1.5. 『嘔吐』
◇ 配送トラックの荷台
カゲツは呼び寄せた配送トラックの中に入るよう指示した。
酒や食品の配送車らしく、中には飲料のケースが残っていた。バクバは空いたスペースにアルナナを降ろし、そのすぐ側の壁に背をあずけて立った。
カゲツも二人の屈強な男を連れて入ってくる。店の中では見なかった男たちだった。おそらく、荒事向きの仲間とやらを呼び寄せたのだろう。五人も詰め込むと流石に狭い。
バクバはざっと男たちを観察する。
丈夫そうなブーツにカーゴパンツ、上はダウンコート。服の上からではどの程度鍛えているは分かりにくいが、随分と首が太い。組み付きや寝技の鍛錬がうかがえる。柔道か総合格闘技か。だとすれば、この狭いコンテナは相手に有利だ。
武器は……。
銃火器はさすがに持っていないはずだ。警察すら不要になったこの共有社会では、銃の入手は不可能に近い。あるとすれば感染エリアからの流出品だろうが、脳有りが手に入れるのは難しい。
あるとすれば、自分も隠し持っているような短刀くらいだろう。
「本当なら」とカゲツは向かいの空ケースに腰を降ろした。「そのお嬢さんを連れて行くのは嫌なの。今からでも遅くないわ。彼女の脳から二時間だけ記憶を消させてもらえれば、丁重におうちに帰してあげる」
「脳直結はダメだ」
「私たちに悪意はないの。私にスキャナーを刺してみる? そのお嬢さんみたいに」
カゲツは髪をわけて、うなじをチラリと覗かせる仕草をした。
左右の男たちが驚いて目をむいた。右側の男にいたっては護衛のはずなのに目を背けている。
脳有りの貞操観念はイマイチ理解しがたいな、とバクバは首を傾げる。昔から女性のうなじは恋情を匂わせるものとして小説や漫画でもよく描写されてきた。だけど、今の時代ほど性的な部位ではなかったはずだ。
「いいのかい?」
検疫針と呼ばれるスキャナーは何本か持っている。トロル対策用のそれは、検疫と同時に相手を麻痺させる鎮圧装置でもある。全員の首筋に刺せるのであれば、それに越したことはない。
「冗談よ。いやらしい人ね」
「……」
荷台の扉がしめられて一瞬だけ暗闇になったが、すぐに明かりがつく。
静かなエンジンの駆動音でトラックが動き出すと、カタカタと積み残した酒瓶が鳴り響きはじめた。
「どのくらいで着く?」
「二十分くらいね」
であれば、アルナナさんは移送中に覚醒するだろう。さりげなく彼女の手を握ってみたがまだ反応はない。
「好きなの?」
「ん?」
「そのお嬢さんのこと」
驚いたな。そんなこと聞くんだ。
「心配しているだけだ」
「嫌いなの?」
「ひどい二択だ」
カゲツさんは悪戯っぽく笑っている。
「単なるヒマつぶしよ。そのお嬢さんは、きっとバクバさんのことが好きよ」
「僕は脳無しだ」
「いいえ、脳無しだからこそよ。とても刺激的でしょうね。相手が自分のことをどう思っているか分からないのだから。それってサスペンスじゃない?」
そういえば、共有脳がある彼女たちは、恋をする前に相手の気持ちが分かってしまうのか。
「共有脳の恋愛ってどんな感じなんだい」
「共有脳で恋愛が成立しうるか、まずはそこが問題ね。さて、完全に相手のことを理解した状態で恋愛ができるでしょうか? バクバさんはどう思いますか」
「僕は共有脳のことは分からないし、恋愛のことはもっと分からない」
「残念ね」
「でも、スタンダールの『恋愛論[10]』というのは読んだことはある。恋愛の達人でフランス人のエッセイなんだ」
「あら、またどうしてそんなものを読んだの?」
「分からなかったからさ」
何がツボに入ったのか、カゲツさんは息を詰まらせて笑う。
「……つまり、バクバさんは恋愛したことがあるのね」
「もちろん、失敗したけどね。ひどい勘違いだった」
「うらやましいわ。それで、読んだ感想は?」
「スタンダールがいうには、恋愛とは自問自答から生じて、相手の反応によって結晶化していくものらしいよ。『恋が始まるには、少しの希望があれば充分だ』なんてあるから、やっぱり恋愛は厄介なんだ。そこから、こっちのことを嫌いなんじゃないか、と不安や葛藤をへて徐々に恋をしていると確信していく。それが結晶化」
そのスタンダールの定義に基づくと、共有脳では恋愛は起こりえないのかもしれない。結晶化に必要な不安と葛藤のプロセスは省略されてしまい、すぐに結果が出てしまう。
「素敵ね」
カゲツはため息をついた。
「ドキドキするわ。バクバさんに恋しちゃうと、まるで、シェークスピアの『から騒ぎ[11]』みたいなことさえ起きてしまうのね」
恋愛喜劇『から騒ぎ』では、互いを嫌っている男女を結婚させるために策略が巡らされる。男には、彼女が本当は男のことが好きなのだが、それゆえに悪態をついているだけなのだと、噂を流す。女にも同様の勘違いをさせる。その結果、仲違いばかりしていた二人はあっという間に恋愛に落ちてしまうのだ。
「嫌いな人でも、向こうがこっちに気があるのかも、って疑っていたらいつの間にか好きになってしまう。そう、それがまさに結晶化ね。不安と疑惑の中に隠された相手の魅力を発見する。その過程で確信にいたるのが恋愛なのね」
そういって瞳を輝かせている彼女こそ、まるで少女のように見えた。アルナナさんのことをあれだけ年下扱いしていたのに……。
「カゲツさんは、好きなんですね」
「あら?」
「映画とか、演劇も」
「ああ、そっちね」と息をつく。「ええ、大好きよ」
「珍しいですね」
共有脳があれば、もっと手軽で刺激的なコンテンツがいっぱいあるだろう。特に演劇なんて八時間にもおよぶ大長編も珍しくはない。観客に前提の知識が必要な場合だってある。共有脳なら、そういった煩わしさはないだろうに。
「カタリの影響なの」
「それは誰なんです?」
彼らがカタリと呼んでいる存在が気になってはいた。もはや人かどうかもあやしいが。
「スタンリーを教えてもらったの。それから、シェークスピアにチェーホフも。そろそろ、私からカタリに何かを教えてあげたいのに……。うらやましいわ。バクバさんなら彼の欲しいものを持っているかもしれない」
どうやら、カタリは男性のようだった。
「僕が知っているのは古いものばかりだよ」
「だからこそ。オススメの映画は?」
「個人的には『となりのトトロ』かな。ラピュタも捨てがたいけど」
「何それ?」
「アニメは見たことはない?」
「知らないわ。カタリに聞いてみようかしら」
脳有りがよくするように、彼女も首筋に指をあてて共有脳と会話をはじめた。
そろそろ十五分が経過するころだ。
アルナナさんの手を何度か握りもんでみる。すると、手の平のあたりを少し引っ掻かれた。間違いない。もう覚醒している。だけど、起き上がる様子はなかった。
このままカタリのところまで行くべき、というのが彼女の判断か?
石工の創作経験を追い、今はカタリと呼ばれる謎の人物のところに案内されている。このまま調査を続行すべき、というのも納得はできる。
そっと視線を落として、昏睡を装っている彼女の顔を見た。
イワモリ課長から幹部候補だと聞いていたから、刑事小説にでてくるような頼りないエリート新人かな、と決めつけていた。だけど、どうしてなかなか、大胆で怖いところのある人だ。
「そうか、アニメの映画だったのね」とカゲツはカタリとやらと思念通話を終えたようだ。「そっか、そういうのもあるのね」
「いっぱいありますよ。今は手に入れるのが大変ですけど」
「カタリから伝言よ。『はやく会いたいです』って」
意外な反応だ。カタリという人物像がどうにもイメージできない。なぜ、自分をわざわざ呼び寄せる。保健省側の人間だというのに。
「宮崎駿とディズニー作品の比較を語りたい、ですって」
「……そうですか」
そんなやりとりを載せたまま、トラックは目的地へと向かっていた。
◇ 廃墟ビル
トラックは目的地に到着し、バクバたちはそこの廃墟ビルに案内された。
アルナナを背負いながら、内部のフロアを見たバクバは思わず「おお」と声をもらしてしまった。そこには無数の本棚が列をならべ、そこにびっちりと漫画が詰め込まれている。そして、奥のほうには小さな個室ブースが並んでいる。
「ここは?」
「漫画喫茶、と呼ばれていた場所です」とカゲツがそう補足した。「あるいはネットカフェでしたか。もっとも、何十年も前に倒産して、今は単なる廃ビルですが」
「漫画喫茶! 本当に?」
行きつけの古本屋から聞いたことがある。信じられないが、昔の人たちは本を読むために読書部屋までレンタルしていたらしい。
すでに廃墟とはいえ、こうやって実物を目の当たりにしているとその膨大な蔵書量に圧倒されてしまう。かつてはこんな施設が日本中にあった。本当にたくさんの本を読んでいたのだ。
「あっ、ジャンプだ」と我を忘れて棚にあった漫画週刊誌を手にとった。昔はこんなに分厚い本が毎週、しかも大量に印刷されていた。「こんなところに、残っていたなんて」
今や本は骨董品だ。これだって古書店に持っていけば、それなりの値段で引き取ってくれる。
「カタリの収集品ですよ」と背後からカゲツさんの声がした。「漫画喫茶を復活させるつもりだそうです」
なにげなく、ジャンプを開いてみる。
「あっ、『スラムダンク[12]』だ!」
百年以上前の名作に目を通しながら、カタリとやらに親近感が芽生えはじめた。ここの漫画本にはよく読み込まれた後のしなやかさがある。ちゃんと読まれているのだ。他の脳有りのファッションとしての読書とは違う。
……危ないな。
変な倒錯はやめたほうがいい。僕は免疫屋で、彼は感染者、しかも、インフルエンサーかもしれない。
「それで、カタリは?」
「今は……先客がいるようですが」
カゲツは首筋をとんとんと叩きながら、眉をしかめた。
「先客?」
「誰もがカタリに会いたがっています。彼とつながりたい。そんな野心を秘めてね。カタリは優しすぎますから……」
しばらくの通話の後、彼女は「まぁ、いいでしょう。こちらです」と案内を再開した。
アルナナさんを背負い直してついていく。木の板で仕切られたブースの中が気になった。狭いスペースに大きな椅子。本当に読書のためのだけのスペースだ。あの時代の人たちは、むさぼるように本を読んでいたのだろう。
「念のために忠告しておきます」
先導していたカゲツが足をとめた。
「もし、あなたが彼を殺そうとすれば、あなたを絶対に許しません」
今までの彼女とは違う、険悪な声だった。
「その腰の刃物は預からせていただきます」
「……分かりました」
アルナナさんを落とさないように、腰から短刀を取り出して渡す。
「お預かりします」と彼女は受け取った。「では、この部屋です」
そこは他よりも一回り広いブースだった。
「ここのペアシート席です。忌々しいことにカップルシートとも呼ばれていたそうです」
さて、と息をついたカゲツさんはノックもせずに扉を開けた。
「きゃっ」と中からうら若い女の悲鳴が上がる。
覗き込むと、まだあどけなさの残る少女とコードで直結していた少年がいた。彼がカタリだ、と直感した。ひどく透明感のある少年だ。いや、青年かもしれない。実年齢が分からなかった。
「カタリ、」とカゲツさんは悲鳴を無視した。「バクバさんを連れてきました」
「本当かい?」
カタリは目を輝かせ、ブースの隅でおびえている少女のほうを向くと「ごめんよ」と声をかけた。
「大事なお客さんが来てしまった」
「誰なの?」
少女は独占欲をにじませた。
その彼女にカタリはにっこりと笑顔をむける。
「トロル狩りの人さ。ほら、君の好きな吸血鬼ハンターの物語があっただろう?その主人公みたいな人」
「あら、素敵」
少女は少女らしい気ままさでこちらのほうにも目を向けた。
「ごめんよ。譲ってもらえるかな」と頭を下げてみる。
「うん、いいよ」と無邪気が笑った。「あなたもカタリから物語を?」
「ああ」
「その背負っている人は?」
気ままな興味はアルナナさんに移ったようだ。
「……狩ったばかりのトロルさ」
「あら、本当に? あなた、脳を閉じているから、ぜんぜん分からないわ」
「トロル・ハンターだからね。やつらから脳を守っている」
「ふふっ、おもしろーい」
「ゆずってくれるかい?」
「うん。どうぞ。カタリ、ばいばい。またね」
少女はそう言うと、跳ねるようにしてブースから飛び出していく。
「……元気な娘だ」
「ええ、」とカタリが頷いた。「でも彼女はこの幸せな時代には珍しいほどに過酷な状況に置かれています。
「……そうか」
最古の職業だと揶揄される売春だが、直結ほど危険な行為は過去になかっただろう。相手の脳を上書きすることに快感を覚える変態を相手にするのだ。感染リスクも高く、何より脳をすり減らすことにもなる。
最低限の生活が保障されているこの時代で、あの若さでそこまで追い込まれている場合、その原因の多くは……。
「親御さんに問題が?」
「それもありますね。少なくとも彼女の脳はそう思っている。あの親はトロルに違いない、ってね」
「はやく保健省に通報すべきだ」
検疫をして親に問題が見つかれば、社会大脳が親権も含めて最適化するはずだ。
「ええ、あの更正プログラムは良くできていますからね。でも、そんなことは彼女が誰よりも分かっていますよ」
「では、なぜ」
「彼女にとっては、売るよりも、助けをもとめることの方が勇気を必要とするのです。少なくとも、
更正プログラムでは脳クレンジングも施される。
「クレンジングは個人で抑制不可能な悪意を検疫し、それの原因となる記憶に他者化マスキングを施すだけだ」
「それも知っていますよ。社会大脳がすべて教えてくれる。でも、一度でも脳クレンジングを受けると、まるで脱落者のように思えてしまう。普通に産まれていればクレンジングなんて必要がないのだから」
「環境によるだろう。あの年では親の影響が強い」
「すべてを環境のせいにできるほど、彼女はまだ自分をあきらめてはいない。そういう年齢ともいえます。バクバさんだって、すべての不幸を自分が自然脳だからと考えていますか?」
「……彼女の名前は? 識別番号も」
「なるほど、強制的に助けるつもりですか。やっぱり、あなたはハンターですね」
うんうん、とカタリは何度も頷いた。
「彼女が選んだのも吸血鬼ハンターの物語でした。自分から求めずとも、放浪者が勝手に助けてくれる。それを望んでいるのかもしれません……」
突然、「カタリ」とカゲツが割って入った。「時間がありません。あの娘のようなのは他にもたくさんいます。特にあなたの周りには」
「……そうだね」
カタリはさみしそうに笑い、入り口に控えていたカゲツのほうを見た。
「案内してくれてありがとう。わがままを言ってしまったね」
「いえ、私もカタリの一部ですから」
「僕もカゲツの一部さ。でもカゲツはカタリに振り回されてばかりだ。申し訳ないけど、もう一つ、いいかい?」
「ええ」
「バクバさんと二人きりになりたい」
「そこの保健省の女はいかがしますか?」
カゲツは声のトーンを落とした。
「一緒で問題ないよ。僕が思うに、バクバさんは
「……そうですか」
カゲツさんはそう言うと扉をしめて外に出た。ブースの周囲に護衛を配置したままだ。足元の隙間からは男たちの足元がのぞいていた。
「さぁ。Dよ、よくぞ参った」
と、カタリはわざとらしい大仰な口調でいった。
「もしかして、菊池秀行の『吸血鬼ハンターD[12]』?」
百年前くらいのエンターテイメント作品だ。
強大な力をもつ吸血鬼は貴族を名乗り、人類を家畜として支配してきた。人間と貴族の混血であるDはハンターとして吸血鬼を殺すが、同時に人類側からも恐れられ排斥されている。いわゆる放浪者の物語だ。
「もちろん」にんまり、と彼は口を三日月にした。「僕は漫画で読みました」
「こっちは原作の小説だったな」
「ひょっとして、バクバさんは原作原理主義ですか?」
カゲツは横にずれてシートをゆずった。
「いや」
バクバはアルナナを降ろしてそこにあぐらをかく。このブースは床にマットが貼ってあり、そこに直接座るタイプの部屋だった。
「あの作品はアニメも素晴らしいんだ。原作じゃないとダメだ、なんてもったいない」
「アニメもあったのか。それは知りませんでした」
「貸そうか?」たしか、家の段ボールにDVDがあったはずだ。「海賊版のコピー品だけど」
「本当に?」
カタリは素直にはしゃいた。
人なつっこい感じのする少年だ。だが、油断はダメだ。知性を保持するタイプの感染者は情に訴えかけてくることも多い。先ほどの少女の話だって真実である証拠はどこにもないのだ。
「それにしても、僕のことをDなんて、買いかぶりだ」
「そうですか?」
「あんな美青年ではないよ」
吸血鬼の血をひくDは絶世の美丈夫でもあり、出会った女性がほぼ必ず惚れてしまう。ハードボイルドにありがちな展開だ。
「まぁ、外見は似てないかもしれませんね」
「むしろ君のほうこそ」
実際、カタリは美しかった。とはいえ、ハンターであるDのような精悍さはなく、中性的ですらりとした体つきをしている。
「いやいや。僕はどちらかというと妖魔ですよ。キメラ。狩られる方です」
「キメラ?」
「脳がパッチワークですから」
キメラとはギリシャ神話に出てくる合成獣のことだ。頭はライオン、体は山羊、尻尾は蛇の怪物。
「つまり、他人の脳を入れている」
「ええ、たくさんの人と交換しました。今は百人を目指しています」
それは驚くべきこと——なのだろうか? なにせ、他人と経験を共有することは彼らにとっては普通のことだ。
「さっきみたいに直結で?」
「そうですね。直結じゃないと交換は難しいですから」
「特別な人とだけ、と聞いたけど」
「みんな特別な人ですよ」
……アルナナさんの眉が逆さまになりそうな話だ。
「へ〜、経験豊富なんだね」
などと、適当なことを言いながら、横にいるアルナナさんの眉を確かめてみた。いまだ昏睡を装っているが、心なしか眉の角度が険しくなっているような気もした。
「ねぇ、質問してもいいですか」
「なに?」
「バクバさんは、素手で感染者を倒すって本当ですか?」
「……それをどこで」
「ここの人からです」
カタリは側頭部を指で叩いた。
「ここは保健省の人だったのです。脳にトロルが住み着いたって不安そうだったから、その部分を交換してもらった」
聞き捨てならないことがあったが「なるほど」とうなずいておく。
保健省の職員がトロルに感染したのならクレンジングの対象となる。それで治療できなかった場合は……。どうやって逃げ出したのだろう? なぜ彼はトロルの脳を欲しがるのか?
「ねぇ、」
カタリが詰め寄ってきた。
「ここにバクバさんの記憶が残っていたのです。貴方は素手で感染者を倒していました。どうやって? どうして?」
「どうかな」
記憶を探ってみる。素手で殺したことはないはずだ。そんなの、相手を余計に苦しめるだけだ。
「やる時は刃物か銃を使う。素手はない」
「でも、僕は知っている。実際にこの目では見ていないけど、それを目撃した時の衝撃だけはここに刻まれている」
「素手で殺すなんて、そんな遊びはしない」
「いえ、殺していません」
と、カタリは手をふった。
「だからこそ、この経験は衝撃だったのです。感染の食い止めが間に合わず、滅菌フェーズに突入した時でした。
彼は保健省の関係者しか知らない情報を口にした。
エリアの感染段階は大きく分けて、検疫、免疫、滅菌、の三段階がある。担当の防疫官が滅菌段階だと認定した場合、エリア内の人間の形をしたものは自動的にトロルと見なされ、自律兵器によって皆殺しにされる。
「あの時は幻覚型のトロルウイルスだった。知性を残しつつも、視覚神経を書き換えて他人を化け物のように幻視させる。他人からの言葉も、それがどれほど優しさに満ちていようとも、罵倒にしか聞こえなくなってしまう」
幻覚型トロルは視聴覚機能に悪意フィルタを挿入することで世界が悪意に満ちていると誤認させ、間接的に人格を破壊する。ああ、少しずつ思い出してきた。滅菌フェーズにまで深刻化した事件はそれほど多くはない。
「大阪滅菌事件か?」
「そうです」
そうか、とため息が出た。あまり思い出したくはなかった。
「滅菌を発令した直後でした。一人の感染者が封鎖境界に助けを求めにきましたね。そこに貴方もいた」
「……ああ」
「滅菌フェーズ宣言後ですから殺処分が妥当。しかし、滅菌用の自律兵器はまだ配備されていなかった。軍のやつらが手間取ったせいだ」彼の口調が少しずつ変わっていく。「だから、お前に殺処分を命じたはずだ」
それは当時の防疫官——オオゴタさんだった。
「トロルは『助けてくれ。みんなが蜘蛛に見える。デカい蜘蛛だ』と叫んでいた。明らかに幻覚型に感染していた。『これはトロルのせいなのか。ちくしょう。脳がめちゃくちゃだ。はやくクレンジングしてくれ』だってな」
「……」
「俺は、俺はな」
カタリの口調はもう完全に、あの小心者の防疫官のものに変わっていた。
「お前に殺処分を命じたはずだ。名の通った免疫屋だ。あのイワモリ課長のお墨付きの。しくじるはずがない。良くやった、とねぎらいの言葉すら準備していたのに」
目を閉じた。彼の醜態など思い出したくはない。本当は耳もふさぎたかった。
「しかし、お前は殺さなかった。あの奇妙な技で拘束し、検疫針をぶっさして気絶させただけだ。確かに、結果は軽症だったかもしれない。だが、それは偶然だ。滅菌を発令しただろ。殺すのが正しかった!」
その後、彼からの殺処分命令を無視して、僕は感染者を抱えてエリアを離脱した。本来では許されることではない。免疫屋としての契約不履行が問題にならなかったのは、課長の配慮があったからだろう。
「……ふぅ」とカタリが息をつく。
先ほどまでの鬼気迫る表情は消え、ふたたび子どもっぽい笑顔が広がっていく。
「まるで脳が火傷したみたいです。オオゴタさんにとって衝撃だった。僕はこのひりつく痛みに惹かれて、交換してもらったんだ」
あの後、彼はトロルになり、殺処分を逃れて、ここにたどり着いたのか。
「ねぇ、どうして? 感染者を殺さなかったのですか?」
「……」
「答えられませんか?」
「複雑だよ」
「単純なわけがない。単に、殺したくなかっただけ、だったら貴方はハンターじゃないですから」
「ああ」
感染現場では、トロッコ問題的な意志決定が連続する。
暴走するトロッコの行く先が二つの路線に分岐している。路線Aには五人、路線Bには一人の人が立っていた。どちらもトロッコの暴走に気がついていない。現在の分岐先はAであり、このままでは五人をひき殺してしまう。分岐を切り替えるレバーはあなたが握っている。
——質問。
あなたはレバーをBに倒し、五人のために一人を殺しますか? それとも、レバーから手を離して、一人のために五人を見殺しにしますか?
「多分だけど」
「はい」
「僕はオオゴタさんのことが、あまり好きじゃなかったんだ」
端的にいえば嫌いだった。
彼は現場報告を無視しマニュアルの遵守に固執した。最前線で食い止めていた免疫屋たちを命令外の殺処分を理由に更迭したことさえある。それなのに、状況が悪化し感染者数が規定値以上になると、手の平を返したように皆殺しの滅菌宣言をした。
彼はその責任にありながら、自らの手でレバーを引くことを拒否し続けた。もちろん、人の生死を決める決定だ。組織として判断することを重視した彼の正しさは理解できる。それでも、無駄に死なせた上に、無駄に殺させようとしたのは誰だ。
「好きじゃなかった? それで命令違反を」
「ああ」
「ふ〜ん、意外かな」
「オオゴタさんは……、僕を恨んでいただろう?」
「ええ、とても」
にこやかに笑われた。
「バクバさんのお陰で一人を救えた、とは思えないのです。自分がトロルになったのも、あなたのせいだと思っている」
「そうか」
誰が悪かったのか……。そんなの
「……こっちからも質問していいかな?」
もう話題を変えたかった。考えても無駄なのは分かりきっている。
「ええ、どうぞ」
「石工の創作経験について」
「石工?」
「壁を積み上げる石工が、女性の胸を見て、壁から落ちる物語だよ」
「ああ」
カタリは手を叩いた。
「もしかして、僕の作品ですか? でも、なぜバクバさんがご存じなんです? あれは共有脳がないと体験できないはず」
やはり、彼が作者だった。
しかし、意外なのは彼の若さだ。石工が女をなめるあの視線はスケベ親父のそれだ。いや、彼はその脳も交換したのか。
「ホログラムに投影して」
「なるほど、その手がありましたか。で、感想は? 是非、聞きたいです」
きらきらと瞳を輝かせて、こちらを覗き込んできた。
「ふむ……。最後の結末なんだけど」
「ええ」
「石工は壁から飛び降りて、どうなったのかな?」
「どうなったと思います?」
死んだはずだ。普通に考えたらそうなるだろう。
「生きていたらいいな、と思ったね」
「……」
「それが僕の感想かな」
「ふふっ」
カタリは口元に手を当てた。すき間から口元が歪んでいるのがのぞく。
「あの『石工の壁』のラストで、石工は壁から飛び降ります。下は洪水、目線は上。その後は誰にも分からない。僕にもね。バクバさんが生きていると思うなら、彼は生き延びたかも知れませんね。少なくとも、その一時だけは」
「彼は死ぬしかないと?」
「さぁ、どうでしょう。その先は体験者に委ねたつもりです」
カタリは肩をすくめた。
「でも、あれはバクバさん向けの物語じゃないですね。もっと、窒息している人向けです」
「窒息?」
「重油の中に入れられた魚みたいな」
と、カタリはくすくすと笑った。
「そういう人を突き動かそうとはしました。死にたがっている人に勇気を与え、怒りにとらわれている人を燃え上がらせる。そんな物語にしたかった。ほら、さっきの売春の子みたいな。現状で頑張るほど生殺しにされる人たち」
アルナナさんから聞かされた分析を思い出す。あの経験を入れた人間の自殺率は高かった。
「例えば、スタンリーは」とカタリはつづけた。「自身の戦争映画『フルメタル・ジャケット』を論評家から『これは反戦映画である』と言われて違和感を抱いたといいます。彼は戦争の良し悪しではなく、純粋に戦場で一般化する狂気を表現しただけ」
「反戦は見た人の解釈にすぎない、と」
「もっと言えば、あらかじめ反戦だと決めつけていただけ。論評にとってスタンリーの中身なんてどうでもいい。ただ、どこから借りてきた反戦論を叫んで気持ち良くなりたかっただけ。みなさん、当然、反戦は賛成ですよね? あのスタンリーだって賛成なのです。はいはい。賛成賛成。ほらほら、みんな同じで気持ちいいですねぇ、って感じ。まるで、集団マスターベーションですよ。あの評論家はスタンリーを集団でファックしたんだ」
ようやく、この少年の表情が見えた気がした。
「でも、そこには違うと感じている人だっている。そういう少数はその輪の中に入れられ笑顔で強姦され続けている……。そんな人が決意できるような、あれはそんな物語のつもりです」
彼は少しおびえたようにこちらを見た。
「そんな物語は悪でしょうか」
「悪さ」
カタリは傷ついたように顔をくしゃくしゃにした。
「バクバさんはきっと強い人です……。自然脳の方は、全員がそうとは思いませんが、自然脳だからこそ強い壁を持っている」
「勘弁してくれ」ため息がでた。「僕だってぎりぎりさ」
「でも、バクバさんは脳無しと蔑≪さげす≫まれているのに」
「確かにそういう人は多い。でも、僕の周りにはそうじゃない人もいる」
ふとアルナナさんの視線を感じた。こっそりと彼女のようすをうかがって見たが、変わらず眠り姫のように目を閉じたままだった。
「本当に他者が必要ですか? 特に貴方の場合は、傷つけてくる人の方が多いのに」
「必要さ。少なくとも他者は無視できない」
「それはサルトル的な?」
「どうかな。サルトルは僕には難しすぎる」
カタリは口調を重々しく変えて語りはじめた。
「サルトルは生まれながらに何者でもない自己を『化け物じみたやわらかい無秩序のかたまり』、あるいは『恐ろしく
確か、『嘔吐[13]』の一節だったか。サルトルは自己の本質を、吐き気をもよおすほどに醜い無形であるとして、それが他者の眼差しに
「いわく『地獄とは他人だ』だったかな」
「ええ。やっぱり、貴方との対話は心地よい」
カタリはつづける。
「それゆえ、人は醜い自己を取りつくろうと努力する。しかし、それは他者の期待する形に自己を削りとること。子どもは可愛くあれ、少年は元気に遊べ、青年は社会に触れ、大人になると貢献し、老人は沈黙すべきだと」
他の哲学者たちも、ラベリング、ステレオタイプ、ペルソナなどの言葉で似たような他者との関係性を指摘しているだろう。しかし、サルトルのそれは妙に生々しい。
「しかし、いくら努力しても、他者の期待どおりの形にはならない。そもそも、自分自身にも、自己がどんな形なのかは手探りなんだ。ひどく歪んだ、醜い形であることだけは予感している。このままでは、他者の視線に切り刻まれ、勝手に失望され、やがて失血死する。自己は他者に一方的に殺されるんだ」
「それは本当にサルトルかい?」
うろ覚えの記憶では、サルトルはもっと肯定的な結論を結んでいたはずだ。積極的に他者に身を投じ、その視線を通して自己を形成すべきだ、と。少なくとも、僕にはそう読めた。
「いいえ、僕の解釈ですよ」
カタリは頭をふる。
「僕だけの解釈です。読んだものは読んだ人の自由なのです。間違った解釈など、正しい解釈と同じくらい実存しない」
彼は読む勇気を主張した。
自分にはそういう割り切った読み方はできなかった。だから、哲学書を読むときに苦労するのかもしれない。間違っているかもと恐れながらの読書は楽しくないから。
「サルトルは君みたいに絶望していなかった。自己を意味づけるためには、他者にその身を投げ入れるべきだと」
「それは自然脳だったからですよ。この共有脳の時代ではサルトルを発展させる必要がある」
「発展?」
「僕たちは、」
カタリは手でピストルを模して、自らのこめかみに指をあてた。
「経験をリセットできる」
「……」
「確かに、サルトルは他者と関わった経験が自己の未来を開くとうたった。だけど、それは自然脳を前提としている。共有脳によってモジュール化されてしまった、この脳には通用しない。だったら、僕らの自己とは? サルトルの言う『化け物じみたやわらかい無秩序のかたまり』以上に、ここには何もない。実存すらあやしい」
「つまり、アイデンティティの不安?」
自分は何者か? 自らにそう問いかけても即答できる状態。それが
「貴方はバクバさんです。自然脳で免疫屋。実績もある。自分の行動を他人の判断に委ねたりなど絶対にしない人」
カタリは指先をこちらに向けた。指でつくった銃口が僕の脳にすえられている。
「どうしようもないくらい、貴方はバクバさんなんです。でも、そういった確かな名を僕らは持ち得ない。……あの
「それが君の解釈か」
「僕らには、醜い自己が醜いままでいられる安全な場所が必要なのです。そのためには、完璧な壁が必要です。他者が無責任に向けてくる期待を遮るための」
「でも、あの物語の最後には他人が壁の中に入ってきた」
「そう、侵入者のまなざしに晒さらされた時、石工は殺された」
「自殺では?」
「他殺ですよ。およそ自殺なんて視線による他殺です」
「……」
ああ、そうか。だから、僕はあの物語は嫌いなのだ。
「僕は、……違う意見だな」
「どのような?」
侵入のきっかけを作ったのは石工自身だ。
洪水で溺れていた女の露わになった乳房を見て、女だけを中に招き入れようとした。その動機は単なる性欲だっただろう。加えて、力の弱い女であれば自分を脅かさないだろう、という軽薄な見立てもあったかもしれない。
愚かなことだ。女の視線こそ、男を強力に拘束してしまうのに。
「石工は他人のことをちゃんと見てなかった。それだけだ。彼が見ていたのは女のおっぱいだけだった。彼女が石工へ向けた感謝すら、彼は見ようとしなかった」
「……」
「石工は見られる存在だけど、同時に相手を見る存在でもあったのに。彼女の目をちゃんと見ていれば、他人から感謝されている自分を発見できたのに。そこに映る自分の形は、美しくはないだろうけど、ちゃんと人の形をしていたはずなのに」
カタリは目を見開いた。「なるほど」と何度もうなずいて「そうか。確かに、あの物語にはその可能性もある。だとすれば……、自己は自分の脳になど存在しない。他者の目に宿るものなのか」などと、思考にふけりだした。
その様子を眺めていると、彼は急にキラキラした瞳をこちらに向けた。
「ちなみに、バクバさんには僕がどう見えます」
「うん?」
「ねぇ、貴方にとっての僕の形は?」
「君は……変な子、かな?」
ふふっ、と彼は吹き出した。
「そうですか。変な子ですか。ふふーん、気に入りましたよ。それ」
カタリはにんまりと笑った。
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[10]『恋愛論』(スタンダール。新潮文庫。翻訳は大岡昇平)
刊行されたのは1822年。今風にいえば、超リア充な恋愛の達人、スタンダールがその豊富な恋愛遍歴から恋愛について熱く語ったエッセイである。私がこれを読んだきっかけは、同じくリア充の友達に「小説で恋愛シーンを書くのが苦手なのだけど、おすすめの恋愛小説ある?」と聞いた時にこの本をオススメされたことだった。
[11]『から騒ぎ』(ウィリアム・シェイクスピア。演劇)
平和な喜劇で今でも大変な人気がある演目。仲違いする二人をくっつけようと別の二人が策略を巡らし成功する。でも、その後に策略を巡らした二人のほうが仲違いを初めて……、と終止ドタバタしていて楽しい。
[12]『吸血鬼ハンターD』(菊池秀行。朝日新聞出版)
吸血鬼を題材にしたゴシックホラー作品は数あれど、それにSFファンタジーと西部劇を組み合わせたのは他にないはず。そんなジャンルのごった煮を面白く仕上げた手腕には脱帽です。個人的にはアニメ化されたものを見て欲しいと思います。
[13]『嘔吐』(サルトル。人文書院)
サルトルは実存主義をとなえた哲学者としても有名ですが、小説家でもあります。この嘔吐という作品は彼の実存主義がつまった作品として有名です。私は本作を読む上で、『実存主義』(松浪信三郎。岩波新書)も参考にしました。
自分は何者なのか? という問いかけに、醜いかたまりだ、と断言したサルトルのモテない感じが大好き。そこがスタンダールとは全然ちがう。恋愛を結晶化と賞賛したリア充に対して、サルトルは『地獄とは他人だ』ですよ。
ちなみに『地獄とは他人だ』という名言は、サルトルの『出口なし』という戯曲からの引用です。
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