2.7.『』
ツィリンは部屋の中へと突き飛ばされて床に転がされた。
両手を腰の後ろにまとめて拘束され、スカートの中に仕込んでいたナイフもすべて奪われてしまっていた。買い出しのためにホテルの外に出たところを男たちに襲われて、ここまで連れてこられたのだ。
くそっ。
頭をふってあたりを睨みつける。そこはがらんとした部屋だった。家具や調度品が一切なく、人が住んでいた気配がない。おそらく壁の周辺部によくある廃墟だろう。まわりには私を襲った男が数名いた。もっといたはずだが、恐らく外だろう。
「ったく、手間ぁ取らせやがって!」
髭の濃い男が怒鳴り散らして、私の腹をサッカーボールのように蹴り上げた。つま先がめり込んだ胃から胃液が逆流し、転がりながらそれを床に吐き散らす。
くそっ、大人ってのは子どもを殴るのが大好きだ。
車の中でもボコスカと殴られまくった跡が、思い出したように熱がこもりはじめた。ああ、かゆい。殴られた後はかゆくなる。殴られるのは慣れているが、この
「ぶっ刺しやがってよぉ。このガキャ」
今度は頭を踏みつぶされた。床に押しつけられた頭が軋み、キーンと耳鳴りが鼓膜を突き破る。
顔を踏まれながらも、髭男を横目で睨みあげる。デブで性欲の強そうな脂ぎった目で見下ろしてやがる。私が刺したのはテメェのでっぷりとした横腹だ。残念ながら、そんなんじゃ死にはしない。
「なんだぁ、
今度は頭を蹴り飛ばされた。
ああ、ムカつく。くそ、なんなんだよ。せっかく、あの女をチャラにしたばかりなのに。すぐに似たようなバカどもが寄ってきやがる。まじでハイエナみたいだ。そんなに弱い者イジメが楽しいのかよ?
「そこら辺にしておけ」
別の男が髭の肩を掴んで止める。長髪の背が高い男だった。
「傷にすると面倒だろ」
「はぁ、こいつはもう売りもんじゃねぇ」
「おいおい、話を聞いてなかったのか。脳無し」
長髪は髭の肩をたたいた。
「いいか。クライアントの要望は、絶望した売春少女を麻薬漬けの廃人にしろ、だ。覚えているか? なのに、アザつけてどうする」
「そいつは俺を刺したんだぞ」
「あ〜」
長髪の男は大げさに手を広げた。
「分かるさ。同情はする。しかし、これはビジネスだろ。俺たちは大人だ」
「んなの、関係ねぇ」
「……もう一度だけ言うぞ。これで最後だ」
長髪は声を落とした。
「契約を守れ」
「関係ねぇ。あのガキにぶち込んでやらねぇと気がおさまらねぇ」
「ぶち込む?」と長髪は薄く笑う。「お前のナニを」と小指をたてた。「あの嬢ちゃんのあそこに、ぶち込って?」
「てめぇ、さっきから、なめてんのか」
「なめてんのはテメェだろが!」
長髪の拳が髭のでっぷりとした腹にめり込んだ。禿げが目をむいて膝から崩れ落ちる。その頭を片手でつかんで「よく聞けや、脳無し」と長髪はささやいた。
「壁内のぬるい免疫屋どもには理解できないかもしれんが。いいか、契約ってのは絶対で、守れねぇやつはクソだ。クソがしゃべったらくせぇだろ? 分かるか? さて、なぜ依頼主は殺すなと言ったと思う?」
「はぅ、はふ」
髭は殴られた腹を手で押さえ、呼吸するだけでも精一杯だった。
「なぁ、てめぇが自分が請け負った仕事だ。文字くらいは読めるだろ? なぜそれを守らない? ガキが食い散らすみたいに痕跡を残せば、保健省が嗅ぎつける。分かるか?」
「ど、どうせ、こいつの記憶は消すんだ。だったら、」
「あ〜、これは脳無しだわ」と、長髪は髭の頭をなでた。「せっかく記憶を消したのに、テメェの精液を残してどーすんだ!」
「……」
「分かったか? よし。じゃあ、自分の仕事に戻れ」
「戻れって」
「外で見張りでもしてろ。それとも、他に何かできるのか?」
髭は絶句して助けを求めるようにあたりを見渡したが、周囲には長髪の仲間たちばかりだと気がついて、歯ぎしりをしながらそこから出て行った。
その後ろ姿を見送ることもせず、長髪はこっちに近づいて来る。
「よう、嬢ちゃん」
「……あんたは?」
「知りたいか? 思念通話なら教えてやる。さっきみたいに丁寧に説明してやる気はないんだ」
「あんた、もしかして脳有り?」
「二度も言わせんなよ。回線を開けば教えてやる」
「やめときな。性病トロルがうつるよ」
ウリをやる女ってのは脳を病みがちで、直結すると感染する可能性が高い。それをかつての性病に例えて性病トロルだ、と界隈では
そんな脅しを長髪の男は口の端を引き上げながら鼻で笑う。
「性病程度なら、こっちは問題ねぇ」
長髪が首筋を指でたたくと、共有脳からコールがあった。思念通話のリクエストだ。
(警告します)
とこっち共有脳がビープ音とともに告げる。
(感染源ブラックリストからのリクエストです。思念通話を受けた場合、自動的にあなたの個人IDは社会大脳のグレーリストに登録されます。権限回復には検疫が必要となりますのでご注意ください)
驚いて、男のほうを見ると「ん、やめとくか」と言われた。
思念通話のときに警告があるなんて初めてだった。ブラックリストってなんだ。……まぁ、どうでもいいか。どうせ、私も感染している。産まれてからずっと、悪意に犯され続けてきたのだから。
そんな破れかぶれな気持ちで男の思念を受け入れた。
(ほぅ、根性あるじゃねぇか)
と男は皮肉な調子で言った。
(思念通話なら面倒がない。取り繕っても無意味だし、理解も早い。単刀直入に言うと、お嬢ちゃんは廃人になってもらう)
(……)
その軽い口調に反して、男の心象風景は砂漠のように乾いていた。
私は直結アリのウリをやってるから、すさんだ思念に触れること自体には慣れている。そもそも、金で脳直結したがる奴の心象風景はみんなしてカラッカラだ。
男どもは脳直結による完全肯定を求めている。彼らの心象風景に入ったとき、ただただ甘えたいだけなのだと分かる。そんなみじめな思念に触れることは、実のところ、それほど嫌いじゃなかった。
自分の仲間を見つけた気がするから。
でも、この男の心象風景は違う。
さびしく乾いているのは同じだけど、弱さがない。足元の砂漠に視線を落とすと、無数の死体が砂に埋もれていた。
(あんたが殺したの? こんなにたくさんの人を)
(ほぅ。キモが座った嬢ちゃんだ)と男は笑う。(俺の殺人脳に触れても、発狂しないのか)
(どうして? あんたみたいな脳は殺処分でしょ。ここは壁の中なのに)
(俺が免疫屋だからさ。嬢ちゃんが雇ったボッチと同じな)
(ボッチって?)
そう問いかけると男の心象風景が動きはじめた。
足元の死体がせり上がって山をつくり、その頂点でむくりと男が立ち上がる。目を凝らすとバクバさんだった。死体の山の上から砂漠を見下ろすように、全身血まみれのバクバさん。
それは私のイメージと全然違う、恐ろしい姿だった。
突然、男は思念通話を切る。
「まぁ、ボッチは脳無しの免疫屋だがな」
「どうして、脳有りのあんたが免疫屋に」
「俺の脳は他人とつながるのが嫌いで、人を殺すのが好きだったからな」
長髪はピストルを模した指を自分のこめかみに当ててみせた。
「成りたい自分で好きな仕事をする、それがこの社会の建前だろ。だから、俺は人殺しのできる免疫屋になった。数は少ないがそういう脳有りは他にもいる。実際、上位の免疫屋は俺みたいな脳有りばかりだ。まぁ、ハンティング・ゲームで俺たちが脳無しに負けるはずがない」
脳有りが免疫屋に? そんなことあり得るの? でも、さっき社会大脳のブラックリストに登録されているって……。そんなの聞いた事がない。
混乱していると、長身の男はかがみ込んで顔を覗き込んでくる。
「今度はこっちの質問だ。嬢ちゃん、なぜ契約を破った?」
「契約?」
「とぼけんな。脳有りが忘れるはずがない。ウリにもスジってもんがあるはずだ。そいつを嬢ちゃんは破った」
「抜ける時は記憶を消せってやつ?」
店で働く前に、脳に入れられた遵守事項だ。
「それだ。あこぎな店では入金記憶も消してちょろまかすこともあるが、あの店はまっとうな部類だったはずだ。金はちゃんと払われていただろ」
「……」
「嬢ちゃんは体と記憶を売って、店は金を払う。そういう契約だったはずだ。違うか」
「そうよ。でも、」
長髪の男をにらみつける。
「体はいいわ。でも記憶はダメ。消させない」
「そいつは通らねぇな」
「この記憶は、私が戦ってきた
「……」
「キモいおっさんのヘコヘコした腰振りにあんあん歌ってやった記憶も、童貞の大学生に頼まれてフラれた女の人格をインストールしてセックスしてやった経験も。カタリに出会って、こんな自分でも受け入れてくれるんだって驚いたことも。バクバさんに教えてもらった殺し方も」
私が必死になって勝ちとってきた全部奪うつもりだ。ふざけんな。怒りが涙になってこみ上げてくる。
「歯を食いしばって稼いで、やっとあの女に金をめぐんでやったんだ。私は絶対にそれを忘れない!」
長髪はへっと口を曲げた。
「いい
「……」
長髪の男はジャケットの内ポケットから、細長いインジェクションを取り出した。経験データを共有脳に流しこむための挿入デバイスだ。
「今からお前の脳にこいつをぶち込む」
長髪はそれを目の前で左右にふった。
「モザイクフュージョン、覚醒型多幸性経験データ、共有脳麻薬、ジ・エンド——。まぁ、いろんな呼び方があるが、最高の幸せに狂いながら廃人一直線の片道切符だ」
「知っているわよ」
ウリにどっぷりとハマって、抜け出すタイミングを失った女たちの終着地点。脳に差すだけで手に入るバーチャルな幸せ。一度、それを経験してしまえば頑張って生きていることがバカらしく思えると聞いたことがある。
「売春していたガキが麻薬経験に狂って脳がぶっ壊れる。保健省が検疫しても脳の中には何も残っていねぇ。それが筋書きだ。それで店も安心してビジネスを再開できる。食いっぱぐれていた女たちもまた金を稼げるようになる。契約を守っていれば、みんな幸せだった。このインジェクションだって結構な値がするんだが、それをわざわざ用意したのは店からの慈悲だ。嬢ちゃんも脳が壊れるまでの間だけだが、最高に幸せになれる。感謝しろよ」
「ざっけんな!」
契約がなんだ。店なんて知るかよ。私の人生に他人が勝手に決めていいことなんて一つもない。
殺してやる。
紐で縛られた手をねじり、自分のベルトに指をかける。スカートのナイフは全部取られたけど、バクバさんはこの裏地にも刃物を仕込んでくれた。まるで
男には見えないように、腰裏のベルトに指をかけ、仕込んだ刃物を引き出した。それを拘束された縄のすき間に差し込んだ。思い出せ、バクバさんが教えてくれたこと。紐を切るときは刃を動かすな。刃は押し当てるだけ、紐の方をねじって少しずつ切っていく。
そうしてる間に、インジェクションを手にした男がこちらに近づいてくる。
「大人しくしてろよ」
くそっ、はやく切れろ。私はこいつを殺してやるんだ。
長髪の腕がのびてきて、頭を床に押しつけられる。後頭部のソケットのあたりを何回か揉まれた。ぞくっとする。脳を直接掴まれたみたいでキモい。
「お前の人生もこれでエンドだな」
プラグが私のソケットに触れた時——。
「警報発令! 警報発令! 付近がトロル感染エリアに指定されました」
と、けたたましいサイレン音を鳴らしながら、スピーカーの声が部屋の外から飛び込んできた。
「付近の市民はすみやかにエリア外に避難し、指定の箇所で検疫を受けてください。指示に従わない場合はトロルとみなし、殺処分となります」
「ちっ、このタイミングで警報か」
長髪の男は私から手を離した。
「嬢ちゃん、お前にこいつをぶち込むのは後だ」
そう言いおくと、長髪は部屋を出るなり「てめぇら、集まりやがれ」と指示を飛ばし始めた。部屋の中に一人だけ残されて、ふぅと息をはく。
今のうちだ、はやく紐を切ってここから脱出しないと。
細長い刃物を握りしめ、手首をよじって紐を切っていく。もうちょっとだ。よし、よし、ゆるんできた。……やった。切れた。
(おい、小娘)
突然の声に思わず刃を構えて振り返ったが、すぐにそれが思念通話ということに気がつく。
(誰? どこ?)
(後ろ)
後ろを振り向くと、そこには猫が一匹いた。いつの間に? っていうか、この猫って、バクバさんが飼っていた——。
(あたいはバクにゃんの飼い猫じゃないわ)
(しゃべった!)
(ええい、まどろっこしい。時間がないから、このままアーちゃんにバイパスするわよ。猫に感染耐性があるとはいえ、感染エリア内と思念通話なんて本当は大問題なのよ。しかも、あんたなんかと繋がると感染するかも。はぁ〜、どうして、こんな危なっかしい橋を渡るようになったのかしら)
(なっ、なん)
(やい、小娘。わきまえなさい。アーちゃんはあんたのためにいろいろと犠牲にしているの。さっ、つなぐわよ)
(ちょっ)
と、止める間もなく、脳に他人の思考が混じった。女の人の思念だ。ゆっくりと落ち着いて、規則的な脳波。まるで時計の針みたいに、正確な波を刻んでいる。健全で清潔なプラスチックな心象風景が目の前に広がった。
(ツィリンさんですね)
(だれ)
(私は保健省トロル対策局防疫官、アルナナと申します。ふむ、想像以上に危険な精神状態ですね。話を始める前に、一度、深呼吸をしてください。心を落ち着けて)
(なぜ)
なぜ? 今さら防疫官なんかが? さっきの警報も。しゃべる猫も。すべて仕組まれたようなタイミングだった。なぜ、なぜ、どうして。どうして。
今まで、ずっと自分一人で戦ってきたのに。
(不安になるのは分かります)
(……私を消しに来たのね)
脳の波が止まった。
肯定も否定も読み取れなかった。こいつ、思念を閉じやがった。
(あんたも一緒だ。私の記憶を消したいんだろ!)
(……)
(その猫がここにいるってことは、あんた全部知ってた! そんな綺麗な思念で、汚い私を見下して、ずっと見張ってたんでしょ。ふざけんな!)
女の思念はゆらがない。まるで壁と話しているみたいだった。
(私は、お前みたいな奴が一番キライなんだ!)
(落ち着いてください。私は、)
(私は消されない。最後まで抵抗してやる。私がトロルだって? 上等だよ。お前らが私をそんなに嫌いなら、そのトロルってやつになってやる。お前らも不幸にしてやる。私と同じとこまで引きずり落としてやる。そしたら、お前みたいな奴でも私に共感できるだろ!)
(……バクバさんが)
そう女の思念はため息をつくように言った。
(これから、あなたを助けるために侵入を開始します)
女の思念からにじみ出た嫉妬が、私の息を止めた。
(確かに、この共有社会のシステムではツィリンさんを助けることは出来ません。あなたが感染した不幸のミームに対しては、シナプスコーディングによるいかなる治療法も無意味なのでしょう)
そんなことは知っている。分かりきっている。でも、その前になんて言った。
(それでも、バクバさんは本気であなたを助けるつもりです。ですから、その時はちゃんと助けてもらいなさい)
女は通話をきった。
◇
アルナナは思念通話をきった後、助手席のバクバへ視線を刺した。
「ずいぶんと気に入られてしまったものですね」
「えっ」
ツィリンさんにバクバさんのことを告げた瞬間、彼女のどす黒い雷雲が立ちこめていた心象風景が、一瞬にして抜けるような晴天に変わった。
「いえ、なんでもありません」
頭をふって思考を切り替える。
「あと少しで感染エリアに突入します」
今は自動運転で現場に急行している最中だった。
車内ホログラムで現在地周辺の立体マップを展開し、到着予測を確認する。三分と五十秒。エリア内への侵入まで後二分。そこからは手動運転に切り替える必要がある。
「最終確認をします」
ホロマップを拡大して、ツィリンさんが監禁されている建物の見取り図を表示する。そこにマリーの三次元GPS座標をピンづけした。
「彼女が監禁されているのはこの部屋です。内部映像から確認できた相手の数は八人です」とマリーの視界記憶から男たちの映像を表示する。「特徴照合の結果、全員が免疫屋として登録されている男たちだと分かりました。三人は壁内の免疫屋ですが……。残りの五人は脳有りですね」
「脳有りの免疫屋ですか?」
「ええ」
「壁の内側なのにですか? 黒い脳なら壁外の免疫なのに」
「私にも分かりません」
黒い脳とは、ブラックリストに登録された共有脳IDのことで、自ら望んで免疫屋となった脳有りのことでもある。
この潜入調査は当初こそカタリをさぐることが目的だったが、児童虐待、売春組織と問題が発展し、ついには壁内での黒い脳たちの違法行為にまでつながってしまった。しぼらくは保健省で
「ん?」
と、バクバさんがある免疫屋の画像に目をとめた。長髪の男だ。
「知り合いですか?」
「いえ。でも、この男なら壁外で見たことがあります。かなり有名な人だった思う」
「だとすれば、ランカーでしょうか」
壁外で活動する免疫屋グループは戦闘のプロだ。社会大脳に男の画像を転送すると、すぐに彼のプロフィールがヒットした。
「免疫屋個人ランク三位のクルード・カザマですね。彼が率いる免疫屋グループも六位のランカー集団。かなりの凄腕ですね」
「壁外のランカーがツィリンをさらった?」
報酬額なら壁外の発注業務のほうが圧倒的に高いはずだが。
「どうしますか? 応援を待つの手です」
と、聞いてみたものの、個人三位が率いる六位の免疫屋グループを相手に即応できる免疫屋など壁内にはいない。壁外に出ている他の上位ランカーを呼び戻すにしても時間がかかりすぎる。
「いえ、このまま突入しましょう。時間をかけるほどツィリンが危ない」
「……分かりました。映像から相手は銃火器を装備していませんでした」
「流石に、壁内に持ち込めなかった、か」
もし、持ち込まれていたとしたら、壁外担当の防疫官たちが最適化の対象になるだろう。
「そろそろ、エリア内に侵入します」
共有脳をシャットダウンしたところでホロも消えた。感染エリアではあらゆる都市ネットワークが切断される。
右手をハンドルにおき、左足はクラッチを踏んで、右足はアクセルの上で遊ばせて待ち構える。「感染エリア内に入りました」と自動運転AIが告げた。「自動運転モードを終了し、停止いたします」と減速が始まる。
すかさず、左手のシフトレバーを押し込み、手動運転モードに切り替える。クラッチとアクセルを踏み換えて、ハンドルの振動を右手でなだめる。
モーター音が細り、加速していく。
「急行します」
正直なところ、手動運転は好きだ。
普段は味気ない自動運転しか許可されていないため、不謹慎だがこういう状況に高揚する自分もいる。ギアを入れ、アクセルを踏み込んで、背中のシートに加速のGをゆだねる。風景が飛んで迫ってきた。トロル的な加速に脳が震える。
「あ、あの」とバクバさんが声をふるわせる。「流石に、こんなに急ぐ必要ありますか?」
「急がないと、逃げられる可能性があります。今、相手の免疫屋たちは混乱しているでしょう。誘拐現場で感染警報が出たのです。私が誘拐犯ならエリアが閉鎖される前に彼女を移動するか、」
あるいは殺してしまうか、だ。
そして殺したのはトロルだ、と主張するだろう。トロルに感染したために殺した、と言い訳する可能性もある。どちらにせよ、彼女の頭が破壊されれば死後の脳検疫すらできないため、彼らの違法行為の立証は不可能になる。
「彼女を殺す可能性もあります」
「……」
「相手に考える時間を与えてはなりません」
とハンドルをきって、カーブに車体を滑り込ませる。
「バクバさん」
「はい」
「銃を渡しておきます」
返事を待たずに制服の内ポケットから拳銃を取り出して、助手席に差し出した。
「任意の発砲を許可します。お使いください」
「必要ありません。……まだ検疫フェーズですよね。相手も銃はもっていません」
一般にエリア内での銃火器の使用許可は、より深刻な事態が確認されてから発令される免疫フェーズからだ。今回は緊急申請だったこともあり、フェーズを繰り上げるための手続きが間に合わない。
しかし、相手は壁外の黒い脳たちだ。もしかしたら、バクバさんでも殺されてしまう可能性がある。どう説得すれば、銃を受け取ってくれるだろうか。
「銃があればツィリンさんを助けられます。より確実に」
「……なるべく使わないようにします」と彼は受け取った。「ありがとうございます」
「いえ、私のほうこそ謝らなければならないことがあります」
「何ですか」
ハンドルとアクセルに緩急をつけて、機能が停止した自動運転車の間をくぐりぬけていく。
「感染エリアを宣言したのは軽率だったかも知れません」
「なぜですか? ツィリンを助けるために必要でした」
「感染エリアにいた脳有りは強制検疫の対象です」
「……」
「彼女がトロルを治すための時間は、もうなくなってしまいました」
「しかたのないことです」
そう、どうしようもないことだ。
売春組織による誘拐事件、しかもそれに壁外の黒い脳が関与しているとなれば、感染エリア宣言が通常の手続きになってしまう。他に手があっただろうか? 分からない。防疫官の責任とは、組織が定めた手続きを確実に遂行することであるが。
「見えてきました」
目的の建物は大きな駐車場をそなえた廃工場だった。正面はフェンスゲートで閉ざされていた。
「このまま、ゲートを突き破ります」
ギアを切り上げて、アクセルを踏み抜く。モーターが唸って加速し、フェンスに突っ込んで突破する。そのまま、ハンドルをきって、ツィリンさんが監禁されている部屋の近くに車体を滑らせて横付けにした。
「あそこです。行ってください!」
バクバさんは飛び出して行ってしまった。
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