3.2.『』

 小田原に着いた頃には、沈みかけの太陽が空を赤く染めていた。


 バクバは先頭のデッキで小田原の外壁がどんどん大きくなっていくのを見上げていた。東京の外壁ほどではないが、小田原の壁も十分な威容がある。壁の左側は海までつづき、右側は山をなぞるようにうねり伸びていた。

 線路の先には巨大な鉄道門が待ち構えている。

 壁上の門番がこちらに気がつき、サーチライトをパッパッと不規則に照らしてきた。こちらの汽車もそれに応じて、汽笛をポッポポッポーと独特なリズムで刻む。

 ツートン信号だ。

 汽車がトロルに乗っ取られていないかを確認するため、あらかじめ、東京と小田原の間で決められた応答リズムを確認する。電子的な暗号よりも原始的だが、トロル感染に対する耐性では圧倒的に優れている。


 門を塞いでいた太い鉄格子がキリキリと持ち上りはじめた。


 どうやら、ツートン信号の照会はパスしたらしい。

 落とし格子と呼ばれるその門の仕組みは、緊急時には落下して門を塞ぐものだ。その怪獣の牙のような門をくぐり、壁の中へと吸い込まれていく。

 門の内側は四方をコンクリートで囲まれていた。線路も中央にある転車台ターンテーブルによって途切れてしまっており、汽車をここで止めるしかない。

 洗浄室だ。ガス室と呼ぶ人もいる。

 ここで検疫を行い、感染していたらその場で殺処分する。洗浄室には毒ガスを充満する仕組みも備えている。まるで、悪名高いアウシュビッツみたいに。


「今から検疫を行う」

 スピーカー音が洗浄室に反響した。

「所属と目的を述べよ」

「保健省東京本部トロル対策局防疫一課、防疫官のアルファ・ナナです」


 アルナナさんが機関室から姿を現して、声をはった。

 アルファ・ナナ? もしかして、アルナナって愛称だったのか。

 本名があったなんて……。それにしても、アルファなんて変わった名字だ。どこの国の出身なんだろう。


「我々は」とアルナナさんは続ける。「壁外輸送鉄道の東海三号に同乗し、壁外検疫の任務中です。事前に東京本部から通達があったと存じます」

「……いずれにせよ、検疫は受けてもらう。たとえ、東京の防疫官でもな」

「承りました。他に二名、免疫屋ですが共有脳のある者が同行しています」

「黒い脳だと」

「他の一名は自然脳の免疫屋です。それ以外は通常の輸送業務の方々です」

「東京の防疫官が黒い脳を引き連れて、わざわざ小田原まで検疫か」


 当然だが警戒されている。

 実際、知性のあるトロルが他都市からの客を装うことは珍しくなく、それでいくつかの都市が壊滅したこともあった。


「なんにせよ、中に入りたければ検疫は必要だ。壁際の検疫針を刺してもらおう」

「承りました」


 アルナナさんは汽車から降りながら「バクバさん」と呼んだ。あわててデッキを飛び降りて、彼女の近くに駆けよる。


「なんでしょう」

「申し訳ありませんが、私はこれから検疫です。道中で殺処分したトロルの引き渡しをお願いできますか」

「ええ」

「それにしても、あまり歓迎されていないようですね」

 確かに、スピーカーの男の言い方はトゲトゲしかった。

「気にする必要ないですよ。門番は免疫屋ですから、口が悪い人も多い。特に、ここらの境界都市では、東京への反感がスゴイですし」

「そうですか……。よろしくおねがいします」


 アルナナさんは小さく頭をさげると、そのまま壁に向かって行く。そこに垂れ下がっているコードを手にとり、置いてあった椅子に腰掛けると、切っ先のプラグを首の後ろに差し込んだ。

 その瞬間、まるで糸が切れた人形のようにガクリとうなだれて、彼女は動かなくなった。洗浄室の検疫スクリプトが彼女の脳をスキャンしているのだろう。


「そんじゃ、俺も」と後ろからクルードさんに肩を叩かれた。「後片付けは頼んだぜ」

「クルードさんも検疫ですか?」

「まぁな。こんなガスくせぇところで何日も待機ってのは勘弁だからな。まぁ、東京の黒い脳は拒否られるかもしれねぇけどな。……そうだ、嬢ちゃん、お前はどうする?」


 振り返ると『深夜特急』を片手に持ったツィリンが、汽車からぴょんと飛び降りていた。


「入る。漫画も読めないし」

「だったら、あの壁のコードを刺せばいい。期待はするなよ。嬢ちゃんの脳も黒いからな」

「は? うざいんだけど」

 へらへら笑うクルードさんを、彼女はひと睨みした後、僕に向かって『深夜特急』の表紙を指差してみせた。

「これの続き、ある?」

「いや、持ってきたのは一巻だけなんだ」

「そっか……」

 残念そうに口を尖らせた彼女を見て、僕は少し嬉しくなった。どうやら、面白かったらしい。

「小田原にも古本屋はあるだろうから探してみよう」

「……連れてってくれるの?」

「ああ、もちろん」

「約束ね」


 そう言って彼女は壁に歩いていくと、コードをおそるおそる自分の後頭部に刺し込んだ。すると、彼女も頭をうなだれて動かなくなってしまった。


「なつかれてるじゃねぇか」とクルードさんが僕に向かって肩をすくめた。

「クルードさんはツィリンを茶化しすぎですよ」

「そうか? あんまり、甘やかすなよ」

「何がですか?」

「あの嬢ちゃんはどうしてもボッチのマネがしたいらしい。だが、お前さんのやり方は普通の免疫屋とは違う。早死の元だぜ」

「……」

「まっ、俺には関係のないこった」


 適当な調子で手を振りながら、彼も壁際に座り込むとコードを首元に刺す。三体のマネキンが壁際で並んで座っている。


「脳有りはそれで全員か?」

 スピーカーが問いかけてきた。

「はい」と声をはる。「後は全員、自然脳だ」

「ああ、確かに残りは顔なじみばかりだな。……いいだろう」


 洗浄室の重々しい扉が開いて、奥から防弾チョッキを見にまといアサルトライフルを抱えた一団が姿をあらわす。門番の免疫屋たちだろう。彼らは定期輸送の乗組員とはよく知った仲らしく、互いに手あげて「よぅ」「久しぶりだな」などと呼び合っていた。


「お前さんは保健省の免疫屋だな」

 と、初老の免疫屋が僕に近づいてきた。

 数名の免疫屋が彼の後ろに控えている。どうやら、ここのリーダーらしい。

「ほれ、身分証明を見せな」

 言われるがままに手帳を胸ポケットから取り出して差し出す。

 それを受け取った免疫屋は、ペンをなめてに色々と書き込みはじめた。

「名前は?」

「フツノ・バクバです」

「目的は?」

「保健省の東京本部から、壁外検疫のため同行しました」

「わざわざ東京からねぇ」


 免疫屋は縄張り意識がとても強い。

 この街を守っているのは自分たちだ、という自負があるせいだろう。地方の都市では東京に対しては余計に警戒する傾向もある。


「ふむ、登録番号はTOK21101210の0……、随分と古株だな」


 その免疫屋はパスポートの番号を確認すると、「おい、東京の2110年の免疫屋登録表を持って来い」と後ろの仲間に言いつけた。

 すると、奥から若い免疫屋がぶ厚い名簿帳を抱えて走ってきて、近くでパラパラとめくりはじめる。洗浄室とはいえ、法的にはここは壁外だ。電子機器の感染を避けるため、手続きのほとんどは手書きだった。


「日付は1210の番号0だ」

「あっ、ありました。フツノ・バクバ。写真と同じです」

「本人確認、よし」

「……すっげぇ」と若い免疫屋が顔をあげた。「東京のランカー、一位の人だ」

「ほぅ」

 初老の免疫屋はすっと目を細めた。

「ってぇと、お前さんがあのボッチか?」

 えっ、そのあだ名は小田原でも広まってたの?

「え、ええ」と頭をかく。「どうもボッチです」

「お前さん、一人でやるってのは本当なのかい? 今日は連れがいるみてぇだが……。能無しの免疫屋が黒いのとつるむったぁ珍しいな」

 彼は壁でマネキンになっている三人に目を向けた。

「防疫官のねぇちゃんはともかく、もう一人はまだ娘さんじゃねぇか。あんな若さで壁外か、世も末だねぇ」

「色々ありまして」

 そう言いながら、初老の免疫屋は身分証明書を突っ返してきた。記録欄を見てみると、意外にも綺麗な字で今日の日付と『森田』という署名が書き込まれていた。

 漢字は公式では使われなくなったが、古い人は署名では使う人もまだいる。


「そういえば」と証明書をしまう。「モリタさん、ご報告があります」

「なんだ?」

「道中でトロルと遭遇し殺処分しました。小田原の農業プラントの作業員だったようです。ご遺体の受け渡しをお願いできますか」

「そうか」と目をふせ、彼は両手をこすりあわすように手を合わせた。「世話かけたな。あんがとよ」

「いえ」

「仏さんの身元確認——まぁ解剖やら、身元確認に共有脳の摘出やら、まぁ、色々とやる場所はあっちにある。すまねぇが、そこでちょっと状況の聞き取りをさせてくれ」

「運ぶの手伝いますよ」

「ええ、ええ」とモリタさんは手をふった。「こっちの仕事だ。おい! お前ら。仏さんを連れてきてくれたらしい。運べや」


 はい、と部下たちは答え、車両のコンテナから遺体を運び始める。

 その手慣れた様子から、境界エリアでは珍しいことでもないのだろう。毛布で包んでおいた遺体を、免疫屋たちが貨物車両から運び出していく。

「こっちだ。ついて来てくれや」

「はい」

 初老の免疫屋——モリタさんの後を追い、壁際で人形のように首を垂れているアルナナさん達を横目に見送りながら、洗浄室の外に出た。

 小田原の街が見える。

 日はすっかりと落ちてしまっていたが、街灯がちらちらとあたりを照らしている。有刺鉄線が上にまかれたフェンスの向こうに黒ずんだ古いアパートやあばら屋が並んでいた。下町風情というよりも吹きだまりと言った感じだ。

 東京でもそうだが、外壁沿いには貧困層が住んでいる。

 見上げれば、中央部にそびえる高層ビルがキラキラと輝いている。あそこに住んでいる脳有りの裕福な人たちが、こちらを見下しているような錯覚を覚えた。

「ひでぇとこだろ、小田原は」とモリタさんはこちらの心を読んだ。

「いえ、東京も同じですよ。僕も能無しの壁際育ちです」

「ほう。どこらへん?」

「孤児院なんですよ」

「そうかい……。おや」


 と、モリタさんが足をとめた。

 彼が向かっていた遺体の安置所らしきバラックの前に、ずいぶんと大柄な人が立ちふさがっている。その人の頭を見て、思わず目を見開いてしまった。

 その人はかぶとをかぶっていた。

 西洋の飾り羽がついたフルフェイスの兜だ。しかも、服装は普通にスーツにネクタイをびしっと着こなしているから、頭部と胴体のアンバランスがものすごいことになっている。

「市長殿」と、モリタさんはその変人に呼びかけた。


 市長? この兜は市長なの?


 初老の免疫屋は後ろの部下たちに止まるように指示し、市長らしき兜に向かって挨拶をした。

「こんな夜更けに壁際なんぞに、どうしました?」

 ガシャッ、と音を立てて西洋兜の面頬が上にあがった。そこから頬が落ちるような満面の笑みがのぞいた。

「はっはっはー!」と豪快な笑い声。「いやぁ、ご苦労さま。小田原の東の守護神、モリタ組長」


 組長? ……ああ、なるほど。

 つまり、モリタさんは極道系の免疫屋グループの親分なのだろう。


「確かに国府津門はうちのシマですがね。しかし、守護神なんてけったいな呼び方はかんべんだ」

「そうかそうか。いや、気を悪くしないでくれ給え。いつも小田原の平和を守ってくれている君たちに、感謝を伝えたかっただけなのだ。君たちには、小田原市民の感謝感激の思念を伝えるのは難しいのだから」

「……まぁ、なんにせよ。けつの穴がむず痒い」

「素晴らしく無欲なお人だよ」


 ガッハッハー、と市長が喉をのけぞらして笑うと、兜がガチャガチャと音を立てた。まるでギャグ漫画みたいだ。


「すまんね、ボッチさん」ぼそり、とモリタ組長は視線を流した。「こんなのだが、うちの市長なんだ」

「その、……とても個性的ですね」

「流石に東京にも、こんなのはいねぇわな」

「さては客人かね?」

 ずいと、物凄い笑顔が会話に割り込んできた。

 思わず一歩たじろぐと、その隙間に野太い手を差し出された。思わず手をとってしまうと、痛いくらいに力強く握り返された。

「もしや、保健省の東京本部の方かね?」

「えっ、あ、はい」

 兜頭でぐいっと迫られ、思わず後ずさってしまう。

「そうか、そうか。私はスマ・イサクだ。非才なれど市長を拝命している。遠慮せずにスマイル市長と呼んでくれたまえ。みんなそう呼んでくれる」

「はぁ。フツノ・バクバです。え〜と、じゃあ、僕のことはボッチと呼んでください」


 変なのにつられ、変な自己紹介になってしまった。


「ボッチ?」

「あ、いや。実は免疫屋なんですが、その、あんまり他の人とチームを組まないので……、そう呼ばれています」

「なんと、友達は多いほど良いものだ」

 ええ、まったく同感です。

 なんでかな、こういう騒がしい人と一緒にいると、自分はダメなんだなぁ、って思ってしまう。


「私なんて、こんな姿をしているが友達はたくさんいる。人は幸せだから笑うのではない。笑うから幸せな気分になるものさ。笑っていれば自然と仲間が増える」

「なるほど。……あの、どうして兜を?」

「おかしいかね? 不思議かね? 気になるかね、私のことが?」

 市長はさらに顔を寄せてきた。

 ネクタイを締めたスーツに西洋兜という奇天烈なファッションコーデ。正直なところ、彼が市長だというのはドッキリである可能性をまだ捨てきれていない。市長のフリをしたコメディアンだ、というのがまだ現実味がある。

「実はね、この兜の中身はね……脳がないのだよ!」


 ちゃっちゃらちゃーん、と市長は謎の効果音を口ずさむ。


「正確には脳の三割くらいが、ぼっ、と吹き飛んだのさ。まだ兜を被っていなかった、スマイルじゃなかった頃、私は防疫官だった。それでトロルに襲われてね。ちょうどこのあたりから横にむかって、」

 と、市長は兜の額の部分を親指でぬぐうように線を引いた。

「銃弾で、ブシャーっとね。いやいや、なんで生きているかって? 奇跡さ。大丈夫、脳などなくてもけっこう生きていける。いや、むしろ良くなった。代わりに良い機械を埋め込んだ」

「共有脳ですか?」

「いや、共有脳では足りない。もっと大掛かりな機械脳だよ。ちょっとグロテスクだから、見た人がノースマイルになるのが悲しくね。兜をかぶってみたのだよ。すると、みんなに笑顔がもどった」


 つまり、ダース・ベイダーみたいなものか。


「そうでしたか。失礼なことを聞いて申し訳ありません」

「気にしないでくれたまえ」と、ニカッと子どものようなおっさんの笑顔を向けられた。


 それにしても脳の一部を失ったのか……。

 まだ共有脳がなかった時代でも、事故で脳を損傷した人が一命をとりとめたケースはいくつかある。

 特に有名なのが1848年にアメリカで起きたフィニアス・ゲージさんの事故だろう。鉄道技術者であった彼は、工事中に起きた爆破事故で、頭蓋骨を鉄棒に貫かれた。なんと、その鉄棒は顎の下から左目の裏を通って脳天から抜け出したらしい。

 それでも、ゲージさんは奇跡的に一命をとりとめた。

 しかし、脳の額の部分——ちょうど市長と同じ場所を失ったゲージさんは、感情をコントロールできなくなった。その人格変化を担当医は「獣の本性がむき出しになった」と表現している。実際、会社の同僚や部下からも「もはや、かつてのゲージではない」と言われ、その後、仕事を辞めてしまったらしい。


「ん、どうしたのかね?」

「い、いえ……」


 あなたも感情をコントロールできなくなったのでは? なんて聞けるわけがない。


「気にすることはない。昔の私はしかめっ面ばかりでね、壁外任務に飛ばされ、左遷されたのだとウジウジしていた。それなのに、今では何でも楽しむことができる。昔を知る同僚によく言われるよ『スマは変わったな』ってね」

 そりゃ、昔の同僚が西洋兜をかぶっていたら、そう言うしかないだろう。

「そ、そうですか」

「うむ。……むっ、少し話し込んでしまったようだな。運んでいるのは何かね」


 今までの自己紹介のせいで、運搬作業を中断された免疫屋たちは遺体を足元におろして休んでいた。

 モリタさんが、ようやくか、とつぶやきながら市長に答える。


「ええ、壁外で殺処分したトロルだそうですよ。そこのボッチさんがここまで運んでくれました」

「ふむ。感謝する。責任をもってご遺族に届けよう」と市長はやけに大げさな敬礼を決めた。


 その時、「モリタのおっちゃーん!」と向こうから男の子の声がした。


「あの坊主、今日も来てんのか。もう、夜更よふけだってのに」

 声のほうを見ると、フェンスの金網を掴み、こちらに手を振っている男の子がいた。年齢はまだ小学生くらいだろうか。

「おい、坊主!」とモリタさんが声をはりあげた。「子どもがこんなところに来る時間じゃねぇ。明日にしな」

「おじちゃん」まだ声変わりもしていない。「もしかして、お父さん、帰ってきた? さっき外から列車が来たみたいだから」

「……違うよ。あれは東京から来た貨物だ」

「そうなんだ」

「ほらほら、今日は帰った帰った。また明日こいや」

「うん」


 しょげた男の子がフェンスから離れようとした時、遺体を担ぎ上げようとした免疫屋がつまずいて「おっ」と声を漏らした。

 遺体が地面に放り出され、覆っていた寝台の毛布がめくれて遺体がむき出しになってしまった。ご遺体を綺麗にはしていない、血と垂れ流しの排泄物が混ざった強烈な臭いがあたりに漂う。

 むき出しになったのは、最後に僕が刺殺した男の遺体だった。


「……お父さん?」


 少年がそう呟いた。

 僕の血がさっと引いた。あまりにタイミングが悪すぎる。立ち話なんてせずに、安置所にさっさと運ぶべきだった。


「お父さんだ。……えっ、ねぇ、これって」

「坊主、見るんじゃねぇ!」


 モリタさんが男の子の前に立ちはだかって視界をふさごうとする。

 それでも、フェンスの向こうの男の子は横から顔を出して必死に覗き込もうとした。必死に目を見開いて、遺体と自分の父親を結びつけようとしている。


「絶対にお父さんだ。なんで? ねぇ、どうして?」

「見るな! 坊主もトロルになるぞ」

「ねぇ、なんで? なんで、なんでなの? だって、お父さんなんだ」

「おい、お前ら。坊主に針をさせ。さっさとしろ!」

「はい!」


 部下の免疫屋たちフェンスの向こう側に回り込み、男の子を地面に押さえつけた。男の子が掴んだままのフェンスがガシャガシャっと音をたてる。男の子は地面に押しつけられながらも、亀のように首をのばして父親の姿をなおも覗きこみ、「お父さん、お父さんだ」と泣き叫んでいた。

 しかし、免疫屋がその小さな首に検疫針を差し込むと、その小さな頭はがくりとうなだれて動かなくなってしまった。

 しばらくは誰もしゃべろうとはしなかった。

 静まり返ってしまった間を、夜の虫がリーンリーンと埋めていく。


「ったく、間がわりぃな」

「……」

「ボッチさん、あんまり気にすんな」と、モリタさんに肩を叩かれた。

「ええ」

「くそ、差すのが遅かったな。黄色だ」


 男の子の首に刺さった検疫針が黄色に点滅していた。要検疫対象だ。


「どうやら」と市長が割って入った。「衝撃が強すぎたようだね。幼い脳は変異しやすい。ふむ、この少年を中央病院に運び給え、緊急治療を手配しよう」

「市長……、この坊主にもあれをやるつもりですか?」


 モリタさんの声が固くなった。


「不服かね? しかし、それ以外に方法はあるまい。今、この少年の脳にはこの世の不条理に対する憎悪が芽生え始めている。大好きだった父親を思い出すたびにそれがグルグルと渦を巻き、やがてトロルになる。放置すれば、あっという間にこの小田原にトロルが広がる」

「……」

「ところが、そんな心の闇に打ち勝つ光を、あの治療法なら簡単に授けることができる。しかも、たったの数ボルト程度の電圧だけで非常に省エネなのだ。少年にも地球にも優しい」


 モリタさんの表情はますます固くなる。


「どうも、俺には分からねぇ」

「いい加減、モリタ殿も認め給えよ」

「脳に電気流すなんざ、正気の沙汰じゃねぇ。無理に快楽を引き出すなんざ、麻薬みてぇなもんだろうがよ。いつか、しっぺ返しがくる」

「頑固な人だ。何度も説明しているように、この治療法は百年以上も前からある正式な医療行為だ。それこそ共有脳がなかった時代から、電極を脳に埋め込んで神経症を治療していた」

 市長がにっこりと笑うと、兜の飾り羽がひらひらとゆれる。

「つまり、この治療法は自然脳の君たちにも適応できる。能無しのトロル、君たちの言葉を借りれば、犯罪者かね? その犯罪者すら治療が可能なのだ。ほら、反対側の早川門の免疫屋たちはみんな埋め込んでいるのだよ。もう、小田原で反対しているのはモリタ殿の国府津組だけだ」

「何度も言わすんじゃねぇ!」


 モリタさんは耐えかねて怒鳴った。


「とにかく、俺の目が黒いうちはヤッパの類は絶対に許さねぇ! うちの若いのに変なことを吹き込むのも止めてもらおうか」

「まったく、脳塞のうそく世代というのは……、まぁいい。今日のところはここでまでにしよう。ちょうど、仕事もできたようだからね」


 そう言って、市長は少年のほうに視線を移した。


「あの子は私が預かるよ。モリタ殿は不服だろうが、脳有りの治療こそ我々の仕事なのでね。それに、ここに東京の防疫官が来たそうじゃないか」

「……今、洗浄室でコードに繋がれてる」

「彼らは重要な客人なのだよ。そちらも私が引き取らせてもらう」

「お前さんが市長だ。俺が断れる道理はねぇよ」

「何を言う。私は常に現場の意見に耳を傾けている。脳深部刺激療法を強制することもしない。私はモリタ殿の助言を求めてやまないのだよ」

「そうかい」


 ふん、と鼻を鳴らしてモリタさんは市長から目をそらした。



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