3.3『闇の脳科学』


 小田原は海岸線で分けられた半円形の城壁都市だ。


 壁は東の国府津こうづ門から半弧をはじめ、小田原城を包むように西の早川はやかわ門で閉じる。

 どの都市でも裕福な脳有りたちは壁から遠い中央部に住みたがる。小田原の場合は、街の中央を通る酒匂さかわ川が海に流れこむあたりが都市の中枢で、そこではいくつもの高層ビルやマンションがそびえ立っている。

 その中で最も高いビルは病院だ。

 共有脳が一般化して以来、病院は重要な都市機能となった。かつて犯罪者と呼ばれた者も今では患者と呼ばれ、罪状は脳の病名に変わり、刑罰ではなく治療を施されるようになった。


「はっはっはー」とその診察室で笑い声がとどろいた。「さすがは東京の防疫官ですな。健康的で美しい脳をお持ちだ。いやはや、なんとも、素晴らしいものを見せていただいた」

「ありがとうございます」とアルナナさんは市長に頭をさげた。「こちらも、まさか市長に直接ご検疫いただけるとは思いませんでした」


 アルナナさんとあの市長が診察室で話しているのを、僕は後ろから眺めている。検疫を終えた彼女の付き添いとして診察室に呼ばれたのだ。


「アルファ・ナナさん、でしたかな。それにしても変わったお名前だ。ギリシャ文字のα《アルファ》でしょうか?」

「アルナナとお呼びください。職場でもそれで通していますので」

「おや、失礼、失礼。……保健省東京本部トロル対策局防疫一課防疫官。いやはや、まだお若いのに大した出世だ。それでは、改めてご挨拶を」


 兜の市長は大きな手を差し出した。

 よく鍛えられ節くれ立った指だ。体もスーツがはちきれんばかりに太い。だが、決して脂肪によるものではなく、固太りした筋肉だろう。

 実戦で鍛え上げた体に見える。そう言えば、かつては壁外担当の防疫官だったと言っていた。


「私は小田原市長のスマ・イサクです。ぜひ、スマイル市長と。これでも昔は防疫官でしてな。まぁ、あなたのようなエリートではなく、落ちこぼれでしたが」

「よろしくお願い申し上げます」


 流石はアルナナさん、と言うべきだろうか。

 兜を被った変人を目の前にしても平然としている。彼女は外向き用の完璧な笑顔すら作っていた。


「スマ市長のお噂はかねがね聞き及んでおります。スマ市長が就任されてから小田原の市内感染率は激減しています。東京でも話題になっていました。私も勉強させていただきます」

「いやいや、なんともはや! スマイルが溢れて兜が浮いてしまいそうだ」


 実際、市長は兜を、ガンガラ、と揺らしていた。


「さてさて、お世辞は十分。今からお連れの二人の結果をお伝えしても?」

「ええ、よろしくおねがいします」

「あなた自身は冬眠型検疫機ハイバー・スキャナーから目覚めたばかりですが、体調の方は?」

「すでに脈拍も正常値まで戻りました。ご心配いただき、ありがとうございます」


 冬眠型検疫機ハイバー・スキャナーとは体がすっぽり入る円筒形の検疫装置で、低温状態で検疫を行う。ちょうど診察室の防護ガラスの向こうにその装置が三台見える。今は、検疫機のガラス面越しにツィリンとクルードさんが冬眠しているのが見えた。


「それで、他の二人の検疫は、」とアルナナさんもその検疫機に視線を移す。「クルードとツィリンは、いつ終わりますでしょうか?」

「もうそろそろですな。……それにしても、タイミングが良かった。最近はトロルの襲撃が途絶えていたので、検疫機にちょうど空きがあった。あの冷蔵庫は小田原に三台しかない」

「どこの都市でも検疫機は常に不足しております」

「境界都市では死活問題だ。……ふむ、ようやく、お連れの二人の結果が出たようだ」


 スマ市長は宙を指差し、そこに浮かんでいたホログラムのウィンドウをすべらせてアルナナさんの前へとはじいた。

 二人の脳のスキャン映像が表示されており、ところどころが赤く点滅していた。特に片方の点滅は強烈で赤の発光が目に痛いほどだ。


「こちらがお連れの結果ですが、男性の方はすでに末期ですな」

 市長は兜の面頬を上げ、あの強烈な笑顔をアルナナさんに向けた。

「極めて率直に申し上げると、小田原としては、この男性を壁内に迎え入れるのは躊躇ちゅうちょせざるを得ない。女の子のほうはまだマシなようですが、脳が萎縮いしゅくしているようだ」

「彼女は幼少期の性的虐待を受けました」


 ツィリンの脳萎縮は僕も聞いていた。

 彼女の脳は平均的な女の子に比べて、小さくしぼんでいる部分があるらしい。それは幼い頃に虐待を受けた脳によく見られる症状だ、とアルナナさんは前置きして「本来であれば、脳にすぐに脳洗浄すべきですが……」とやんわりと釘を刺された。


「なるほど、それで縮んでいるのですな。早く脳洗浄クレンジングするべきでは?」

「彼女がそれを拒否しましたので」

「それで黒い脳に? 事情がおありのようだ」

「……」


 スマ市長は追求しなかった。代わりに、より真っ赤な脳スキャンを指で拡大する。


「もう一人の——男性のほうは、この私でさえ笑えない状況だ。何人殺せばここまで脳が傷つくのやら。このまま、冬眠させ続けるべきでしょう」

「考慮いただきたい点を申し上げますと、彼——クルード・カザマは東京の壁外任務を担当する免疫屋で、東京で三位のランカーでもありました。壁外を担当できる免疫屋は貴重な人材です。そして、優秀な免疫屋ほど、その脳はトロルに類似する傾向があります」

「ふぅむ」

 市長はその太い腕を組んだ。

「……彼を入れる前に、保険をつけさせていただきたい」

「保険、ですか?」

「それには、小田原の細かい事情もお伝えすべきでしょう。思念通話を開いてもらえますかな? 市内の防疫に関わることです。うそいつわりがないように願いたい」

「ええ、もちろんです」


 アルナナさんは指で首筋をとんとんと叩き、市長は兜を、ガンガン、と拳で叩いた。その後、二人は瞑想するように沈黙してしまった。

 それは脳有りたちがよくやる、思念通話の光景だった。

 能無しの僕にはよく分からないが、言葉だけでなく感情と経験すら共有するその対話によって、脳有りたちは互いを理解することができるらしい。実際に、何か意見が対立しはじめると、彼らはすぐに首筋を叩いて瞑想し、お互いの脳を共振させる。


 ……ちょっと長いな。


 東京と小田原の事情はそうとう混み合っているのだろう。二人はなかなか瞑想から戻ってこなかった。

 暇を持て余して、診察室のまわりに視線を泳がせてみる。すると机の上に本が一冊置かれているのを見つけた。


 へぇ、脳有りが本なんて、珍しいな。


 思わず、机に近づいて表紙を覗き込むと『闇の脳科学』と書いてあった。ふむ、2020年に文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうから出版された本か。文藝春秋って言えば、かつては芥川賞や直木賞などの文学賞を主催していた出版社だ。

 とすると、これは小説なのかな? 思わず手にとってパラパラとめくってみる。


 いや……。うん、これは小説じゃない。


 脳に電極を埋め込む手術についてまとめたルポタージュだ。『闇の脳科学』なんて週刊誌的なタイトルだから、小説かと勘違いしたが、どうやら昔にはそういう手術が実際に行われていたらしい。

 翻訳本で原著のタイトルは『The Pleasure Shock: The Rise of Deep Brain Stimulation and Its Forgotten Inventor』とある。直訳すると、喜びの衝撃:脳深部刺激の隆盛とその忘れ去られた発明者、かな。

 原題はまともだが、どうやら、文藝春秋は日本で売るにあたってタイトルを週刊誌風にアレンジしたようだ。

 ひょっとしたら、これはあの市長の本かもしれないな——と二人の様子をうかがうと、まだ瞑想したままだった。手持ち無沙汰も手伝って、手が勝手にページをめくってしまう。

 すると、ある一文に目が吸い寄せられた。


『私は楽しむということがなかなかできない。それは私の人生に繰り返し現れるテーマであり、ずっと考えてきたし、今でも考え続けていることだ。なぜ、私は楽しみや喜びを簡単に感じられないのだろう?』


 この文に続けて、この著者はうつ病であることを告白している。そんな著者は、初めて抗鬱剤を飲んだ時の感動をこうつづっていた。


『当時、私はこの元気で力強い気質こそ、新たな自分のノーマルな状態だと信じていた』

『正直に言って、あの頃は生きてきた五十年間で最高と言えた』

『あれから数冊の本を書き、評価され、もはや私は孤独ではなくなった。だが、あんな幸福感と明るい気分になったことはあれ以来一度もない』


 薬によって人生の最高を体験した著者は、当時の鬱病の最新治療である脳深部刺激療法について調査をはじめた。

 脳に電気を流すことで、自殺未遂を繰り返してきた精神病患者が、はじめて笑顔を浮かべるようになる。例えば、この本にはこんな事例を紹介していた。


『脳深部刺激によって、彼女は無口な内向的人間から陽気な外向的人間に変化した。その結果、彼女はアルコールで問題を起こすようになり、夫婦仲は悪化した。しかし、彼女は意に介していないようだった。自分の新しい人格が好きだ、と彼女は言った』


 少なくとも能無しであれば、鬱病でなくとも、自分のことが好きになれない人がほとんどだろう。でも、脳に電流を流すと、鬱病に苦しんでいる人でさえ、自分のことが好きになれる。

 だとしたら、自分って何なんだ?


「気に入ったかね?」


 と肩を叩かれて、驚いて振り返れば、市長があの強烈な笑顔でこっちを覗き込んでいた。どうやら時間を忘れて、読みふけってしまったらしい。


「あっ、あの。すみません」

「気に入ったのなら差し上げよう」

「いえ、悪いです」

 本は高級品なのだ。

「気にすることはない。その内容はすっかり全部、頭に入っている。何度も読み返したからね。それに私の脳の半分は機械だ。自然脳とちがって、私の記憶メモリは不揮発性だ。忘れることなどない」


 胸をそらして高笑いをあげた市長に、「プレゼント、フォー、ユー」と本を押し返されてしまった。そのまま有無を言わせず、市長はアルナナさんのほうへと戻っていく。


「さて、話を戻そうか」と市長は椅子に腰をおろした。

「ええ」

「東京側の事情は、あい、承知したつもりだ」


 僕はもらった本を両手で抱えたまま、アルナナさんの元へと戻る。まだ、脳裏にはあの文章がこびりついていた。脳に電流を流すだけで人は幸せになれるのか? だったら……。


「あのお二人の入場を許可はいたしましょう」

「ありがとうございます」

「ただし、男性の方、つまりクルード氏には条件がある。あるスクリプトを共有脳にインストールしていただきたい」

「そのスクリプトを拝見させていただいてもよろしいでしょうか」

「もちろんだとも。なに、貴方にとっては笑ってしまうような簡単なコードだ。さっと見るだけで理解できましょう。今、見せますよ」


 市長がホロに手をかざすと、新しいウィンドウが出現してそこにコードらしきアルファベットが並んでいた。自分には何が書いてあるのか全く分からないが、シナプス・コードを見る機会はめったにないので覗き込んで見る。


--------------

class smile(accumebens):

 def __init__(self):

  self.super.__init__()

 def keep_smile(self):

  if self.super.voltage < 3.0:

   self.super.add_voltage(5.0)

  

smiler = smile()

smiler.listen(func="keep_smile", roop_msec=100)

--------------


 ……確かに短いが、全然わからなかった。


「確かに、シンプルですね」とアルナナさんは頷いた。「脳の電位を一定以上に保つスクリプトですか」

「ザッツ、ライト」

「しかも、accumebensを……側坐核を電気刺激ですか。本人の意思で刺激を操作することはできますか?」

「ノー」と市長は兜を左右に振った。「それは絶対にノーだ。これはあくまで、市民が前向きにするための福祉であって、これ自体が生きる目的になることは絶対にない」

 アルナナさんは唇に指をあて、目を細めた。

「市長はこれでクルードのトロル性を抑制できる、とお考えですか?」

「確証はないが、トロルに近しい脳は貴重なサンプルでもある。しかし、単なる思いつきではない。脳深部刺激は百年以上前から効果のあった療法だ」

「……なるほど」

「いかがですかな?」

「分かりました。クルードの共有脳に設定していただいても結構です」

「そうですか!」


 あの大きな手を叩く。まるで風船が破裂したような大きな音だった。

 それにしても、本人の了承もなしに決まるなんて……。アルナナさんはなぜかクルードに対しては当たりが強い。


「ご協力に感謝しましょう。なに、クルード氏からすればこんなスクリプト、むしろ喜んで入れるはずだ。これで彼も、きっとスマイルになる」

「……もう少し、おうかがいしても?」

「ええ、もちろん」


 アルナナさんは膝の腕で両手の指を絡めながら、じっと市長を見た。


「側坐核は快楽や恐怖などの感情に関わる部位です。かつてはモルヒネなどの麻薬を摂取することで、側坐核へのドーパミン投射を促進させ、手軽に多幸感を得る犯罪が横行していました。そのリスクをどのようにお考えで?」

「むぅ」

 市長が初めて苦い表情を見せた。

「重々承知している」

「幸福感の操作は慎むべき、という意見もあるかと思われます」

「まさに東京らしい意見だ」


 突然、市長は手の平をアルナナさんに向けて突き出した。その指を一本一本折りたたみながら、大きな声でまくし立てはじめた。


「頻発するトロル襲撃。殺処分遺族の慢性的なストレス負荷。高額な脳洗浄クレンジング装置。その対価として東京に納めなければならない農作物。そのような状況下で、小田原市民は危険な壁外の農業プラントで働かなければならない」

「……」

「一方で、昨今の東京から要求される農作物には随分と余裕が感じられますな。たんぱく源の大豆やエネルギー源の穀物ならまだ理解できる。しかし、最近では、アセロラ、ヒマワリ、昆布、ブルーベリーなどが増えている。はてさて、東京ではオーガニック食品がブームなのかね?」

「不適切な要求が増えていることは認めます」

「その不適切な要求とやらが我々を壁外に追い立てている。市民は危険な壁外で、東京の富裕層の美容のために、ブルーベリーを育てているのだよ」


 アルナナさんは目を閉じて黙ってしまった。

 同じ関東圏とはいえ、東京とその周辺都市では貧富の格差がある。食料のために壁外で作業する必要があるが、東京はそれを境界都市に押し付けている側面はあった。


「このような状況におかれた小田原の市民には、東京以上に前向きな脳が必要なのだ」

 と、市長はつぶやくように言った。

「今やほとんどの市民がスマイル・スクリプトを受け入れている。そのインストール率に反比例するように、壁内のトロル発症率は減少しているのは事実だろう」

「……」


 アルナナさんが黙っていると、トントン、と診察室の扉が叩かれた。


「入りたまえ」

「失礼します。スマイル市長、検疫機が一台空いたそうで、新しい患者を入れてよろしいでしょうか」


 扉のほうを見ると白衣を着た職員らしき男性が、拘束テープで全身をぐるぐる巻きにされた小さな男の子を連れていた。

 あの男の子だ。僕が殺した父親の子ども。

 その子の目の下は赤みをおびて腫れ上がっていた。きっと、あの夜から一睡もしていないのだろう。光を失ったその目がこちらを見ると「あっ」と乾いた声を発した。


「あいつだ」と男の子はもがいた。拘束テープを引きちぎろうと肩をゆらし、こちらに駆け寄ろうともがきはじめた。

「動くな!」


 職員が紐を引くと男の子は転倒した。紐は彼に巻かれた首輪に繋がれていた。犬のように引きずられ、芋虫のようにもがきながらも、男の子は僕を睨み続けていた。


「お前だ! お父さんを殺したのはお前だろ!」

「……」

「知ってるんだ。汽車は死体を運んでくる。社会大脳で調べたたことがあるんだ。汽車には免疫屋が乗っていて、トロルを殺してお金を稼いでる。僕は知ってるんだぞ!」

「……」

「お前がやったんだろ! お金のために、殺したんだろ!」

「これはこれは」


 市長が僕を押しのけるように、男の子の前に立ちはだかった。


「随分と感染が進行してしまったようだな」

「申し訳有りません」と職員が紐を引っぱりながら謝った。

「幼い脳ほど変異しやすい。この子の治療を優先すべきだったようだが、相手が東京だったのでね」

 市長は腰をかがめて、男の子を覗き込む。

「しょうがなかったのだよ」と市長は面頬をあげて笑顔をのぞかせた。「このおじさんは悪くない」

「うるさい!」

「君のお父さんは感染していた。殺さなければ、他の誰かも感染してしまうかもしれない。しょうがなかった」

「うるさい! 黙れよ! お父さんは、お父さんは!」

「遺体から切除した共有脳を検疫したから間違いない。これは社会大脳にはアップロードされてない情報だが、たまに感染していないのに殺処分してしまうケースもあるんだ。バレると面倒だから、その場に遺体を捨ててしまう悪い免疫屋もいるんだ。でも、このおじさんはちゃんと持ち帰ってくれた。恨むのは間違っている」

「……うるさい。うるさい、うるさい、うるさい! だったら返せよ! お父さんだって悪くなかっただろ!」

「やれやれ、そうやって悪意を撒き散らしていると、ますます脳がトロルになっていく。今の君に必要なのはスマイルさ。笑えば幸福になり、怒ればトロルになる。そういうものさ」


 市長はそう言って、挿入針インジェクターをポケットから取り出した。


「それは?」と市長に問いかける。

「さっき見せたとおりスマイルスクリプトは短い。こんな小さい針でインストールできてしまう。高価でかさばる検疫機など必要ない」

「その子の脳に電流を流すのですか?」

「もちろん。これが小田原のやり方だ」

「……」


 市長は必死に抵抗する男の子の首根っこをつかみ、うなじのソケットを露わにさせた。太い指がつまんだ小さな針を男の子のソケットをあてる。「やめろ! 何をするつもりだ!」と男の子は暴れているが、無駄な抵抗だった。

 僕にはそれを止める権利はない。

 市長が挿入針を男の子の脳に差し込んだ。

 暴れていた男の子は小さく悲鳴をあげたが、すぐに目をとじて大人しくなった。


「再起動中だ」と市長は針をポケットにしまう。「これだけで処置は終わりだ。スクリプトが脳のマッサージをはじめる。喜びのスパイクでポジティブな気分を引き出す。脳洗浄クレンジングなんて必要ない。辛い過去を忘れる必要もない。本当に必要なのは、それに立ち向かう勇気だ」


 市長は男の子から手を離した。

 男の子はゆっくりと目を開けて何度もまばたきをした。まるで自分に起きた変化に戸惑うように、ごろりと仰向けになって天井を見つめている。その目が、さまよって市長を見つめ「何したの?」と聞く。


「魔法をかけたのだよ」

「魔法?」

「ああ、気分はどうだい?」

「……海にいるみたいだ」

「海?」

「お父さんとお母さんに海水浴によく連れて行ってもらったんだ。川が海に流れているところ」

酒匂川さかわがわかね?」

「そう。多分、それ。どうしてだろう、急にその時のことを思い出したんだ。お父さんはこんな綺麗な海は東京にもないぞ、って何度もうるさかった」

「お父さんのことは残念だった」


 市長はそう言いながら、僕のほうを横目でチラリと目配せをした。まるで、この治療法の効果をよく見ろ、と言わんばかりだった。


「……うん」

「素晴らしいお父さんだった。危険な壁外のプラント業務は勇気のある人しかできない。それを、みんなのためにやってくれた」

「うん」


 男の子はぎゅっと目を閉じてうなずいた。


「実はね、僕、知ってたんだ」

「なにをだね?」

「お父さんが帰ってこなくなって……。多分、そうなんだろうなって。だって、社会大脳に聞いたらすぐに分かっちゃうだ。去年にトロルになったのが何人くらいいて、壁の外から帰ってこれない人が何人とかも」

「ああ」

 市長はそのごつい手を男の子の頭に置いた。

「知っていたのに……、僕、気づいていたのに」

「そういうものさ。君は悲しくて、脳の電気が弱っていたのさ。そういう風になってしまうのはごく普通のことだ」

「ねぇ、兜のおじさん」

「なんだね」

「僕を起こしてちょうだい。こんなんだから、立てないんだ」

「もちろんだとも。君を拘束する理由はなくなったのだから」


 市長は男の子の首輪を外し、ぐるぐる巻きにしていた拘束テープを剥がし始める。その際に、男の子は床にごろごろと転がってしまったが、きゃっきゃと笑い声さえ上げていた。


「ありがとう」

 拘束を解かれた男の子は立ち上がった。

「それと」と男の子はこちらの方を向いた。


 気まずそうに顔を伏せていたが、上目でこちらを見ていた。もはや、さっきまでの彼とは別人だった。息をのんで目を合わせると、彼は再び目を伏せて、そのまま頭を下げた。


「ごめんなさい。おじさんにはひどいこと言いました」


 その異様な光景に僕は何も言えなかった。気にしないで、とか、そんなことないよ、とか。そう言う当たり前のことすら口にできなかった。


「本当にごめんなさい」


 男の子は父親を殺した僕に謝り続けていた。

 答えられない僕に対して、何度も何度も、頭を下げていた。




------------

『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』(ローン・フランク、解説:中野徹、訳:赤根洋子、文春e-book)


 この小説を書いた2022年時点でも、精神医療の現場で試行錯誤されている脳深部刺激について追跡調査をしたサイエンス・ルポ。本書は1950年代に脳深部刺激療法を推進しマッドサイエンティストと批判されたヒース博士に焦点をあて、そこから現代2020年にかけて、脳に電極を埋め込む治療法の衰退と隆盛を整理している。

 現在でも脳深部刺激の効果について様々な側面から研究され、肯定も否定も報告されている。

 邦訳のタイトルには週刊誌的なマーケティングの工夫によって原題から大きく変更されている。それはちゃんとした科学ルポルタージュである本書の内容を代表しているとは言い難い。

 しかし、このような貴重ではあるが売りにくい良書を、日本に紹介いただいた文春e-book様には感謝の念が絶えない。



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