2.4.『』


 ——ドキドキで、全っ然、眠つけないな。


 バクバは胸を押さえながら、むくりと身を起こした。

 明かりを落とした台所の固いフローリング。その上に直接敷いた布団の上にあぐらをかき、隣りの畳部屋に視線を向ける。普段は自分が寝ているはずのその部屋では、今、ツィリンが寝ていた。仕切りのドアは風通しのために開けてある。窓から流れる涼しい夜風が吹きつけ、薄いブランケットをかけて寝息をたてているツィリンの影がかすかに見えた。


 僕には寝ている彼女の姿が虎に見える。


 そもそも、社会的ヒエラルキーでは十代の少女は圧倒的な上位に位置している。どんなに強大な権力を誇る政治家であっても「あの人に痴漢されました」と少女が指を向ければ、それの真偽がどうであれ、とりあえず脳を検疫されてしまうだろう。

 対して、自分のような脳無しはピラミッドの最底辺。中年男性という属性がさらにその地面を掘り下げる。そんな月とスッポンが一つ屋根の下で同じ夜を過ごしているのだ。


 ——もし、公序良俗に反することがあれば、殺処分です。


 アルナナさんの警告が耳にこびりついて離れない。それが恐ろしくてなかなか寝つけないでいた。まぁ、単純に女の子が家にいると緊張して眠れない、ってのもある。どこかホテルを予約して、そっちに移動してもらうべきだったかな。明日からはそうしよう。


 そのまま立ち上がり、玄関から外に出た。

 夜風が本当に気持ちよい。まるで虎穴から生還したような晴れやかな気持ちになった。アパートの外階段を降りながら空を見上げる。

 おっ、満月だ。


「おい」


 と、一階から声をかけられた。アパートの外に男が三人、こちらを見上げていた。もう深夜の一時を回っている。こんな安アパートをうろつく用事などないはずだが……。


「どうしました?」と、階段を降りながら男たちのほうに近づいていく。「こんな夜更けに」

「俺らは免疫屋だ」


 三人のうち、ボサボサの口ひげをした男が前に出てきた。くたびれたジーンズに両手を突っ込んで、まるで威嚇するようにこちらを見上げてきた。


「ここらにトロルが逃げ込んだって報告があった。売女ばいただ。こいつを見なかったか?」


 口ひげの男はスマートフォンをこちらに向けて少女の画像を見せた。ツィリンらしき女の子が例の芝居がかったピースサインをこちらに向けている。お化粧バッチリで、美白効果ましましの強い照明の光で輪郭がぼやけてはいるが、きっと彼女だろう。多分、売春用に撮影した商売写真に違いない。


「この子が?」

 と、とぼけてみせた。

「ああ、検疫命令があってな。ここらに逃げ込んだと通報があった」


 嘘だな、とすぐに分かる。

 壁内の検疫捜査には必ず防疫官が同行する。免疫屋だけが単独行動することはあり得ない。加えて、こちらはアルナナさんにはすでに報告を入れている。男たち三人の風体も、いかにもヤクザくずれのように見えた。

 とはいえ、ひきつづき話を合わせたほうが良いだろう。


「それはそれは、ご苦労さまです」

「見なかったか?」

「ええ、知らない子ですね」

「そうかい」


 と、口ひげの男がため息をついたかと思うと、突然、殴りかかってきた。

 その予感はあったのでスウェーバックでその拳をやり過ごしつつ、足を蹴り払って体を崩す。前のめりになった男のこめかみに肘打ちを叩き込んだ。

 パッと血が噴き上がる。

 こめかみの皮膚は破れやすく、血圧も高いから血がふきやすい。


「ゴトウ!」


 残りの二人が色めき立った。

 ゴトウと呼ばれた口ひげの腕をひねりあげ、そのまま回し投げて片方の男にぶつけて足をとめる。同時に、もう片方の男につめよって拳を突き出す。

 相手はそれを腕で受け止めた。

 その受け手を逆手で掴んで体勢を崩し、背後に回って首を締め上げる。男が腕を引きはがそうと爪を食い込ませたが、構わずひねりあげ、そのまま気絶させた。


「貴様ぁ!」と、さっき投げたもう一人の男が突撃してきた。


 その男が腕を振り上げたそのすき間に、掌底しょうていを差しこんで顔面を掴み、足を払い投げて、後頭部をアスファルトに叩きつける。頭蓋骨がひしゃげる感触が手につたわったが死にはしないはずだ。叩きつける瞬間にちょっとだけ引き上げたから。

 さて、残りは口ひげの一人だけだ。


「て、てめぇ。素人じゃねぇな」


 口ひげはナイフを取り出して構えたが、すでに腰が引けている。


「僕も免疫屋だ」


 この三人が免疫屋かどうかはあやしいな。動きがまるっきり素人だった。

 彼らが脳無しなのは間違いない。スマホを使っていたし、さっき締め上げた男の首裏にはソケットがなかった。もしかしたら、壁内へきないの業務が中心の免疫屋なのかもしれない。免疫屋を名乗るのに特別に資格や認定があるわけじゃないから、昔でいうフリーターみたいな感覚で名乗る人は多い。


「免疫屋? だったら、あの売女を助ける?」

「彼女を襲った理由はなんだ?」

「う、うるせぇ!」


 口ひげがナイフを構えて突進してきた。

 体を入れ替えてそれをかわし、膝蹴りをみぞおちにめり込ませる。口ひげの体がくの字に折れ、落ちてきた頭を蹴り上げると、そのまま地面に倒れ込んだ。すかさず、ナイフを掴んでいた手を踏みにじって固定する。


「いてぇ! 足をどけろ」

「なぜだ?」

「いてぇーよ!」

「なぜ、彼女を襲う?」

「店だ。店から頼まれたんだよ」

「店?」

「売春の斡旋業者だ。免疫屋をかき集めている。ここ最近は壁内の感染事件がねぇから、みんな食い扶持にあぶれてんだ」


 危険な壁外へきがいの仕事と違って、壁内の感染事件は比較的安全に稼げる。もちろん、壁内であっても感染エリア内の侵入調査は危険だが、エリア周辺の封鎖業務ならそれほど危険はなく、保健省からの報酬も悪くはない。緊急業務のため生活が不安定になりがちなのが欠点だが。


「その店がなぜ彼女を襲う?」

「そんなもん、聞かなくても分かるだろ。あのガキは店から逃げたんだよ。その店は壁内での斡旋をしてたんだ。それがバレたら、どれだけやべーことになるか、免疫屋なら分かるだろ」


 ああ、なるほど。

 東京の壁内は特にトロル対策が徹底されている。比較的、規制がゆるかった大阪が滅菌事件を起こしてからはさらに検疫が強化されている。壁の外で商売をしていたらまだ良かったものを、欲をかいたらしい。


「バクバさーん! ちょーカッコ良かったよ〜」


 アパートの二階からツィリンの声がした。見上げると、彼女が窓から手を振っている。その窓枠にはあの猫も座っていた。あの猫、なんか家に居ついちゃってるけど、首輪の飼い主は心配していないだろうか。


「えっ」と、足元の男が小さくうめいた。「バクバって、まさか、あのボッチのバクバ?」


 もう慣れたけど、ひどいあだ名をつけられたものだ。

 免疫屋は普通ならグループを組む。あらゆる戦闘経験を脳にインストールしたトロルには、数で対抗するのが最も効率的だからだ。僕のような単独潜入は珍しく、いつの間にかボッチなんて呼ばれるようになってしまった。


「……雇い主に伝えてくれ。あの子には手を出すな」

「わ、分かった」

「後、そこに転がっている二人を連れて帰ってくれ」

「はい」


 さてさて、これからどうなるのか。

 頭をかいて、窓辺のツィリンを見上げる。今夜は本当に月が綺麗なんだけどなぁ。



 ◇


 検疫猫のマリーは、塀の上で腹を空に向けて日なたぼっこしていた。

 夏が終わりかけて涼しくなり、日陰よりも日向のほうが心地良くなりだした頃合い。マリーはこの時期が一番好きだった。


(マリー、報告をお願いします)

(お日様が気持ちいいわ)

(マリー)


 アーちゃんをおちょくるのも楽しい。


(状況に変化は?)

(特にないわよ)


 ヤクザ者の脳無しどもがアパートを襲撃した後、バクにゃんたちはホテルを転々としていた。襲撃を避けるためには平凡な対策だけど、それをすぐに実行した点は評価できるわね。バクにゃん、やるじゃない。

 まぁ、おかげで後をつけるこっちも大変で、移動のたびにお昼寝スポットを探すはめになった。


(宿の中ではバクにゃんは小娘に訓練して、)そうだ、もっとからかってやろう。(たまに外でデートに出かけるわよ)

(そうですか)


 ……歯ごたえがないのよね。


 アーちゃんは今まで男の気配がまったくなかったから、もしかしたら、と期待していたのだけど。まぁ、バクにゃんは男としてはイマイチだとは思うけどさ。でも、練習台にはもってこいだわ。なんか無害そうだし。


(その訓練というのは例の?)

(ええ、戦い方を教えているみたいよ。ナイフとか取っ組み合いの)

(つまり、殺しの訓練ですか)


 アーちゃんの声がこわばる。


(小娘のほうは「レオンごっこ」って言っているけどね。なんにせよ、防疫官として、子どもに殺しを教える脳無しってどうなのかしら?)

(問題ですね)


 迷いのない断言だった。

 それにしても人間はおかしい。大人が子どもに戦い方を教えてはダメだと言う。これが猫なら逆だ、子猫に狩りを教えない母猫がいれば、集会で総スカンを食らってしまうだろう。牙と爪の教えずに、どうやって我が子を独り立ちさせるつもりなの?


(まぁ、いいじゃないの。あんなのは、あたいに言わせれば、親子ごっこよ)

(親子ごっこ?)

(戦い方を教えるのは親猫のつとめ)

(あの二人は人間です)


 アーちゃんはたまに分かりきったことを言う。


(……とはいえ、バクバさんなりに考えがあってのことでしょう。あの人は本ばかり読んでいますから、少し変わった考え方をします。もう少し様子を見ましょう)

(そう言えば、二人の会話を録音しておいたわよ。聞く?)

(ええ)

(んじゃ、流すわ)

 共有記憶に保存しておいた音声データを再生すると、昨日に盗み聞いた二人の会話が流れはじめた。


 あいつらが言っていた店って?

 あいつら? ああ、昨夜にバクバさんがぶっ飛ばした奴らのことね。私のこと、やらしー目でずっと見てた奴らだから、見ていてせいせいしたわ。ありがと。

 知り合い?

 知り合いっていうか店の雇われヤクザね。奴ら、よく店で番してたからね。ウリの仲介所。本番アリアリの二穴同時挿入。それって、かなりリスキーなのよ。がっぽり稼げるけどね。

 えっと、本番アリアリって?

 あら、知らないの? バクバさんって結構ウブ? アソコと共有脳に両方挿入OKってこと。法律的にはナシナシでバレたら脳洗浄確実コース。だけど、単価がいいのよこれが。一回で体貸しの十倍も稼げるんだから。

 ……体貸し?

 あっ、体貸しも知らない? バクバさん、風俗行ったことないの?

 そのくらい、あるよ。

 なに、その童貞っぽい反応。まじでウケる。まぁ、考えてみたら、脳無しさんは体貸しなんて頼まないか。いい? 体貸しってのはイージーなウリなの。

 脳有りの男は共有脳で自分好みの女を再生できるでしょ。でも、せっかくだから実際に体を動かしてもっと臨場感のあるセックスもしたい。だから、脳内で理想の女を再生しとくから、体だけ貸してくれっていうやつ。テクも顔もいらない、スタイルイマイチでも誤魔化せる。マグロでもOK。だから脳無しの女がよくやってる。

 まあ、ともかくさ。そういう違法ダブルプッシュな店からすれば、ウリ女が行方をくらましたら気が気じゃないわけ。ほら、万が一、私の共有脳が検疫されちゃえば、店も客も情報がダダ漏れだからね。


(マグロって何かしら? 猫的には美味しそうな響きだけど)

(ベッドに横たわって動かないことをマグロと呼ぶそうです)

(それをアーちゃんが知ってるなんて意外だわ)

(防疫官の経験プリセットには風俗用語は一通り入っているのです。ふざけたネーミングが多くて面白いですよ。マリーにもインストールするべきですね)

(うにゃ〜。まぁ、この続きを聞こう)

(ええ)


 そのアリアリってやつまでして、どうしてお金が必要なんだ? 生活費程度なら僕が貸してあげられるけど。

 いや〜。お金はもう十分稼ぎ終わったのよ。それに自分で稼がないと意味がないの。あっ、売春で稼いだ金だろ、って思ってるでしょ? 顔に出てる。

 いや。でも……。

 いいの、いいの。そういう目で見られるの慣れてんの。でもさ、ウリでも私が稼いだ金なんだから、自分的にはまっとうな金。ようやく貯まったの。五百万円。

 ……。

 バクバさん、なんで私、お金が必要だったかわかる? ……母親を殺すためよ。

 それが君の本当の目的なら、もう稽古はつけない。

 あ〜、じゃあ、嘘よ。嘘でした。ちょっとした思春期ジョークってやつよ。ごめん、ごめん。私は強くなりたいだけなの。バクバさんみたいに。


(カタリの情報はまだ出てないけど、アリアリの売春ってのはアタリじゃない?)

 聞くまでもなく大当たりだろう。あたいのアーちゃんがまたもや大手柄をあげてしまったのかもしれない。

(しかも、壁内で斡旋している店ですか。おそらく特定の場所にとどまっていないでしょうが)

(まぁ、それもおいおい漏らすでしょうよ。小娘の脳を検疫してしまうのが手っ取り早いけどね)

(それには強制検疫の申請が必要です。もう少し監視を続ければ、状況証拠はそろいそうですが。とりあえず、引き続き監視をお願いします)

(はいはい)

(それと今日はバクバさんと捜査を行いますので、しばらく連絡が出来ません)

(バクにゃんを連れて? 何かあったの)

(ツィリンさんの母親を見つけました。彼女の調査に同行してもらおうと)

(にゃる)

(マリーは一人になったツィリンさんを監視してください。それでは)


 ぷつり、とアーちゃんからの通話が切れたので、ずっと我慢していたあくびをした。



 ◇


 バクバが待ち合わせの駐車場に到着した時には、すでにアルナナがそこで待っていた。


「お久しぶりですね、バクバさん」

「お待たせしました」

「いえ」


 普段のアルナナさんはスーツ姿の印象が強い。だけど今日は、襟足の長い白いオーバーコートを羽織っていた。涼しくなってきたとはいえ、まだ日差しは強いというのに。


「それ防疫コートですか」


 彼女が着ているのは本来なら感染エリアでの装備だった。アクリルのように滑らかにてらりと光るその白い布は電磁波遮断シートであり、外部からの思念ハッキングを遮断する効果もある。


「無用であれば良いですが……。もしかしたら、今回もバクバさんのお力を借りることになるかも知れません」

「ツィリンの母親が見つかったそうですけど。そんなひどい状況だったんですか?」


 そこに同行してくれ、というのが彼女の依頼だった。

 壁内の非感染エリアで防疫官が白衣をまとうことはほとんどない。それは、今から対面する母親が感染している可能性が高いことを意味していた。


「ええ、歩きながらご説明します」と先導して歩き始めた。「ツィリンさんの母親に対する強制検疫の許可が出ました」


 彼女はかつかつと進んでいく。歩調が速いのでついて行くのも大変だ。


「強制検疫?」

「以前に、性別や年齢、家出歴などを入力変数として過去のトロル発症率を計算できると言いましたよね。同じことを母親に行いました。その予測結果は94%。これは強制執行が自動承認される水準です」

「94!」


 あれほど過酷な条件だったツィリンでさえ、その半分くらいの確率だったはずだ。


「なぜ」

「特に大きかった有効変数は三つですね。他にも大量にありましたけど」


 と、アルナナさんは指を三本たてた。


「一つ、母親は定期検疫を二十年以上受けておらず、再三にわたる通告を無視し続けています」と人差し指を折り「二つ、社会大脳からの新たな経験のダウンロードが十年間ありません。アクセス時に走る簡易検疫スクリプトを避けている可能性が高い」と中指を折り、「三つ、離婚歴が四回ありました。男性依存症の傾向が懸念されます」と薬指をたたんだ。

「男性依存症?」

「まだ推定ですが、検疫官の分析レポートにはその危険性が指摘されていました。類似する過去事例ではよくあるケースだそうです」


 ツィリンは母親が連れ込んだ男にレイプされたと言っていた。よく考えてみれば不思議な話だ。だったらなぜ、男の方よりも母親をあれほど恨むのか。彼女は何度も母親を殺したいとこぼすが、男たちへの殺意はあまり耳にしない。


「これから、その母親の家へ?」

「ええ。あらかじめ手順を確認させてください。最初は検疫所への任意同行を求めます。拒否された場合は強制執行に切り替えます。その場合は処置をお願いできますか?」

「ええ」


 アルナナさんが検疫針をこちらに差し出した。それを受け取って、内ポケットやベルトなどの隠しにたくし込む。


脳洗浄クレンジングですか?」

「ほぼ確実にそうなるでしょう。しかし、今回は予測値が高いので殺処分かもしれません」


 それも過去の実績から計算された傾向ってやつなんだろう。母と娘も一緒にトロルになって、この共有社会からはじかれてしまうのか。


「……母親とのカプセルの中で子どもが窒息する、か」

「なんですか?」


 アルナナさんがこちらを振り向いた。


「昔の本にあった言葉です。印象に残っていたから覚えていました。ほら、昨晩にお電話した時に言ったルポタージュですよ。いろんな児童虐待を調査した著者は、虐待の現場をそのように表現しました。今回と似ているなぁと思って」

「ツィリンさんのことですか」

「ええ」


 あらためてツィリンのことを思い浮かべる。あの子の芝居がかったオーバーな仕草は、確かに窒息という表現は適切な気がした。まるで溺れまいと必死に足掻いているかのよう。


「母親が人生に窒息している時、同じカプセルに入れられた子どもも窒息する。子どもを段ボールに閉じ込めて衰弱死させた母親の事例がそこに書かれていました。昔はそういう事件がたくさんあったのです。そんな母親自身も親から虐待をうけ十分な教育が受けられませんでした。それでも、中学卒業後に働きながら夜間学校に通うという努力をします。でも、そんな矢先に性被害にあいます」


 アルナナさんの眉が険しく逆立った。


「昔は犯罪だらけだったのですね」

「ええ、だから、昔のままの脳無しは嫌われる」とソケットがない自分の後頭部を揉んだ。「そういうこともあってか、彼女は非行が目立つようになり暴走族に参加するようになります。あっ、暴走族ってご存じですか?」

「いえ。でも、名前からあまりよい集団ではなさそうですね」

「その通りです。その後、まだ高校生だった男と付き合い妊娠します。経済力に乏しい十代が親の助けも得られず、母親となってしまえばじょじょに窒息していきます。行き詰まった彼女は、子どもを段ボールに閉じ込めるようになります。そういう流れが親から子と続いていく」


 だとすれば、ツィリンを苦しめているのは誰だ? 

 彼女自身はそれを母親のせいと叫んでいる。殺してやりたい、と言ってこわばった笑顔を作る。でも、本当に母親のせいなのだろうか? 少なくとも本には必ずしもそうは言い切れない事実が並んでいる。


 ——バクバさんに依頼です。そのを救ってください。


 ああ、とため息をつく。

 カタリ君がそう手紙に書いた意図は深い。彼は、本当は僕が助けるつもりでしたが、とも書いていた。想像だけど、窒息してもがいていたツィリンに手を差し伸べたのが彼だったのでは? 彼はトロルと脳を交換してまで欲しがっていた。

 そして、その彼を壁外へと追いやったのは僕だ。


「見えましたね」

 アルナナさんが足をとめた。その向こうにはまるで脳無しが住むようなボロアパートがある。

「あれが?」

「ツィリンさんの母親が住んでいる家です。先ほどのお話の通り、仮に母親にも事情があるにせよ。介入しなければ何も分かりません。行きましょう」

「ええ、そうですね。……あっ、待って!」


 突入しようとするアルナナさんの腕を掴んで止める。


「どうしました?」

「見てください。あそこにいるのは」


 そこには両手をポケットにつっこんだ少女が立っていた。華奢というよりも虚弱な感じが小さな体。それを弓のようにそらしてアパートを睨みつけている。


 ツィリン——。


 と声を上げそうになったのを、僕はぐっと飲み込んだ。




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