1.3. 『壁』

◇池袋の古書店


 共有脳は犯罪を根絶した。

 より厳密に言えば、犯罪病理学の発展と共有脳の普及によって犯罪は治療可能な精神病となった。かつては刑罰の対象であった犯罪者たちは病人として扱われ、その脳に治療を施して社会に復帰していく。

 その結果、かつては多くの刑事関係者を絶望させてきた高い再犯率は激減し、初犯率と同じ水準まで文字通り初期化クレンジングされた。

 この犯罪医療の劇的な勝利は、これまでの刑罰システムの敗北でもあった。やがて、刑罰システムの維持にかかる莫大なコスト——すなわち、警察、裁判所、刑務所などの組織の存在意義が疑問視されるようになる。

 これらの背景から、政府は警察庁と刑事裁判制度の解体を決定し、厚生省へ統合する形で新たに『保健省』を設立した。

 今や、保健省は日本政府における第一の省として、最も大きな影響力を有している。


 バクバは立ち読みをしていた『日本現代史 2120』から店の奥へと視線をうつし、「店長」と呼びかけた。

「なんだい」

 積み上げられた本の山から、老人が皺深い顔を出す。

「この歴史書、今年の?」

「書いているだろう。2120年のだ」

「まだ印刷本なんて刷っていたんだ」

 今ではあらゆる情報は経験データとして社会大脳から公開される。電子本ですら珍しくなったご時世に、わざわざ本にする必要なんて無いだろう。

「ああ」と老人は片目を細めて、じっとバクバの手もとを見る。「そいつは今年の教科書だな。国が刷ったヤツだよ。記念品みたいなもんだ」

「へぇ〜」

 バクバが表紙を裏返すと『500円』の値札がはってある。なるほど安い。印刷本は安くても五千円はするはず。こいつはラッキーだ。

「これ買うよ」

「おや、また珍しいもんを。言っておくが、電子本が無料でアップロードされているぞ」

「紙で読みたいので」

「ほっ」と店長は肩をすくめた。「そうかい、そうかい。変わった奴だよ、お前さんは。今どき、脳無しのままなんて」

「脳有りの人でも読書は人気らしいですよ」とポケットをまさぐる。「あえて本を読んで、脳に運動させるのが静かなブームだとか」

「はぁ〜、そうかい。そんな時代かい」

 バクバが取り出した決済カードを店主は受け取った。

「余裕があるねぇ。昔は色んなもんに迷って、答えを求めて、本屋を探し回ったもんだがねぇ」

「答え?」

「そうさね」

 店主はぶ厚い眼鏡を外すと布でぐいぐいとふきはじめた。

 おそらく八十歳は超えているこの店主も脳無しだった。共有脳に埋め込む手術には体力が必要だし、共有脳に合わせた脳変異が不十分で無駄に終わる可能性が高い。

「まぁ、考えてみれば当たり前か。儂が若い頃だって、AIで仕事がなくなるって大騒ぎだった。それが今や共有脳だろ。資格とか受験がなくなって、何でもインストールできるんだから。ますます時間を持て余すわな」

「そういえば、前にここで買った小説、読みましたよ」

「なんだっけ?」

「『白い巨塔』です。昔の医者は大変だったんですね」

 この小説は大学病院を舞台に、医者同士の出世競争に野心、そして理想が交錯する人間ドラマだ。まさにメスのようなあの緊張感は、医者になるのに大変な努力が必要な時代ならではだろう。

「そうそう、昔のお医者さんは給料も良かった。サラリーマンだってそうさ。ひらから課長、課長から部長、次は社長だーって、出世しないとダメだって、みんな焦っていたんだよ」

「どうして?」

「どうしてだったんだろうね。肩肘はって他人を押しのけないと、生きがいを感じなかった。今思えば、おかしな時代だったよ」

「そういえば、漫画のサラリーマンたちも出世ばかり気にしていましたね。『島耕作[4]』とか」

「また懐かしいのを読んでるね」老人は嬉しそうに笑った。「でもまぁ、ああいう風に出世したいとみんな思っていた。それに比べて、やっぱり今の若者は落ち着いている。ガツガツしとらん」

「でしょうね」

 島耕作シリーズも、その当時の世相を反映して主人公はどんどんと出世していく。社長になった頃にはずいぶんと落ち着きのある人格者になったが、課長だったころは野心的だったし卑怯なところも垣間見えた。なぜか、いつも女性から誘惑されてトラブルに巻き込まれるのは、マンガ的なご都合だろうけど。

 出世したい、か。

 今でいえば、管理職の経験セットを脳に入れる仕事がしたい、ってことだろう。自分にはよく分からないが、そんな人気のある職業ではなさそうだ。イワモリのおやっさんも「課長なんて面倒くさいだけだぞ。昔と違って、ひらと給料は同じだしな」とよく愚痴をこぼしていた。

「出世といえば、自己啓発本って知っているかい?」

 と店長が手を叩いた。

「昔のサラリーマンはみんな、出世するためにそいつを読んでいたんだ」

「自己啓発本? 知らないですね。出世するためにってことは『論語』みたいな?」

 古代の中国では官位を得るためにこぞって論語を読んだそうだ。

「ははっ、似たようなものだよ。ふるきを温めて新しきを知る。どうだい、一冊読んでみるかい? 自己啓発本の代表作が……たしか、ここにあったはず」

 店主はひょいと手を伸ばし、「あった、あった」と本棚から抜いた本を抜きとった。

「『七つの習慣——成功には原則があった』……か。なんと言うか、即物的なタイトルですね」

「それは初期の本だからな。売るための奇をてらったタイトルにしたんだろうよ。たしか、こっちに後から再販されたのもあったはずだ」

 と、店主は別の本棚をさがす。

「これだ、ほれ」

「『七つの習慣——人格主義の回復[5]』。これ、同じ本ですか?」

「ちょっと手は加わっているだろうが、内容は同じはずだよ。衣食足りて礼節を知る、ってな。十分に売れた後の再版だから、タイトルも謙虚になる。おもしろいもので、今では売れる前のほうが価値がある」

 と、成功の原則をうたった本を指差し「そっちは八万円」、指を戻すと「こっちは二万円だ」と言った。

「どっちにする?」

「……二万円のほうをください」

 正直、上手いこと買わされた感じがしたが、かつて島耕作に憧れたサラリーマンたちが競って読んだ本に興味がそそられた。けっこう分厚いから二万円は妥当だろう。

「毎度ありぃ」

 バクバは肩をすくめながら、もう一度カードを差し出した。


 ◇池袋の駐車場


「……バクバさん」

 アルナナは待ち合わせに姿を現したバクバを見て眉をひそめた。

 彼は小脇に分厚い本を二冊も抱えていた。

 これから調査する場所は危険なので、課長が彼に護衛を頼んだのだ。それなのに、本を持ってくるとはどういう了見だろう。

「はは」と彼は頭の後ろを掻いた。「遅れました。すみません」

「いえ」

 まぁ、危険とは言っても感染エリアではない。トロルと対峙してきた彼からすれば、読書の片手間にこなせる仕事なのかもしれない。

「本日はよろしくお願いします」

「は、はい。こちらこそ」

「さっそくですが、車の中で打ち合わせをしましょう」

「ああ、よかった。中に本を預けても良いですか? これ、邪魔だったんですよ」

「……ええ、どうぞ」

 やっぱり、本は邪魔だったようだ。

 彼を助手席に招き入れ、自分は反対側にまわって運転席側から入る。共有脳から命じて搭載されたホログラムを起動させた。

「昨日、課長から概要をお伝えしましたが、これから詳細を補足します」

「ええ」

「少々お待ちを」

 そう言いながらも、アルナナは少し悩んだ。

 もし彼に共有脳があれば、データをダウンロードしてもらえれば済む話だ。しかし、彼には別の方法で伝える必要があった。上手く伝わるだろうか。脳科学などの専門知識も必要なのだが……。

「脳科学はご存じですか?」

「本で読んだ程度ですが」

「……そうですか」

 具体的にどのレベルまで脳に入っているのかも分からない。

 しかも、本で読んだということは、専門知識をわざわざ文字にして視覚で読み込んだということだ。そのような定着方法ではかなりの知識が欠落しているだろう。

「分からないことがあれば、遠慮なく質問してください」

「まぁ、何となくで」

「……はじめますね」

 まぁ、大きな問題にはならないだろう。彼はあくまでも護衛で、調査は私の責任なのだから。

「これが問題の創作経験データです」とホロに脳波を送ると、車内全体に投影映像が広がって風景を塗り替えた。

 投影されたのは高い石壁に囲まれた場所だった。その壁の石は整然と並べられ、針を通すほどの隙間も見当たらない。天井を見あげると、そびえ立つ壁が空を四角に区切っている風景が投影されていた。

「これは?」

「体感型コンテンツなので、ホログラム化しました」

 本来は共有脳で網膜に直接投影して体感するものだが、それではバクバさんには伝わらない。

「わざわざすみません」

「いえ、これは感染源ですから、私たちも共有脳で再生するわけにもいきません。ですから、空間映像ホログラフィへの変換は通常の検疫業務です。では、再生しますね」

 すると、ホロは風景を揺らして歩き始めた。どうやら主観映像だったようだ。それを見つめていたバクバは「うっぷ」は顔を背け口元を手でおおう。

「どうしました?」

「いえ」と頭をふる。「急に動き出したので、映像に酔ってしまって」

「ああ。失礼しました」

 映像をスライドショーに切り替える。

「ふぅ。あ、それなら大丈夫です……。アルナナさんは大丈夫なんですか?」

「ええ。感覚ズレによる酔いは調整できますから」

「やっぱり、便利だなぁ」

「コマ送りにしながら、私が補足しますね」

「助かります。実は興味があったんですよ。課長が小説みたいだ、って言っていましたから」

 と、バクバは、ぱっぱっと切り替わっていくホロを見渡した。

「周りは全部、壁ですね」

「主人公は石工の男です。彼は街外れに住み、家の回りに石壁を積み上げています」

 シーンは変わり、石工が丹念に削った石を壁に積み上げていく。その石壁は異様に高かった。すでに背丈の三倍までに達しようとしていた。しかし、石工はやめようとはしない。

「ずいぶんと立派な壁だ」

 しかし、壁の中にあるのはボロ小屋だけだった。その小屋は石工の住居だ。たった、それだけしかないのに。

「……壁の向こうから笑い声が聞こえる」

 風景はコマ送りでも、音声はリアルタイムに流れていた。

「街の住人です」とアルナナさんの補足が入る。「彼らは石工の壁を無駄だと笑っています。次で、街の中のシーンに変わります。石工は切り出した石材を売って、帰りに酒場に立ち寄りました」


 石材を売り、わずかばかりの生活費を得た石工は、カウンターで酒を飲んでいた。

 すると、隣に寄ってきた男女に声をかけられる。

 男は酔っていた。石工の肩を掴み「壁の男だ」とニヤニヤ笑う。「なぁ、あのご立派な壁はなんなんだ?」「潰れたカエルみてぇなお前には随分と勿体ない壁じゃないか」と唾を飛ばしてきた。

 しかし、石工はその罵倒まじりの質問に答えられなかった。

 男の背後で薄く笑う女が「よしなよ」と男の背中をなでていた。石工は女の様子が気になってチラチラと盗み見てしまう。はだけた着こなしから商売女のように見えた。胸元からのぞく魅力的な肉感に思わずよだれがこみあげる。

 街外れで壁を囲っていた石工には、女気がなかった。酔った男がこうやってなぶって来ない限り、女が彼に近づいてくることなどない。慣れない距離についつい視線が奪われてしまう。

 石工が答えられずにいると、ほろ酔い加減だった男は次第に不機嫌になっていく。それでも石工は女ばかりが気になってしまう。正確には、そのはだけた胸元に視線が吸いついて離れなかったのだ。


 ——この石工のように、男とはおっぱいを眺める生き物である。

 と、バクバは思い至った。

 悪気はなくともついつい目が吸い寄せられてしまうものだ。もはや反射と言うべきこの本能を、共有脳があれば抑制できるのだろうか。

「……この物語は、」と眺めていたアルナナの胸から視線を引き上げた。「随分と昔の設定みたいですね」

「ええ、おそらく中世より以前の、欧州でしょうか?」

「多分、そうでしょうね」

 また場面が切り替わる。

 いよいよ激昂した男に殴られ、石工は酒場から追い出されてしまったところだ。道路に転がりながらも石工は顔をあげ、酒場の中へと消える女の尻を眺めていた。

「この作者は男に違いない」

「なぜ、そう思うのですか?」

「……いや、」自信はあったが、その根拠は説明しかねた。「単なる直感です」

「はぁ」


 シーンが切り替わり、時は過ぎ去っていく。

 あいかわらず石工は石を積み上げ続けていた。ボロ小屋では神経質なまでに正確に石を立体に削り、納得のいかないものは街で売るための在庫に回し、完璧な形だけを石壁に積みあげた。

 切り削り、選別して、積み上げて、笑われる。壁はどんどん高くなり、家から見上げる空は小さな四角になっていったが、壁は向こうの嘲笑はやまなかった。


「本来であれば、」とアルナナは一時停止した。「ここでは複雑な感情が再生されます」

「はぁ」

 とバクバは首をかしげた。映像や音声だけでなく、感情を脳内で再生する、というのは実感が沸かない。

「どんな、感情ですか?」

「そうですね」とアルナナは首筋に手をあてる。「壁を積み上げるほど、相対的に自分が落下していく感覚。それでも壁は成長し続ける。……そんな感情のようですね」

「驚いた。詩的なんですね」

「いえ」とアルナナは首を振った。「この創作データに作者コメントが残っていました。テキスト形式でメモを残すなんて変わった作者ですね」

「成長する壁か……。まるで安部公房だな」

 安部公房は小説家で、壁をテーマにした小説をいくつか書いている。成長する壁というフレーズは『S・カルマ氏の犯罪[6]』に登場したはずだ。

「どうしました?」

「いや。続きが気になってきました」

「あと少しです。それからしばらくして、街を洪水が襲います」

 停止していた音声が流れはじめ、車内のホロがまた切り替わった。


 ある日、壁の向こうから「洪水だ!」と悲鳴が上がった。

 驚いた石工が家の壁に登り外を見下ろすと、泥まじりの濁流が街をのみこんでいた。低く脆い街の壁は、簡単に決壊したようだ。

 それに比べて石工の石壁は頑強だった。

 選び抜かれた石は整然と互いを支え合い、濁流にもビクともしなかった。それを誇らしく重いながら、石工は眼下で溺れ死んでいく人をぼんやりと眺めていた。

 死にゆく街の人々を可哀想だとは思わなかった。だからといって痛快にも感じない。自分のことを馬鹿だと笑っていた彼らは間違っていた。それが確認できたことは良かったなぁ、と石工は頬杖をつく。

 そうやって濁流を眺めていると、眼下で自分の石壁にしがみついている女に気がついた。あの女だ。酒場で自分を殴った男の、肉感的な女だった。

 石工は、ぼぅと女を眺め、まるで水草のように張り付いているな、などと考えていた。

 その時、女の胸元がはだけ、その白い乳房があらわになる。

 それを見た瞬間、石工は反射的に走りだしていた。家に戻って長縄を引っ張りだすと、また壁に駆け上がる。眼下の女に向かって「掴まるがいい!」と投げた。

 しかし、縄は女の位置から外れてしまう。もう一度、と引き戻そうとすると予想外の手応えがあった。よく見ると他の誰かが縄を掴んでいる。

 男だ。

 石工は眉をしかめた。しかも、そいつは自分を殴ったあの男だった。

 男は縄を掴んだまま、女のところまで泳ぎつく。そして、彼女を抱きしめて石工を見上げて叫んだ。

「さぁ、引っ張りあげろ!」

 石工は何か間違っていると思った。しかし、「どうした。さっさとしろ」と急かされ、また、震える女がすがるような目で見上げてきた。石工は歯を食いしばって縄を引っ張り上げる他になかった。

 やっとの思いで二人を石壁の上まで引き上げると、男は礼もそこそこに「他の奴らも助けるぞ」と言い出した。

 なぜ? と石工は思った。ここは自分の壁だ。お前のじゃない。

 石工に抗議する間も与えず、男は勝手に長縄を投げはじめ、次々に人を助けていった。助けられた人々は男に感謝しながらも、石工には気がつかない様子だった。まるで、石工も男に助けられた一人なのだろう、とそんな視線をよこしただけで、彼らも救助活動に協力しはじめる。

 なぜだ? と石工はますます訳が分からなくなった。

 どんどんと壁の上は人で溢れていく。いつの間にか最初の男がリーダーになっていた。まるで、英雄のようだ。彼は他人に指示を飛ばし、周りはすみやかにそれに従った。助けられた女たちも、男の周りに群がって媚びを売り始めた。

「壁を補強しよう」と男が言い出した。「家の中には余った石があったぞ。みんなでそれを積み上げるんだ」

「ダメだ!」

 石工は叫んだ。それだけは我慢がならなかった。家にあるのは形の悪い出来損ないばかりだ。それらは街の奴らに売りつけるものだ。自分の壁に加えるなんて、絶対に許すことができない。

「あれは壁にふさわしくない」

「馬鹿を言ってる場合か」

 周りの人たちも石工の必死の抗議をあざ笑い、出来損ないの石を壁に積み上げていく。

「ダメだ。せっかく完璧だったのに。馬鹿でも分かるだろう。不整合に積み上げても意味がない。崩れるだけだ!」

 何度も警告を重ねたが、そのすべては無視された。

 完全な整合性の上に、乱暴に石が積み上がっていく。

 壁に精通していた石工にはそれが無意味であることがよく分かっていた。本来であれば、角には長方形を交互にわたし、そのすき間を小さな立方で埋めるように配置すべきなのだ。そういう法則を一分の不整合もなく繰り返してこそ、この洪水の衝撃に耐えた頑強さと乗り越えさせない高さを実現していたのだ。

 素人がめちゃくちゃに積み上げた置き石など何の意味もない。

 しかし、素人の男たちは何かをやり遂げたように「これで安心だ」と笑い合っていた。愚かな女たちもほっと胸をなで下ろして、男からの愛撫を求めて腰をくねらせている。

 無駄な重みを負わされた壁はそれでも頑強だった。それは石工が長年かけてきた丹念な下積みによるものだ。

 しかし、それを理解できるものは誰もいなかった。

 その時「ちょっと、みんな」と女が声をあげた。はじめに助けようとした女だった。「石工さんにあんまりなんじゃないかしら。この壁は彼が作ったものでしょう」と周りをたしなめる。

 すると周りの人間たちはバツが悪そうに顔をゆがめながらも「そうだな」「言い過ぎたかもな」などと小鳥が餌をついばむように謝りはじめる。

 違う——と、石工は絶句した。

 お前たちの感謝などいらない。まるで物を恵んでやるように言うな。気色悪い。何も分かってないくせに、偉そうに俺を語るんじゃない。反吐が出る!

 俺はただ、お前たちと同じ世界に産まれたくなかっただけなんだ。

 そして、石工は壁の上から身を投げた。


「……これで終了です」

「なるほど、ね」

 と、バクバは手を組んだ。

 聞いていたほど変な物語ではなかった。同じ壁をテーマにした創作なら、安部公房のほうがぶっ飛んでいる。例えば、ある日、主人公は自分の名前を失う。とりあえず職場にいくと席には名刺が座っていて、主人公は名刺と問答を始めてしまう。

 とはいえ、確かにこの石工の話も小説的ではあるし、寓話性も感じた。

「バクバさんは、」とアルナナさんが覗き込んでくる。「これをどう思いますか」

「あんまり、好きじゃないかな。こういうタイプの話は」

「お嫌いですか?」

「嫌いと言うわけでは……。う〜ん、」困ったな。「石工に共感できる部分もあります。でも、そこって、きっと、僕が嫌いな自分なんだよなぁ」

 と言ってはみたが、どうかな?

 石工は石を積み上げ、自分は本を積み上げている。そこに共通点はある。だけど、自分は石工のようにはなりたくない。あれではダメだと思う。

「共感ですか?」

「例えば、石工のおっぱいが好きなところとか」

「バクバさんはおっぱいが好きなのですね」

 しまった。

「だったら」とアルナナの目が細くなった。「一般的な男性向けわいせつ映像と、先ほどの石工の映像。どちらがお好きですか?」

 それはわいせつ映像のジャンルによりますね——、と正直に答えそうになったのをあわてて止めた。そういえば、課長が忠告していたな。アルナナ君には適当にしておけ、と。

「一般的な男性向けのほうです。圧倒的に」

「そうですか」

 アルナナさんはほっと息をついて「安心しました」と、まるで思春期の息子を持った母親のようなことを言いだした。

「安心してしまいましたか」

「実は、今回のゼロ号感染者ですが、これを少なくとも二千回は脳内再生していました」

「二千回は……多いですね」

「異常に高頻度と言えます。つまり、のべ四十日間。検疫官の分析レポートには『これは一般的な男性が、お気に入りのわいせつ経験コンテンツを再生する時間よりも圧倒的に長い。よって、明らかに常習性があると言える』とありました」

「素晴らしい分析です」

 きっと、その検疫官は女性だろう。まぁ、男性の性嗜好がネタにされるのは、今に始まったことではない。逆に男が女の下ネタなんて聞かされると、ぎょっとして困惑するしかないのに。

「これが感染源ですか」

 アルナナさんがうなずく。

「しかも、このデータには脳を物理的に上書きするようなプログラムは存在しません。つまり、トロルの自然発症を誘発したと言えます」

「感染コンテンツですね」

「ええ、検疫ができない新種です。仮に、これが社会大脳にアップロードされても検知はできません。そのまま全市民に共有されてしまいます。もちろん、同じデータは除外できますが、アレンジを加えられると検疫は不可能です」

「で、発症率は?」

 検疫ができないコンテンツ感染は厄介だが、その分、トロルを発症する確率は低い。人によって感染する人とそうならない人がいる。

「ランダム抽出した十万人の市民に検査を行いました。結果、同じ経験データを保存していたのは八名。そのうち三名が脳定着。一人はすでに自己完結型を発症していました」

 自己完結型トロルとは自殺のことだ。

「まだ統計量としては不十分ですが、脳定着率は38%、発症率は13%です」

「強毒性ですね。まだ社会大脳にはアップロードされていない?」

「はい。ゼロ号感染者の共有脳ログによると、経験カクテルバーでこれを購入したようです」

 まだ、この創作経験が広がってないのが救いだろう。

「保健省はこの作者の身柄確保を決定しました。それがこの調査の最終目的です」

「それで、その経験カクテルの店を調査するのですか」

「すでに殺処分もオプションに入っています。最悪の場合、ここ池袋を感染エリアと宣言する必要があります。それは防疫官が判断せねばなりません」

 バクバは背もたれに体重をあずけ、天井を見上げた。ホロが写像されたままのそこには、石工が最後に見た曇天が広がっていた。




——————

[4]『島耕作シリーズ』(弘兼憲史、講談社)

 『課長島耕作』からはじまり、『部長』『取締役』『常務』『専務』『社長』と順調に出世していったサラリーマン漫画の金字塔。初期の『課長島耕作』を読むと、主人公がけっこう下衆なところがあって驚いてしまった。最近では異世界転生して『騎士団長』にもなっているようだ。

[5] 『七つの習慣——人格主義の回復』(著スティーブン・R・コヴィー、翻訳フランクリン・コヴィー・ジャパン)

 個人的には自己啓発本の先駆けだと考えている。世界で3000万部も読まれたことから名著と言っても差し支えはないだろう。昨今の自己啓発本に対する出世のためのノウハウ的なイメージとは異なり、本書ではかなりストイックな主張が繰り返される。主体的であれ、誠実であれ、勤勉であれ、テレビなんて時間の無駄だ!......などなど。

[6] 『S・カルマ氏の犯罪[』(安部公房)

 安部公房の中編・短編集『壁』のはじめに収録されている中編小説。名前を思い出せない主人公が、不思議なできごとに巻き込まれて壁になっていく。かなり非現実的な(剣も魔法も出てこない)ファンタジーだった。読む人を選ぶ作品だと思いました。


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