1.2. 『般若心経講義』
◇アルナナの自宅マンション
アルナナが目をあけると、(おはようございます)と脳内で合成音声が骨振動した。
(朝の七時三分です。起床されますか?)
「ええ」
(血圧と体温が適正値を下回っています)
言われてみれば、足先が凍りついたようにこわばっていた。今朝は特に冷え込んでいたようだ。
「調整してちょうだい」
(しばらくそのまま横になってください。交感神経を活性化させます)
すると、ゆっくりと心臓が脈を強め、熱のこもった血を体中に巡らしていく。指先の毛細血管がしだいに膨張し、徐々に体が覚醒しているのが分かる。私は低血圧らしく、起床時には体調調整をよくレコメンドされる。
「そういえば、脳定着の進捗は?」
(防疫官の引き継ぎ用経験セットのことでしょうか?)
「ええ」
(現時点で98%のデータが大脳皮質に定着しています)
「確認したいのだけど」
(クイズを出しましょうか?)
「お願い」
(では、イワモリ課長が執務室の冷蔵庫に隠している日本酒は?)
「磯自慢の吟醸酒」
(正解です)
……というか、なぜ前任者はこんな経験を?
その理由もまた定着した記憶が教えてくれる。どうやら、課長には飲酒の悪癖があるらしく、それを心配してこの記憶を残したようだ。
(調整を完了しました)
それと同時に窓のスモークブラインドが薄れ陽光が差し込んできた。
(ミストシャワーの準備ができています)
「ええ、行くわ」
ベッドから起き上がってバスルームへ向かった。
このマンションは共有脳と設備のスマートリンクが整っているので、脳の欲求に応じて、キッチン、バスルーム、照明や遮光などを最適化してくれる。
バスルームに入ると、全方位からミストシャワーが吹き付けられる。立っているだけで全身の汚れを隅々まで吹き流し、最後にフレーバーつきの保湿液で香りづけされる。フレーバーの種類は無数にあるが、ランキング一位の『昔ながらのナチュラル薬用石鹸風』をいつも使っている。
暖かいミストに肌を任せていると、いよいよ意識がはっきりとしてきた。
前任者の引き継ぎ用の経験データには、課長が隠しているアルコールの名前だけでなく、業務に必要なものがいくつもあった。首筋を叩きながら共有脳にスクロールさせながら、ざっと把握していく。
過去の感染事件、その検疫結果と予防システム。ああ、大阪滅菌事件の担当者だったのか。滅菌フェーズまで進行した有名な大規模感染事件だ。
「これは詳細まで確認すべきね」
乾燥温風で水分を飛ばし、腕を回して肩甲骨をほぐしながら、記憶の奥まで潜っていく。すると、バクバさんに関しての記憶をみつけた。
全裸のままバスルームをでる。
冷蔵庫から朝食用のペーストドリンクを取り出し、共有脳で満腹中枢を刺激しながら飲み干す。疑似的だが十分な満腹感。朝食はこんなものか。過不足があればアラートがあるだろう。
そのままソファに座って瞑想し、前任者の記憶をたどった。
——脳無しの免疫屋バクバ。
イワモリ課長が防疫官だったころからの懐刀で、酒飲み仲間でもある。
感染エリアへの侵入調査を請け負う免疫屋は多くいるが、その中でもバクバは有名だ。特に、初期段階での殺処分に実績が多い。そのせいで、仕事を奪われた他の免疫屋グループから恨まれている、という噂も聞いたことがある。
大阪滅菌事件では感染エリアでの独断専横が散見された。特に、滅菌フェーズ宣言後にもかかわらず殺処分を拒否した事は重大な問題である。この経緯はイワモリ課長に報告済み。
トロル対策とは組織戦である。免疫屋の個人的な感傷や意地によって、組織の決定が左右されるべきではない。あの課長の推薦とはいえ、以後、このような男を登用するのは反対だ。
なるほど、過去に問題もあったようね。
(そろそろ、登庁の時間です)
「ええ、行きましょう」
アルナナはソファから立ち上がった。
◇
スマートフォンの着信音が鳴り響く。
「はいっ!」とバクバは布団から跳ね起きて、スマートフォンを拾い上げた。「バクバです」
「……起こしてしまったようだな」
「あ、いえ」相手は課長だった。「久しぶりに面白い本が手に入ったもので……。つい夜更かしを」
「相変わらずだな」
「すみません」
携帯ごしに頭を下げつつも、眠気を引きずって窓のカーテンを開けた。十分に高い位置から陽が差し込んでくる。時計に目をやれば、もう昼過ぎの十三時だった。
「本当に申し訳ないです」
「いや……。実は急に決まったことだが、先の神保町の事件、ご遺族から葬式の参列を許可して頂いた」
「そうですか」
珍しいことだ。家族を殺した保健省を葬式に招く遺族は少ない。
「どうする?」
「……お願いできますか」
「分かった。迎えをよこそう。自宅で構わないか?」
「ええ、ありがとうございます」
通話が切れた。
急なことで心が落ち着かず、両手を合わせて目を閉じた。
「
と咄嗟に般若心経を唱えてみたが、うろ覚えだったのですぐに続きにつまってしまう。確か、どこかに……。
部屋に並べた本棚を指でなぞって探す。
ずぼらな性格で本棚の順番はめちゃくちゃなまま。マンガ本の間に歴史書が頭を出していたりもする。五つ目の本棚をなぞったところで、もしかしたら、押し入れの段ボールの中かも、と不安になったところでようやく見つかった。
『般若心経講義』 高神覚昇 著 [3]
葬式でよく唱えられる般若心経の解説本だ。
「色即是空、空即是色……。え〜と」とそのページを指でなぞってその続きを探す。「あった……。
——全ては
仏教が説く『空』の概念はそれこそ雲をつかむようなものだが、自分が殺した人の死に向き合う時はこれ以外にはないと思う。手を合わせて「ごめんなさい」と言えるほど無邪気でもない。仮に、それを口にすると、自殺しないと嘘になるだろう。多分、まだ僕は死にたくないのだ。
「色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是……」
般若心経を何度も口ずさみながら服を脱ぎ、シャワーを水のままにして頭からかぶる。冬場の冷水が心臓を握り潰した。その痛さすらどこか心地良く感じる。
……保健省の参列を受け入れたのはどのご遺族なのだろう。
冷えきった体をふき、髭をそる。今回は三人殺した。凍てついた手足を喪服に通して、慣れないネクタイを結べるまで四回目も失敗を繰り返した。
解説本を片手にお経を繰り返しつつ、水道の水をコップに注いでゆっくりと口に含んで喉に落す。
部屋の空気も入れ替えてみようかな、と窓を開けると、ちょうど眼下に車が停まるのが見え、そこからアルナナさんが出てきた。こちらに気がついたのか彼女は手を振ってくる。
僕は急いで外へ出た。
◇ 感染者の自宅付近の公園
アルナナさんに連れて来られたのは公園には子どもの笑い声があふれていた。
「ここが、彼女の?」
「ええ、カシワ・フェイさんのご自宅はこの近くです」
参列を受け入れたのは、僕が最後に刺し殺した少女のご遺族だった。
「よい場所ですね。子どもも多い」
「共感教育の実験区域ですから。いわゆる
「ふろーら?」
「共有脳による情操教育を街全体で支援するエリアですよ」とアルナナは首筋に指をあて「検索しますのでお待ちください」と言う。
最近の若い人はすぐに検索するなぁ、と思いながら公園の様子を見渡す。まだ平日の昼過ぎだと言うのに、小学生らしき子どもたちがたくさんいた。学校はどうしたのだろう?
「今日はなにか祝日でしたっけ?」
フリーの免疫屋なんかしていると、祝日どころか曜日感覚まであやしくなってくる。
「いえ、平日ですよ」とアルナナさんは頭をふった。
「でも、学校は?」
「……ありました。フローラ地区には学校は存在しません。教育を義務とは考えていません」
「学校がない?」
「共感教育は既存の修学型教育を否定し、他者への共感と肯定的姿勢を育むことを最優先とします。学校のかわりに宅地一体型の大規模公園を設置していることも特徴のようですね。ちょうど、この公園がそれです」
「はぁ……。まぁ、勉強はインストールする時代ですからねぇ」
と、ため息をもらす。自分が子どものころにやらされた勉強とは一体……。
あたりには子どもたちが元気一杯に駆け回っていた。ぶつかってしまわないかと不安になって、目を配っていると、子どもたちが目隠しをしながら走り回っているのに気がつく。
「随分と危ない遊びだな」
「どうしました」
「鬼ごっこかな? でも、目隠ししてる」と指をさした。
「ああ」とアルナナさんは頷く。「おまかせ鬼ごっこですね」
「おまかせ鬼ごっこ?」
「自分の視覚をふさぎ、友達からの思念通話だけをたよりにする鬼ごっこです。そうすることで、基本的な共有脳の使い方だけでなく、他人を信頼する習慣を養います。あのように、遊びによる教育を重視するのもフローラ地区の特徴ですね」
「へぇ〜」
脳無しにはとてもできない遊びだ、と目が丸くなった。
試しに実際に目を閉じて歩いてみる。……以外にいけるかも、と思った矢先に「どちらに行かれるのですか」とアルナナさんに腕を掴まれてしまった。
うっすらと目を開けると、花壇の中に足を踏み入れる寸前だった。
「なるほど」
「どうしました?」
「見えないと危ないですね」
「はぁ」
まして、走り回るなんて絶対に無理だ。でも、あの子たちは自然とそれができる。他人に自分を委ねて全力で楽しめてしまうのだ。
「だったら、平和ですね」
「だったら?」
「あ、いえ」
「まぁ、平和な場所です。ここの教育を受けた子は共有脳の扱いに長け、社会のエリート層を形成しています。それを、かつての学歴社会と同じだ、と揶揄する人もいますね」
僕が殺した少女は、こんな平和なところの子どもだったのだ。
「見えてきましたね」
と、アルナナさんは公園の中に取り込まれた家を指差した。そこへの道なりに喪服の人だかりがいる。イワモリ課長の姿も見えた。ちょうど、家の中へと入るところだった。
「申し訳ありませんが」とアルナナさんが立ち止まる。「バクバさんはここまでになります」
「はい」
自分は雇われの免疫屋でしかなく、ご遺族に面会することは許されていない。ここまで連れてきてもらえたことでさえ、課長の配慮があってこそだ。
「ここで十分です。アルナナさんはどうされますか?」
「バクバさんとご一緒するように、と課長から命じられています」
「お手間をおかけします。こんなところじゃあ、周りからの視線が痛いので」
先ほどから、周囲の大人たちから刺さるような視線が向けられていた。きっと、共有脳による挨拶に自分が答えないから警戒しているのだろう。
「仕事ですから」
アルナナはそう答えながらも、脳では周りから投げかけられる思念通話にすばやく対応していた。
子どもたちからは(ねぇねぇ、なんで隣のおじちゃんは黙ってるの?)と無邪気な好奇心を、その周りの親からは(お連れの方が脳を閉じているのは何か事情があるのでしょうか?)と不審感を送られてくる。中には(ここがフローラ地区であるとご存じないのですか?)と激しい非難をぶつけてくる親もいた。
(お騒がせしております。保健省の者です)
アルナナは周りに謝罪の波を送った。
この思念通話では嘘はつけない。それを受け取った親たちはほっと息をつき、子どもたちはさらに目を輝かせた。
(申し訳ありませんが、機密もありますので、一度、思念通話は切らせて頂きます)
アルナナは接続をきり、声をはりあげた。
「共有脳を遮断した容疑者、あるいは自然脳の方に対する監視システムの動作点検中です。そのため、一時的に共有脳をオフラインのまま巡回中です。お騒がせして申し訳ありません」
それで親たちは完全に納得して「ご苦労さまです」とにこやかに笑いかけてくる。子どもたちも「保健省だって」「かっこいいー」と、きゃっきゃとはしゃぎはじめた。
「ありがとうございます」
バクバは頭をさげた。
「いえ」
そう答えながらもアルナナは矛盾に眉をしかめる。
今や、この平和な生活を脅かしうるのはトロルウイルスくらいだ。ところが、トロルに対して保健省は無力で、自然脳の免疫屋に頼る部分は大きい。
それなのに、彼らはこれほどに社会から疎まれている。
「……仕事ですから」
とアルナナは近くのベンチに腰をかけた。「こちらへ」とバクバにも座るように声をかけたが、彼は首をふって断った。
立っていたほうが、カシワ家がよく見えるからだろう。
「被害者のカシワ・フェイさんは十五歳だったそうです。ご両親と妹さんの四人家族」
「妹、でしたか……。彼女は弟と言っていた」
「彼女が感染したトロルには自我崩壊性がありました。このタイプは直結感染時に記憶を消去します」
「やはり、グール型でしたか」
「ええ。第二種危険トロルです。迅速なご対応をいただき感謝いたします」
「いえ」
バクバさんは家に向かって両手を合わせた。
「ご遺族は」と思わず、その背中に声をかけたくなった。「バクバさんを恨んではいませんよ」
「そうでしょうか?」
「ええ。……今、課長がご遺族と面会している最中です。課長とリンクした視聴覚から、私にもご遺族の様子が分かります」
共有された視聴覚を通して、面会の様子が伝わってくる。ちょうど課長が経緯を報告し終えたところで、泣き崩れたご両親と呆然としている妹さんの姿が目の前に浮かんだ。
母親は(どうして、あの子を殺したの!)と叫びながら、課長に掴みかかってきた。
「本当ですか?」
「……ええ」
「でも、それはまた別なのです」
「殺処分を命じたのは防疫官である私です」
共有視覚内でまくし立てる母親とバクバさんの背中、その両方に向かって言う。
「……色即是空≪しきそくぜくう≫。空即是色≪くうそくぜしき≫」と彼は突然なにかを口ずさみはじめた。「受相行識≪じゅそうぎょうしき≫、亦復如是≪やくぶにょぜ≫」
意味不明のその音にそっと耳を傾けて、そのまま共有脳で検索する。
それは般若心経と呼ばれるものだった。かつては、葬式でよく唱えられていた仏教の経典らしい。
それが周りの子どもたちの笑い声に混じってちぐはぐな和音になる。般若心経の最後の節は、消え入るように、かすれていた。
「……
◇ 葬式後
参列を終えた後、イワモリ課長は公園のバクバのところへやってきて「今日は呑むか」と猪口を傾ける仕草をした。
「呑みましょう」と、バクバは快諾する。
「アルナナ君はどうかね?」
課長は付き添っていたアルナナの方を振り向く。
「いえ」と、彼女は眉をしかめた。「遠慮いたします」
「ふむ、最近の若者はみんな呑まんな」
「脳に負担がかかりますので。課長も控えめになさったほうがよろしいかと」
「前任のオオゴタと同じことを……。もしや、引き継ぎのデータに感染したか」
「十分に他者化されたデータです。あり得ません」
「まぁ、そうだろうさ」
社会大脳に保存されている経験データには、他者化と呼ばれるマスキング処理が施される。自分のオリジナルな経験と他人のそれが混合することを防ぐためだ。
「とはいえ、脳は思い込むものだ。酒に対する若者の嫌悪感もそういったものの一つだとは思うがね」
課長が執務室に隠してあるアルコールの存在を告発すべきだろうか、とアルナナは考えた。いや、やるにしても現物を確保してからの方が効率的だ、とすぐに思い直す。
「どうでしょうか」
そんなやり取りをしながら、車の目的地をバクバのアパートに設定する。自動運転システムが選択したルートにより信号にすらつかまることもなく、あっという間に到着した。
アルナナは二人を見送り車両を戻そうとしたが、「仕事の話もある」と課長に呼び止められてしまった。
言われるがまま、古びた二階のバクバの部屋に入った。
「相変わらず、ボロいな」
「でも広いでしょう。本がたくさんおける」
課長は慣れた様子で冷蔵庫をあさり始めた。
一升瓶の酒。タッパごしに黄色が見えるもの。
アルナナが「あの」と声をかけると、バクバが振り向いた。
「汚いところですけど、どうぞ上がってください」
「え、ええ」
確かに部屋は散らかっていたが、彼女が躊躇していたのには別の理由があった。
——本の森だ。
部屋の四方は本棚がうっそうと囲み、天井のぎりぎりまで本で詰め込まれて並んでいた。床のあちこちにも本が積まれている。うっすらとホコリをかぶった本が、まるで苔むした岩のようにも見えた。
アルナナは靴を脱ぎ、その森の中に足を踏み入れた。
乾いた植物の匂いが鼻孔をふんわりとくすぐる。畳のい草、ホコリ、紙とインクが混じった複雑な匂い。今は冬のはずだが、ここは秋だった。
「コタツをどうぞ」とバクバに招かれる。
「……」
彼女はコタツを知らなかった。しかし、共有脳で検索するまでもなく、その布団に一緒に足を入れて座るものだとは分かる。
これでは中で足が触れてしまうだろう。卑猥なテーブルだ。
「失礼します」
おそるおそる足を差し入れた。
コタツの布団を膝まで引き上げる。足元からブーンと鳴る低音は暖房器具の駆動音だろう。それによって足元がじんじんと温められていく。冷え性の自分にとってはありがたい。足先がほぐされて広がっていく感覚が心地よかった。
「ああっ」と思わず息がこぼれてしまう。
「おこたは良いですよね」
バクバが求めてきた同意に、アルナナは黙って頷く。
「こんなところに住んでいるのですか?」
「え、ええ」とバクバは恥ずかしそうに笑った。「汚いですよね。片付け、苦手なんです」
改めて本の森を見渡した。本は整理されているとは言い難く、裏表や縦横は関係なく自由に差し込まれ、あちこちから飛び出ている。
きっと、バクバさんは思いつくままに本を引っ張りだし、パラパラと読むと、そのまま適当なところに積んでしまうのだろう。自然とそんな様子が思い浮かんだ。
「森、みたいです」
「はぁ、」と彼は頬をかく。「そう言われてみると確かに。よく燃えそうだ」
「不思議な匂いがします」
「ま、まぁ。独身中年男の部屋ですからね。すっぱい匂いとかしませんか? ゴミは外に出してはいますけど、匂いって自分では分からないから」
「きっと、本の匂いですよ」
アルナナは、すん、と鼻をならした。
「ですよね。安心しました。……あ、こちら
「ありがとうございます」
バクバからお茶を受け取った時に、こたつの上に放り投げられていた本の表紙に目がとまった。『般若心経講義』と難しい漢字が並んでいる。これも散らかしたままにして、と、手を伸ばした拍子にページを開いてしまった。
『いったい仏教の根本思想は何であるかということを、最も簡明に説くことは、なかなかむずかしいことではあるが、これを一言にしていえば、「空」の一字に帰するといっていいと思う。』
ああ、公園で唱えていたのはこれか、と思い出す。
「般若心経を唱えていましたね」とバクバさんに聞く。「公園で」
彼は目を丸くした。
「へぇ、今どきの人には珍しいですね。ご存じなんですか?」
「詳しくは知りませんが」と置きながら、裏で共有脳に問い合わせる。「……仏教の代表的な経典ですね。正式名称は
「そんな名前だったと思います。忘れていました」
彼が恥ずかしそうに笑ったのを見て、自分がズルをしたような気がした。視線を落とすと、再び『般若心経講義』の序文が目に飛び込んでくる。
『ところで、その空を「心経」はどう説明しているかというに、「色即是空」と、「空即是色」の二つの方面から、これを説いているのである。すなわち、「色は即ち是れ空」とは、空のもつ否定の方面を現わし、「空は即ち是れ色」とは、空のもつ肯定の方面をいいあらわしているのである。したがって、「空」のなかには、否定と肯定、無と有との二つのものが、いわゆる弁証法的に、統一、総合されているのであって、空を理解するについて、まずわれわれのはっきり知っておかねばならぬことである。』
「……難しいことを書いていますね」
「そうですよね。僕も全然理解できません」
きっと嘘だ、と予感した。
この本は何度も読み込まれてたわんでいた。もしかしたら、彼は葬式があるたびにこれを読み返していたのではないだろうか。
「まぁ、般若心経を理解してしまうと悟ってしまいますからね。仏様になってしまう。昔は死んだ人のことを仏と呼んだらしいですよ」
「つまり、これを理解すると死んでしまうのですか?」
「いつ死んでしまったとしても、人生をまっとうできる状態になる。って、その本に書いてあった気がします」
「そうですか」
前に貸してもらった『戦争における人殺しの心理学』よりも難しいことだけは理解できた。
「でも、共有脳がある人には、般若心経は必要がないのかも知れませんね」
「はぁ」
「適当ですけど」バクバさんは肩をすくめる。「でも、今日、公園であの子どもたちを見てそんな気がしました。感覚を他人に委ねて、目隠しながら鬼ごっこが楽しめる。そういう一体感みたいなものがあれば、宗教なんて必要ないのかも」
「バクバさんには宗教が必要なのですか?」
彼はキュウリにかじりつきながら、う〜ん、と唸る。
「そうですね。例えば……今回の事件で、僕はカシワ・フェイさんを殺しました」
彼の表情がまるでロウソクの火のようにふっと消えてしまった。
思わず「違います」と否定してしまった。「あれは必要な殺処分でした。第二種危険トロルの感染を防ぐための」
「彼女を『カシワ・フェイさん』と見るか『トロル』と呼ぶか。あるいは『殺した』か『殺処分』か。どういう言葉をあてるかによって、真実は同じなのに色が違って見えませんか?」
「そんな……。不必要に自分を責めては脳を病みますよ」
「真実は『空』であり言葉の当て方で『色』が変わる。辛い現実を都合のよい解釈で無視することだって、自分次第なのです」
バクバさんは呼吸のようなかすれた声で「色即是空、空即是色」とつぶやいた。
「……でも、そういう安い自己暗示のために般若心経があるのでしょうか。僕は脳無しですから他の人と共感できません。その空白を埋めるものが必要なんです」
それ以上は語らず、沈黙が流れた。
バクバさんは「面倒くさいこと言っちゃいましたね」と謝り「そういえば」と、課長の方を向いた。
「おおっ」と、課長はちびちびと傾けていたグラスを止める。「なんだなんだ。終わったのか」
「すみません。ずっと放置して」
「いや。青くさいことぬかしとるな、と楽しんでいたよ」
「青くさいって」とバクバは眉を下げた。もう「三十五のおっさんですよ」
「だからこそ面白い。昔の大学生みたいなぐだぐだ理論だったな」
「否定できませんね」
「相手があのアルナナ君だからなぁ。釣られたのかもな。適当に相手しないと、そういう羽目になる」
「……気をつけます」
かっかっと課長は笑い「で?」と続きを促した。
「ご遺族の様子のことをお聞きしたいな、と」
「ああ」と課長は息をはく。「まぁ、いつも通りだな。いや、今回は亡くなったのが子どもだったから、随分と錯乱していたな」
「そうですか。……そうでしょうね」
「ほら、呑みながらやろうや」と課長は一升瓶を掲げ、バクバのグラスに酒をそそいだ。
語り出した二人の横で、アルナナの背筋に冷や汗が流れた。
今日の自分の業務は、遺族の様子をバクバさんに伝えることだったが、「ご遺族は恨んでいません」と言ってしまったことを思い出した。
今さらながら、なぜ自分は嘘をついたのだろう。
あの時、遺族に娘の死を受け入れようとする様子は微塵もなかった。むしろ、そのやり場のない怒りをぶつけるために、わざわざ保健省を葬式に呼んだ可能性すら見てとれた。
バクバさんには驚いた様子はない。ただ、なみなみと注がれたグラスを両手で抱え、その水面にじっと視線を落としながら、課長の言葉に耳を傾けていた。
「やはり、娘さんの遺体を返せ、と随分となじられたよ」
「ご遺体は?」
「いつも通りだ。検疫に回して、終われば共有脳を切除して焼却する。お返しできるのは遺骨だけと決められている」
「僕には実感できませんが、」バクバさんは酒で唇をぬらした。「死者の脳を弔えないのは、とても辛いことなのでしょうね」
「儂もこいつを入れて随分になるが」と課長は自分の首筋を叩く。「ようやく分かってきたよ。死んだ後、社会大脳に記憶を残せないの無念だろう。本人もそうだが、ご家族にとってもな」
「自分の経験を社会大脳に刻み、社会がそれを受け継いでいく。そういう時代ですからね」
「例え、失敗ばかりの人生でもそれが共有されることで意味をもつ。遺体に共有脳さえあれば、遺族はその経験を供養してやれる。それに亡くなった故人と共感もできる」
だが、トロルに侵された脳への接続は許されていない。共有脳が切除され、燃やされ、記憶ごと消されるのだ。
「彼女が生きた記憶は失われてしまった」
「中には故人の記憶を自分の脳に定着させる遺族もいる。喪失医療の一環としてな。もちろん検疫は必要だが、合法の
「お経を唱えるような葬式とは、もう違うのですね」
「ああ」
二人は酒をすすり沈黙を刻んだ。
脳の健康が何よりも大切とされる現代。脳に負担をかけ、常習性のあるアルコールは倫理的に忌避されている。ましてや、葬式の後に飲酒をするなど不謹慎だ、とアルナナは密かに不審に思っていた。
しかし、二人が酒を
「……バクバよ」
沈黙を破ったのは、課長の低い声だった。
「はい」
「先の事件だが、実はかなり厄介なことになった。もう少し、手伝ってくれるか」
「ええ、僕にできることなら」
「今回の第ゼロ号感染者は、お前が殺処分した五十代男性だった。それはほぼ確定している。だが、その脳内に奇妙な経験データがあった」
「それが感染源だと?」
「そう睨んでいる。明らかに社会大脳を経由せずに、外部からインストールした経験データだった。他者化マスキングが不十分だったし、そもそも社会大脳の管理IDが割り当てられてなかった」
「つまり、その経験データがまだ流通している可能性がある、と」
「ああ、だがいわゆるウイルスプログラムではない。脳の上書きプログラムなら検疫できたはずだが、この経験データは検疫を通過してしまった」
「大問題じゃないですか。検疫ができなければ、パンデミックだって」
「ああ」と課長が腕を組む。「こいつは創作経験なんだ」
「それって……エロいやつですか?」
バクバは前のめりになった。
性的快楽を扱った経験データが感染経路に使われる場合は多い。これらは社会大脳を経由せずに取引されることも多いため、検疫を抜けやすいからだ。その快楽経験自体に感染性はなくとも、裏に悪質なウイルスプログラムが仕込まれることが多い。
「わいせつ関係なら事例も多いが……」と課長は首をひねる。「エロではない。麻薬データもなければ、暴力性もそれほど顕著ではないな。まるで小説みたいな創作経験だった」
「へぇ」
小説と聞いて、バクバは興味をそそられた。
「で、僕に何を?」
「アルナナ君の手伝いだ。ここまでの分析も彼女が担当した」
「へぇ、やっぱり共有脳ネイティブは優秀ですね」
「まったくな。儂のような
また課長の隠居願望が出たな、とバクバは肩をすくめる。
「まぁ、感染エリアでは共有脳が使えませんから」
「脳無しのお前ですら大活躍だからな」
「おかげで本をたくさん買えます」
と言いながらも、バクバは自分の言葉に傷ついた。まるで自分が金のために感染者を殺しているような言い方をしてしまった。冗談でも、そういう偽悪を気取るべきじゃない。
「……話を戻そうか」
課長は咳払いをした。
「つまり本件は新種だ。しかも、プログラム型ではなく、コンテンツ型トロルウイルスだ。早急に調査し予防システムを更新すべきだが、この調査をアルナナ君に一任することにした」
バクバがアルナナに「すごいですね」と声をかけると「いえ」と返ってきた。
「お前にはアルナナ君の指揮下に入り、この調査を手伝ってもらいたい」
「はぁ。かまいませんが、僕なんて役に立ちますか?」
「役に立つかもしれんぞ。ログをたどると、ゼロ号がこの経験を入れたのは池袋の西口だ。そこに創作経験をさばいている店がある。お前、池袋では顔が利くだろう」
「あ〜」
ようやく合点がいく。
池袋西口といえば、社会の外れ者が集まる場所だ。脳無しなんかはまさにその代表例で、自分もあそこの古本屋でよく本を立ち読みしている。
「でも、顔なら課長だって利くでしょう」
「バカ」と課長は顔をしかめる。「元刑事の顔なんてこじれるだけだ。強制執行なら俺が適任だろうが、まだ任意だしな。お前みたいなのがちょうどいい。いずれにせよ、ウチの若いもんを一人で送り込むわけにはいかん」
「昔の口調に戻ってますよ。おやっさん」
「むっ」
「なるほど、そういうわけですか」と課長の真剣な表情をうかがう。
刑事時代の課長にはずいぶんとお世話になった。おそらく「ウチの若いもんを一人で送り込むわけにはいかん」と言ったくだりが課長の本音なのだろう。
確かに、池袋のあやしい店に共有脳ネイティブを一人だけ送り込むのは不安だ。かつては、こういったドサ回りは警察の仕事だったが、保健省に統廃合された今では人材がいなくなったのだろう。
「……分かりました。引き受けますよ」
「そうか。助かるよ」
課長はほっと息をついて、かつての刑事の顔をゆるめた。
——————
[3]『般若心経講義』 高神覚昇 著
般若心経の解説書としてとても読みやすかった。とはいえ、『空』の世界観は広く、私ぜんぜん理解できていない。理解できたら解脱して仏さまになれるかも。是非、チャレンジしてみてください。青空文庫にもなっておりamazonから無料でダウンロードできる。
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