきょとんとした目でこちらを見返す。


「おや、もしかして、知らなかったかね?」と市長が吹き続けている。「少し考えれば想像できたことだろうに。君は相当な本の虫だと聞いたが、少し頭が固いのかもしれん」

「なぜ、貴方がそれを知っているのですか」

「分脳同士は不思議な脳波でビビっとくる……なんてことはまったくない。どうしてだと思うかね?」

「……検疫ですか?」

 ツィリンは小田原に入る時に検疫を受け、市長は直接それを診断していた。

「ビンゴぉ! そもそも、分脳でもなければ、他の都市から来た黒い脳を市中に入れるわけがなかろう」

「いつ、カタリ君と脳を交換したんですか?」


 横で聞いていたツィリンが、びくっ、と体を震わせた。

 感が鋭い子だ。自分がカタリ君の分脳であることが、僕にバレたことも気がついたかもしれない。


「今、電話してるの」とツィリンがおそるおそる僕を見上げる。「カタリなの?」

「いや、市長だ」

「市長? もしかして、市長はカタリと?」

「ああ」

 ツィリンは口を一文字に結んで、ぐっと黙り込んでしまった。

「ふむ、もう一年になるか」とスマホの向こうでは市長が語りだした。「私とカタリが出会ったのは。私が壁外担当の防疫官だった頃だ。私の脳の前頭葉を失った時にね」

「壁外でトロルに襲われた時ですね」

「ああ。脳を吹き飛ばされた私を置いて、部下の免疫屋たちはすぐに撤退した。それを恨んだことは流石にないがね。あの状況では生死確認なんて後回しにして、すぐに壁の防御を固める。それが正解なのだから」

「……」

「脳が額からこぼれ落ちて、ドロドロになった意識のまま地面に突っ伏して、砂まみれの自分の脳片を眺めていたよ。激痛と不快感は凄まじかったが、なぜか不安は感じなかった。もしかしたら、あの時、すでに私の脳から恐怖を処理する部分が失われてしまったのかも知れない」

「そこにカタリ君が?」

「正解だ。頭が硬いのに感が良い。カタリの一団が通りかかったのは偶然で、私にとっては僥倖ぎょうこうだった。彼らはトロルたちを追い払い、いわゆるオリジナルのカタリが私のほうにやってきた」


 カタリの一団、か。

 彼はそれなりの人数を引き連れて東京を出たのだ。初めて会った時も、彼は多くの仲間に囲まれていた。


「カタリは興味深そうに私を覗き込んできた。印象的な青年だったよ。透き通った瞳に無邪気な笑顔を浮かべていた。あれ以上の笑顔は見たことがない。彼は笑いながら私に言った。ふむ、バクバ君、カタリは私に何と言ったと思う?」

「……その脳をください」

「驚いた。正解だよ」

 いかにもあの子が言いそうな事だ。

「脳は失ったがあの時の記憶は忘れていない。カタリは言った。『あなたが落としたその脳、いらないなら僕にください』とね。そんなの、死にかけの私に答えられるわけがない。でも、彼はしつこかった。『OKなら、手をあげてください』と言い出した。実に面白いだろう? こんなの笑うしかあるまい。私はお手上げだったよ。

 すると、カタリは笑って、自分の共有脳からコードをのばして『強引に直結しますから痛いかも。あっ、でも、今よりマシか』なんてうそぶきながら、私のソケットにプラグを差し込んだ」

「カタリと直結したのですね」

「彼は『落とした部分は僕をあげます』なんて鼻歌まじりで、私と意識を溶け合わせた。バクバ君には分からないかも知れないが、カタリとの直結は至高の快楽なのだよ。脳に電流を流す程度とは比べようもない。重奏的多幸感。思い出すだけでね、笑いがこみ上げてくる」

 市長はその野太い声をぬらした。

「カタリは私の痛覚を引き取り、失った私の機能を補ってくれた。するとさながら母親に抱かれていた赤ん坊のような気分になる。私はカタリに抱かれながら、まさに生まれ変わったのだよ」


 スマホのむこうから、ふぅー、と満足げな吐息が聞こえてきた。


「……さて、そろそろカタリに怒られてしまうな。そもそも、君との話したがっているのは彼だった。そろそろ、彼に意識をゆずるとしよう」

「意識をゆずる?」

「もうさっきから、カタリがピーピーとうるさい。さっさと変わってしまおう。では、久しぶりの再会を楽しみたまえよ」


 と市長が別れを告げると、しばらく音声が途切れた。固唾をのんで次の声を待つ。


「いや〜」と電話の声色がかわる。「スマイルって話が長いんですよ」


「……本当に、カタリ君なのか?」

「なんですか、忘れてしまったのですか。悲しくも残酷な問いかけをする。自分の本当を問うなんて。誰も本当の自分なんて分からないのに。いや、本当の自分なんて見たくないだけかもしれない」

 質問に対して、論点をずらしてうやむやする。こういう詭弁きべんはたしかにカタリ君だ。

「前に話してからどれくらいたつ?」

「スマイルのにくに根を張る僕の記憶では二年ぶりくらいですか? ツィリンのところの僕は毎日会っているだろうけど、ねたましい」

「どこで?」

「誰の体の僕のことですか?」

「……君のオリジナルのことだ」

「その呼び方、嫌いなんですよね。まるで僕の体だけが目当てみたいじゃないですか。いやらしいですね。言い直して」

「君が僕を殺そうとした場所だよ」

「ああっ、バクバさんの日記を見つけた場所ですね」


 おそらく間違いない。カタリ君だ。


「ご納得をいただけましたか?」

「ああ」

「では、早速ですが、お楽しみの時間ですよ。バクバさんも楽しみにしていたんじゃないですか? 本の話をしましょう」

「ちょっと待って」


 さっきからツィリンがそわそわしながらこちらを見上げていた。彼女をちらりと見てから、カタリ君に「ツィリンもいる」と告げた。


「知っていますよ。同じカタリですからね、ビビッときました」

「彼女にも聞いてもらう」

 そうすれば、アルナナさんに経験を共有できる。少なくとも、僕の口頭報告よりもずっと正確だろう。報告しないといけないのなら、正確であるべきだ。

「ええ、構いませんよ。彼女と話のも楽しみにしていました」


 ポケットからイヤホンを取り出して、片方を彼女に差し出す。

 彼女はそれをじっと見ていたが、おそるおそる手にとるとイヤホンを耳にいれた。


「カタリ?」と彼女は僕のスマホにむけて問いかける。

「やあ、久しぶりだね。東京に残る、と言った君の決断をあらためて祝福させてくれ。君の脳を見たとき、本当に驚いたよ。君は僕らに頼ることなくトロルを自分のものにした」

「脳は黒くなったけどね」

「色分けラベリングなんて連中の好きにさせておけばいいさ。君の脳は君だけの色になっていたよ。君は君だけの物語をはじめた」

「カタリと……、バクバさんのおかげよ」

「君をバクバさんに頼んで正解だったよ。しかし、物語は残酷で死ぬまで続けなければならない。それが、他人のテンプレートではなく、自分の物語を望んだ強欲の代償さ。さて、君は次にどう展開する?」

「私はね。カタリ、あなたを捕まえるわ」


 十代の将来の夢って、なんか小っ恥ずかしいよなぁ。

 そう頬を書きながらも、ツィリンが言った事に驚きもした。カタリ君を捕まえる。それは相当な覚悟がないと出ない言葉で、まさに彼女だけの目標だろう。


「いいねぇ」とカタリ君はため息をもらした。

「私は免疫屋になる。カタリを捕まえられるくらいの一流の免疫屋に」

「とてもいい。最高だ」


 しんみりとした沈黙が流れる。

 そう言えば、カタリ君の仲間は東京を出たはずなのに、ツィリンは残って僕のところに来た。彼女が持ってきた、カタリ君の手紙には「この娘を救ってください」と書かれていたことを思い出す。


「さて、」

 とカタリ君は声色を高くした。

「そろそろ本の話をしようか。そのためにわざわざメモを本に仕込んだのです。スマイルを説得するのにも骨を折ったんですよ」

「……ああ」

「では、バクバさんにあらためて問いましょう。脳科学が発展し、人類は幸せになれるボタンを発明しました。さて、簡単に幸せになれるボタンを、あなたは押しますか?」


 とても元気な声でカタリ君はそう問いかけてきた。




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『芋粥』(芥川龍之介、青空文庫)

 貧乏役人である主人公は、芋粥を腹いっぱい食べることが夢だ、とかねてから周囲に語っていた。それを聞いたある貴族が大鍋にいっぱいの芋粥をご馳走をしてやったが、主人公はそれを目の前にしてなぜか食欲が失せてしまう。

 この説話は色んな解釈が可能だと思う。

 夢とは幻想である。夢は他人にかなえてもらうものではない。簡単に達成できる夢はむなしい……などなど。このように色んな解釈ができる余地があるほど小説は楽しい。


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