1.6. 『TAXi』

◇ バクバとカタリ


 サルトルの話を終えた後、カタリはバクバをうっとりとした目でみた。

「もし、バクバさんに共有脳があったら、交換してもらうのにな」

「えっ、なにそれ。ぞっとする」

 脳を交換してくれ、と言われても脳無しの自分には狂気にしか思えなかった。

「ひどっ」とカタリは口を尖らせる。「これって結構なロマンチックな告白ですよ。貴方を完全肯定宣言です」

「そんなロマンチックはコバルト文庫[14]ですらでてこないよ」

「コバルト文庫?」

「昔にそういうレーベルがあったんだよ。十代の女の子向けの恋愛小説とかを出版していた」

「え〜。バクバさん、そんなの読んでいるんですか?」

 なんか、ものすごい馬鹿にされた。

「いやいや、結構おもしろいよ。『マリア様がみてる[15]』とか、なかなか設定がぶっ飛んでいて」

「へぇ」とカタリはシートに寝そべる。「そういうのも含めて、直結したいな。共有脳は入れないのですか?」

「できないね」

「まぁ、混血≪ダンピール≫たるバクバさんに、インプラントは許可されませんよね」

「まぁ、そうだろう。あきらめているよ」

 仮に、自分にインプラントは許可されるわけがない。この脳には感染源となりうる人殺しの経験が詰まっている。社会大脳への接続が許されることなど一生ないだろう。

「トロルを殺せるのはトロルだけ、ですか。まさに吸血鬼ハンターだ」

 褒められているのか、けなされているのか。彼の笑顔から察するに、単純に無邪気なだけだろう。

「ああ、名残惜しいですが……。そろそろお別れです」

 そう言って、カタリは机の上のメロンソーダに差したストローを、ちゅー、と吸い込んだ。

「僕らをどうする?」

「どうにも、そのままお帰りください」

「いいのか?」

「実はカタリの中で意見が割れてしまいまして。というか、カタリの意見が一致することなんてほとんどないですけど。まぁ、そんなわけで、今のうちに早く帰ったほうがいいですよ」

「彼女も?」と、昏睡を装っているアルナナさんの方を見る。

「ああ、そこの眠り姫ですね。どうぞ、ご一緒にお逃げください。貴方がキスでもすれば飛び起きるでしょうよ」

 彼は何かを期待するような目でこちらを覗き込んでくる。

「……しないよ」

「え〜。それでも男なんですか?」

「その程度の男なんだ」

 この子はアルナナさんが覚醒していることに気がついているのか?

「まぁ、いいや。一応、忠告です」とカタリは耳元に口をよせて囁いた。「道中はお気をつけください。とくにカゲツに」

「カゲツさん?」

「彼女はあなたに恋をした。脳有りが恋ですよ。つまりそれは初恋だ。ああ、彼女の経験が愛おしいです。……だから、少なくとも残酷な意地悪くらいはやるでしょう。彼女は情の怖い女ですからね」

「何を言って、」

「僕には分かるんです。だって、僕のここは」頭をとんとんと叩く。「カゲツのですから」

 くすくすと彼は笑う。

「それでは本当にお別れです。できれば、またお会いしたいな」

「……」

「そこのお嬢さん、じゃなくて、お姉さんでしたね」とカタリは笑う。「どうも、カゲツの意識が前に出たがるなぁ。バクバさんと話していると、女の人の部分が活性化してしまう」

「本当にこのまま帰すのか?」

 保健省に戻れば、アルナナさんはカタリの身柄確保に動きだすだろう。彼は感染源となる物語を創作したトロルなのだから。

「でも、お気をつけください。僕たちはカタリですけど、情の怖いカタリも貴方を恨んでいるカタリもいます。そこはお忘れなく」

 カタリはにこやかに手を振った。

 バクバはおそるおそるアルナナを抱き上げ、ブースの外に出る。

 待ち構えていたカゲツが「お疲れ様でした」と頭を下げた。

「カタリの思念はすでに伝わっています。ご無事にお帰りいただくように、と」

「え、ええ」

「都内まで送ります。こちらへ」

 前後を男たちに挟まれて、そのまま外に用意されていた無人タクシーに案内された。

 タクシーが発進する。車内はアルナナさんと二人きりだった。


 ◇ カタリとカゲツ


 その無人タクシーを見送った後、カゲツは戻るなり「思念通話をお願いします」とカタリに申し出た。

「せっかくなら直結にする?」

 カタリがコードを取り上げて左右にふってみせた。

「いえ、無線で十分です」

「そう」とカタリは笑って「急に恥ずかしくなった?」

「そういうわけでは……」

 否定しようとするものの言葉が続かない。

 カタリとは何度も脳を溶け合わせる快楽を楽しんできた。互いの脳をさらけだす完全な肯定感に満たされながら、カタリの物語を味わう。誰もがうらやむその恍惚に何度も溺れてきた。

 しかし、今は不思議なくらい、私は冷静でやや冷めていた。

「今は緊急事態ですので」

「そういわれれば、そうだったね」

「繋ぎますよ」

「どうぞ」

 互いの脳波が共鳴していく。カタリの脳は海だ。広くて深く、ゆったりと押し寄せてくる。もう嘘や駆け引きはもう無意味だ。打算をめぐらす前にそのままが伝わってしまう。

(なるほど)

 と、まるで潮騒のような彼の脳波がこちらの脳をゆらした。

(オオゴタさんはバクバさんを殺すつもりだ、と)

 脳波を発する前にカタリに読み取られてしまった。直結している訳でもないのに、恐ろしいほどの共感力だ。

(はい。我々の脳波が漏れてしまったようです)

(それで、カゲツは見て見ぬふりをした)

(……はい)

 嘘は無意味だ。

 カタリの脳に白波が吹く。

(面白いね)

(よろしいのですか?)

(僕は自由さ。だからカゲツもオオゴタさんも自由だろう)

(バクバさんを気に入っているのでしょう)

(分かる?)

 陽光を浴びたように海が輝いた。

(……分かりました。いつものように、他のカタリには何も強制はしない、と言うことですね。)

(ああ)

(では、そのように。……切ります)

 思念の共振が途切れ、潮が引くような喪失感に目を閉じて耐える。相手があのカタリだったから一層にはげしい。

「さて、ここは気に入っていたのだけど」とカタリがため息をこぼした。「引き払わないといけなくなったね」

「ええ。オオゴタが失敗した時にそなえて、場所を変えましょう」

「いや、あの眠り姫は狸だったから。どちらにせよ、急いだほうがいい」

「どういうことです?」

「ん。まぁ、それは片付けながら話そう」

 カタリはブースに散らかした本をまとめはじめた。


 ◇

 バクバは警戒を強めていた。

 無人タクシーから見える外の風景が、山の緑や海の青で鮮やかになっていく。明らかに、設定された目的地は保健省のある都心部ではない。

 さらに、交通量はまばらなのに、この無人タクシーの前後左右の車だけはきっちりと詰まっていた。それもしばらく前からまったく同じ車だ。

 ——追跡されているな。

「アルナナさん」

「……はい」

 昏睡を装っていた彼女は、ゆっくりと目を開いた。

「おそらく、相手が仕掛けてきます」

「そのようですね」

 彼女は特に緊張した様子もなく、首筋を指で叩く。

「ここは……大田区の湾岸です」

 やはり保健省とは逆方向だ。

「このまま海に飛び込むつもりでしょうか?」

 映画でよく見る展開だ。ためしにドアを掴んでみると『走行中につき、安全のためロックしています』と運転AIに注意された。

「いえ」とアルナナさんは否定する。「自動運転AIが事故を起こせば一大事件です。相手もそれは望まないでしょう」

 彼女は運転席のパネルに手を伸ばして走行システムを操る。

「……交通配送連携ロジスティックリンクシステムで制御されている一般的な無人タクシーですね。ちゃんと交通省の大脳とも通話しており、ハッキングの形跡も見当たりません」

「つまり、海にダイブはしない?」

「おそらくですが。凄腕のハッカーがいない限り」

「なら、目的地で襲われるパターンの方か」

 映画ならドアを開けた瞬間、後頭部を殴られて暗転するやつだ。

「その可能性は高いでしょう。私の脳の上書きも可能ですし」

 窓の外を見るといつの間にか港に入っていた。円筒型の巨大なコンビナートを抜けて、だだっ広い倉庫スペースへと差し掛かる。

 ますます、映画のワンシーンみたいになってきた。

「アルナナさんは中にいてください」

「どうなさるおつもりで?」

「やるだけはやってみます」

「そうですか。では、最小限、お伝えすべきことだけ」

「はい」

「すでに社会大脳に申請を終え、現在地周辺を感染エリアに指定してあります。私のGPS座標から半径一キロメートルです。フェーズは免疫に繰り上げ申請。ですので、殺処分はバクバさんの任意判断で構いません」

「いつの間に?」

「寝ている間です」

 途中から狸寝入りしていると思っていたが、やるべき事はやっていたのだ。

「現在の警報はサイレントです。ここへの増援も手配済みですが、到着時間は不明。即応できる免疫屋がいるかは分かりませんので」

「助かります」

 車が止まり、AIの合成ボイスが『到着しました。忘れ物にお気をつけください』とつげ、ドアが開いた。

 波の音と潮の匂いが車内に吹き込んでくる。

 外は追跡車に囲まれていて、すでに男たちが待ち構えていた。よく鍛えている男たちだ。どう見ても脳に経験を入れただけではない。

 厄介やっかいだな、と車を降りた。

 ざっと見て十人。しかも、十分な経験を脳に定着させ鍛錬もしている。これを一人で切り抜けるのは不可能だ。

「何か用でしょうか」

 と、質問を投げてみた。あわよくば、増援までの時間を稼ぎたい。

「久しぶりだな」

 しかし、返ってきたのは予想外にも聞き覚えのある声だった。

「……オオゴタさん、ですか」

 かつて、その下で働いた防疫官がそこにいた。当時の面影はなく、声を聞くまでは本人だと気がつけなかった。やつれて険しくなった顔。服装も、かつてのきっちり着こなしていた制服ではなく、今は適当に着崩したジャケット姿だった。

「相変わらず。活躍しているそうじゃないか」

「……」

「流石は課長のお気に入りだ。普通の免疫屋ならエリア外ではお呼びではないが、お前はこういう場面にも使って貰えるんだな」

 彼はぶつぶつと言った。

 久しぶりの再会に息がつまった。やはりこの人は苦手だ。前よりもその意識が強くなっている。トロルへ転落し保健省から逃亡した彼の状況のせいか、鬱屈した雰囲気をこちらにぶつけている。

「おい、どうした。何か言えよ」

「……」

「ちっ。俺とは口も聞きたくねぇ、ってか」と吐き捨てる。「まぁ、いいや」

 オオゴタはわざとらしく肩をすくめ、あ〜、と息をはく。そして口元を痙攣させながら「やっぱ、お前は殺さなきゃダメだなよな」と言った。

 次の瞬間。

 背後に回っていた男が襲いかかってきた。

 バクバはその飛びかかりをくぐり抜け、相手の首に腕をまわして逆に拘束する。

「警告だ。これ以上は感染者と見なす」

 周りに向かって怒鳴りつけた。

「相変わらず、良い子ちゃんだねぇ。バクバちゃんは」

 オオゴタが赤子の口調を真似て嘲ってくる。

「見りゃ分かるだろ。こいつらは正真正銘の感染者だよ。俺というトロルのな」

「何をした?」

「無数にいるカタリのシンパにとって、その分脳になった俺はちょっと特別な存在なんだ。俺に脳をさらせと言えば簡単にソケットを見せやがる。まぁ、野郎どもの穴なんざ見せられても興醒めだったが」

「……上書きしたのか?」

「お前からしたら俺は無能だろうが、これでも元防疫官なんでな。トロルウイルスのプログラミングなんて簡単なんだよ。シナプスコーディングは防疫官の経験プリセットに入っていたからな」

 別の男が横合いから蹴りをくり出した。そこには拘束されている味方への配慮など一切ない。

 肘を固めてそれを受けながら、あえて後ろに飛んでダメージを和らげる。それでも受けた衝撃が骨まで響いた。十分に体重がのった前蹴りだ。しかも蹴り終わりの姿勢もまとまっている。

 おそらく日本拳法がベース。これが十人か。

 反射的に腰裏に手を回したが、空を掴んでしまう。いつもそこにある短刀がなかった。そういえば、取り上げられたままだった。思わず舌打ちがでてしまう。かわりに胸ポケットからスキャン用の検疫針を取り出した。首裏にこれを刺せば気絶させることができる。

「どうした? 免疫屋バクバさんの滅菌術は?」

 オオゴタはなおも煽ってくる。

「それとも、手も足も出ない? あんなに偉そうにしていたのに? いざとなれば何もできないのか?」

 呼吸を整えろ。

 他人の怒りに巻き込まれるな。

 でなければ、自分を見失うぞ。

 打ち込まれる打撃を次々とさばいていく。隙があれば、組み技で拘束し検疫針を打って気絶させ、囲まれそうになる前にまた脱出した。

 そうやって、なんとか四人までは無力化できた。

 残りの男たちは警戒を深め、包囲しなおしてじりじりと距離をつめてくる。

 こうなると厄介だ。慎重になった相手は連携してくるだろう。……と、言うことは、知性までは破壊されていないのか。

 ちらり、と足元の倒した男に視線を落とす。その首筋に刺したままの検疫針が黄色に光っていた。つまり、まだ感染は軽度。クレンジングが間に合う。

 ——だけど。

 検疫針はもう使い切ってしまった。感染エリアでさえ、一度に何本も使うことはほとんどないのに。そもそも、検疫針の気絶効果は補助的なもので、本来の使い方ではない。

「おいおい、どうした? そんなんだから、お前たちはカタリになれねぇんだ。思い出せよ。俺の怒りを! カタリが欲しがった経験をお前たちにぶち込んでやっただろ。あのクソ野郎が全ての元凶だ!」

 後方から、オオゴタが躊躇する男たちを怒鳴り立てていた。

「そいつのせいで俺は降格させられた。そいつのせいで俺はトロルになった。そいつが課長に勝手なことを言ったに違いねぇんだ。そうじゃなきゃ、あり得ねぇだろ。俺はちゃんとしていたんだからよ」

 自身の悪意をそのまま上書きしたのか。自分への敵意を事情を知らない他人にまき散らされたと思うと、そっとした。かつては『いじめ』とも呼ばれた悪意感染トロル行為だ。

 その時、不意をつかれてしまった。

 背後から飛びかかってきた敵をさばきそこね、首に腕を回されてしまった。咄嗟に腕を差し込んで窒息だけはまぬがれたが、身動きができない。

 間を置かずに他の男たちに手足を押さえられ、さらに拘束を確実なものにされた。

「やればできるじゃねぇかよ!」

 オオゴタの歓喜の声があがる。

「こうなっちまえば、もう怖くなんかねぇ。こいつは単なる脳無しなんだ」

「くぅ」

 喉元を圧迫されて、息と血がつまる。

「やっとだ。やっと、こんな苦しみからおさらばできる。てめぇを殺せばなくなるんだ。さんざん、無能だ無能だと言いふらしやがって。脳無しに何が分かるってんだ。防疫官は社会大脳に従わなければならねぇ。それが組織のルールだ」

 オオゴタが詰め寄ってくる。

「……」

「根無しの脳無しごときに、社会の何が分かる!」

 怒鳴り声と同時に彼の拳が頬をないだ。

「どうだ!」

 逆方向にもう一発。

「分かってんのか? ああっ!」

 次は顎をはね上げられた。

 後はただただ闇雲な殴打が続いた。頭はゆさぶられ、口の中には血がひろがる。脳内でキンキンと異音が響き渡る。

「死ねよ。死ねよ。ほらほら、死んじまえよ」

 攻撃的な言葉に暴力が重ねられ、視界も次第に黒と赤だけに染まっていく。脳を揺さぶられ、痛みを浴び続けながら。ああ、間違ったかな。と、ぼんやりと後悔が胸に広がりはじめた。

 さっさと殺しておけば……。

 今さらありもしない逆転の目を探そうと、ガタガタの視界を開ける。目の前には一方的な暴力に酔った醜悪な表情があった。トロルとはよく言ったものだ。ひどく醜い形をした化け物がそこにいた。

 ——その時、

 視界の横から車が飛び込み、オオゴタを突き飛ばした。

 はね飛ばされた彼は、まるでまりのようにコンクリートの上を跳ねて転がり、ようやく止まったが。起き上がれず、ぴくぴくと痙攣しはじめた。

 車はまったく速度をゆるめずに他の感染者たちも追い散らしていく。それは無人タクシーだった。その運転席でアルナナさんがハンドルを握っている。

 周りの感染者を散らした彼女は車を反転させて、こちらに向かって突っ込んでくる。

 僕を拘束していた男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。その瞬間、彼女は車体を横滑りにさせ、僕の鼻先で急停止させた。

「乗って!」

 急に開いたドアに鼻をぶつけてしまった。

 とはいえ、道は開かれた。飛び込むように車内に身を投げる。

「しっかり、つかまってください!」

 急発進と旋回が始まる。まるでシェイカーみたいに車内はむちゃくちゃになった。アルナナさんがとんでもない手さばきで、ハンドルとクラッチを操っているのが見えた。

「これ、無人タクシーじゃあ」

「感染エリア内では自動運転は強制終了されます。先ほど、サイレントは解除しましたから」

 普通ならゆるやかな制動をする無人タクシーは、アルナナさんの手によって水を得たサメのように暴れ回っている。

「まるで『TAXi[16]』みたいだ」

「なんです?」

 エンジンの轟音に負けないように、声を張り上げる。

「映画ですよ! スピード狂のタクシードライバーが魔改造したタクシーで強盗団とカーチェイスするんです。ボタンを押したらタクシーがレーシングカーに変形するのがとっても男の子なんです!」

「それは面白そうですね。今度、一緒に見せてください」

 タクシードライバーと化したアルナナさんがアクセルを踏み抜いた。急加速に座席のシートに体が押しつけられる。なんとか首を動かして、後方を確認するとすでに感染者たちを置き去りにしていた。

 仮に彼らが車で追いかけてきたとしても、このTAXiに追いつけるとは思えない。

「……助かった」

「ええ、ようやく増援も到着したようです。警報も発令されましたね」

 窓の外から「警報発令、警報発令」とサイレンが鳴り始め、空を見上げると何台ものヘリが埠頭のほうへと向かっているのが見えた。

不甲斐ふがいありませんでした」

「私のほうこそ。手間取りました」

「でも、アルナナさんが……」

 彼女はオオゴタさんを、おそらく、殺してしまった。彼をはね飛ばしたせいで、フロントガラスがぐしゃぐしゃになっていた。

 彼女は僕なんかのために、トロッコのレバーを引いたのだ。そして、目の前で自分が相手を殺す瞬間を見てしまっただろう。彼女には耐性がない。もしかしたら、トロルを発症してしまう可能性もある。

「大丈夫です」

 彼女は前を向いたまま言う。

「僕なんかのために、その、」

「私は」と彼女は遮った。「それほど弱い女ではありませんよ」

「……」

 もしかしたら、彼女のことを勘違いしていたのかもしれない。

 僕は勝手に彼女を守るべき人と見なしていた。「はは」と笑いがこぼれる。まさか、助けられてしまうなんて……。生き延びた安心感と自分の勘違い。笑ってしまう。

「ねぇ、アルナナさん」

「はい」

「アルナナさんには僕がどんな風に見えますか?」

 彼女なら僕をちゃんと見てくれる気がする。同じ防疫官でもオオゴタさんが押しつけてくるものと違って、ちゃんとした人の形で見てくれる気がした。

「バクバさんを?」

 彼女はちらりとこちらに視線をむけた。

「赤ん坊みたいですね」

 予想外の答えだ。

「このまま病院に向かいましょう。ひどい怪我です。打撲で顔がむくんでしまっています」

 そう言われて、車のミラーを覗き込む。しこたま殴られ続けたせいだろう、自分の顔が紫色に鬱血し、ぶくぶくに膨れあがっていた。

 その自分は、とても醜い赤ん坊みたいだった。


——————

[14]コバルト文庫(集英社)

 1976年創刊。十代の少女をターゲットにした小説レーベル。少女小説ではあるが侮るなかれ。ここからデビューした作家が直木賞を受賞したりと文芸界に確かな存在感を発揮しているといえる。

 私が十代のころに読んだものと言えば『闇に歌えば』(瀬川貴次)と『ハイスクール・オーラバトラー』(若木未生)だろうか……。年齢がバレますね。『マリア様がみてる』は最近になって読んでみました。めちゃくちゃ面白くてビックリした。少女小説おそるべし。

 ちなみに、私が次に読みたいと考えている『後宮の鳥』(白川紺子)を刊行している集英社オレンジ文庫も同じ集英社のレーベルです。おそらく、十代のころコバルト文庫を好きだった女性をターゲットにしていると思われます。こういう文芸の和を絶やさず広げていく出版社の試みはうれしい。


[15]『マリア様がみてる』(今野緒雪。コバルト文庫)

 祥子さまがうれしいと、私もうれしい。

 コバルト文庫なのになぜか男性読者の方が多かったという問題作(?)。百合小説の代表としても有名。

 学園生徒会員の三年生はそれぞれ薔薇の名を冠した称号で呼ばれる。その一人である紅薔薇ロサ・キネンシスは、後継者として二年生の女生徒をスールに選ぶ。その妹たる紅薔薇のつぼみロサ・キネンシス・アン・ブゥトンであった小笠原祥子は二年生になってもスールを選んでなかった。

 そのことを薔薇のお姉さまたちからいさめられた祥子は、偶然生徒会にやってきた平凡な一年生、福沢裕巳を捕まえ、彼女を自分のスールすなわち紅薔薇のつぼみの妹ロサ・キネンシス・アン・ブゥトンプティ・スールにすると言い出して……。

 舌噛むよ。ぜったい。


[16]『TAXi』(監督リュック・ベッソン)

 スピード狂のタクシードライバーと新米刑事が強盗団と戦うカーアクション映画。いかにもハリウッド的な映画だが、実はフランス映画。

 タクシーがスポーツカーへと変身するシーンが最高にカッコイイ。あと、間抜けな刑事とハイテンションなタクシードライバーの掛け合いも小気味よくて良かった。


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