1.8. 『バクバの日記』

◇バクバのアパート


 それからは新しい感染事件もなく、いつもの日常がだらだらと続いた。

 ふと思い立って、アパートの奥にしまっていたダンボールを引っ張り出して、久しぶりに映画をみた。スタンリーとか、吸血鬼ハンターDの劇場版とか。ぼんやりと眺めながら、あの事件のことを思い返していた。

 何度見ても、スタンリーの映画は思わせぶりだったし、ハンターのDは超絶美形だった。カタリからDに似ていると言われたを思い出して、一人で腹を抱えて馬鹿笑いもした。そんな数日が過ぎ、ようやく心が落ち着いてきた気がした。

 さて、オオゴタさんのことだ……。

 はじめに結論。これは棚の上に置いておくことしかできない。少なくとも、これまでに自分が殺した人たちと彼を同じ場所に置いておくことはできない。それが正直な僕の感情だ。

 生と死について考える時、僕はよく仏教を参考にする。仏教では、死後はみなほとけになるという。ずいぶんと無理矢理なハッピーエンドだ。でも、死んだ相手をもはや恨むべきではない、というのは納得できる。

 だから、これは棚上げにさせて欲しい。

 自分を殺そうとした相手をあわれむのは傲慢ごうまんだろう。こちらにも忘れられない恨みはくすぶっている。だから、もう考えないほうが良い。南無阿弥陀仏で諸行無常の色即是空だ。

 ……ただ後悔があるとすれば、やっぱり自分の手で殺すべきだったと思う。


 バクバは、そう書きつけた日記を閉じて本棚の上にのせて隠した。

 日記といっても、別に毎日書いてはいない。ごくたまに、だいたいが手痛い失敗した後にだが、つれづれに書きとめていた。ざわつく胸のうちを落ち着かせるための儀式みたいなものだ。それがページを重ねて、今ではかなり冊数の黒歴史書になってしまっていた。

「本を書くんですね?」

 突然、背後の窓から声をかけられる。驚いて目を向けると、窓のカーテンが風ではためいて、そこから美しい少年がこちらを覗き込んでいた。

「もしかして、小説ですか?」

「か、書いてないよ」

 なぜ、あのカタリがここにいるのか。どうやって、窓から侵入してきたのか。そんなことはどうでもいい。はやく日記の存在を誤魔化さないと。

「あれだよ。そう、家計簿だよ。免疫屋は個人事業主だから、納税とかたいへんなんだ」

「ん〜、あやしいですね」

 例の子どもっぽい瞳が、月明かりを反射してキラキラと輝く。

「ともすれば、非常に個人的なことを書いていたのでは?」

「どうしてここに?」

「ねぇ、見せてくださいよ。その疑惑の家計簿とやらを」

 カタリは窓辺の外に靴を脱ぎ捨てると、ぴょん、と畳の上に着地した。

「……嫌だ」

「ふむ、読ませたくない、ですか。いよいよ家計簿の疑惑は深まるばかり。もっと、面白可笑しい何かの可能性も。例えば、日記とか?」

「……」

「ふふーん」とわざとらしく鼻を鳴らす。「匂いますね。美味しそうな匂いです。それ、絶対面白いやつに違いない」

「笑われるだけさ」

「つまり、面白いじゃないですか」

 カタリは左右に体を揺らしながら近づき、ぱっと猫のような俊敏さで本棚にとびつこうとした。だが、直前でその腕をつかんでなんとか食い止める。

「勘弁してくれよ」

「……脳無しの人って、やっぱり壁がありますよね」

「君が開放的すぎるだけだ」

「ここには僕たち二人だけ。統計的な偏差は単なる誤差。ゆえに平常も異常も机上の空論です」と子どものような屁理屈をいって笑う。「今の言い回し、西尾維新みたいでしょ?」

 百年前の小説家で、代表作はたしか『化物語[19]』だ。何度もアニメ化されるほど根強い人気があった。

「どうも君の嗜好は百年前のサブカルチャーに偏っているなぁ」

「年齢相応でしょう。見てください。可愛げにあふれている」

「君って、いくつ?」

「いくつに見えます」

「十八かな」

「では、永遠の十七歳ということにしましょう」

 共有脳があると嘘をつくのが難しくなる、と聞いたことがあるが、きっとそれは単なる噂に違いない。

「……で、どうして、ここに」

「知りたいですか? 興味が尽きない?」

「つきないね」

 どうやら、彼は日記のことを忘れてくれたようだ。

「別にバクバさんの日記を読みたくて来たわけではありませんよ」

 ……でしょうね。

「忘れ物をお返しに来ました」

 と、彼が取り出したのは僕の短刀だった。そういえば、カゲツさんに取り上げられたままだったな。

「わざわざ、ありがとう」

 受け取ろうとした寸前で、ひょい、と上によけられてしまった。

「綺麗でしたね」

 と、カタリは短刀の鞘を愛でるようになでた。

「その刀、気に入ったのかい?」

「いえ、バクバさんの技のことです。オオゴタさんの脳を経由して僕も体感していたんですよ。車にはねられて死んじゃうまでは」

「……」

「本当に美しかった。あれは合気術ですよね。まるで、川底をゆらぐ水草のように滑らかだった。僕たちカタリはね、みんなバクバさんの技に魅入られました。本人は最後まで認めませんでしたけど、オオゴタさんはその最初の一人だった」

 かちゃっ、とカタリは短刀の鯉口をきり、ゆっくりと刃を抜く。

「僕も脳に合気術を入れてみました。それなりの経験者を探して交換してもらったのです。本当はバクバさんの脳が良かったけど」

「……」

 抜き身の刃が光をはじいていた。

「オオゴタさんの貴方への殺意は、まだこの脳に残っています。火傷のような悪意が残り火のようにまだくすぶっている」

 彼は短刀の切っ先を僕の心臓に向けた。

「貴方を殺します」

 そうか、と肩の力が抜けた。

 目の前にさらされた白刃は怖くなかった。刃物を無手で制する術くらいは心得ている。加えて、彼は、合気の経験を入れたとは言っていたが、その体は少年のように華奢だ。

「刺すつもりなら、刃は見せないほうがいい」

「貴方のそういう高慢さが、オオゴタさんは大嫌いでした。どんなトロルを相手にしても、どんな悲惨な状況にあっても、あなたはバクバであり続けた。自分ならできると思っている? 僕に貴方を殺せるわけがないとでも?」

「思ってないよ」

 少なくとも、脳無しの自分が何かを成し遂げられる、などと思っていない。そんなのは過去に何度も夢見て破れてきた。

「多分、君なら僕を殺せるだろう」

 この子に殺されるのなら悪くはないかも。

 そろそろ疲れてしまった。ここらでそろそろいいだろう? それなりに頑張って生きてみたけど、結局、分からないことばかりだった。

 彼がもつ短刀に視線が吸い寄せられる。

 あれに気を合わせ、呼吸をもらい、技でかえすのは難しくない。でも、終わりにしてしまうのはもっと楽ちんだ。ほら、あの石工だって壁の上から身を投げたじゃないか。

 カタリが滑るように動いた。

 いい動きだ。きっと才能がある。いや、それは他人の経験のせいだろうか。刃が胸元にせまってくる。少し稽古をしたらすぐに上手くなるだろう。痛いかな。心臓を刺されるのは初めてなんだ。

 —— 。

「……貴方も、死にたかったのですか?」

 胸元に飛び込んだカタリがそうつぶやいた。足元には短刀が転がっていた。彼はいくじなしだった。直前で短刀を落としたのだ。

「さぁ」

 答えなんてない。

「僕は殺すつもりだったんですよ。間違いなく」

「そうか。死ななくてよかったよ」

 カタリが、ぷっ、と吹き出して、くつくつと小刻みにゆれた。

 別に冗談をいったわけじゃない。本当に死ななくて良かった、と思っている。今、心臓がバクバクと血潮を脳へと送りこんで来ていた。まるで、一瞬でも死のうとした脳を非難しているみたいだった。

「やだなぁ、こんなの反則ですよ。完全敗北です」

 カタリは顔をあげて、自身の脳を指差した。

「ここのオオゴタさんのトロル、今ので、全部溶けちゃいましたよ。脳のなかに染みこんで消えちゃいました」

「なんだいそれ」

「僕もビックリです。このパターンは初めてだ。でもカタリはこのトロルを受け入れることができた。ご存じでした? トロルがおとなしくなる時って、雪が溶けたみたいに脳に染みこんでいくのですよ」

 カタリは、にっと笑うと、とんと後ろに跳んで体を離した。

「なので、貴方を殺す理由も消えました。ここらでお別れにしましょう。また、トロルになったら会いたいです。殺されるならバクバさんがいいな」

 彼はひどい別れを口にした。

「行くのかい」

「ええ」

「気をつけて、保健省は君を探しているよ」

「大丈夫。僕の居場所なんて世界中のどこにでもあります。この東京の壁の外は感染エリアばかりですからね」

「そうか、外に出て行くのか」

「ええ。それじゃあ、さよならです。またいつか。フツノ・バクバさん」

 カタリは手を振って、窓辺から飛び出していった。



 ——了



——————————

[19]『化物語』(西尾維新。講談社BOX)

 日本のサブカルチャーが醸成してきたフェチシズムを網羅したような小説。西尾維新の遊びが過ぎるくらいのセリフ回しやメタ表現が特徴的。私も小説を書いていますが、このような文章はかなり勇気を必要とするので、それを書ける西尾先生は本当にすごいと思います。

 アニメのクオリティについても有名で、そのシリーズは長く続いています。愛されている作品ですね。現代の日本サブカルチャー(クールジャパン?)を代表する作品の一つと言っても過言ではないでしょう。


[special thanks]『100分de名著』(NHK)

 テレビ番組ですが、本作を執筆するために全編を視聴させていただきました。哲学、宗教、小説、経済学など、世の中に大きな影響を与えた名著を解説してくれます。私は、始めにこの番組で概要を把握し、原著や解説本で確認していきました。この番組がなければ、あんなに難しい本を読むことはできなかったでしょう。NHKオンデマンドに契約すれば全編視聴可能です。


[?] 布津野フツノ莫葉バクバ

 本物語の主人公。私の前作である『僕は、お父さんだから』(書籍化名:遺伝子コンプレックス。舛本つたな。プライムノベルス)を読んで頂けた方なら、おやっ、と思って頂けたら嬉しいです。

 実は、この『トロル』は前作と世界を共有しています。その関係については、後書きで詳しく紹介しますね。前作から読んで頂いている方へのファンサービスになればうれしいです。


 取り急ぎ、本物語はここで幕となります。これ以上は後書きにて。

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