2.2『ルポ 消えた子どもたち』

「君を救う?」


 カタリの手紙を読んだバクバは、玄関の少女へと視線を移す。すぐに思いあたったのは、マンガ喫茶でカタリから教えられたことだった。彼女は売春ウリをしている。しかも、脳直結をともなう行為をだ。


「ふふ」と、彼女は口元を手で隠した。「バクバさんって、トロル・ハンターなんでしょ」

「免疫屋ね」

「殺すんでしょ。トロルを」


 思わず口がゆがんだ。


「……まぁね」

「ねぇねぇ」と上目づかいで覗き込んでくる。「私、トロルがいる場所を知っているの。ちょっと殺してきてくれない?」

「トロル?」


 この東京の壁内で野良猫みたいにトロルがいるわけがない。


「うん、私の母親なんだけどね」


 眉間にぐっと力が入る。

 彼女の明るい声と殺伐とした内容のミスマッチについて行けなかった。カタリ君が、この子を救ってください、と依頼してきたことも気になる。


「そういうのは」肩の上の猫を降ろして軽く尻をたたいた。「やらないよ」

「五百万円だすわ。現金で」


 と彼女は手の平を見せた。


「そんな大金、どうやって」

「稼いだの」と手を胸元にあて「この体で」と襟元を指で引き下げる。


 彼女の胸元があらわになる。大きくはないが、ちゃんと膨らんだ二つが見えそうになって思わず目をそらしてしまった。


「やだ。ウブな反応」


 きゃっ、きゃっと笑われた。

 厄介な子だ。あのカタリ君がよこした子だけはある。そもそも、売春なんてバレたらすぐに脳洗浄クレンジングなのに。


「いくら積まれても殺しの依頼なんて受けないよ」

「あら、……そうなの」


 彼女は胸元の手をギュッと握り、目を細めた。


「だったら別の依頼にする。私を守って。それならいいでしょ」

「守るって、誰から?」

「私のことを嫌う全部から」


 そのうちの一人がこの子の母親なのだろうか。よくある親子喧嘩からの家出であれば気楽なものだが、彼女にはもっと深い闇を感じる。


「まぁ、とりあえず、中に入りなよ」

「うん。お邪魔しまーす」


 彼女はぴょんと家の中に上がると、ほぉ〜と当たりを見渡した。


「本ばっか。まるでカタリみたい」


 そういえば、カタリ君もかなりの読書家だった。口ぶりから漫画とかラノベが多そうだったけど。


「名前は?」

「ん?」と彼女は自分を指差した。「ツィリンよ」

「名字は?」

「名字は嫌いなの」と舌を出す。


 妙に芝居かかった仕草だ。オーバーな反応が目につく。


「僕はフツノ・バクバ。フツノが名字でバクバが名前」

「……ファン。ファン・ツィリンよ」


 名前の響きから中国か韓国からの移民の家系だろう。遺伝子最適化が一般化し、遺伝的な人種格差はなくなったとはいえ、千年以上も続く日本の島国根性はなかなか変わるものではない。


「じゃあ、ツィリンさん」

「ツィーちゃんって呼んで」

「いや、ツィリンで」

「はいはい、なんでしょう。バクバさん」

「君を守るにせよ、もっと具体的に教えて欲しいことがある」


 そう口にした瞬間、しまったな、と後悔がよぎる。依頼を受ける流れに自分からハマってしまった。本で読んだことがある。ドア・イン・ザ・フェイスっていう説得テクニックだ。わざと難しい要求をして、断らせた後に小さな要求を通すってアレだ。

 今ならキャンセルできるだろうか。


「母親から」と彼女の声のトーンが一気に落ちた。「あのババァから私を守ってよ。カタリの代わりに」


 芝居がかっていた彼女の笑顔が消えた。


「あんたのせいで居なくなったカタリの代わりに、私を守ってよ」




 ◇


「ちょっと買い物に行ってくるから。あっ、ほら、歯ブラシとか必要だろ? 他に必要なものは……えっ、ダミーじゃないアイスクリーム? あ、いいよいいよ。一人で買ってくるから、君はここで好きにしていて」


 そう言ってバクバは、ツィリンから逃げるようにしてアパートから出る。

 しばらく歩き、後ろを振り返ってツィリンがついて来ていないことを確認した後、こそこそとスマホを取り出した。


「はい、アルナナです」

「夜分遅くに本当にすみません。バクバです」

「どうかしましたか?」

「実は、ですね……」


 と、ツィリンが家に来た経緯をアルナナさんに素直に報告する。

 家出少女を保護したらまずやるべき事をまとめるスレ、というのをインターネットの残留データで読んだことがあった。昔は家出につけ込んで性交渉を強要する奴らが多かったらしく、好意で保護しても逮捕されることもあったらしい。そのスレッドには、保護した場合は自分だけでどうにかしようとせずに知り合いの女性に助けを求めろ、と書いてあった。


 女の知り合いなんていない件w。

 中年ハゲの時点で何しても犯罪。強く生きろニキ。

 警察または児童相談所に相談しろとマジレスすまそ。


 そんなコメントが続いていたが、幸運なことに僕には女性の知り合いがいた。しかも、防疫官だ。あれ、このカタリ君の依頼って、そのままアルナナさんにパスするべきじゃないか?


「……という状況でして」

「なるほど。大体の状況は分かりました」

「ええ」


 とはいえ、カタリ君からの依頼だったことは言えなかった。保健省がカタリ君を捕まえようとしていることは知っていたし、あの子を裏切るのは気が引ける。


「それで、アルナナさんに助けてもらいたくて……。母親を嫌って家出、だとは思うのですけど、その、売春とかもあるようですし」

「そうですね。ですが、聞いただけでは、まだ何とも……。もう少し彼女の身辺調査が必要かと。仮に壁内で売春が行われていたとすれば大問題ですから」

「あの、夜分遅くに大変申し訳ないのですが、今からこっちに来て頂けませんか?」

「どうしました?」

「いや、だって、家出少女が脳無しの中年と二人っきりですよ。完全にアウトじゃないですか」

「……いえ、このまま彼女を保護して頂けますか?」


 なん、だと?


「えっ、あの、来て頂けないのですか」

「申し訳ありません。私は彼女の身元について調査しておきますので」

「でっでも、家出の原因に児童虐待の可能性だってありますよ。こういうのはちゃんとした大人が介入しないとダメなんです。本で読みましたから『消えた子どもたち』とか『児童虐待から考える』とか。例えば、児童相談所とか」

「じどうそうだんじょ、ですか、聞き覚えがありませんね。ちょっと検索しますね……。ありました。また古い組織ですね。警察と同時に解体されていますよ」

「そんな」


 百年くらい前はこういう家出少女を保護した場合は、児童相談所に通報すれば良かった。

 本によると、昔は親による児童虐待があったらしい。代表的なのが、幼児を家に閉じ込める育児放棄ネグレクトで、餓死した子どもから異臭が発生し、近隣住民の通報で発覚することもあったそうだ。

 『消えた子どもたち』は当時に書かれたルポタージュで、そんな地獄から脱出した子どもたちのインタビューが記載されている。幼少期から十八歳まで母親に監禁されていたある少女は、学校に通えなかったばかりか、慢性的な栄養失調のため、保護された時の身長は120cm、体重は22キロしかなかったそうだ。


「こういうのは、ちゃんとした専門家でないと」

「そうは言いますが。バクバさんこそその専門家ですよ」


 ん? と言葉がつまった。


「彼女の状況、つまり家出や売春などから、すでに脳内でトロルを発症している可能性が高いです。母親への殺意は極めてトロル的な感情でもあります」

「彼女がトロルだと?」

「あくまで可能性です。電話で聞きながら社会大脳に計算させました。彼女がトロルを発症している確率は52%。検疫対象と認定されました」

「そんな。検疫もしていないのに、どうして分かるんですか」

「古典的な条件付き確率です。直近五十年のトロル発症事例を母数にして、彼女の年齢、売春経験、人種的ルーツ、家出という状況変数。それらと類似する過去の事例を抽出した場合、52%がトロルに感染しています。もちろん、最終的な認定は正式な検疫が必要ですが……。もし、彼女がトロルなら専門家はあなたです」


 もし、あの子がトロルと認定されたら、僕が殺さなければならない。


「バクバさん」

 アルナナさんは声をやわらげた。

「仮に私がこのまま防疫官として現場に入ると、やることは決まっています。検疫し、脳洗浄クレンジングです。ツィリンさんに針を刺してください、とバクバさんに命じることになります」


 針——正式には検疫針と呼ばれるデバイスを共有脳に刺すと、相手の脳機能はダウンする。そうやって、気絶した彼女をアルナナさんに引き渡さなければならない。

 脳洗浄は、けっして悪いことではない。辛い過去の記憶を消したり、他者化と呼ばれる記憶のエンコードで恨みや苦しみから解放されるのだ。

 でも、僕が彼女の人生を操作してもいいのか? カタリ君も脳洗浄はあまり好きじゃないと言っていた。


「しかし、今のところ、この通話はプライベートなものだと私は認識しています。業務時間も過ぎていますし、もう少し詳細を調査する必要も感じています。ですから、しばらくはバクバさんに彼女を保護して頂けると助かります」

「な、なるほど」

「ただし、万が一、未成年に対して公序良俗に反する行為をした場合は、私はバクバさんを殺処分しなければなりません。保健省の監視システムを甘くみてはいけません。何かあれば確実にバレますよ」

「そんなことしませんよ。絶対」

「ええ、絶対に殺処分になりますからね」


 二度も釘を刺された。もしかして、信用されてないのかなぁ。

 それにしても、ずいぶんと柔軟な対応をしてくれた。アルナナさんはもっとお堅いイメージがあったけど。


「あの、もう一ついいですか?」

「どうぞ」

「もし、彼女を検疫した場合、どうなりますか?」

「……」


 しばらく無言がつづき「事実のみをお伝えしますね」と絞り出すような声がした。


「はい」

「今回のケースでは脳洗浄クレンジングが実施されるでしょう。彼女が憎む母親や売春などの記憶を削除あるいは他者化します。おそらくトロル治癒率はほぼ99%」

「なら、最後の最後には安心できますね」

「ここからは公開されていない情報です。口外しないと約束してください」

「はい」

「脳洗浄を処置された人の24%は、三年以内に自己完結型トロルを発症します」


 つまり、自殺だ。


「脳洗浄にはそのような副作用があります。それでも、脳洗浄による悪意除去は確率の高い犯罪治療で、かつ、唯一の手段でもあります。少なくとも、彼女を殺処分する必要性はなくなります」


 アルナナさんが淡々とつげた事実はやけに遠くに聞こえた。



 ◇


 アルナナはバクバとの通話を終えた後、自宅のベッドに横になって、ふたたび共有脳に接続した。


(マリー。そちらに変化は?)

(小娘に抱かれて映画を見せられているわよ)


 ふて腐れた声だ。


(映画?)

(バクにゃんの部屋に置いてあったのよ)


 バクにゃん? ああ、バクバさんのことか。


(今、見始めたところでね。殺し屋が女の子を助ける感じかな。うわ〜、人がたくさん死んでるわ。これって結構なトロル的コンテンツってやつじゃないの? こんなの所持している男ってどうなの?)

(まぁ、バクバさんは脳無しですから……。そうですか、バクにゃんですか)


 あの気難しいマリーが監視対象に愛称をつけるなんて珍しい。さっき会ったばかりなのに、ずいぶんとバクバさんのことが気に入ったようだ。


(違うわよ。あたいはあの男のこと、まだ認めてないわ)

(あら、思考を読まれましたか。流石はマリーです)


 共有脳を入れているとはいえ、猫と人間では脳構造や知覚機能が違う。例えば、猫の目では赤色は認識できない。だから、私が赤いリンゴを思い浮かべても、マリーにはそれは黒く見える。

 それなのに人間の思考をここまで追跡できる検疫動物はマリーくらいだろう。


(それも違うわね)と鼻をならした。(猫ってのは人間で遊ぶのはわりと好きよ。でも人間には無関心なの。いくらアーちゃんにでも共感はしないわ)

(ではなぜ?)

(まぁ、メスの感ってやつね。匂うのよ)

(はぁ)


 マリーの言うことはいつも理解し難いが、その潜入調査は一流だ。彼女が得意気に鼻をならして言うことは八割くらい当たる。もちろん、少し割り引いて聞く必要はあるけど。


(それで、マリーはツィリンさんのことどう思います?)

(この小娘のこと? やばいわね)

(状況は悪い、と?)

(けっこうギリギリなんじゃない? 人間のくせに猫みたいにわがまま。きっと愛されてないとすぐに不安定になる。崖っぷちなんだろうさ。かなり脳を病んでいるかも)

(そうですか)


 マリーの見立てと社会大脳の予測は一致している。

 十代半ばで家出して売春で金を稼ぐ。ツィリンさんのような環境で、脳を健全に保つことは難しいのだろう。そんな劣悪な環境でよどんだ脳にこそトロルは住み着くものだ。


(でっ)とマリーは話題をかえた。(そっちは何していたの?)

(バクバさんから連絡がありまして)

(へぇ、良かったじゃない)


 確かに、バクバさんが自発的に報告したのは評価できる。仮にこの事態で何も報告しなかったら、それなりの懲罰を課す必要があっただろう。

 でも、カタリのことは隠されてしまった。バクバさんはあの少年のことを気に入っているようだから、遠慮があったのだろうけど、相手は保健省がマークしている大物トロルなのに……。


(で? これからどうするの)

 考えても仕方がない。当初の計画通り進めるだけだ。

(そのまま監視を続けてください。バクバさんにはこのまま彼女を保護するようにお願いしました)

(こんなの、すぐに検疫じゃないの?)


 マリーはツィリンさんに抱きしめられている。彼女の気ままな愛撫に答えてゴロゴロと喉を鳴らしながらも、こちらにいぶかしげな思念を発した。口の悪い彼女だが、ちゃんとターゲットには媚びを売る。バクバさん相手は遊んでいたようだけれど。


(この小娘、遅かれ早かれトロルになるわよ)

(今はリスクをとるべきです。このまま泳がしておけば、カタリの行方が分かるかもしれません)

(なるほどねぇ)

 多分だけど、マリーは笑った。猫が楽しむ感覚がおぼろげに分かった。

(それでこそ、あたいのアーちゃんよ)




——参考書籍——

▼『ルポ 消えた子どもたち』(NHK出版。2015年)

 同名のNHKの社会ドキュメンタリー番組の書籍版で、番組内では報道できなかった情報なども記述されています。まさに公共放送としての素晴らしい報道で、最近増加しつつある民放的なバラエティー番組よりもこういう報道にこそ注力してほしい、とあくまで個人的な意見ですが、私はそう思います。同名の番組はNHKオンデマンドに加入すれば今でも見られると思います。

 学校に通わせてもらえず十八歳になるまで飢餓状態で自宅監禁されていた少女、車内に放置されミイラ化した男の子——、このような地獄を経験してきた子どもたちのインタビューなどが掲載されています。


▼『児童虐待から考える』(杉山春。朝日新書。2017年)

 児童虐待のルポタージュは数多くありますが、子どもの視点、つまり被害者側の視点からの記述が自然と多くなります。例えば、前述の『ルポ 消えた子どもたち』はその代表例です。ところが、本書は加害者である親の視点から記述したものです。

 子どもを虐待死させた親に対して怒りを感じ、攻撃的になるのは当然の反応だとは思います。しかし、虐待を無くすことを考えると、その行為者であった親を分析することが重要であり、そのような視点から観察をまとめた本書は重要であると私は考えます。

 残虐な行為の裏には(本人がサイコパスでない限りは)、その行為へと経緯と状況があります。その多くの貧困であり、貧困の裏にはさらに複雑な事情があります。この書籍であげられたネグレクトの虐待死については、一人親の父親が自分なりに育児を努力していた事実が記述されています。

 本書が事例としている厚木男児遺体放置事件で死亡した幼児は5歳の男の子で、1ヶ月以上の育児放棄が死因であるとされています。ところが、発見時には白骨化していた男の子の身長は通常の虐待でみられるような低身長ではなく、父親は食事を十分に与えていたことが分かります。父親には知的なハンディキャップがありながらも、真面目で勤勉であり、職場の評価も高かった。父親は育児に真摯に取り組んだと裁判で主張します。

 私が本書を読んだ感想は「親の育児能力が低い場合、社会がどれだけ介入できるか」が問題だと思いました。本書を読む限りこの父親は全力で育児に取り組んだと思います。しかし、一人親で誰のサポートもなく、自分一人でやり遂げることに固執し、自身には知的ハンディキャップがある。悪意のないそんな状況でも、子どもは死ぬのだと思いました。

 これ以上の詳細は本書を読んで頂ければと思います。本書は少し著者の主張が強い傾向があり、ルポとしての中立性に疑問は残りますが、加害者である親の視点から詳細をまとめた点は貴重だと思いました。

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