2.3.『レオン』

 ◇


「あれ、もしかして映画みてる?」


 バクバが買い物袋を手にさげてアパートに帰ると、ツィリンが猫を抱きしめながらテレビを食い入るように眺めていた。


「おかえりなさい」

 彼女ははやくも自分の家かのようにくつろいでいた。

「へぇ、『レオン』か」

「うん、そこにあったのをテキトーに選んでみた」


 テレビとはいっても番組の配信はとっくの昔になくなっている。今では単なる大きなモニタに過ぎない。空間ホロ映像や共有脳の追体験メディアが一般化した今では、平面映像モニタなんてガラクタになり、タダみたいな値段だったから、映画のディスクを再生するためだけに引き取ったのだ。


「歯ブラシにアイスクリームも買っておいたから」

「あー」とツィリンはテレビに釘付けのままだ。「そこら辺に置いておいて」


 遠慮がない、というよりも映画に集中して返事する余裕がない様子だった。


「面白いの?」

「まぁ……うん。けっこう面白い、かな」

「脳有りの人には退屈だと思ったよ。見ているだけだから」


 共有脳から五感をフルに刺激してくる経験コンテンツの没入感に比べたら、平面映像と音だけで表現される映画は退屈なはずだ。いかにそれが名作『レオン』とはいえ、技術の進歩には追いつけないだろう。


「ねぇ、ミルクある?」

「牛乳かい?」と冷蔵庫を開ける。猫にあげた残りがあるはず。「おっ、あったあった。飲むかい」

「うん」


 ついでに猫にも飲ませてやろう、と平皿とグラスに牛乳をそそぐ。テレビの前まで運んで、彼女にグラスを渡し平皿は畳に置いた。


「ありがと」

「好きなのかい? 牛乳」

「ううん。でも、このレオンって人が」

 と彼女は画面に映る長身の男を指差した。ジャン・レノが演じる殺し屋レオン。彼も牛乳を飲んでいた。

「しょっちゅうミルク飲んでいるから」

「レオンは酒を飲まない殺し屋だからね」

「バクバさんは?」

「僕はお酒が好きな免疫屋だな」とビール缶を手に取った。

「ふ〜ん」


 彼女が抱きしめている猫に目をやると、ぎゅうぎゅうにされて、かなりくたびれてしまっている。「猫、かりるよ」と首根っこをつまみ上げて、彼女の抱擁圧迫から救出してやる。


「ほら、お前のみな」


 猫をミルク入りの平皿の近くに降ろしてやると、ぴちゃぴちゃと舐めはじめた。ツナ缶は嫌いなようだが、牛乳は好きらしい。

 しかし、レオンか。

 自分もそのままモニタの前に腰を降ろす。久しぶりに見る。本日、二本目のビール缶をあけて、子どもみたいな殺し屋と大人になりたい少女の純愛物語を眺める。


 名優ジャン・レノが演じるレオンは学のない素朴な男だが、凄腕の殺し屋だった。長身で屈強な体の彼に睨まれると、マフィアのボスさえ震え上がってしまうほどだ。

 ある日、レオンはアパートの隣室に住む十二歳の少女マチルダと出会う。

 彼女はレオンに「大人になっても人生はつらいの?」と何気なく聞いた。「ずっとつらいものさ」とレオンは答えた。それが二人の出会い。

 その時の彼女の顔には殴られたあざがあった。前妻の子である彼女は家庭内暴力にさらされ、学校も不登校だった。ただ、幼い弟だけは可愛がり、弟のほうもマチルダによく懐いていた。そんなマチルダを演じるのは自分自身もまだ十二歳のナタリー・ポールマン。大人以上の迫真の演技についつい引き込まれてしまう。

 ある日、マチルダの家族が麻薬組織に襲われ、愛していた幼い弟さえ、無慈悲にも殺されてしまった。唯一、生き残った彼女は隣のレオンの部屋に転がり込む。

 そこから、ぼくとつな殺し屋と復讐を誓う少女の奇妙な同棲生活が始まる。


「ねぇ、バクバさん」

 とツィリンが映画に見入りながら問いかけてきた。

「ん?」

「マチルダって子がさ。レオンから殺しを教わるじゃない?」

「ああ」

「教えられるものなの? 人殺しの技術って、それとも映画だけの作り話?」

「う〜ん」


 さて、ついさっきまで母親を殺してくれ、と頼んできた女の子になんと答えたものか。


「……まぁ、銃なら難しくはないかな」


 真面目に答えることにした。

 レオンが「女子供は殺さない」と自分にルールを課すように、僕も生きる上で守りたいルールというのがある。その一つが「なるべく嘘をつかない」ということだ。なるべく、っていうのが味噌だったりするけど。

 それに、レオンを食い入るように見る彼女には適当に答えてはダメな気がした。売春で大金を稼ぎ、母親の死を望んでいる彼女が、マチルダに自分を重ねても不思議ではない。


 モニタに映る映画シーンには、レオンがマチルダに銃の使い方を教えるシーンが流れていた。

 ただし、レオンは彼女に殺しは絶対にさせない。マチルダに渡した銃にはペイント弾しか入っていない。でも殺す技術は真剣に教えるのだ。はじめに胴を撃て。初心者のうちはライフルを使え、ターゲットと距離を確保できる。だけど、そこにはペイント弾しか入っていないのだ。

 そこが可笑しいけれど、だからこそ、不器用なレオンの誠実な愛がある。


「銃なら?」

「マチルダみたいに小さい女の子でも不可能じゃないかな」

「マチルダはかなり細っこい子だけど」


 君も同じようなものだろう、とツィリンの体つきを見る。演じているナタリー・ポートマンは幼いころから菜食主義の傾向があったらしく、かなり華奢な体つきをしている。それと同じくらい彼女は細く、体も小さい気がした。


「あんなのなら、」とマチルダが構える拳銃を指差した。「私でも撃てる?」


 あれはコルトM1911かな。当時のアメリカ軍も制式に採用していた一般的な拳銃だ。


「東京ではダメだね。監視カメラや脳波スキャナーとかあちこちにあるから、すぐにバレてしまうだろう。君は脳無しじゃないだろ?」

「うん」


 そういって彼女は首の後ろに手をまわした。よく見ると彼女の髪は短い。脳有りは男ですら後ろ髪を長くする。動けばうなじのソケットが露出してしまうからだ。ましてや、女のショートカットは昔のミニスカート以上に大胆な髪型なのかもしれない。

 そんな髪型を見ると、彼女は売春をしている娘なのだ、と頭をよぎってしまう。いや、子ども相手に安易なラベリングはダメだな。子どもは大人の鏡、と言った詩人は誰だっけ?


「バクバさんは銃を持っているの? 免疫屋なんでしょ」

「免疫屋でも壁内での銃の所持は許されていないよ。せいぜい、ナイフか短刀くらいさ。感染エリアでも保健省から支給された銃しか使えない」

「ふ〜ん」


 と、彼女はそれ以上の質問を止めて、再び『レオン』に吸い込まれていく。

 殺し屋が少女に殺しを教える奇妙な同棲生活を通して、次第に二人の間に愛情が芽生える。少女は殺し屋に恋をし、殺し屋は少女を守ることに生きる意味を見出していく。

 しかし、マチルダの家族を殺した麻薬組織が生き残った彼女の存在に気がつく。レオンはその襲撃に立ち向かい、マチルダを必死に守ろうとする。

 そして、ラストシーン。


「……終わっちゃったね」


 そのツィリンの声はかすれていて、彼女が泣いているのが分かった。それを直視して、理由をたずねる勇気はない。親を恨み、家を出て、売春までしていた彼女が『レオン』を見て何を思うのか。


「ねぇ、バクバさん」

「ん?」

「依頼の内容、変えてもいい?」

「君を守るってやつかい。別にいいけど」

「レオンごっこにしよう」

「レオンごっこ?」

「そ」と彼女は袖でごしごしと目元を拭いた。「子どもみたいなごっこ遊び。バクバさんがレオンで、私がマチルダをやるの」


 僕がジャン・レノの代わり? 悲劇が喜劇になってしまいそうだ。


「だから、バクバさん、私に殺し方を教えてよ。その代わり、」


 彼女は、赤らんだ目元を細めてニッコリと笑うと、勢いよく上着を脱ぎ捨てた。その下は下着が透けてみえる薄いシャツだけだ。彼女はあの芝居がかった笑顔を浮かべた。


「私を好きにしていいよ」


 少女らしい細い手足に、緩やかな起伏のある体のラインが、シャツから透けて見えた。思わず目をそらして「ダメだ」とつぶやく。アルナナさんに殺処分される。


「あら、我慢してるの? それとも遠慮? 大丈夫よ、処女ってわけじゃないし、私は慣れているんだから。……あ、もしかして、おっぱいが小さいのが不満? まぁまぁ、その分、若いんだからさぁ、大目にみてよ」

「とりあえず、服を着てくれ」

「私、上手いのよ。店で一番指名されていたくらい」

「今すぐ着ないと、依頼は無しだ」

「……はぁ〜い」


 すねたような返事の後に、服を着る衣擦れの音が聞こえてくる。ふぅ〜と息を吐いた。これは大変ですよ、アルナナさん。


「ん、もう、いいよ」

 目を開けると、彼女がこちらを覗き込むような近さにいた。

「今のバクバさんの反応、良かったわ。レオンみたいだった」

「ん?」

「マチルダもレオンにセックスしたい、って誘うシーンがあったじゃない?」


 家にあった『レオン』は完全版DVDだから、上映時にはカットされた問題のシーンも収録されている。年齢のわりに大人びているマチルダが、レオンへの恋を自覚した時にそういうシーンがあった。


「でも、レオンはそれを断るの。マチルダを愛しているから、まるで本当のお父さんみたいに」

 つまり、僕は彼女に試されていたってことか。

「でも、ああいう優しい男って、映画の中だけよね。現実はクソったれしかいないもの」

「……君のお父さんは?」

「知らない」と彼女は肩をすくめた。「ババァが言うには、最低な男だったらしいわ」

「ババァ?」

「母親よ、私の」


 自分の母親をババァって……、いや、思春期の女の子にはわりと普通かな? 少なくとも、小説なんかではわりとよくある。脳有りの思春期がどんなものかは知らないけれど。


「で、そのババァが言うには、私の父親は妊娠するとすぐに逃げ出たクズだってさ。でも、ババァが次々に連れ込んできた男たちも似たようなクソだった。何人かはババァに隠れて私をレイプしてたし」


 彼女はさらりと壮絶な過去を口にした。それなのに、表情は平然としており、どこか飄々ひょうひょうとした感じすらある。


「マチルダが殺しを学びたかったのは復讐だけじゃない。私には分かるの」

 彼女は指でピストルをつくって、指先をこっちに突きつけた。

「自分をなぶってくる大人たちに対抗するため」と吐き捨てる。「夜になると、酔っ払ったクソがへらへら笑いながら私の布団に潜り込んで、この股ぐらにぶち込んでくる。私はあいつらをぶち殺す力がずっと欲しかった。歯を食いしばって、耐えるしかない自分が大っ嫌いだったのよ」


 こちらに突きつけられた指は怒りで震えていた。今まで芝居がかっていたガラス玉のような瞳がギラギラと焼けただれていた。そんな彼女にかけるべき言葉なんて見つからない。かつてこの東京で普通にあった児童虐待、そのルポタージュに書かれていたような地獄から彼女は逃げてきたのだ。


「ねぇレオン」と彼女は僕をそう呼んだ。「私にも教えてよ。殺し方を」

「……分かった」


 ニャーオ、と足元で猫が鳴いた。




——参考文献——


▼『レオン』(監督リョック・ベッソン。1994年)

非常に有名なアクション映画。必要最小限の脚本構成で、俳優たちの全力の演技が圧巻な作品。特にナタリー・ポートマンは若干12歳の時に演じたというから驚かされる。その内容については本編で触れているのでここでの紹介は省略。


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