3章:小田原襲撃事件

3.1『深夜特急』

 潮風でさびついたレールを蒸気機関車が走っている。

 バクバはその寝台室にあるベッドで横たわりながら、ガッタン、ゴットン、と腰が浮くほどの振動に肩をすくめた。壁外では、レールの整備なんて満足にできるわけがなく、乗り心地はあまり良くない。


 本は読みにくいけど……。


 バクバは苦笑いを浮かべながら、ぺらり、とページをめくった。

 車窓のカーテンが揺れ、やわらかな風が吹き込んでくる。チチチと東京では聞き慣れない野鳥の声がする。すんと鼻をひけば、土と草の臭いが鼻孔にひろがった。


 だけど、読書には雰囲気バッチリだ。


 東京の壁外に出るのは久しぶりだ。

 昔と違って、新幹線やリニアモーターカーのような高速路線はトロルに破壊されて使えなくなってしまった。かろうじて一部の在来線は機能しており、貴重な都市間輸送の手段としてほそぼそと運用されている。

 今は、東海道本線をゆく寝台車で、僕は読書を楽しんでいる。

 やっぱり、こういう旅のお供には『深夜特急』だ。

 鼻歌まじりでその沢木耕太郎の紀行小説のページをめくった。寝台車の狭いベッドに寝転びながらも、気分はすでにインドの首都デリーの小汚い安宿だ。


『日本を出てから半年になろうとした。

 アパートの部屋を整理し、机の引き出しに転がっている一円硬貨までかき集め、千五百ドルのトラベラーズ・チェックと四百ドルの現金を作ると、私は仕事のすべてを放擲ほうてきして旅に出た』


 ああ、いい。こういう旅にあこがれる。


 実際、多くの若者たちが『深夜特急』の影響を受けてインドやアジアへとバックパックを背負って旅に出たそうだ。初版は1980年代だから、日本がブイブイいわせていたバブル景気の頃合い。戦後の貧困を脱出し、裕福になった日本が次に何を目指すべきなのか、そういう迷走がはじまった時代でもある。

 そんな時代を背景にして、著者の貧乏旅行が読者を笑いへとさそう。

 懐のさみしさゆえに安い宿を求め、やっと見つけた安宿が売春宿だった。仲良くなった地元の人にご飯をおごってもらった。金がないくせに地元のカジノにハマってしまった。などの体験談がつづられている。

 そんな旅で垣間見えるのが、経済発展で忘れてしまった人間のあたたかさだ。


 例えば、著者は香港で日雇いの青年と仲良くなる。

 青年は荷運びのような仕事を転々としており、週に三日も仕事にありつけるかどうか。一緒に入ったソバ屋で、青年は「東京にいけば仕事がたくさんあるんだろうな」などと不安定な生活を嘆いていた。

 著者がそんな愚痴を聞いてやっていると、ふと、その青年は席をたつ。聞き取れない中国語でソバ屋のおばちゃんに何か言いつけると、会計もせずに作者を置いて出て行ってしまう。

 しまった。体よくたかられてしまった。

 そんな悔しい気分になりながら、店の支払いをおばちゃんに渡そうとすると、手をふっていらないと金を突き返されてしった。おばちゃんが紙に書きつけた漢字から察するに、どうやら、青年から明日の仕事の支払いまで二人分をツケといてくれ、と頼まれたらしい。

 作者はこのエピソードを以下のように結んでいる。


『私は、失業している若者に昼食をおごってもらっていたのだ。自分が情けないほどみじめに思えてくる。情けないのはおごってもらったことではなく、一瞬でも彼を疑ってしまったことである。少なくとも、王侯の気分を持っているのは、何がしかのドルを持っている私ではなく、無一文のはずの彼だったことは確かだった。』


 こういうのを読むと、僕も旅に出なければいけないなぁ、と反省してしまう。


「バクバさん、見張りの交代だよ」


 と、寝台室の扉から顔を覗かせた少女が、香港のソバ屋から現実へと僕を引き戻した。


「ああ、ツィリンか」とベッドから身を起こして、腕時計に視線を落とす。「もう、こんな時間か」

 どうやら、時間を忘れてしまったようだ。

「外の様子は?」

「なにも、トロルも出なかった」と、ツィリンは短い髪をふった。


 彼女は最近になって髪を短く切った。

 まるで男の子のような、いわゆるベリーショートってやつだろうか。普通はやらない。脳有りは後頭部のソケットを隠すために髪は長く伸ばすものだ。男でも後ろ髪だけは伸ばすものだが、ツィリンはそれすらも短く切っていた。

 短髪はなんというかパンクチュアル、まぁ、つまり、不良の髪型とされている。しかも、彼女は遮断素材のネックカバーをしていた。それは他人の思念を拒絶する意思表示だろうか?

 なんにせよ、共生フローラ地区の奥様方がみたら、眉をひそめるような立派な不良娘だろう。


「……それは良かった」


 と、本当に言いたいことは飲み込んで、腕を伸ばしてカーテンをのけてみた。

 窓の向こうでは青い海が水平線を引いている。東京の壁内では絶対に見ることのできないパノラマ。こんな綺麗な海岸なのに、いつトロルに出くわしてもおかしくない危険な壁外だなんて、妙な気分だ。


「湘南の海か」と肩をすくめる。「昔ならリア充が青春まっさかりだったろうに」

「リアジュウ?」

「昔はそう呼ばれる人たちが、海で遊びまくっていたらしいよ」

「ふ〜ん」


 まぁ、そのリア充たちも今では壁の内側に引きこもっているわけだけどね。

 すでに東京を出発して数時間がたっていた。

 リア充たちが湘南の海で遊んでいた時代では、東京と小田原なんて一時間くらいだったらしい。それが、今ではトロルの襲撃に警戒しながらの鈍足運行で、スムーズに行けたとしても半日はかかってしまう。


「ねぇねぇ、何の本を読んでたの?」

「ん? ああ、これ。紀行小説」

「キコウ?」

「旅行の小説。けっこうメジャーなジャンルなんだよ。『土佐日記』や『東海道中膝栗毛』って、聞いたことあるだろ」

「知らなーい」

「……まぁ、平安時代から続く人気ジャンルってこと。読んでみる?」

 本を差し出すと、彼女は露骨に顔をしかめた。

「私、文字ばっかの本、苦手なんだよね」

 彼女は漫画派だ。

「参ったなぁ。持って来たのはこんなのばっかだ」

「大丈夫、私も持って来たから」

「漫画を?」


 彼女の荷物はそれほど大きくなかった。小説に比べて漫画はどうしてもかさばる。そんなにたくさんは持ち出せないはずだが……。


「じゃーん、タブレット」と彼女は液晶つきの長方形を取り出した。「データを入れて持って来たの。読みたかった漫画を自炊じすいしておいたの」

「ほう、その手があったか」


 彼女の言う自炊とは料理のことではなく、この場合は本を分解して画像データにすることだ。そういえば、出発前に彼女がせっせとスキャナーと格闘していた。


「その手があったか」

「ふふ、偉いでしょ。さてさて……あっ」

 さっそくとばかりに彼女は指を液晶に滑らせたが、顔を曇らせてしまった。

「どうかした?」

「なんか画面に変な言葉が出てきて、動かなくなってるの。何、これ、キモイんだけど」

「どれ」


 差し出されたタブレットを受け取ると、確かに液晶に不可解なテキストが流れている。


『今どきネットって……。さてはお前、脳無しだろ?』


 ああ、タブレットが感染したのか。

 久しぶりに見たものだから、懐かしくなっていくつか拾い読みしてみた。他人を傷つけることだけを目的とした罵詈雑言。共有脳がなかった時代、インターネットで、トロルたちはこんな文章を書きなぐっていたらしい。


『何もできない能無し君は何やっても産廃。俺らに迷惑かけてること自覚して、さっさと首吊ってどうぞ』

『犬食い人種の移民土民どもが公園にたむろして草も枯れる。公共の場で猿みたいに喚きやがって。日本に寄生してるくせに、本当に楽しそうですね』

『脳改造を推進した無能政府こそトロル蔓延の根本的原因! Fの一族は我が国を私有化し、国民を実験動物にした鬼畜の一族。特にかの老害六番は万死に値する。ただちに全国民に土下座し、その場で切腹せよ!』


 ……よく、こんな文章を考えつくよなぁ。


「感染してるね。これ」

 タブレットの無線通信を確認すると、オンのままになっていた。

「えっ、だってこれ、ただの機械じゃん。トロル感染なんてするの?」

「多分、壁外でインターネットに接続したせいだな。このコメントは昔のトロルだよ」

 まぁ、今どきの若い子はインターネットなんて知らないか。

「東京じゃ、こんなこと無かったのに」

「まぁ、良かったよ。タブレットなら初期化すればまた使える。入れたデータは消えてしまうけどね。間違っても、共有脳の方はオンラインにはしていないよね」

「う、うん」


 彼女の表情が少し引きつった。


「……ツィリン?」

「あ、いや。一瞬だけよ、一瞬。ほんのちょっと」

「オンラインにしたのか? 壁外で、共有脳を?」

「東京を出てすぐのところで、どんなもんかなぁって。だって、まったく知らないのも問題でしょ?」


 はぁ、とため息をこぼれる。

 壁外ではインターネットだけではなく、思念通話でも悪意が飛び交っていると聞いた。そんなところで共有脳をオンラインにすれば、共感を欲した悪意が脳に入り込んでしまう。こんな支離滅裂なあおりコメントとはわけが違う。脳に直接、悪意が叩き込まれるのだ。


「約束したはずだろ。壁外では言うことを聞くって」

「……はい」


 ツィリンはしおらしく顔をうつむかせたが、本当に反省しているのかはあやしかった。彼女は謝っておけば許される、と考えている節がある。

 もっと厳しく追求するべきか、と悩んだが頭をふって止めた。

 何事も決めつけてはダメだ。無一文なのにソバを奢ってくれた青年を疑って、王侯貴族の気分を失ってしまうこともある。


「……で、何かわかったのか?」

「あれ、怒んないの?」

「君に技を教えた。けど、僕には黒い脳のことは分からない」

 脳有りなのに免疫屋のことを黒い脳と呼ぶ。

「黒い脳たちは何らかの形で壁外でも共有脳を使っている」

「やっぱり、」と彼女は笑った。「私、バクバさんのこと好きよ」

「はいはい。で、何か分かったのか」

 もし、好奇心だけで共有脳をオンラインにしたのなら、いよいよ本気で怒らなければならない。それだけは勘弁してほしい。

「声が聞こえてきたわ」

「声?」

「それに映像も臭いもね」

「記憶を流しこまれた?」

「ええ」と彼女はうなずいた。

 共有脳があれば他人の記憶を体験することができる。

「泣き叫ぶ赤ん坊の横で男に殴られる記憶。耳、唇、鼻を順番にナイフで削ぎ落としていく拷問の記憶も。そういう胸くそ悪いことを、まるで私が経験したように脳に叩き込まれた。すぐにマズいな、と思ってすぐにシャットダウンしたわ」

「五感のジャックか……。幻覚型のトロルだろうか」

「似ている、けど違うと思うわ」


 そう言って、彼女は拳で宙を叩いてみせた。


「ここに漂っている悪意は扉をノックしているだけ」

「ノック?」

「どんな記憶に共感するのかな? って、探りを入れているだけ。それに反応して扉を開けたら感染する。そういう感じ」

 ツィリンは自分の頭を指でとんとんと叩いてみせた。

「トロルの知識は全部インストールしている。保健省のプリセットはトロル関連が豊富なの。かなり、脳容量を取られるけどね」

「なるほどね」


 つまり、ちゃんと知識を得た上で、彼女なりの考えをもって脳をオンラインにしたのだ。だったら、問題はないのかも知れない。完全に未経験のままなのも危険だろう。


「ねぇ、このタブレット直る?」

 彼女は手当たり次第に画面を触っているが、トロルコメントはなくならない。

「小田原に着いたら修理屋を探そう」

「後、何時間だっけ」

「何もなければ、四時間かな」

「げぇ」


 彼女はがっくりと肩を落とした。

 その小さな頭の上に『深夜特急』をのせて、僕はベッドから立ち上がる。少し話過ぎてしまった。次は僕が見張りの番だ。壁に立てかけていたアサルトライフルを掴み、荷物から弾倉を取り出す。


「こういうのんびりした旅には小説もいいものだよ」

「せっかく『スラムダンク』を全巻入れたのに」

「それはご愁傷様だね」

 ツィリンが僕のアサルトライフルをじっと見つめていた。

「ねぇ」

「なに?」

「本当に、私はトロルを殺さなくてもいいの?」


 頭の上に『深夜特急』を乗せたままの彼女から視線をそらして、ベルトに下げたポーチに弾倉をつっこんでいく。

 壁外では銃の使用が認められているが、僕は彼女には銃を持たせていなかった。


「あせる必要はないさ」

「ねぇ、バクバさん」と彼女は急に声のトーンを落とした。「私はね。免疫屋になるって決めたの」

 彼女が髪を短く切ったのはその決意なのだろうか。

「それだけは忘れないでね」

「……ああ」


 逃げるようにして寝台室を出た。

 通路に出ると揺れをさらにひどく感じた。通路の壁に手をあてながら、前方車両に向かって、車両の出口を開ける。車両の連結部はむき出しの吹きさらしで、下を見てみれば、地面がすぐそこに見えた。もし、足を滑らせたら車輪に巻き込まれてミンチになるだろう。

 すん、とすすの臭いがする。

 寝台室では気にならなかったが、シュッシュッと蒸気が断続して噴き上がる音が聞こえてきた。


 この車両を引いているのは蒸気機関車だ。


 連結部をまたいで、先頭の機関車両に足を踏み入れる。

 扉を引いて中に入れば、蒸気を伝える無数の配管がまるで内臓のように複雑にからまっていた。足元にはゴウゴウと炎が燃えさかる炉があり、長髪の男が汗をぬぐいながらスコップで石炭をくべているのが見える。


 まるでスチームパンクの世界だ。

 油まみれの鉄がきしみ、火花ちらすロマン。蒸気機関が異常に発達した架空文明で繰り広げられる物語をスチームパンクと呼ぶ。

 

 その鉄と蒸気を管理する操縦席には女性が座っていた。

 白衣のような襟の高い防疫コートを羽織っているが、ところどころが煤や油で汚れてしまっている。だが彼女はそんなことには構わず、圧力計らしき針の目盛りを真剣に覗き込んで無数にあるバルブやレバーを操作していた。


「アルナナさん」と声をはる。

 蒸気と鉄の音がうるさく、大声じゃないと気がついてもらえない。

「あら、バクバさん」

「防疫官って、機関車の操縦もするんですか?」

「実は」と彼女は膝元に開いていた紙を見せた。「マニュアルを読んで勉強していたところです」

「勉強? インストールは?」

「してません。技師にお願いして教えてもらったのです」

 壁外の運送汽車の技師は当然、能無しだろう。

「とても興味深いですね。電気制御を必要とせず、蒸気の運動エネルギーを車輪の回転に変換する。シリンダーの上下をクランクにつないで回転させるのですが、この噛み合わせが精緻で美しい」

 彼女は熱心に覚えたて蒸気機関の仕組みについて語った。その目はまるで少年のようにキラキラしている。

「楽しそうですね」

「そう、ですか?」

 アルナナさんは照れくさそうに笑い、煤まみれの軍手で口元を隠した。

「そうかも知れません。通信も電気制御すら必要としない蒸気機関はトロル感染に対してとても堅牢なシステムです。壁の外でしか使われない原始的な機械と思っていましたが、これほど精巧な仕組みだったとは」


 女性にしては珍しいが、アルナナさんはこういうスチームパンクなものが好きなのかもしれない。スチームパンクの世界観を取り入れた名作は多い。『天空の城ラピュタ』や『鋼の錬金術師』などは女性ウケも良さそうだ。

 今度、漫画を貸してあげようかな。


「おい、ボッチ」突然、横槍がはいった。「俺は好きでやってんじゃねぇからな」


 そう声を荒げたのは、石炭をくべていた長髪で長身の男だった。

 首元に巻いた手ぬぐいで、炭がこびりついた頬をぬぐい、まるでこの重労働は僕のせいだと言わんばかりにこちらを睨みつけてくる。

 元免疫屋のクルード・カザマさんだ。

 かつて僕は彼と戦い、その腕を切り落としてしまったのだが、どうやら一命は取り留めたようだ。売春組織に雇われてツィリンを誘拐した彼は、普通なら殺処分になるはずなのに。どういう経緯か今はアルナナさんの部下になっている。


「ったく、そこの姉ちゃんは人使いが荒いぜ」

 聞きつけたアルナナさんがクルードさんを横目で一瞥する。

「暇でしょうがない、とおっしゃっていましたが?」

「茶でも一緒にどうだ? って意味なんだよ。そういう場合は。思念を読めば分かるだろ」

「今は共有脳を切っていますので」

「だったら、空気を読んでくれってんだ。壁の外に出たら、思念じゃなくて空気を読む。当たり前のことだぜ」

「ちゃんとおっしゃってくだされば、お断りしましたのに」

「……ったく」


 悪態をつきながらも、クルードさんは石炭を炉に放りこむ手を止めない。そのスコップを握っているのは、僕が斬り落としたはずの手だった。

 失った手を機械化義手に付け替えたらしい。

 やけに高性能な義手はスチームパンクの定番だ。興味津々なので、彼の手元をじっと観察してみる。


「すごく自然な動きですね」

「ああ?」


 クルードさんは義手をこちらに見せて「こいつのことか?」と聞く。

 ええ、とうなずく。

 彼はスコップを壁に立てかけると、ふー、と息を吐いてその場に腰を降ろす。汗と灰でよごれた長髪をかきあげながら、つーかよ、と舌を打った。


「ボッチ、てめぇも変な奴だよなぁ」

「はぁ」

「腕をぶったぎった本人が聞くことかよ。それ」


 言われてみればそうだ。小説の定番ギミックが目の前にあるから、ついつい我を忘れてしまった。


「すみません」

「まっ、別にいいけどよ。俺は湿っぽいのも御免だしな。それに、」と手袋をとって、機械化された手をさらしてくれた。「こんな高級品をタダでつけてもらったんだ。まぁ、悪かねぇ。この一本だけでざっとトロル三十体の報酬になる。こいつはスゲぇぜ。尻の穴だってふける」

「へぇ」


 まるで、『鋼の錬金術師』のエドがつけている機械鎧オートメイルみたいだった。

 鉄鋼の合金フレーム、関節にあたるすき間には編み込まれたコードがのぞいている。指が動く度に、内部の機構がうごめいていた。

 それにしても、お尻の穴を正確に狙えるなら、指先から水をピューっと出してウォシュレットに応用できるかもしれない。


「変形とかないんですか?」

「変形だぁ?」

「銃になったり、剣が飛び出たり」

「ああ? そんなもん、わざわざ仕込む必要があんのか? 普通に武器を握ったらいいだろう」

「……ですよねぇ」


 言われてみれば、変形する意味はほとんどない。残念ながら、実用性重視でロマン機能までは搭載されていないようだ。


「それじゃ、僕はこれから見張りなんで」

「お前さんは、あの嬢ちゃんみたいに代わりに殺してやらなくてもいいよな」

 クルードさんはそう言って、にやり、と笑った。

「ええ。……トロルが出たのですか?」

 ツィリンは何も出なかったと言っていた。

「出たらの話だ。しかし、テメェは過保護だ。良くないぜ、あの嬢ちゃんにとってもな」

「……」

「まぁ、テメェのメンバーだ。俺が口をだすことじゃねぇか」


 そのひっかかるような言い方に後ろ髪を引かれながらも、機関室から外に出ると、風が横から吹きつけてきた。スロープをしっかり掴みながら、蒸気の煙をくぐり抜け、機関車の鼻先に出る。


 前を見ると、まっすぐと線路が伸びていた。


 遠くには富士山も見える。

 本日は抜けるような晴天で、あの雄大な三角形がはっきり見えた。潮の香りが鼻をくすぐり、カモメが鳴いている。その鳴き声のほうに目をやると海だ。波が日の光を散らして輝いていた。

 贅沢なパノラマだ。壁の中では絶対に見られない。

 両手を回して大きく深呼吸してみる。味のない空気がうまく感じる。まさに国破れて山河あり。ここで読むとすれば『文明崩壊』だろうか。ジャレド・ダイヤモンドが描く古代文明の衰退の歴史に想いを馳せながら、この景色を満喫するのはどうだろう。

 ……いや、今は仕事中だ。

 見張り用の備えつけの双眼鏡を手にとって、線路の向こうを覗きこむ。ぼやけた二点をピントで合わせ、できるだけ線路の先をのぞく。


 前方に人影があった。……数は五。


 双眼鏡を外して肉眼でも確認すると、まだ豆粒くらいの大きさだ。

 近くの伝声管でんせいかんの蓋をはじいて開け、ラッパのようなその口に向かって「警報。こちら先頭デッキ、十二時方向、距離400メートル、レール上に五名。どうぞ」と伝える。


「こちら、機関室のアルナナです。了解しました。機関を停止します。どうぞ」


 それと同時に車輪が軋む音がして、ブレーキがかかる。もともと警戒のため低速だ。すぐに汽車は停止する。


「このまま検疫に入る。どうぞ」

「ここは壁外です。任意で殺処分してください。オーバー」


 伝声管の蓋を閉じてから、アサルトライフルのスコープを覗く。

 相手はまだこちらに気がついていない。歩き方がぎこちないのでグール型だろうか。ここはどの城壁都市から遠い。普通の人はまずいない……。

 はじめに相手の5m程度の手前の地面に照準をつける。


 パン、パン、パン、と威嚇を打ち込んだ。


 まるでそれがスタートの合図だったかのように、五人はこちらを振り返って走り出した。腕をめちゃくちゃに振り回す全力疾走。その動きはグール型の特徴だった。『ドーン・オブ・ザ・デッド』みたいな走れるゾンビだ。


「グール型のトロルと断定」


 誰が聞いているわけでもないが声に出した。スコープの中ではどんどんトロルの姿が大きくなっている。


 パン、と先頭を走るトロルの胴体を撃ち抜く。


 グール型には痛覚もない。アサルトライフルの威力をもっても、胴体ではすぐには止まらない。だが、いずれは失血で足が止まるだろう。


 パン、パン、パン、と二体目、三体目と撃ち抜いていく。


 撃たれたグール型は構わず走り続けが、やがて手をだらりと下げ、顔面から突っ込むように地面に倒れていく。痛みを感じなくとも血を失えば筋肉は動かなくなる。一体、また一体とレールの上に転がっていく。

 だが、最後の一体は間に合わず、狙撃できない至近距離まで近寄られた。

 スコープから目を外し、右手で短刀を、左手は拳銃を抜きざまに速射する。一発だけトロルの肩に当たったが、止まるわけがない。

 掴みかかってきたその腕を短刀で切り払いながら距離をとる。切り落とされた腕がぼとりとデッキに落ちた。

 トロルは屈強な男だった。

 切断された腕から血を撒き散らしながらも、残った腕で殴りかかってくる。大振りで隙が大きいとはいえ、自らの筋繊維が千切れるのもかまわず振り回される豪腕は厄介だ。

 その風圧が鼻先をかすめるほどにギリギリでかわしつつ、その腹に二発ほど撃ちこむ。しかし、それでも突っ込んできて、肩に噛みついてきた。

 凄まじい咬筋力だったが、それなりの装備を着込んでいる。歯が肉に到達する前に、大男の脇腹のすき間に短刀を入れて、心臓を刺した。


 それでようやく止まった。

 ほぅ、と息をはく。噛まれた肩に手を当てて、傷の有無を確かめる。よし、肉までは達していない。腕も問題なく動いた。危なかった。


「なんて無様なんだ、ボッチよ」

 背後からクルードさんの声がした。

「まるで素人だぜ」

「……」


 振り返ってみれば、彼以外にもアルナナさんとツィリンもいた。他にも技師や鉄道警備の免疫屋たちが外に出て周囲の偵察をはじめている。

 引き抜いた短刀には血と脂がべっとりとついていた。このまま鞘に入れるとガビガビになってしまう。手入れは後回しにして、殺処分したばかりの男を覗き込んだ。

 年齢は四十くらいだろうか。

 伸び放題の髭と垢まみれの皮膚、血の臭いに混じっても体中から異臭を放っている。糞尿にまみれたその臭いから、グール型に感染してから日数が経っていることが分かる。


「おい、嬢ちゃん」

 とクルードさんは背後のツィリンを横目でみた。

「ボッチのマネなんてすんじゃねぇぞ」

「はぁ? お前の指図なんて受けるか」とツィリンはすごんだ。

「威勢がいいのは結構だが。グール型を五体相手に威嚇射撃でナメプなんざありえないぜ。その上、撃ち漏らした一体と接近戦だぁ? こいつは早死に素人の典型パターンだ」

「なに?」とツィリンは肩をすくめた。「バクバさんに負けたくせに、随分と語るじゃない。鏡を見て恥ずかしくならないの?」


 ツィリンはなぜかクルードさんを相手になるとヤンキーになる。


「言ってくれるねぇ、嬢ちゃん」とクルードも乗った。「お前みたいな威勢だけのニューカマーはさっさと死ぬ。ボッチに憧れて、自分もソロでやれると勘違いした馬鹿は今まで腐るほどいた。いいか、正解を教えてやる。さっきの状況なら、始めに仲間を呼ぶべきだ。そして、威嚇は無しの先制攻撃が当然。ボッチのは明らかに判断ミスだ」

「ああ?」

「そのボッチにも言われてんだろ。黒い脳のやり方ってのを俺に教えてもらえってな」


 そんな二人の喧嘩を聞き流しながら、僕は遺体の確認を続けた。

 服は作業用のツナギ。そのえりの裏側には電磁波妨害用のカラーが巻かれており、フードもついていた。壁外用の作業着だろう。

 胸ポケットのあたりに小田原第三農業プラントと刺繍されているのが見えた。


「いいか」

 とクルードさんがまだ怒鳴ってる。

「グール型は絶対に近づけるな。手足をぶった切っても噛みついてくる。一体なら狙撃、二体以上は仲間を呼べ、三体なら逃げろ。っていうかよ。この程度の常識は保健省のプリセットにも入ってるだろ」

「あのさ、どうしてそんな分かりきったことドヤ顔で口にできるわけ? バクバさんはそれを一人でやり遂げたわけでしょ?」

「だから、バカのマネだつってんだ。しかも、ボッチは威嚇射撃までしてやがる。いいか、もう一度言うぞ、この状況での正解はなぁ」

「分かってる、って何度言わせんのよ。仲間を集めて、火力指数ランチェスター的優位で遠距離からの狙撃。でもね、遠距離だとトロルと誤認した一般人の可能性がある。だから、一発目は威嚇射撃を奨励しょうれい。それが本当のプリセット」

「ちっ。全然分かってねぇなぁ。最近のガキは脳に入れただけで何でも出来ると勘違いしてやがる」


 意外なことに、クルードさんは熱心にツィリンを指導してくれている。

 もっとも、ツィリンには素直に聞く気はないようだ。正直なところ、クルードさんが言っていることは正しいだろう。多分、間違っているのは僕のほうだ。


「ご遺体は小田原の方ですか」と耳元でアルナナさんの声がした。

「え、あっ」


 距離が近かったので驚いてしまった。

 急いで、遺体の顔にフードを被せてアルナナさんからは見えないようにする。あまりにもグロテクスなその遺体は、彼女の脳に悪影響があるだろう。



「ご配慮、ありがとうございます」

「いえ……。小田原の農業プラントと胸元に書いてました」

「小田原には広大な壁外プラントがあります。おそらくそこの職員だったのでしょう。この汽車も本来はそこの農作物を東京に運ぶためのものです」

「ご遺体を運びますね。目的地が小田原でちょうど良かった」

「お願い致します」


 せめて、ご家族のもとに返してあげよう、とその遺体を背中に担ぎ上げた。



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この小説では、多くの実在する本を引用しています。それらの作品へ感謝と敬意を込め、その詳細を以下に記載させていただきます。なお、本小説での文責はすべて私、舛本つたなが負うものであり、引用した原著には責任はありません。


『深夜特急』(沢木耕太郎、新潮文庫)

 1994年出版。当時のバックパッカーたちの聖書とも言うべき紀行小説の傑作。バックパッカーとは大きなリュックサックを背負って、世界中を旅行する貧乏旅行者のこと。かく言う私も、若い頃の1ヶ月と短期間だったが、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジアなどをリュック背負ってスニーカーを履きつぶした。

 当時のタイのカオサン通りは、東南アジアのバックパッカーで有名な安宿街。そこに当時の為替で一泊200円の小さな宿を私は愛用していた。三畳もないような狭さにベッドを詰め込み、タダ逃げの対策か窓を鉄格子でふさいだ独房のような部屋だった。今でも鮮明に覚えている。

 深夜特急を久しぶりに読み返すと、あの頃の迷いに迷っていた愚かな自分を思い出して、ムズがゆい気分になる。


『土佐日記』(紀貫之)

 平安時代に、紀貫之(♂)が土佐の国司に赴任(現代風に言えば、中央官僚が高知県庁へ出向)した後、京都へ帰る55日間の度をつづった文学作品。その書き出し『男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり』とあることから、オタクたちは「紀貫之は♂のくせに♀と偽って日記なんて書きやがった!」と紀貫之は男の娘説や美少女化など、豊かすぎる妄想をさらに肥やす。

 当時の日記とは業務報告書であったため、男が漢文で書くべきものであったようだ。それを、女がそれをマネてみた、と遊びを取り入れ、より自由な文体であるひらがな文で書く。この発想に至った紀貫之は、日本文学の革命児と言えるかもしれない。

 この新たなひらがな文学につづいて、清少納言、紫式部といった偉大なる女流作家が生まれ、日記文学が隆盛したのは偶然ではないだろう。

 もしかしたら、今日の異世界転生の流行にも同じような歴史的背景があるかもしれない。


『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)

 江戸時代の滑稽本の名作。膝栗毛は当時の言葉で、徒歩の旅行を意味するそうだ。栗毛は薄茶色の馬のことで、それに膝をつけて膝栗毛と言ったのは「本当は馬で旅行したいが金がない。てやんでぇ、俺の膝は栗毛の馬並みでぃ」というニュアンスの江戸っ子ジョークだったのかもしれない。

 江戸時代にもなると、文芸は庶民の娯楽でなり、特に東海道中膝栗毛は挿絵を多く含んで好評を博した。

 オタクは何かにつけて「〇〇は当時のライトノベル」という構文を好むものだが、「東海道中膝栗毛は江戸時代のライトノベル」と評してもそれを否定する歴史学者は少ないだろう。しかし、オタクたちがライトノベル化としてつけ狙うのは、夏目漱石や太宰治などのハイカルチャーばかり。

 そこにサブカル独特の向上心と嫉妬心がうかがえて、面白い。


『鋼の錬金術師』(荒川弘、ガンガンコミック)

 サブカル、マンガ、最高、大好き! ちなみに、私の推しはエンヴィーです。


『スラムダンク』(井上雄彦、ジャンプコミック)

 自分はこんな青春ができなかったなぁ、と読みながら少しさみしくなってしまうのは、私だけではないと信じたい。



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