2.9.『』
ツィリンは息をひそめて、ドアの向こうに耳をすませた。
少し前にバクバさんが私を呼んでいる気がした。あの猫を通して、やけに綺麗な思念をした女もそう言っていたから、きっと聞き間違いではないと思う。
私に残された最後の武器を握る。
最後まで隠し持っていた細長い刃だった。指で押せばぐにゃりと曲がってしまう。これは
刃が細いから骨は砕けないから、すき間に入れて動脈か内臓を裂くんだ。馬乗りにされた時の最後の手段になる。いいかい、今から言う急所をよく覚えておいて……。
これがある限り、私はこの大ッ嫌いな世界でまだ戦える。
「くそがぁ!」
ドアの向こうから野太い声がした。バクバさんじゃない。荒々しい足音がこちらに近づいてくる。
すぐに扉から遠ざかり壁を背にして座る。両手を腰の後ろへ回してまだ拘束されているフリをした。刀子は腰の後ろで握ったまま。ドアの向こうを睨みつける。
「何が壁外のランカーだ! 脳無し一人にやられてんじゃねぇーか!」
ドアが開いた。髭の濃いあのデブだ。目を血走らせて、ぜぇーはぁーとあらく息を吐いていた。
「くそ、くそ、くそが。どうする。俺も殺されちまうぞ」
部屋を見渡して、私に目をとめた。ぼけたみたいに口をあけて、私の胸元や太ももをなめ回すように見てくる。
「どうせ」とこちらに近づいてくる。「俺は殺されるんだ」
へへっ、とよだれを垂らしながら、私の前に立つと自分のベルトをカチャカチャと緩めはじめた。
「最後は腹上死ってのも悪くねぇ」
「てめぇ、きたねぇモン晒してんじゃねぇぞ」
「なめた口、たたくな! ガキが」
顔を横殴りにされ、ぶよぶよ体が上に乗っかってきた。奴は私の股に手をかけて、無理矢理広げる。乱暴な手で私の尻を揉みしだきながら、ガチガチと震える手でズボンをおろしはじめた。
「なにしやがる。このデブ!」
「うるせぇ! 俺もお前ももう最後なんだよ。俺はボッチに殺されて、お前は脳洗浄だ。だったら別にいいじゃねぇか。どうせ全部忘れちまうんだろ? 最後に俺を気持ち良くさせろよ」
クズが。男ってのはみんなこうだ。
身勝手な都合を暴力で押しつけてくる。後ろで隠し持った刀子を握りしめた。もう二度とごめんだ。こんな奴らに好きなようにされる自分はやめたんだ。
殺してやる。私は殺す。絶対に殺してやる!
「へへ、そうそう大人しくなったじゃねぇか。ほほぅ、股もゆるんでるじゃねぇか。さすがは商売女だ。慣れてんな」
殺し方は教えてもらった。
バクバさんは、殺すためにはまずは相手を受け入れなければならない、と言った。合わせて、もらって、かえす、とかなんとか。意味不明だったけど、殺すためにこのデブを油断させて、その汚ねぇ血管に刃を入れる必要があることは分かった。
今の体勢から狙える急所は、内股、脇の下、首筋。
特に脇の下がオススメだ、とバクバさんは言った。肩のつけ根の頸動脈を切り裂くか、肋骨のすき間から心臓に差し込むか。刺したら横に払い抜いて内臓にダメージを与える。簡単には人は死なない。即死させないと、反撃でこちらが殺される。
今思えば、バクバさんだけだった。私のリアルに本気で向かい合ってくれたのは。
あの人は、殺されるくらいなら殺せ、と私の怒りを肯定してくれた。社会大脳が言う薄っぺらい幸せ理論とは全然違う。来るかどうかも分からない明日の話なんてしなかった。今日を生き抜くための技と刃を私にくれたのだ。
やる前に一度は深呼吸しなさい。
私の股の中でチンコをおっ立てているバカなんて怖くない。私も『レオン』のマチルダみたいになるんだ。
男が自分のチンコを掴み、私にアソコに挿れようと下を向く。
深呼吸。髭の肋骨はがら空きだ。斜め下から突き上げるように心臓に入れる。そのきたねぇ内臓をズタズタにしてやる。
死ね!
「ツィリン」
バクバさんの声だ。ドアの外から、はっきり聞こえた。
「助けて!」
私は叫んでいた。その拍子に握っていた刀子を落としてしまった。でも、もう必要ない。私は喉をのけぞらせて全力で叫んだ。
「バクバさん、助けて!」
ドアを蹴破る音。銃声が二つ。
デブの胸に穴が二つあいた。
髭面が後ろを振り返ろうとした瞬間に、もう一発。やつの頭は吹き飛んだ。
私に覆い被さっていた、勃起したままの死体が横に倒れると、向こうにはドアにもたれかかるようにして銃を構えているバクバさんが見えた。
彼はそのままずり落ちて、その場にへたり込む。
背中のドアには、ペンキで塗ったようにべっとりと血がついていた。
「バクバさん!」
かけよって、その体に抱きつく。
「なにも、されていない?」と、バクバさんはその場に崩れ落ちながら言った。
「何もって、何のことよ」
「その、なんというか……。エッチなこと?」
「バカぁ」
この人は童貞みたいなこと言う。
「処女じゃないんだから。私、こんなの慣れっこよ。バクバさんがこんな血だらけなる必要なんてないんだよ。私なんかのために、バクバさんが——」
声がつまって、続きが出てこなかった。
「僕は嫌だな」と彼はせきこむ。「君がそういうことされるの」
彼の手がこちらに伸びてきた。それを両手でとって、頬をすり寄せる。節が固くて、ごつごつした、男の人の手だ。
「少しはレオンみたいだったかい?」
彼はそういって痛そうに口元をゆがめた。
「ジャン・レノみたいにかっこ良くはないけど、まぁまぁだったんじゃないかな。僕にしては」
「うん」と鼻水をすする。「あなたは私のレオンよ」
よかった、と彼は笑った。
「じゃあ、映画みたいにここでお別れだ」
彼の手が私の肩を掴む。
「いずれここに保健省がくる。逃げて。捕まったらダメだ」
「そんな、でも」
「君はやり遂げたんだ」とバクバさんは私の頭にふれた。「誰もがくじけてしまうような状況で、まだ子どもの君が自分のトロルをやっつけた。僕には出来なかったことだ」
私はやり遂げたんだ。
何度も自分だけに言い聞かせてきたことを、ちゃんと言ってくれる大人が目の前にいる。うれしかった。ただただ、うれしい。それなのに、別れを告げられたことが嫌だった。
「イヤよ。私はここにいる」
「その経験は君の原体験になる。君が君である確信だ。他人が勝手にトロルと決めつけて、一方的に消してはダメなものなんだ。だから、今は逃げて」
「でも、バクバさんが」
血だらけのバクバさんを置いていくなんてあり得ない。
「いやだよ。バクバさんが一緒じゃなきゃ」
「今回は緊急警報だ。まだ封鎖は終わってないはず。今なら突破できるかもしれない。ほら、はやく」
「イヤよ!」
バクバさんの背中を覗き込んで傷を確かめる。背中が血で真っ黒に染まっていた。傷口にしばりつけたジャケットを触るとじわっと血液が染み出している。
「こんなんじゃ死んじゃうよ」
もっとキツく縛らないと……。そうだベルトで締め上げれば。
自分のベルトを引っ張り出すと、ミニスカートがずり落ちた。邪魔くさい。蹴飛ばして脱ぎ捨て、パンツだけになる。
「ちょ、」
「こんな状況で、恥ずかしがるな」なんだかこっちが恥ずかしくなる。「傷口、もっと縛るよ」
ベルトを背中に回し、全力で引いて固定する。こんなので後どのくらい持つのだろう? ああ、共有脳が使えれば応急処置のことも分かるんだけど。試しに首筋を指で叩くと(現在、感染エリア内につきアクセスが遮断されています)と返答してきた。
「そうだ、猫よ」
「猫?」
「猫はどこ? あいつなら」
脳洗浄なんてどうでもいい。バカな母親と男たちのクソな記憶なんて何の価値もない。消したければ消せばいい。
「猫! どこにいんの? バクバさんが死んじゃうだろ!」
(騒ぐなし、小娘)
あわてて首筋に指をあてる。姿は見えないけど思念で反応があった。
(まったく、エリア内の通話は後で色々と面倒なことになるんだよ。人間なのにそんなことも知らないのか。まぁいい。お前に言われなくとも、すでにアーちゃんはそっちに向かっている)
ほっと息をつく。
(だから、ほれ、さっさとお逃げ。なんなら、封鎖の抜け道を案内してやってもいい)
(どうして、あんたが)
(あたいほどの猫にもなれば、ご主人に言われなくてもその一番望んでいることが分かるってもんさ)
(私は逃げないよ。バクバさんはまだ危険だろ。教えて、私に出来ることは? あんたが保健省の猫なら応急処置くらい知ってるだろ)
(はぁ)
猫はあきらめの思念を吐いた。
(あんたがそこにいたら、アーちゃんは脳洗浄するしかないんだ。そいつを好意で見逃してやるってのに。本当に嫌な子だよ。アーちゃんを嫌われ者にするつもりだね)
(私にできることは何?)
(……銃による死因のほとんどは失血死さ。胴を貫通しているから、ベルトで絞めた程度じゃ足りないよ。中に手を突っ込んで直接穴をふさぎな。それと体を横に転がす。傷口が心臓より下だと出血がひどいからね。はやくしな。バクにゃんは撃たれてからも随分と歩いた。そろそろ限界が近いよ)
叱咤されるまでもなく、手を突っ込んで傷口を探り当てる。中はぐちゃぐちゃだ。指でつたって、ずぶりと指が入る生暖かい穴を見つける。
バクバさんが痛みに呻き声をあげた。
「ごめん。でも、ふさがないと死んじゃうから」
きっとここだ。そこを手の平でぐっと抑える。両手でお腹と背中の穴をふさぐために横から抱きついて、そのまま一緒に床に倒れ込んだ。
お父さんの匂いがするな。
父親の記憶なんてないけれど。多分、お父さんってのはバカな母親を孕ませてどこかに行ったクズのことではない。くそったれな現実ではなくて映画に出てくるような理想のお父さんのことだ。
あの映画を見た時、変態的にエロい、と思った。マチルダはレオンにお父さんになって欲しかったのに、そのレオンに彼女は恋もした。あの映画が変態な理由はそういうところだ。
「大丈夫よ。私はずっとここにいるから、死なないで」
ああ、とバクバさんがうめく。それは返事なのか、痛みなのか、どちらともつかない。でも、私の手はしっかりとバクバさんの血を包み込んでいた。
ああ、今の私たちも最高にエロい。このままずーと一緒に。
カン、と耳元で固いブーツが床を叩く音がした。
「申し訳ありません。遅れました」
見上げると、女の人がいた。襟の高い白いオーバーコートを羽織り、腕を組んでこちらを見下ろしている。防疫官の制服だ。鋭く細められた鋭利な目がこっちを見下ろしていた。
あの女だ。思念が清潔すぎる防疫官。
「それは応急処置ですか? ツィリンさん」
「……そ、そうよ」
彼女の目が私の下半身を見た。パンツ一丁のその姿をとがめるように一層険しく尖る。
「なによ。しょ、しょうがないでしょ。あんたが遅いのが悪い」
「そうですね」
あの猫はアーちゃんって呼んでいたけど。たしか、本名はアルナナだ。まさに防疫官って感じの女だ。
そのアルナナは膝を折って、バクバさんの顔に手をあてた。
「体温はまだありますね。すぐに処置します。ツィリンさん」
「なによ」
「そのまま傷口を抑えてください」
「……わかってる」
アルナナはナイフを取り出すと、バクバさんの服を切り裂きはじめた。器用に傷口を避けて胸をひらき、私が縛ったベルトも切り離して、傷口をあらわにしていく。
「内臓は外れていますね」と彼女はほっと息をついた。
「助かる?」
「ええ、可能性は高いです。ツィリンさんのおかげですね」
そう言われると変な気分だった。大人の余裕ってやつを見せつけられた気がして、なんかムカつく。
ぎゅっとバクバさんの体を抱きしめる。
アルナナは床に応急処置の道具を取り出して、中から水の入ったボトルとガーゼを取りだした。
「バクバさん、聞こえていますか」
アルナナは耳元にかがみ込んだ。
「共有脳があれば痛覚遮断をお願いするところですが」と、ガーゼを水で濡す。「我慢してください。三十秒で終わらせますから」
「それって」とバクバさんがうめいた。「痛いですか?」
「ええ。でも麻酔の余裕はありません。いきますよ」
「はい」
そこから、血の気が引くようなえげつない治療がはじまった。
アルナナは傷口を塞いでいた私の手をどけると、ガーゼをまるで雑巾のようにしてごしごしとぬぐいはじめた。その度にバクバさんの体がはねる。しかし、それはまだ序の口だった。ガーゼを傷穴の上にかぶせると、指を傷口に突っ込みほじくり返しはじめた。
バクバさんの口から声にならない絶叫があがる。
それを無視して、アルナナはガーゼを交換しながら、次々と傷口に指を突っ込んでいく。初めは黒く汚れていたガーゼが、次第に鮮血の真っ赤に変わっていった。
それを見てようやく分かった。彼女は傷の中まで綺麗に洗っているんだ。
「ふむ、いいでしょう」
と彼女は告げ、取り出したスプレーを傷口に吹きかけた。白い泡が傷口を覆ったかと思えば、次の瞬間にはそれが固まって血を完全に止めてしまった。
「え、えぐいわね」と思わず口元を抑えた。
「でも、傷口を綺麗にすると治りが早いですから」
「早くなるって、それだけ?」
「ええ。再生被覆スプレーだけの場合に比べて、三日ほど早いですね」
三日だけなんだ……。
「次は背中の傷です。ツィリンさん、ひっくり返してください」
「あっ、はい」
バクバさんの体を一緒にひっくり返す。バクバさんが訴えるように手を上げたが、アルナナさんはそれを掴むと、「あと、三十秒です。我慢してください」と言った。
さっきも30秒って言ってたじゃん。
こいつこんな女だったの? あの時に見せられた心象風景からは全然想像できなかった。防疫官っていうよりもSMの女王様って感じだ。
そんな感じに私が混乱している最中にも、アルナナはバクバさんの背中の傷口もえぐり取っていく。激痛にのたうちまわるバクバさんを完全に無視し、黒くこびりついていた血と汚れは容赦なく削り取られ、赤い鮮血が噴き上がる。それを確認したところで、彼女は例のスプレーで傷口をふさいだ。
「よく頑張りましたね。もう死ぬことはありませんよ。バクバさん」
はぁっ、はっ、ぜぇ。と、バクバさんはもはや意識がもーろーとしていて、まともに返事する余裕がない。
「さて、ツィリンさん」
と、アルナナはこちらを振り返った。
何も読み取ることができない表情で、まっすぐと見つめられると不安になってしまう。
「なに?」
「まずは御礼を、バクバさんを助けて頂きありがとうございます」
「でっ、次は私の脳洗浄でしょ」
まどろっこしいのは嫌いだ。
「そうですね」
ぐっと唇を噛む。
初めて男に犯されたのは十一歳のころ。母親が家に連れ込んだ男に、飯の前の運動にちょっと付き合えと言われて強姦された。その後も、色んな奴らに散々になぶられた。それに耐えて、あの家から逃げ出して、ようやく決着をつけたところだった。
私が、精一杯、生きてきた記憶。
「……覚悟はしてる」
アルナナは目を閉じて首筋をとんとんと叩いた。何か考えているようだ。
「アル、ナナさん」と、バクバさんがうめいた。さっきのえげつない治療で声が枯れていた。「すみません。銃を使っちゃい、ました」
「いえ、そのために渡したのですから」
「助けてもらった、ばかりなのに。……わがまま言って、いいですか」
と、アルナナは口と眉を下げたが、目は優しげに答えた。
「どうぞ」
「ツィリンのこと、よく考えてあげてください」
「つまり、脳洗浄をするな、と?」
「……どうでしょうか。それは誰にも分かりません。彼女には忘れてしまったほうが良いつらい経験がたくさんあります。消したほうが彼女のためなのかもしれない」
「バクバさんは、消さないほうが良いと考えているのですね」
「脳無しのたわごとかもしれませんが」
「あなたは本当にいつも」とアルナナの手がバクバさんの頬に触れる。「難しいことばかり私に言いますね。般若心経とか殺人の心理学とか利己的な遺伝子とか、他にもサルトルとかもありましたね」
「すみません」
「防疫官の職務に
「……本当にすみません」
アルナナは、はぁ、とため息をついた。
「分かりました」
「おねがいします」とバクバさんは目を閉じた。「……すみません」
その後は細い息が引いた。もうバクバさんは限界だったのだろう。がくっと頭を垂れて気絶してしまった。
「勝手な人ですね」
と、アルナナはうっすらと微笑んで、私のほうに視線を移した。
「さて、ツィリンさん。一つだけですが方法があるのではと私は考えていました」
「方法って、なによ」
なおも悩むように彼女は目を閉じたが、やがて口を開いた。
「免疫屋になりませんか?」
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