2.5. 『利己的な遺伝子』

 ツィリンは、幼いころに自分が住んでいた、おぞましい思い出しかないアパートを、ぐっと睨みつけていた。


 母——いや、あの女は今でも、あそこにいるはずだ。


 あの女もウリで日銭を稼いでいた。親子そろってウリなんて笑えるだろ。

 そんな偶然なんて、と思っていたけど、売春の現場にいれば必然だと分かってしまう。体を売るしかない女なんて、家出、脳無しに移民ばかり。誰ともつながれない根無し草の掃きだめ。


 あの女もありふれたそんなゴミの一つだった。


 移民の若い女がたった一人で日本に降り立った。でも、共有脳なんてないから仕事はない。日本国籍じゃないからインプラントの補助金もない。手術費用を稼ぐ現実的な手段はウリしかない。

 でも、ウリをやれば脳を病む。ようやく共有脳をゲットできても、そんな脳を雇ってくれるとこはない。でも、直結アリアリのウリが出来るよから単価はアップ。ますます脳を病む。

 そうやって、社会のど底辺のまま、糞を流す便所水のようにぐるぐる回り続ける。


 今はまだ昼過ぎだ。

 まだあの女はここにいるだろう。夜になったら店の待機所にいき、ゲームでもして時間を潰し、客が取れればマグロになる。そういうみじめな日々を今でも繰り返しているはずだ。そいつが、あの女がトロルになった理由わけだ。


 そう、だから、だったんだ。

 だから、あの女は男に逃げた。

 男たちは女がいなくなる夜になると私をおかした。

 いつの間にか、私の脳にもトロルができた。

 この脳を絞めけるイライラは、あの女のせいだ。


 あの女には母親になる資格などこれっぽっちもなかった。ただ惰性で生きてきたマグロ女が子どもなんて作るものだから、救いようがない。

 スカートの上から自分の太ももに手を当て、隠したナイフの感触を確かめる。バクバさんにもらった私の武器。他にもベルトの腰裏にも仕込んでもらっていた。

 もう何日もずっと刃物の扱いを教え込まれてきた。革紐を巻いて服の裏側にナイフを隠す方法、相手に気がつかれずにナイフを抜く技も。人体の急所、骨のすき間に動脈の位置。切るべきか刺すべきか。


 殺すときは刃を見せるな、とバクバさんは教えてくれた。私は体格が小さいから油断させろって。だから、教えてもらったのは、ナイフを隠す方法と不意打ちばかりだった。

 教えられた通りの所作をなぞってみる。足を後ろに引いて相手から隠し、太もものナイフを指で抜き取る。そのまま手の中に刃を隠し、近づいてきた相手の喉に滑り込ませる。


 まるで手品みたい。


 私もかなり上手くなったつもりだけど、バクバさんにはおよばない。あの人はもっと自然にやる。まるで、おはよう、と挨拶するような仕草でナイフを抜き、返事をしようとしたら、喉元にナイフが突きつけられていた。

 カタリが言ったとおりだ。あの人は本当の殺し屋だった。

 バクバさんはあれだけ嫌がっていたのに真剣に教えてくれた。殺しの本当のリアルを。私の脳に住みついたトロルにはそれが必要だった。私にちゃんと向き合ってくれたのはカタリとバクバさんだけ。


 でも、それも今日でおしまいにする。


 かつて住んでいたアパートを睨みつける。

 大丈夫だ。今の私には殺しの技がある。もし、あそこに、あの女が連れてきた男がいたとしても、今の私ならやり返すことができる。昔とは違う。姦されても、歯を食いしばって、じっと耐えるしかできなかったあの頃とは違うんだ。


 安いボロアパート、旧式の音声インターフォン。それを押して待つ。何年ぶりだっけ? 三年くらいか。


「だれ?」


 鳥肌がたつくらいに懐かしい、忌まわしい声がした。そのままドアが開く。髪ぼっさぼさの、すっぴんのままの女が顔をのぞかせた。


 ああ、こんな女だったな。私の母親は……。


 この程度では大した客なんてつかないだろう。本気で稼ぎたければ、オフだろうが気合いを入れなきゃダメだろうが。てめぇはウリでも三流だったのか。

 結局、こいつはこのクソみたいな状況から本気で抜けだそうなんて気概はない。ダラダラと毎日を続けるだけの本当のクズだ。


「もしかして、ツィリン?」

「……ああ」

「よかった」と笑みを浮かべやがった。「生きていたのね」

「そういう芝居、いらないから」

「ツィリン?」


 女はまるで傷ついたように表情をくずした。

 いや、違う。この女には芝居すらできない。自分に母親の資格があると本気で思い込んでいるだけだ。自分に愛される余地がまだあると夢を見ている。だから、とっかえひっかえ男を変えては連れ込んで、娘が犯されても気がつかないフリを決め込んだ。

 私は、こんな女の腹から産まれたのだ。


「よぉ。お前を殺しにきたよ」

「なんてことを」と奴は口に手をあてた。「お母さんに向かって」

「気取るなよ」

「なんて口のききかたをするの。昔はあんなに良い子だったのに」


 くそっ、マジで殺してやりたい。


「てめぇが散々連れ込んでくる男どもに、私がまわされてたの知ってただろ。だけど、てめぇはそれを無視した」

「知らないわよ!」


 突然、女は叫んだ。まるで猿の叫び声だ。


「あなた、そんなひどいことされていたの? どうして言ってくれなかったのよ。言ってくれたら私」


 ——言っただろ!

 何度も、何度もお前に言った。助けて欲しい、って、やめさせてって、何度も言った。


「誰にやられたの? ヨッ君? タッちゃん。あっ、もしかして、サイトウさんかしら。あり得るわ、実はね、私もサイトウさんにはレイプまがいのことされていたのよ。それでハン君に助けてもらったの。やっぱり若い子は頼りになるわねぇ」


 まじで、このバカ女は……。

 この女が言った若い男どもはみんな私を犯した。むしろ、サイトウのおじさんだけは私の言うことを信じて保健省に通報しようとしてくれた。それも、この女が新しく連れてきた男にボコられて、その後、おじさんがどうなったのかは分からない。


「……もう、いい」

「どうしたの。ツィリン? 私、あなたのお母さんなのよ。ツィリンにつらい思いをさせてゴメンね」

「もう、いいつってんだろ!」


 背後に隠したナイフを握りしめる。沸騰する怒りを冷たい刃の感触で押さえつけた。ああ、これだ。このナイフがずっと欲しかった。トロルを殺せる力がずっと欲しかったのだ。


「てめぇの母親ごっこに付き合う気はない」


 このまま殺してやる。

 だらしなく着くずした襟、そこからのぞく奴の首元を見る。うっすらと浮かぶその動脈に刃を引けばこの女を殺せる。血を噴いて息絶えるまで一分くらいかかるだろうか? 苦しみもがくその様を見下ろしてやるんだ。

 

 ——殺せばトロルになるよ。


 バクバさんの声が頭をよぎった。動脈に刃を入れる方法を教えながら、彼はそう言って顔をしかめたのだ。

 私はなんて言い返したっけ? 確か……。


 私ってもうトロルなの。知らなかった?

 どうかな? そうは見えないけどね。

 私、演技めちゃうまだから。セックス大好きハッピーガールってキャラが一番稼げるの。でも、この笑顔の裏側は恐ろしいトロルなのよ。

 僕には君を止める権利はない。僕こそたくさん殺しているから。何の罪もない、ただ上書きで感染されただけの人たちを。

 わぉ。クールね。

 だけど、……君を殺すのは嫌だなぁ。


 バクバさんに殺されるのも悪くないかもね、とカタリと交換した脳がささやいた。

 カタリはかなりの変態だ。でも、私はごめんかな。あの時のバクバさんの困った顔を思い出すと、なんか嫌な気持ちになってしまう。

 そんなことを考えると、ふっと熱がさめてしまった。


「……これを渡しにきた」


 ナイフをスカートの中に戻して、代わりにポケットに入れていた封筒を女に差し出す。


「なに?」

「手切れ金。五百万入れた。現金で」


 私がウリで稼いだ金だ。


「こいつで私とお前は赤の他人。後はどこかで死んでくれ。二度と会いたくないから」


 背を向けて女を置いて歩きだす。

 久しぶりに会ってみれば、本当にしょうもない女だったな。私があんな奴の娘だったと思うとあらためて泣ける。あのアパートから逃げ出したのが十二歳の頃か。ウリで稼ぎながら世界を知って、薄汚い男どもと女たちばかり見てきた。中には産んだばかりの子を便所に捨てた女もいたっけ?

 そういうド底辺を見てしまうと、あの女がウリをしてまで私を育ててくれた、っていう事実が分かってしまう。そいつがキモくて、邪魔くさかった。

 でも、そういうごちゃごちゃはこれでチャラだろ。




 ◇


(お金を渡しただけですか?)とアルナナは眉をしかめた。

(ええ)

 マリーの緊張した思念から、まだ尾行を続けていることが分かった。

(殺すつもりか、ってヒヤヒヤだったけど)

(少し意外ですね……。まぁ、そのままツィリンさんの尾行を続けてください)

(にゃ)


 アルナナは首を指でとんと叩いて通話をきった。ツィリンを尾行していたマリーからの報告を受けていたのだ。


「どうやら、ツィリンさんは母親にお金を渡したようですね」

「お金?」とバクバさん。

「ええ。近くの監視システムから覗きました」


 マリーのことは明かせないので、街中に設置されている監視モニタを利用したと嘘をつく。バクバさんと仕事をしているせいか嘘をつく機会が増えてしまう。それはトロル的な習慣行動だからなるべく控えるべきだが、なかなか上手くはいかない。

 横で、ほっ、とバクバさんは深いため息をついた。


「よかったぁ。母親を刺すんじゃないかとヒヤヒヤでした」


 私も同じことを考えていた。

 阻止のために介入すべきか迷っていたが、いざとなればバクバさんが先に動くだろう、と静観していたのだ。


「でっ、バクバさん」

 と、バクバさんの方を振り向いて、その表情をじっと見る。

「どうして母親を刺す、と考えたのですか?」

「あっ、いや」


 彼は目を泳がせて頭の後ろを掻く。困っている時によくやる仕草だ。

 そう問い詰めてはみたが、彼がツィリンさんに殺し方を教えていたことは、すでにマリーから報告を受けている。免疫屋としては問題行動だ。機会があれば理由を聞かねばならないと思っていた。


「う〜ん、実はですね」

「言いにくいことでしたら、別に構いません」

「あっ、いや」と彼は目を閉じた。「実は、ツィリンにナイフの使い方を、ですね。教えていました。すみません」


 正確には、教えたのは殺し方でしょう。ナイフの他にも色々と教えていたと報告を受けている。例えば、組みつかれた時の対処法とか。おそらく、男に襲われた時のことを想定しているのでしょうけど。


「どうして」と眉をしかめてみる。「それはトロル的な経験です」


 殺人に関係する技術や経験を脳に入れることは禁止されている。そのような攻撃性経験は社会大脳にもアップロードされていない。あるとすれば、せいぜい、スポーツとして安全対策がされた格闘技くらいだろう。

 トロル対策局の職員であれば射撃などのインストールが許可されるが、これらは隔離サーバーで厳重に管理され、市民ではアクセスできないようになっている。


「すみません」

「お考えがあったのでは?」


 若い娘にほだされて間違うような人ではないはずだ。多分だけど。


「あ、あの。言い訳に聞こえるかもしれませんが……、血吸いコウモリって知っていますか?」

「チスイコウモリ?」


 咄嗟に指を首にあてて検索しようとしたが止めた。彼の話は検索しても無駄なことが多い。


「もしかして、血を吸うコウモリでしょうか?」

「ええ。恐ろしいコウモリに聞こえるかもしれませんが、本当はとても仲間想いの優しいコウモリなんです。血を仲間に分け与える習性がある。『利己的な遺伝子』っていう本で読みました」


 やっぱり本の話だった。

 今は仕事を優先すべき、とは思うのだけど、バクバさんは目を輝かせて語り始めてしまった。こうなるとなかなか止まらない。もし、話を遮ってしまうと、彼は残念そうに顔を曇らせてしまうのだ。


「血吸いコウモリは夜行性で、寝ているブタとかウシの血を吸います。その牙は細いので、穴を開けられてもなかなか起きない。一度に自分の体重の半分くらいの血を吸うそうです。もちろん、そうなると重くて飛べませんから、よちよちと歩いてねぐらの洞窟に戻るそうですよ。

 でも、血を吸える日は滅多にないそうです。いくら夜目がきくコウモリでも、獲物はじっと隠れて寝ていますからね。日が昇りはじめる頃には、ほとんどのコウモリが空腹のままで洞窟に帰ってくる。そこで運良く血を吸えたコウモリが血を分け与えてあげる。口うつしで」

「はぁ、そうですか」


 興味深い話ではあると思う。だけど、そのコウモリと、ツィリンさんに殺しを教えた言い訳にどんな関係があるのだろうか。バクバさんは脳無しの上、結論から話すのも苦手だ。


「コウモリでさえ助け合うものです。なら、どうして、」とバクバさんは頭を振った。「ツィリンの周りには利己的な大人しかいなかったのか?」

「なるほど」

 ようやくつながって来た、とため息をついた。

「彼女のケースは例外です。壁内では彼女のような不幸はほとんど起きません」


 実際、家出にせよ売春にせよ、統計的には年々減少して根絶されたと言っても良い。

 その要因として、壁内に住む脳無しが減少していることが指摘されている。事実、残存している犯罪行為のほとんどは脳無しによるものばかりだ。


「ええ、でも例外がいるのは血吸いコウモリも同じです。仲間から血をもらうけど、自分は分け与えない。そういう利己的なコウモリもいる。そうなると、血を分け与えるばかりで、飢えても血をもらえない優しいコウモリは絶滅してしまうと本に書かれていました。そして、洞窟には利己的なコウモリだけになって、いずれは全滅してしまう」


 話から察するに、その絶滅のメカニズムはもう少し複雑だろう。

 コウモリたちの環境では、血を吸える機会が少ないが、一度吸えれば大量に吸える。だから、種全体としての生存戦略は協力的にならざるを得ない。運良く血を吸えたコウモリが分け与えることをせず自分の腹に抱え込めば、飢えた個体が次の日の狩りに参加できず、全体としてはどんどん非効率になっていく。

 そのような利己的なコウモリが増えてしまうと、いずれ絶滅することになるだろう。


「では、どのようにして血吸いコウモリは存続したのですか?」

「復讐するのです」

「……なるほど」

 だんだん結論が見えてきた。

「つまり、コウモリには利己的な個体を排斥する習性がある、と」


 そのルールなら生存戦略を維持できるだろう。かつて人類が頼っていた警察や裁判といった刑罰システムと同じ仕組みだ。それをコウモリも持っていた、そう考えると興味深い。


「ええ、血吸いコウモリはどれが利己的なコウモリだったかを忘れません。そいつが飢えていても無視するのです。優しいだけのコウモリでは生き残れません。復讐は社会を維持するための手段でもあります」

「それで、ツィリンさんにも復讐する力が必要だと?」

「はい。ちょっと軽率だったかもしれませんが……」


 コウモリと人間は違うでしょう、とは思う。

 バクバさんはしきりに頭をかきながらも、目はしっかりとこちらを見返していた。心の底で、彼はコウモリと人間が同じだと考えているようだ。確かに共有脳がない時代ではそうだったかもしれない。あの時の人間は他者に共感できなかった。


「それでも、ツィリンは」とバクバさんが口を開く。「このままでは脳洗浄です。そうなれば、自殺するかもしれない」

「……ええ」


 やはり、脳洗浄と自己完結発症の強い相関性について、バクバさんに教えるべきではなかったかもしれない。どうも、バクバさんと話していると余計なことまでしゃべってしまう。


「とはいえ、自己完結を発症しない確率の方が高いです。そのような事態を防ぐための社会プログラムも改善し続けています」

「そうでしょうけど」

「脳洗浄の処置後に自己完結するメカニズムは解明されつつあります。その主な原因は二つです。記憶の他者化による自己同一性不全と孤独化です」

「孤独化?」


 しまった。やっぱりしゃべり過ぎてしまう。


「脳洗浄されたかどうかは思念通話ですぐに分かります。一度でも汚れた脳と思念を交わしたいと思う人は稀でしょう。一般に、脳洗浄を受ければ二度とまともな職につけません」


 ……そう考えると、今でも私たちは血吸いコウモリと同じなのかもしれない。

 この共有社会は一度でも脳に悪意が宿った人間を疑い、徹底的に排除することで保たれている。共有脳があっても復讐と排斥の習性は、この脳にこびりついたままなのかもしれない。


「バクバさんがツィリンさんに殺しを教えた理由は何となく分かりました」

「余計なことをして、申し訳ありません」

「いえ……」


 流石に話しすぎてしまった。母親がアパートに戻ってしまうと厄介だ。


「そろそろ、行きましょうか」

「ええ」


 幸い母親はまだ外にいた。彼女は封筒を破き、中に入っていた紙幣の束を指ではじいている。

 紙のお金とは珍しい。電子決済が一般的だが、足がつきにくいため違法は取引にはまだ使われているようだ。それを防止するために紙幣を廃止すべきという意見もあるが、脳無したちの経済活動に悪影響があるため、なかなか踏み切れていない。


「ファンさんですか?」

 彼女は振り返り、防疫官の白いコートを見て、はっと目を見張った。

「な、なんですか」


 彼女は札束をポケットに突っ込んで立ち上がる。その拍子に封筒が地面にはらりと落ちた。紙幣ではない。折りたたまれた白い紙だった。

 それを拾い上げたバクバさんが「あれ?」と声を漏らした。


「これは……手紙かな」


 それにさっと目を通したバクバさんの表情が凍りつく。


「どうかしました?」

「……ツィリンのお母さん、これ、読みましたか?」

「い、いえ。あの、保健省の方でしょうか? ツィリンとはどのような関係でしょうか。あれは難しい子ですので、もしかしたら、ご迷惑を、」

「金なんか数えてないで、あなたはこれを読むべきだ!」


 バクバさんが手紙を突きつける。

 その拍子に覗いた手紙の内容を共有脳で映像記憶する。首すじを指で叩き、撮影した手紙を網膜に展開した。


 はっきりさせたいことがある。

 あんたはもう私の母親じゃない。わたしはあんたの娘をやめた。

 それはその手切れ金。

 ……ちょっとだけ、無駄な話をする。

 私が店の待機部屋にいた時の話だ。そこに赤ちゃんを連れてきた同僚がいた。そいつは母乳ヘルスで稼いでいた。お前も知ってるだろ、この世には母乳を飲みたくてたまらない男であふれている。

 で、その女はそこで赤ちゃんにおっぱいを飲ませていた。赤ちゃんは目をきらっきらに輝かせて、必死にしゃぶりつく。待機部屋に現れた幸せそうな親子の様子に、私は目が離せなかった。

 不思議だったんだ。みんなそう思うだろう。あんなにカワイイ赤ちゃんが吸ったおっぱいを、あと三十分もしたら変態オヤジどもに吸わせてやるんだから。

 実際は三十分もしない間に、女にコールがかかった。女は、赤ん坊に向かってちょっと我慢してね、ってソファに寝かせようとした。すると、赤ちゃんが小さな手を母親に伸ばして泣きはじめた。まるでこの世の終わりみたいにギャーギャーと叫び始めて、女は顔を不機嫌そうに顔を曇らせた。

 見ていられなくなって「私が面倒見てやるよ」って言ってやったんだ。

 スタッフに急かされていたから、女は礼もそこそこにして、客に母乳を飲ませに行った。

 で、そいつの代わりに私が赤ちゃんの面倒をみた。

 母親に置いていかれ、火がついたように泣き叫んでいたから、取りあえず抱っこして、見よう見まねであやしていると、次第に落ち着いてきた。最後にはきゃっきゃって笑うようになった。

 赤ん坊ってのはいい。ちょっとしたことで笑うし、とても柔らかいし、いい匂いがする。そいつを抱いていると、金を払ってまで女を抱く男どもが本当にバカなんだと分かる。その金をちゃんと貯めて、結婚した女に赤ん坊を産んでもらって、それを抱いているほうがずっと気持ちいいだろうに。

 まぁいいや。

 で、二時間くらい経ったかな? 変態におっぱいを吸わせた母親が帰ってきた。だから、言ってやったんだ。

「やめなよ」って「この子がかわいそうだろ」って。

 そしたら、言い返されたよ。

「もうちょっとなの。もうちょっとで、その子に共有脳を買ってあげられるから」

 まぁ、そういうことさ。

 あんたは最低の親だったけど、私には共有脳があった。認めたくないけど、それも事実だ。インプラントにかかる金も調べた。でも、あんたからの恩なんて絶対にいらない。

 だから、その金で全部チャラだ。

 お前はもう私の母親じゃないし、私も昨日までの私じゃない。

 あばよ。


 その手紙を母親が読んでいた。

 それを持つ手が震え、手紙がくしゃくしゃになってしまっている。それでも食い入るように手紙を読み続けていた。次第に、その表情はまるで肉が剥がれ落ちたかのように虚ろに変わっていく。


「ファンさん」

 と私はその母親に向かって声をかけた。

「検疫を受けていただけませんでしょうか?」


 手続き通りに最初は任意を求めた。断られた場合はそのまま強制執行に移行することになる。そのためにバクバさんに来てもらったのだ。おそらく、彼女の脳はすでに限界だ。


「……はい」


 ほぼ確実に脳洗浄あるいは殺処分となる申し出に彼女は同意した。




——関連文献——


▼『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス。1976年)

 近代の人間観に大きな影響を与えたと言っても過言ではない名著。遺伝子の自己複製増殖という性質から、生命の営みの多くを解釈することができると主張した。「親子愛」「自己犠牲」ですら遺伝子の自己増殖を目的とした行動として解釈可能だとしている。

 本書があげた様々な事例のうち、血吸いコウモリの習性は特に有名。血を分け与えるという利他的な優しさでさえ、遺伝子の自己増殖戦略にプログラムされた行動に過ぎない。本作中でも取り上げたように、そこには復讐さえも組み込まれている。

 本書では、思想や宗教といったものにも遺伝子のように自己増殖していく性質があることを指摘し、これをミーム(MEME)と名付けました。このミームの概念は今では一つの研究分野といって良いほどに発展し増殖しています。ちなみに、リチャード・ドーキンス自身はミームと名付けたことに深い意味がなかったと言い、当時はコンピューターウイルスみたいな分かりやすい事例がなかったのでミームと名付けただけと言っています。

 今の社会に大きな影響を与えた一冊で、現代に続く遺伝子決定論の根幹を形成したと言えるでしょう。そういう意味では私の小説『遺伝子コンプレックス』もこの本の影響を受けていますね。



▼『性風俗のいびつな現場』(坂爪真吾。ちくま新書。2016年)

 デリヘル、母乳専門店、激安風俗などの当事者たちにインタビュー調査を行い、性風俗にまとわりつく貧困問題をリアルに書き出している。特に、著者の主張である、性風俗の女性たちが抱える本質的な問題は貧困であり、風俗による稼ぎが現実的な解決策になっている、という指摘には目新しさこそないが力強い。著者も関わったデリヘルの待機部屋にソーシャルワーカーを派遣した生活支援相談の事例などからも、著者の試みが単なる風俗肯定ではなく、風俗で生計をたてる女性たちへの具体的な解決法の模索にあることがうかがえる。

 本作はフィクションでしかもSFファンタジーですが、性風俗のリアリティを描く上で本書を参考にさせていただきました。


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