1.7. 『嫌われる勇気』
感染事件というのは、収束後の予防オペレーションがもっとも重要で大変なのだ。
これまで一緒に働いてきた防疫官たちは口をそろえて熱心にそう語っていた。その言葉裏には「だから免疫屋よりも、本当は私たちのほうがずっと……」という意識が透けていたようにも思えた。
日雇いの免疫屋よりも、保健省の宮仕えである彼らが大変なのは間違いないだろう。ましてや、今回の感染事件は元防疫官が発症したのだ。担当のアルナナさんは忙殺されているに違いない。いつだって優秀な人は大変だなぁ。
バクバはそんなことを考えながら無為と読書をむさぼって過ごしていた。
そんな彼にアルナナから電話がかかってきたのは、事件から二週間たった後で、いわく「事情聴取にご協力いただけませんか」とのことだった。
◇ 保健省トロル対策局オフィス
「お越し頂きありがとうございます」
保健省のオフィスを訪ねたバクバを、アルナナが迎え入れた。
「お久しぶりです」
「お顔の腫れも引いてきましたね」
「ええ。本当におかげさまです」
と挨拶もそこそこにオフィスの様子をキョロキョロと見渡してしまう。免疫屋が保健省の内部に招かれることはほとんどない。日雇いの現場職だから、そもそもオフィスというものを知らない。実際、映画で見たシーンしか見たことがなかった。
しかし、保健省のそれは映画とはまったく違っていた。
パソコンや掲示板などない。パーテーションで区切られたデスクも、壁に貼り付けられたノルマの棒グラフも、オモチャや人形をデスクに並べるギークなエンジニアもそこにはいなかった。
代わりに座り心地の良さそうなソファと観葉植物が広々と配置されていた。ハンモックなんてものもある。誰も使っていないけど。
防疫官や検疫官らしき職員たちはソファに座りながら瞑想しているかのように目を閉じている。多分、共有脳で仕事しているのだろう。どことなく、座禅しているお坊さんみたいに見えた。
「これって、出社する意味あるのですか?」
「あまりないですね」
「だったら、こんな広々としたオフィス。税金の無駄なんじゃ」
「そうかもしれません。しかし、思念通話に頼っていると意外性が失われる、という指摘もあります」
「意外性?」
「思念だけだとコミュニケーションが必要な範囲に閉じてしまい、部門をまたいだ連携の機会が失われ、セクショナリズムが蔓延しやすい、と言われています。組織の柔軟性を保つためには、不必要でも適度なランダム性を許容すべき、という意見ですね」
「なるほど」
「それを置きましても、物理的な対話は五感と全身を使い、健康にも良いというデータもあります。このような対話型オフィスは、一種のレクレーション施設と言っても良いかもしれませんね」
脳有りの人たちは、読書や対話を運動だと捉えている。健康のために自然脳を動かそう、という標語はよく耳に入ってくる。
「それで、アルナナさんはどうして出社を?」
「今日はバクバさんをお招きしましたので」
そうでした。
「今、お忙しいでしょう。事件の後始末で」
「いえ」と、彼女は首をふった。「いつも通りですよ」
「あれ? 感染事件の後は何かと大変だと」
「別にそんなことは……。確かに業務ストックは増えますが」
彼女が首筋を指で叩くと、オフィスの壁にディスプレイが出現する。そこには彼女の業務リストらしきものがずらっと並んでいた。
「すごい量じゃないですか。これ、終わるんですか?」
「いつかは終わるでしょう」
「いつまで?」
「さぁ、やってみなければなんとも」
膨大なタスクを目の前にしても、彼女は平然としていた。
「社会大脳が予測した完了日はありますよ。ほら、そこのリストの横に日付が書かれているでしょう」
「こんなの、残業とかしないとダメなんじゃ……」
「残業とは?」と彼女は首をかしげた。
そういえば残業なんて言葉、昔の小説くらいにしか出てこない。
「ほら、業務時間を延長して働くことです」
「時間外労働は禁止されています。防疫官が違法行為に手を染めるわけにはいきません」
「でも、法の抜け穴を知っているのが役所でしょう」と刑事小説で読んだセリフを口にしてみた。「実際、百年くらい前に、役所が時間外労働を制限したそうですが、官僚たちは、自分たちは例外だ、と言って残業ばかりしていたそうですよ」
「ふふっ、それは随分と滑稽な小説ですね」
いや、事実なんですが……。
あの当時は、残業が少子化やデフレなどの社会問題を引き起こしていると問題視されていたそうだ。『働き方改革』というキャッチフレーズのもと、政府主導で労働規制が強化されていったが、当局である官僚たちの残業が解決されるのは最後の方だった。
「官僚さんは大変でしょうね」
防疫官は国家公務員のなかでもかなりの高位だ。彼女を官僚と呼んでも間違ってはいないだろう。
「おそらくですが、これらすべてを私が処理することはないでしょう」
と彼女は表示されたリストを指でなぞった。
「私がこの完了日をオーバーすれば、社会大脳が他の職員に業務を再配分します。それが連続すれば私の配置最適化が検討されるはずです」
「配置最適化って、リストラですか?」
「リストラ? それも小説ですか、それとも映画?」
「いや。え〜と」
首を傾げた彼女に、リストラの説明を試みる。
「
「なるほど」と彼女はまた笑った。「まさにそのリストラですね。計画された業務ロジスティックが崩壊したのなら、システムや制度を再構築する必要があります。私の職位、防疫官の業務範囲、あるいは必要な経験セット、あらゆる観点から改善点を検討すべきでしょう」
「でも、それって、アルナナさんの評価が、その、悪くなるってことじゃ……」
「はぁ」
彼女はきょとんと目を開いた。
「随分と自己否定的な解釈をしますね。組織からの期待量が不適切で、相対的に私の処理能力が不足していただけです。それを私の評価が低下した、と解釈するのは飛躍しすぎかと。トロル的な解釈とも言えますね」
「まぁ、そう言われてみれば……」
そんな簡単に割り切れるものだろうか?
いや、彼女たちは能力の書き換えができるのだ。一度でも経験を積んでしまったらリセットできない脳無しとは感覚が違うのかもしれない。
あれ? でも、オオゴタさんはちょっと違った気が……。
「あっ」とアルナナさんが小さく口をあけた。「免疫屋の方は事情が違いますね」
「ええ、まぁ」
「感染エリア内では労働時間規制も業務量の調整もありませんでした。あの発令は時間的にも空間的にも超法規的処置の宣言ですから。平穏なエリア外での仕事と比べてしまい、申し訳ありません」
「いえいえ、今は頂いた報酬で読書三昧の日々ですから」
「あら、いいですね」
それにしても、彼女の言うとおり、もし事件後の予防業務が定時で終わるように調整されていたのだとしたら……、今までの防疫官が恩着せがましく言ってきたのは何だったのだろう。とりあえず、イワモリ課長から問い詰めてみようか。
「それで、あの事情聴取なのですが」
「ああ、そうでしたね」
アルナナさんはまた首筋に指をあて業務リストの映像を切った。
「それは業務外なので、一緒にランチでもいかがですか?」
◇ 保健省ビルの最上階
保健省の食堂は随分とおしゃれなカフェだった。東京の中心にそびえ立つビルのその最上階。しかも鏡張りフロアは、空中庭園と称しても差し支えはないだろう。
——やっぱり、住む世界が違うよな。
バクバは尻がむずかゆくて仕方がなかった。どこに尻を載せるべきか分からない形状のお洒落なチェアに、ちょこんと座ってアルナナを待っていた。
「お待たせしました」
アルナナがトレーを抱え、横のリクライニングに腰をおろした。
「ありがとうございます」
「でも、本当にダミー食でよかったんですか?」
「興味があったんですよ。へぇ、これが保健省の偽物のハンバーガーか」
アルナナからダミー食を受け取り、その袋の中身を覗き込む。うん、見た目は完全にチーズバーガーだ。すん、と息を吸い込んでも匂いはしない。無臭のハンバーガーだ。
「味はありませんよ」
「カロリーもないらしいですね。しかも、完全栄養食」
このダミーには、本当のハンバーガーには不足しているビタミンや食物繊維もたっぷりと配合されているらしい。
「本当は、対応する味覚データを脳で再生しながら食べるものですが……」
「まぁまぁ、ものは試しです。いただきます」
袋を開いて、えいや、とかぶりついてみる。
ふむ、もぐもぐ、なるほどなるほど。味がうすい。しかし、噂に聞くほど不味くもない。飛び散るケチャップもないので食べやすいぞ。むしろ期待外れでがっかりまである。
「うん、美味しくも不味くもないですね」
「そうですか。一応、こちらに本物もありますが……」
と、アルナナさんは同じような紙包みを取り出す。
「そちらはアルナナさんがどうぞ。こっちはこれで大丈夫そうです」
残さず食べましょうの精神でどんどん食べ進めていく。うん、まずい。まずいけど、けっこう食べられるぞ。ダイエットにいいかも。買って帰ろうかな?
「はぁ」と、彼女は本物のハンバーガーに視線を落とした。「カロリー過多ですが、まぁ、夕食を調整しますか」と口をつけた。
あっ、アルナナさんの鼻にケチャップがついた……。
「で、事情聴取のお願いなのですが」と、彼女は眉をしかめながらケチャップをふき取る。「その前にいくつかご報告が」
「ふぁんです?」もぐもぐ。
「……」
食事には育ちが出るそうだ。自分はあまり育ちが良くなかった。咀嚼もそこそこに慌てて飲み込む。
「すみません」
「いえ……。先の大田区湾岸の感染事件ですが、元防疫官が感染源となった事件として、世間の注目を集めています。結果はオオゴタ元防疫官の殺処分をもって早期終結となりました。しかし、予防策に万全を期すよう、との命令がくだりました」
「……」
味のうすいハンバーガーにもう一度かぶりつく。
そうか、やっぱりオオゴタさんは死んでしまったのか。おそらく、死因は車の追突だろう。自分がやるべきことを、彼女に肩代わりさせてしまった。
「あの……アルナナさんは?」
「私?」
「検疫です」
「正常値の範囲でした。ご心配はありませんよ」
彼女は平然としていた。
それは喜ばしいことだけど、意外でもあった。初めに合った時、彼女はトロルを撃てなかった。撃てないタイプの防疫官なのだと思っていた。だからこそ信用できる、と考えていた部分もある。
「……」
ダミーのハンバーガーを飲み込む。
でも、まぁ、あのオオゴタさんも撃てないタイプだったな。決断が遅れ、皆殺し以外に手がなくなるまで彼は決断できなかった。ああいう優柔不断さは彼女にはない。
「それで、あの事件についての事情聴取なのですが」
「ええ、どうぞ」
もう、食べ終わりましたので。
「あのカタリという男をどう思われますか?」
「……難しいですね」
予期していた質問ではあるが、答えは用意していなかった。あの漫画喫茶でにこにこと本を読んでいた少年とトロルを結びつけることができなかったのもあるだろう。
「個人的には、嫌いになれない子でした」
「嫌いになれない、子、ですか」
そう言われると、自分の発言に違和感が沸いてきた。無意識にカタリを子どものように扱ってしまっていたが、彼は何歳なのだろう?
「まぁ、僕の感想ですよ」
「しかし、彼と直接会ったのはバクバさんだけですので」
「アルナナさんだって、あの漫画喫茶にいました」
狸寝入りだったけど。
「聞いてはいました。しかし、共有脳はシャットダウンしていましたし、彼を検疫したわけではありません。実のところ、私には分からないのです」
「でも、僕は適当ですよ」
「存じ上げているつもりです」
そいつはショックだな。と、今度はダミーではなく本物の方のコーラに手を伸ばす。アルナナさんの摂取カロリーをこれ以上増やすわけにはいかない。
「あのカタリを、か」
とりあえず本物の化学調味料の甘味を堪能する。さてさて、トロル化した脳を喜んで交換する変な子をどう語るか。
「……今から無責任なことを言いますよ」
「はい」
「彼の作品を体験した人がトロルを発症するのは事実として、同時に、救われた人もいるのでは?」
「救われた、とは?」
「色々あると思います。例えば、トロルを予防できた人もいるかもしれない」
「それは……、大胆な仮説ですね」
「物語にはそういう厄介な性質があります。どんなに非現実なファンタジーであっても、そこから自分にとって参考になるものを見つけてしまう。男の子が漫画から、努力、友情、勝利に興奮するようにね。そうじゃなきゃ、楽しくありませんから」
「……」
「一方で、そういう綺麗な要素を信じられなくなる、そんな苦しい時期が人にはあるものです。情熱的な恋愛小説を便器にまたがりながら読んでいると、『現実的にはちゃんと避妊しないとダメだよね』とか、冷めたツッコミを入れたくなる。それと同じかもしれません」
「なるほど、トイレで読むべき物語もある、と」
「トイレはあくまでも例えですよ」
「ええ、もちろんです」
彼女は真顔のままうなずいた。
ううん、と咳払いをする。どうも、彼女には掴みがたいところがある。天然というか、どこまでが本気なのか分かりにくいのだ。
「同じように、保健省の脳クレンジングがすべてのトロルを治療できるわけではありません。別のアプローチが必要です。だからこそ、カタリの作品が多くの人を惹きつけるのでは?」
「つまり、悪意の他者化マスキングで解決できないトロルを治療している可能性がある、と?」
「他者化マスキングは、負の記憶を他人のものだと錯覚させますよね?」
「はい、簡単に言えばそうです。モザイク化、相対化、夢化、などアプローチは様々ですが、負荷の強い記憶を、すでに過去のもので自己から分離した出来事であると認識できるよう、シナプス結合を間引きして
「おそらく、それはアドラー心理学がいう『課題の分離』なんです。それを機械的に実現できるようにした」
「アドラー?」
「僕も、入門書の『嫌われる勇気[17]』しか読んだことはありません。アドラーは、他人の課題に自分が悩んでいないか警告したそうです。例えば、親が子どもの成績に苛立つ例をあげています。子どもの課題であるはずの努力の結果に、親のほうが感情的になってしまう。親が課題の分離できていない例です」
「子どもの成績に苛立つ? それはどういう状況なのですか?」
「昔はそういう親がたくさんいたそうです。共有脳がありませんでしたし、勉強しなければ出世できませんでした」
「はぁ。つまり小説の話ですか。先ほどの業務評価みたいな?」
「昔の話ですよ。小説みたいな昔の事実。昔はあちこちにトロルが存在していました。他人の課題に勝手に感染し、不甲斐ないと他人を攻撃していた」
「恐ろしい時代ですね」
話がそれてしまったかも知れない。自分が言いたかったのは、その他者化マスキングですら治療ができないトロルが存在すること。もしかしたら、カタリの物語がそれを救っているかもしれない、ということだった。
「話を戻しましょう。僕のほうから話題をそらしてしまったけれど」
「ええ」
「つまり、クレンジングは課題を他者化します。その課題が他人から感染させられた悪意だった場合は有効でしょう。でも、それが自分自身の課題だったら? あるいは自分自身の悪意だったら?」
「……」
「僕なら……、僕は脳無しですから、参考にならないかもしれないけど。でも、僕が自分自身の課題に行き詰まったら、それを表現できる言葉を探そうとします。哲学書に書いてあるかもしれない。歴史書や社会学、ひょっとしたら数学に隠されているかも。もちろん、小説や映画も。なんにせよ、それは物語の中にある」
「それがあの石工の経験ですか」
「かもしれません」
「なるほど……。クレンジングで治療ができないトロルの対処法ですか」
彼女は唇に手をあてて、ぶつぶつと思考をもらした。
「その仮説を証明するためには、あの創作経験をインストールした人たちの、もともとのストレス値を確認する必要がありますね。検疫官に分析を依頼してみます」
「あくまで仮説ですよ。僕はだいたい間違っているから」
「検証とは仮説の棄却を繰り返すことです。既存の仮説と別の方向性をいただけたので大変助かりました」
やっぱり、予防業務は大変そうだ。こんな脳無しの思いつき程度の考えでさえ、検証しなければならないのだから。
「ところで、アルナナさんの印象は?」
「私の?」
「ええ、アルナナさんのカタリへの印象です」
「良くはありませんね」
まぁ、そうだろう。
「正確に言えば、彼のことが恐ろしかったです」
「恐ろしい?」
「彼は複数の他者と脳の直結上書きを繰り返しています。正直なところ、カタリがまともに会話できていることが不思議なほどです」
彼女は不安そうに自分の頭を抱えた。
「社会大脳を経由した経験は他者化マスキングされていますから、それが自分のオリジナルな経験かどうかは判別できます。しかし、直結だと……。おそらく、彼の脳はすでに境界崩壊しています。その兆候を示す言動も実際にありました」
「境界崩壊、ですか」
「自己と他者、あるいは現実と幻想の識別不全症です。彼はカタリという個人名を、集団名と混同して使用していました。それも兆候の一つでしょう」
彼女はまだほとんど食べていないハンバーガーをテーブルにおいた。
「バクバさんは平気なのですか? 彼と話していて」
「さて……」
確かに、あまりあの子を恐ろしいとは感じなかった。まぁ、自分には経験データが他者化されているかどうかなんて、あんまりピンと来ないのもあるだろう。
「脳無しですからね」
「それだけでしょうか?」
どうだろう。少なくとも、カタリには悪意はなかったのだと思う。純粋な興味だけであれほど他人に飛び込めるのは、彼の若さゆえだろうか。いずれにせよ、そんな彼の周りにはたくさんの人が集まっていた。
「そういえば、カタリの作品はどうなります?」
「取り急ぎは検疫対象に追加しました。社会大脳を経由せずに伝播しているようなので、流通の根絶できませんが」
「そうですか」
本を焼く国ではいつか人をも焼く——そんな格言が頭に浮かんだ。表現の自由は民主主義を守るための機能なのだ、と書いていたのは『ジャーナリズムの原則[18]』だっただろうか。もっとも、その本が出版されていた当時でさえ、報道の自由とプライバシーの保護がよく対立していた。
でも、まぁ、それもよくあることだ。
民主主義は時代にあわせて無節操なほどに変化している。二百年前の民主主義は女性に選挙権を認めていなかった。百年前は人を傷つけるだけの言動を表現の自由と混同していた。
今の民主主義は違う。攻撃的な表現は
こんな時代は、あの変な子にとっては生きづらいだけだろう。
◇ 総合体育館の武道場
保健省のオフィスカフェで、ダミーを完食した後のこと。
バクバがそろそろ帰ろうかと思っていたところで、イワモリ課長から呼び出しがあった。ちょうどオフィスに来ていると告げると「それは都合がいい」と不穏なことを言い出す。
「もしかして仕事ですか?」
感染エリア外の仕事は、収入が不安定な個人事業主からすれば大変ありがたいことなのだが。
「ああ、報酬は夕食と酒だ」
仕事ではなかったようだ。
「それはいいですね」
「久しぶり体を動かしたい。稽古をつけてくれ」
「そういうことですか。ええ、喜んで」
後で送られてきたメールには、近くの総合体育館が指定されていた。
古武術の稽古の正装といえば白い胴着に黒い袴だ。とはいえ、急な呼び出しであったから着てきた服装のまま体育館の道場に足を踏み入れた。
すでに課長は到着していて柔軟運動をしていた。あっちはちゃんと袴もはいている。
「こんな服装ですが」
「別にかまわん。急に呼び出したのはこっちだ。あまり本気を出されても身がもたんしな」
「どんなのをやりましょう」
型にそった稽古でも、手順を自由にした稽古でも良かった。こちらとしては、久しぶりに実力者と稽古ができるだけで嬉しい。
「まかせるよ。しかし、ほぐす程度にしてくれ。脳細胞と違って筋肉は老化が激しいようだ」
「了解しました。では、技はそちらにお任せします。こちらから合わせて受けますので」
「助かる」
課長は呼吸をとめ、構えた。
こちらもその呼吸に合わせて対峙する。
課長が一歩だけ踏み込んだのに合わせて、正面に拳を突き出す。
課長はそれを払い落として、浅めに入り身、小手を返した。僕はそれに合わせて受け身をとる。地面に伏したところで、課長は取った小手の筋を決めて、こちらを制する。
そのまま、一呼吸だけ残心。
互いの呼吸が止まったことを確認すると再び対峙にもどる。
こんどは側面打ちからの流れからはじめてみよう。次はどんな技になるだろう?
なかなか、こういう合わせの稽古ができる機会はない。相手にも相当な実力が必要だからだ。外から見れば、武道とはほど遠い予定調和のダンスに見えてしまうだろう。まぁ、そういう稽古なのだ。安全に稽古するための工夫でもある。
そうやって、数十手ほど受けを繰り返した。
「ふぅ」
と、課長の息があがった。
「休憩にしますか」
「ああ、そうしてくれ。すまんな」
道場のすみに腰をおろして、水のボトルをあける。
「あいかわらず」と課長はタオルで顔をふいた。「誘導がうまいな」
「これだけが取り柄ですから」
「儂にはこの合わせがまだ掴めんよ。お前みたいに実戦で使うなど、想像もつかん」
「はは、まぁ、雲をつかむようなものですよね」
適当にそう答えておいた。合気の実戦性は説明が難しい。こういう時に共有脳があったら理解してもらえるのだろうか?
「最近は武道もインストールする時代ですから……、社会大脳に聞いた方がいいかもしれませんね」
「実は儂も脳に入れてみた。保健省の対策局職員用のプリセットに合気術が含まれていたんだよ」
「へぇ、どうでした?」
「技の型ばかりで合わせはそもそも存在しなかったな」
「まぁ、そうでしょうね。しかし、なんで合気なんですか? 個人的には日本拳法とか、やっぱり射撃のほうが実戦的だとは思いますけど」
「
「撃てる奴、撃てない奴、ですか」
よく課長から聞かされてきた防疫官の分類だ。
「撃てる、撃てないは防疫官としての資質に関係ないがな。撃てる奴が急に自己完結を発症することもあるし、撃てない奴が平気で滅菌を宣言することもある。単なる目安だよ。上になると無理矢理でも下を評価しないといけなくなる。そういう時は、適当な目安が必要になるんだ」
そういえば、『戦争における「人殺し」の心理学』は課長から勧められた本だった。
十分に訓練されていない兵士の発砲率は二十パーセントに過ぎなかった。しかし、訓練を工夫することで発砲率を九十パーセントまで改善できたことも書かれていた。人の本質なんて環境によって変えることができる。
「……で、オオゴタの件なんだが」
急に切り出されたので、絶句してしまった。
「お前の言うとおりだったな」
かつてオオゴタさんの滅菌命令を無視して現場を離脱した後に、課長から色々と聞かれたことがある。
「結果論ですよ」
「そうだな」と課長は唸った。「あいつは典型的な撃てない奴だったな。『真面目で忍耐強い』と上からの評価がよく、部下からの評判もそこそこ。強いて欠点をあげれば『官僚的で柔軟性にかける』というコメントが目につくくらいだ。まぁ、実際に官僚だしな。こういうタイプは出世させやすい」
「そうなんですか?」
「出世させて失敗したとしても言い訳できるからな。説明責任ってやつだよ。それさえ口裏が合えば、失敗しても許されるのが組織という奴だ」
あいかわらず、身も蓋もないことを言う人だ。
「そんな訳で、俺はオオゴタを防疫官に昇進させてみた。その判断が、オオゴタを殺しちまったんだろうな」
「でも、おやっさんは」と思わず、昔の呼び方をしてしまった。「それだけで選んだわけではないでしょう?」
「まぁな。だが俺の失敗だよ。……理由、聞きたいか?」
「ええ」
課長のほうもしゃべりたいのかもしれない。自分も知りたかった。なぜあの人が防疫官に登用されたのか。色んな防疫官と一緒に仕事してきたけど、自分はあの人を信用できなかった。
「言い訳じゃないが、社会大脳が推薦した幹部候補リストにあいつの名が載っていたからだよ。スコアでソートすると……。オオゴタは二番目か三番目くらいだったかな」
課長は首筋を揉みながら目を閉じた。「お、あったあった。そうだ、四番目だったか」と肩をすくめる。「記憶よりも共有脳のほうが間違いないな」
「使いこなしてますね」
「持ち上げるな。いつも部下に笑われてる」
「それで、リストから選んだのですか?」
「リスト以外からは選べないのだよ。こんな儂でも宮仕えだ」
「そんなもんですか」
「しかし、リストの順位を一つ二つくらいずらすことは許される。まぁ、でなきゃ、社会大脳だけで十分だからな。四番目だったあいつを選んだのは儂だよ」と苦笑いし、急に声を潜めた。「……こいつは秘密なんだが」
「はい」
「リストの最上位はアルナナ君だった」
「……なるほど」
オオゴタさんの後任に、アルナナさんが選ばれたのはそういう裏があったのか。
「なぜ、最初にオオゴタさんをピックアップしたのですか?」
「色々ある。真面目だったし、部下の評判も悪くない。愛妻家で家庭も円満のようだった。正直なところ、警察時代からの部下だったというのもあっただろう」
家庭は関係あるのだろうか?
「そして何よりも」と課長は口をゆがめた。「リストの中で一番の年長者だった」
「……」
「そんな顔をしないでくれ。選ぶほうからすれば年齢は馬鹿にできない。年寄りが出世しても、若手はあまり不満に思わないんだ。しかし、同僚に抜け駆けされた、なんて思われると色々と面倒くさいことになる」
「最近の人って出世に興味ないのだと思っていました」
「ああ。確かに、金には淡白になったな」
「じゃあ」
「だが、それ以上に経験には飢えている。特に自分だけの経験だ。まだ社会大脳にない新しい経験。あいつらにとって防疫官は憧れの職業なんだ」
それ以上に危険な職務だがな、と課長はため息をつく。
「だから、意外にも対策局の職員にはお前のことを羨ましく思う奴は多い」
「僕を?」
「お前の脳は、間違いなく、お前だけのものだ」
「ははっ」
思わず薄ら寒い笑いがでた。脳無しの自分がうらやましいなんて、ずいぶんと贅沢なことを言ってくれる。
「この脳にある経験なんて、ほとんどが情けない失敗ばかりですよ。それこそ、交換してあげたいくらいです」
「知っているさ。だがな。もう今の若いもんには理解できんだろうよ」
課長もかつては脳無しだった。
「お前の言うとおり、自分だけの経験なんて、失敗ばかりのゴミカスみたいなものだが、奴らにはなにかキラキラした宝石みたいに感じるのかもしれん……。だがな、バクバよ」
「なんです」
「共有脳を入れてしまった儂には、ふと思うことがある。お前が上手くやっているのは、その失敗のおかげかもしれん」
「冗談を。隠していたエロ本を保護者に見つかったとか、自分のほうから好きになったのに、相手が自分のことを好きに違いないと勘違いしていたとか、そういう馬鹿なやつばかりですよ」
「いや、真面目な話だ。今の若いやつらは、自分の失敗に向き合った経験がない。これほど、経験が溢れている時代なのに、失敗した経験だけが削除されていく。儂でさえ、ふと自分が分からなくなる」
「……」
「お前が言うとおり、自分の経験なんてな、恥ずかしくて共有できない失敗ばかりだ。でも、あいつらに足りないのはそれじゃないのか?」
「でも、僕だってぎりぎりです。いつも、ぎりぎりなんですから」
「だが……。いや、そうだったな」
課長は、ううむ、と黙った。
ちょっと気まずい沈黙が流れ、耐えきれなくなった僕は「よっこらしょ」と声に出して立ち上がった。
「そろそろ、もう一本いきましょうか。今度は僕が技をかける番です」
「ああ、そうするか」
課長とふたたび対峙し、体を動かして頭を空っぽにしていく。簡単に忘れられる脳有りが羨ましい。失敗ばかりの過去の自分をそのまま受け入れる、そんなのは絶望しかないのだから。
—————————
[17]『嫌われる勇気』(著者:岸見一郎、古賀史健。ダイヤモンド社)
アドラー心理学の入門書としてベストセラーになった本。物語中で引用した『課題の分離』についても本書ではもっと踏み込んで語られる。機会があればそちらでも確認nください。念のためですが、くれぐれも勉強しろとうるさい親に「お母さんは課題の分離ができていない!」なんて誤用をしないよう注意してほしい。課題の分離ができていないのは親の課題であり、あなたが口にすべき課題ではありません。アドラー心理学はもっとストイックなものだと私は考えています。
……ちなみに、そう言う私が課題の分離が実践できているか、と聞かれれば「出来ていません」と即答せざるを得ない。日々、是、修行なり。
[18]『ジャーナリズムの原則』(著者:ビル・コヴァッチ、トム・ローゼンスティール、翻訳:加藤 岳文、斎藤 邦泰)
和訳書が絶版のせいかプレミアム価格がついて結構なお値段がした本です。民主主義を構成する機能としての表現の自由を整理し、現代におけるジャーナリズムが果たすべき社会的責任についてまとめています。具体的には『真実への責務』、『市民への忠誠』などです。加えて、ウォーターゲート事件など、マスメディアが政府の不正をスクープすることで民主主義を正した実績を挙げて、ジャーナリズムの理想として紹介しています。(別の本になりますが、この実績を引いて日本のマスメディアが弱いと指摘する主張もありますね)
現在は、ネットメディアが存在感を増し、誰もが発信者となれる時代です。市民であり発信者となった我々は、この本が主張するジャーナリズムの原則をわきまえる必要があるでしょう。……まぁ、気軽に言いたいことを言えるのがネットの良いところだけどね〜。
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