3.4.『』


 僕は病院の待合室で『闇の脳科学』を開いていた。


 残りの二人——ツィリンとクルードが冬眠型検疫機から目覚めるのを待っているのだが、脳に電気を流された男の子の豹変が頭に焼きついていた。どうしてあんな事になるのだろうか? その答えを求めて自然と指がページをめくってしまう。

 ふと目に止まったのは、脳に電気を流した患者の描写だった。


『彼らはまず、脳の最深部に9ボルトで電流を流してみた。何も起きなかったので、徐々に電圧を上げても変化はない。そこで、0.5ミリ浅い位置に変えた。すると、わずか6ボルトで、鬱病の患者が突然話し始めた。

「今、何かしましたか?」

「なぜそう思うのですか?」

「突然、とても、とても穏やかな感じがしました」

「穏やかな、というのはどういう意味ですか?」

「表現しづらいです。微笑むと笑うの違いを表現するのと同じです。突然、気分が上向いたような感じがしました。軽くなったような。冬の寒い日が続いて、もうたくさんだと外に出てみたら、新芽が出ていた。それを見て、春が来るんだと感じたような」

 そのとき、電極のスイッチが切られた。その途端に、患者は春が来た感じは消えてしまったと言った』


 ……これと同じことがあの男の子にも起きたのだろうか?


 少なくとも、あの子の変化はこの事例と同じくらいだった。

 脳に6ボルトを流すだけで、鬱病患者ですら春のポエムを口ずさむなら、父親を殺された男の子が犯人に頭を下げるようになるのかもしれない。

 でも、それでいいのか?

 脳に電気を流されたあの子は、本当のあの子なのだろうか?


『脳を操作することは自我そのもの──何千億という細胞のネットワークから成るピンク色の塊のどこかに存在する「私」──を操作することだ、という事実だった。脳深部刺激療法というこの注目すべきテクノロジーは、「私とは何者なのだろう」という、疑問の中の疑問を喚起しているのだ』


 あの市長はその人格操作を推し進めている。

 共有脳も似ているかもしれないが、それでもその人の意思で動かせる。それに対して、これは外部からの単なる電気刺激だ。


『私自身も、別の誰かになりたいとよく思った。別の誰か、もしくは少なくとも別の自分、ともかくも今よりはましな自分になりたいとよく思った』


 共感できる。当時の人はみんな脳無しだったから、同じ思いだっただろう。


『だが、心理学者や行動遺伝学者から話を聞くうち、人格の輪郭を描いているのは遺伝子であり、人格はほとんど変えられないものなのだということを知った。「自分自身を受け入れろ」ということのようだった。

 しかし、遺伝子は、外的刺激に対する脳の反応の癖を決めることによって人格を形作っている。だから、逆をついて脳を直接いじってやれば、人格もそれにつれて変化するに違いない。そしてこれこそまさに、脳深部刺激療法が証明してきたことなのだ』


 ……つまるところ。


「なりたい自分になるには、脳を変えるしかないのか」

「どうかしましたか?」

「えっ」


 急に声をかけられたので驚いて顔をあげると、アルナナさんがこちらに近づいてくるのが見えた。


「あっ、もしかして二人の検疫、終わりましたか」

「いえ、まだかかりそうです。……面白いですか?」と本を指差した。

「すみません。仕事中なのに」


 アルナナは僕の隣のソファに腰を降ろすと、ページを覗き込んできた。僕の腕にその長い髪がはらりと落ちる。


「スマ市長の本ですね。面白いですか?」

「ええ……、僕には、刺さりました」

「刺さりましたか」と彼女は首を傾ける。「どんな内容で」

「アルナナさんにはきっと退屈ですよ。昔の脳科学だから」

「かもしれませんけど」

 と、アルナナさんは笑いながら、本の文字を指でなぞりはじめた。

「……これは、2020年に出版された本です」

「今から百年前ですか。まだ共有脳がなかった頃の脳科学」

「当時は鬱病患者に対して脳に電極を埋め込む治療が行われはじめたみたいです。その経緯や様子を書いたサイエンス・ドキュメンタリーです」

「ふむ」とアルナナさんが顔をあげる。「なるほど、当時は脳への侵襲しんしゅう的な介入治療が行われていたのですね」

「しんしゅうてき?」

「この場合は頭蓋骨に穴を開けることですね」


 アルナナさんはページをめくった。


「脳深部刺激療法、ですか。乱暴な治療法です。電流を脳に流せば、確かに変化を起こせますが副作用もあります。当時は生体ナノ技術も不十分で、電極もまだまだ太いでしょうから、脳を傷つけてしまったでしょう」

「だから、当時では重度の精神病患者にしか許可されなかったようですね」

 今では、みんなが共有デバイスを脳に埋め込んでいる。むしろ能無しのほうが異常な精神病者のように扱われている。

「なるほど」

「そういえば、ここの事例なんてどう思いますか」

「どちらでしょう?」


 僕はページをめくり直して、さっきの春のポエムを指し示した。


「……」

「すこし大げさな書き方ですよね。こういう事って本当に起きるのでしょうか?」

「可能性はあると思いますよ」

 とアルナナは首筋をとんとんと叩きながら、目で文章を追っていく。

「この鬱病患者が脳の快楽系に先天的な不具合があったとしたら、そこを生まれて初めて刺激されたのです。その未体験の衝撃は強烈でしょう」

「う〜ん」

「他の器官に例えたほうが分かりやすいかもしれません。例えば、バクバさんが生まれつき目の見えない、盲目だったとしましょう。ほら、目を閉じてみてください」

「はい」


 言われるがままに目を閉じると、真っ暗になった。その闇の向こうからアルナナさんがクスっと笑う声が聞こえてきた。


「さて、今のバクバさんは一度も光を見たことがありません。ご家族のことも声だけで判断し、顔なんて分からない。私のことも、声や臭いだけです。他の人には目というものがあって、それは光を感知して、顔や風景というものが見えるらしい、それは知っている状態です」

「……はい」


 つまり、本が読めない状態だ。それは困る。


「では」と冷たい指先が僕のまぶたの裏に触れた。「今、私がバクバさんの視神経を繋げる魔法コードをかけました。目を開いてください。バクバさんは初めて私を見るのです」


 ゆっくりと目を開けてみる。

 そこには花のように微笑んでいるアルナナさんがいた。僕に光をもたらしたその指を、彼女は意外に肉感的な唇にあてて、ふふ、と少女のように鼻をならした。


「どうでしょうか?」

「たしかに……、ちょっとポエムな気分になりますね」

「視覚と同じように、刺激されたことのなかった快楽系に初めて電流が流れた時の感動はこれ以上でしょう。喜びの知覚を直接刺激するのですから」

「なるほど」


 だとすれば、あの少年の豹変もまた電流による強制にすぎない。


「私としてはこっちの記述も気になります」

「どれです」

「ここですよ。ここ」


 彼女の指先の文字にさっと視線を走らせる。


『ところが翌日、退院する段になって、電圧のボルト数をもう少し上げてもらえないかと患者が言い出した。「今のままでも調子はいいです。でも、もう少し幸福度を上げたい気もするんです」と。』


「東京が側坐核の電気刺激を禁止する理由がまさにこれです。興味深いですね。つまり、百年前からこの問題は認識されていたようです」

「どういうことです」

「幸福を自由に調整できてしまうのです」

「幸福を……調整?」

「少なくとも、側坐核あたりをうまく刺激してやれば、人は生きる活力を感じ幸せな気分で満たされる。それは事実です」

「脳に電流を流すだけで、幸せになれる」

「はい」


 事実はそうなのだろうけど、本当に大丈夫なのか。


「まるで麻薬だ」

「用途を間違えれば麻薬と同じ問題を引き起こします。問題はどう運用されるのか」

 アルナナさんは眉をよせて、唇に指をあてた。

「例えば、本人にコントローラを渡し自分で調整させることも技術的には可能です。しかし、それでは麻薬と同じです。快楽を求めて、ボタンを押し続けるだけの中毒者になる危険性が高くなります」

「それは、問題ですね」

「実際にネズミで実験したこともありますよ。ネズミは餌を食べず、交尾すら放棄して、脳に電流を流すボタンを無心になって押し続けたそうです。まるで、ボタンを押すために生きているかのように」

「それは、恐ろしいですね。脳が焼き切れるまで、電圧を上げる人もいるかもしれない」

「この問題はもっと複雑です……。あっ、そのことも書いてありますね。面白い。百年以上前から私たちは同じ問題に悩み続けているのですね」

「どこですか」

「ここです」


 またアルナナさんの指先の文章を読んでみる。


『シノフツィクは設定値の調整を一ボルトから始めた。患者の気分に大した変化は起きなかった。患者の幸福度は「2」程度と低く、対照的に不安度は「8」と高かった。一ボルト上げると、幸福度は「3」に上がり、不安度は「6」に下がった。上がったとはいえ、それは取り立てて言うほどの変化ではなかった。ところが、四ボルトまで上げると状況は一変した。幸福度が最大値の「10」に上がり、不安感がまったくなくなったのだ。

「ドラッグでハイになっているみたいな感じ」。それまで打ちひしがれた表情だった患者が突然満面の笑みを浮かべ、シノフツィクに言った。シノフツィクが実験のために電圧をもう一ボルト上げて五ボルトにしたところ、患者は「すばらしい気分だけど、ちょっとやりすぎな感じ」と言った。患者は自分ではどうしようもないほどのエクスタシーを感じ、そのために不安度が「7」にまで上昇してしまった。』


 アルナナさんその文章を指でなぞりながら解説してくれた。


「この事例だと、電圧の上昇とともに体感幸福度は上昇し、不安度は下降していきます。五ボルトで性欲が異常に活性化されてしまいました」

「……つまり、エッチな気分になる?」

「抑制困難な性欲は代表的なトロル化の原因でもありますが、側坐核は幸福感だけでなく性欲にも影響を及ぼします。そのために、適切に不安を感じて制御しなければならないのですが、側坐核の刺激によって不安の機能が壊れていますね」


 なるほど。

 これは僕だけではたどり着けなかった解釈だ。やっぱり、本についてお話するのは最高だな。


「な〜に、イチャイチャしてんの」


 いきなり声をかけられて、驚いて顔をあげると、そこにはツィリンが腕を組んで立っていた。彼女は口を尖らせて、こちらを睨みつけている。


「あ、検疫、終わった?」

「ダメだったら冷蔵されたまんま。もちろん私はパスしたわよ。こいつと違ってね」


 と、サムズアップした親指を後ろに向け、クルードさんを指差した。


「よう」

「……大丈夫ですか」


 クルードさんが冬眠型検疫機ハイバー・スキャナーから出てきたということは、脳深部に電圧をかけ続けるスクリプトをインストールした、ということだ。


「ああ、むしろ調子が良すぎるくらいだな」と首の後ろを揉みながらクルードさんはにやりと笑った。「あ〜、よく寝れたぜ」

「あ、あの……、脳は?」

「あん? あぁ、スクリプトを入れられたこと知ってんのか?」

「ええ」

「よゆー、よゆー。大体よぉ、こちらとら痛覚遮断やアドレナリンコントロールやら、脳をバリバリ改造しまくってトロルと戦ってんだぜ。今更、脳にちょっと電気流すくらいどーでもねぇ」

「そ、そうですよね」

「まぁ気にすんな。なんにも変わんねぇよ」


 とクルードさんに肩を思いっきり叩かれた。


「で、これからどーするんだ?」

「私たちの任務はカタリの追跡調査でしたが……」と、アルナナさんが立ち上がる。「少し気になることができました。数日ほど、小田原の状況を視察いたします。どちらにせよ、カタリの足跡をここで調べる予定でしたので」

「なら、小田原を楽しむとするかぁ」


 クルードさんが妙にやる気にあふれた声をあげた。


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