[連載版] トロル

舛本つたな

1章:神保町感染事件

1.1. 『戦争における「人殺し」の心理学』


トロル(とろる)[名詞]

①北欧神話に登場する毛むくじゃらの怪物。

②インターネットで攻撃的な発言をする人。インターネット・トロル。

③共有脳を媒介とした悪意感染ウイルス。保健省の検疫により感染者と認定されたものは殺処分の対象となる。



◇本を読む男


 インターネットは戦争をなくす——と、その本に書いてあった。


 インターネットによって、国境、人種、思想を超えて交流することができる。かつてない多様な次元で対話が実現し、人類の相互理解は飛躍的に深まるだろう。これは既存のあらゆる対立構造を根本的に解決するだろう。民主主義の理想はインターネットによって実現するのだ。


「ネットは期待されていたんだなぁ」

 男は本を閉じて一息つくと、もう一冊の本を取り出して読み始めた。先ほどと同じ著者がその二十年後に出版した本だ。

 同じ著者の本を読み比べるのは、男が最近ハマっている読書法だった。すると、時間とともに著者の主張が変わってしまうのが分かる。たまに『あの頃の私は間違っていた』などと正直に書いてあることもある。そのような一文を見つけると、他人の悪戯を覗いてしまったような、そんなくすぐったい気持ちになるのだ。

 さて、この著者の二十年後は……、と本を覗きこむように読む。すると、まるで遺書のような書きつけが目に飛び込んできた。


 もはやインターネットは悪意に汚染され、民主主義をも殺そうとしている。


 二十年前の主張から一転し、そこには怨嗟が書き綴られていた。


 インターネットが普及するにつれ、愚かな大衆はこれで遊びはじめた。彼らは相互理解のためではなく、他者を攻撃することに躍起になった。結果として、今のインターネットには悪意と欺瞞ばかりがはびこってしまった。


「あらら、そうなったか」

 これは百年前の本だが、ひょっとして今でも同じことが起きているのかもしれない、と男は首をひねった。昔はネットだったけど、今なら共有脳だろう。もう何度も耳にしてきたコマーシャルメッセージが頭に浮かんだ。


 もし、海外出張が決まったら、

 脳に英語をインストール。

 もし、町に医者が足りていないなら、

 あなたが医者になってあげよう。

 もし、戦争になりそうなら、

 共有脳でみんなと共感しましょう。

 なりたい自分で世界を平和に。共有脳インプラント。


「警報発令! 警報発令!」

 突然、街中に警報が鳴り響いた。

「付近で悪意感染が発生。ただちに共有脳をシャットダウンし、最寄りの避難所で検査を受けてください。指示に従わない場合は、トロル感染者として殺処分の対象となる可能性があります」

 周りにいた人々が悲鳴を上げて逃げはじめる。

 しかし、その男は逃げ惑う人々を眺めながらも、本を閉じようともしなかった。やがて、街に一人だけ取り残されてしまう。

 すると、男のポケットから、ピピッピピッと、呼び出し音がなる。

 男はようやく本を閉じて携帯端末を取り出した。共有脳が普及した今では、誰も使っていないスマートフォンである。そのディスプレイには『保健省トロル対策局 イワモリ課長』と表示されていた。

「はい。バクバです」と男は名乗った。

「儂だ。トロル感染が起きた」

「ちょうど現場にいます。神保町じんぼうちょうで本を」

 神保町は昔から古本屋が軒を連ね、今でもその名残を残している。骨董品である本を趣味とするバクバは、暇を見つければここに通い詰めていた。

「好都合だ。また頼めるか」

「ええ」

「拠点は神保町駅だ。そこで落ち合おう」

「了解しました。これ以降は端末を切ります。ここはもう感染エリア内ですので」

「助かる」

 通話を終え、端末の電源を落としたバクバは手元の本をじっと見た。

 あと一ページだけ——と本をめくる。共有脳によって読書は不要になったが、彼は本を読むのが好きだった。とりわけ、自分の指で紙のページをめくり、続きを覗き込むようにして読むのが楽しい。

 次のページには、かつてはネットに理想を抱いた著者の、それを裏切った大衆への恨み節がつづられていた。

¬¬¬

 インターネット・トロルと呼ばれるごく一部の人間が、他者を執拗に攻撃し、インターネット社会は分断されてしまった。相互理解を促進するための聖杯であったのに、一部の愚か者の偏った悪意によって汚染された。つまり、バベルの塔を建てた頃より人類は何一つ成長していないのだ。


「面白い表現だ」とバクバは感心した。

 バベルの塔を引用したのは絶妙だと思う。技術に溺れた人間は天にいどむ塔を建てようとする。それに怒った神は天罰として言語をバラバラにしてしまった。互いのことを理解できなくなった人間は対立し、塔は崩壊するのだ。

 もしかしたら、その時の神の仕打ちを恨んで、人類は共有脳を発明したのかもしれない。そう考えるとまた面白い。共有脳を使えば、知恵の果実をお手軽にデリバリーできる。人類の神への反抗期はいよいよ本格化してきているのかも……。

 ——まだまだ続きが気になるけど。

 バクバはため息をついて本を閉じた。警報がけたたましく、もう落ち着いて読めたものではなかった。

 そろそろ駅に行こう。



◇防疫補アルナナ


「課長」と運転席の女が初老の男に声をかけた。

「なんだね。アルナナ防疫補ぼうえきほ

「先ほどのは、音声通話ですか?」

 男は「ああ」と男は肩をすくめる。「思念通話ができない相手だったのでな。実は儂も苦手だ」

「そうですか」

 アルナナは課長の皺深い顔を横目で盗み見た。

 彼の世代は幼いころから共有脳があったわけではない。共有脳ネイティブである自分たちのようにはいかないのだろう。

「そろそろ感染エリアに入ります」とアルナナは告げた。「共有脳を切ってください」

「ああ」

 自分も目を閉じ共有脳にシャットダウンを念じる。

 すると(さようなら)と中性的な合成音声が別れをつげ、脳と社会のリンクが断ち切れてしまった。産まれてずっと一緒にあった共感感覚が途切れ、心に穴が空いたような喪失感を感じる。それをなぐさめるように、アルナナは後頭部に露出している外接ソケットを指でなでた。

「手動運転に切り替えます」

 先ほどまで自動で動いていたハンドルに手をおく。

 普段なら危険な手動運転は違法行為だが、感染エリアに指定されると、自動運転を含めてあらゆる都市システムが遮断される。すでに車道には走行不可になった車両が点在していた。

 アルナナはクラッチとギアをさばき、緩急もなめらかに、その隙間を縫って走行した。

「うまいもんだ」と課長が驚く。「運転が趣味だったのかね? 若いのに珍しい」

「いえ」

 今の時代、手動運転など好事家たちの贅沢であり、脳容量の浪費でしかない。

「本職に配属された時にインストールしたものです。必要になりそうなものを入れていました」

「それで運転をか? 法律、脳科学、共有脳技術だけでも相当な量だ。脳容量は大丈夫なのかね」

「ええ。前の配属での経験はクレンジングしましたから」

「やれやれ」と課長は頭をふる。「いわゆる脳のモジュール化というやつだな。あるいは努力の無意味化か。いずれにせよ年寄りにはついていけんよ」

「そうおっしゃる方は多いです」

「特に、儂のような老害はな」

 返答に困ったアルナナはかわりにギアを上げた。エンジン音が細り、外の景色は加速していく。この調子だと、あと数分もすれば神保町駅につくだろう。トロルが潜む感染エリアの最前線だ。

「質問してもよろしいでしょうか」

「どうした」

「保健省の社会大脳から、過去三年間の職員の業務経験をダウンロードしました」

「ふむ」

「ですが、実際にトロルに対処した経験がほとんどありません」

 課長から返事はない。

 職員の業務経験データは組織にとって最も貴重な資産だ。まして、トロルに直接対峙した経験であれば、絶対に保存されているはずなのに。

「アルナナ防疫補」

「はい」

「仮に、君がトロルと遭遇したらどうなる?」

「努力はしますが、対処は困難かと」

「理由は?」

「感染エリアでは共有脳が使えません。しかし、トロルは違います。汚染された脳は攻撃性も高く、あらゆる戦闘経験をインストールしているでしょう。加えて、それを別の個体に感染させるため数も多い」

「では、そのトロルへの対処原則は?」

「一、感染エリアの隔離。二、感染個体の殺処分。三、感染源と経路の分析。四、予防システムの構築、です」

「であるのに、殺処分の経験データだけが存在しない。なぜだと思う?」

 確かに、他の三つ——隔離、分析、予防の業務経験は大量にあった。

「トロル対策局の職員では殺処分ができないから、でしょうか?」

「そうだ」

「では、軍が殺処分を?」

 そう言いかけたアルナナを、課長がふっと笑って遮った。

「軍人とて同じだよ。いや、我々以上に不適任だろう。トロル対策の素人どもが大量破壊兵器を担いだまま感染したらどうする」

「そう、でした」

「安心したまえ。別に専門家がいる」

「専門家?」

「どうやら、着いたみたいだな」

 いつの間にか神保町駅が見えていた。感染エリアは保健省が設定し、その外周を対策局が閉鎖する。今回の司令拠点はここに指定された。

 アルナナは適当な場所に車を停め、課長の後ろについていく。すでに検疫車両も到着し、その前に一般人たちが列を作っていた。エリア外へ非難する前の検疫を待っているのだろう。

 それを横目に白いシートのテントに入った。

 中では職員たちが緊張した面持ちで機材を設置していた。だが、その中に明らかに異質な男がいて、アルナナの目をひいた。

 その男は私服で本を読んでいた。

 トロル対策局の職員は白いオーバーコートの着用を義務づけられている。感染予防の電磁波遮断シートで編まれ、共有脳の外接ソケットがある後頭部を守るために襟が異様に長い。

 だが、アルナナが気になったのは、私服だけが理由ではない。

 男が本を読んでいたからだ。しかも印刷された紙の本だ。

 今でも読書を趣味とする人はたまに見かけるが、例えばオーガニックカフェで小さな本を片手にするスタイルが多い。この古風で非効率な知識習得方法をあえて好む者は意外にいる。

 しかし、その男の読書はまったく違っていた。

 地べたにあぐらをかいて膝の上に大きな本を開き、まるで穴を覗き込むように背をまるめて読んでいた。その口元にはうっすらと笑い皺が浮かび、目を子どものように輝かせている。

 本の虫だ——と、アルナナは思った。芋虫いもむしだ。

「バクバ」

 課長が声に、男は、はっとなって視線をあげた。

「あ、失礼しました」パタンと本を閉じて立ち上がる。「お久しぶりです。課長」

「即応してくれて助かった。相変わらず、本かね」

 課長の頬が緩むのを見て、アルナナは少し驚いた。

 この初老の上司は厳格なことで知られている。それなのに、この緊急事態で本を読んでいた男をにこやかに迎えたのだ。

「こちらこそ。課長であれば安心して動けます」

「そのことなんだがな」と課長は口元をゆがめる。「折り入って頼みがある」

「なんでしょう」

「後ろの彼女を君に同行させてもらいたい」

「エリアの中へ、ですか?」

「ああ」

 バクバと呼ばれた本の虫は、課長の肩越しにこちらを覗き込んだ。

「……まだ若い」

「年齢は関係なかろう」と課長は声をひそめた。「実はな。彼女は幹部候補なんだ。古くさい言い方をすれば、キャリア組というやつだ」

「だったら、なおさら」

「だから現場に触れる機会が少ない。幹部の現場知らずというのも重大なリスクになる」

「はぁ」

 その二人のひそひそ話をアルナナは聞き流していた。

 それよりも、バクバと呼ばれた男が読みふけっていた本が妙に気になっていた。彼が小脇に抱えた本のタイトルの『インターネットによる衆愚政治[1]』に、思わずぎょっとする。あまりに攻撃性の強いタイトルだ。経験データと違い、紙の本は検疫から漏れやすいのだ、と脳に入れておいた検疫官の経験が教えてくれる。

「……分かりました」

「助かるよ」

 課長はほっと胸をなで下ろした。どうやら話がついたらしい。

「アルナナ君」

「はい」

「現時刻より、君はバクバ氏の臨時防疫官に任命する」

「了解いたしました」

「君が監督役とはいえ、彼の方が経験豊富だ。指導してもらうつもりでやりなさい」

「はい」

 敬礼で応じながらも、疑問は多い。

 明らかに民間人のこの本の虫が、課長が言っていた専門家なのだろう。

 そこで、ふと疑問に思うことがあった。彼の経験を共有してもらえば良いはずだ。そうすれば、民間人に協力を請い、危険にさらす必要もなくなるだろう。

「アルナナさん、よろしくお願いします」

 と、彼が頭を下げた。

「質問してもよろしいでしょうか」

「はい」

「専門家の方ですか」

「専門家?」

「ええ、殺処分の」

 彼は寂しそうに表情を曇らせた。

「そうですね。そうなるでしょう」

「殺処分の経験をお持ちなのですね」と、外部メモリチップを取り出して差し出す。「その経験をここにコピーして頂けませんでしょうか。ご協力のほどお願いいたします」

「ああ」とバクバは笑った。「そういうことですか」

「もし、懸念があれば教えてください。確約はできませんが、対価をお支払いすることも検討させていただきます」

「残念ですが……」

 彼は曖昧にわらった。

 経験を独占しようとする人間は多い。彼もそういうタイプの人間なのかもしれない。

「その経験があれば多くの人を救えます。できれば、」

「僕は脳無しなんですよ」

「のうなし?」

 彼は背中を向け、首筋の髪をかき上げた。

 反射的に目を手で覆う。首裏には共有脳の外接ソケットがある。その局部を人前で露出するなんて……。変態だ。

 しかし、彼のうなじには何もなかった。まるで生まれたての赤ん坊のように滑らかな肌しかそこにはない。

「あっ」、と声がもれる。ようやく該当する情報が思い浮かんだ。


 脳無し(のうなし)[名詞]

①共有脳をインプラントしていない人間、あるいはその蔑称。社会大脳の経験データにアクセスできない一方で、トロルウィルスなどの悪意感染に対して高い耐性を持つ。そのため、トロル感染エリアへの侵入調査を請け負うこともある。そのような業者は免疫屋と呼ばれる。


「あっ、なるほど。免疫屋の方だったのですね」

 だったら、経験を共有できないのはしょうがない。と肩の力が抜ける。

「そうなんです」と彼はまた笑った。

「知らずに失礼いたしました」

「いえ。珍しいですからね」

「想定しておくべきでした」

 現場に免疫屋がいることは脳に入れてあった。しかし、それらをつなげて適切に推定できなかった。感染現場では共有脳の思考補助が使えないのも原因だろう。まだまだ適応できていないようだ。

「まぁまぁ。よろしくお願いします」

 そう言って差し出された彼の手をとり、握手を交わした。

「こちらこそ」



 ◇感染エリア 神保町駅周辺


 警報が鳴り響き、あらゆるネットワークから遮断された神保町には人の影すらなく閑散としていた。普段なら気にもとめないカラスの鳴き声や、狭い裏通りを吹き抜ける風の音が妙に大きく聞こえる。

 特にアルナナにはその様変わりが印象的だった。普段は共有脳を経由して網膜に拡張現実ARを投写している。広告ディスプレイや経路案内ナビなどの視界ポップアップのない街並みはひどく寂しげに見えた。その仮想表示のない素の街の姿を目の当たりにして、忙しすぎて化粧をやめた同僚の素顔を目撃したような、そんな罪悪感を彼女は思い出した。

「これが」感染された街か——とバクバに言いかけてやめた。

 業務に関係のない感想は慎むべきだろう。

「どうしました」

「私が立案した計画なのですが、消極的過ぎるとは思いませんか」

「そうですか?」

「バクバさんが殺処分の専門家であるなら、」しかも、あの課長が頼りにしているほどの人なら。「感染源への直接対処を優先し、早期解決を目指すべきだったかも」

 先導するバクバは振り返らずに「う〜ん」と唸った。

「バクバさんのお考えは?」

「そうかも。……どうだろう」

 先ほどから要領を得ない返事ばかりだった。課長からは彼の指導を受けるように命じられたはずだが、今のところそれらしい意見すら出てこない。

「見えてきましたね」

 バクバが立ち止まって、ひときわ高いビルを指差した。ここらで一番大きなショッピングモールだ。

「突入する前に」とバクバは振り返る。「いくつか確認させてください」

「はい」

「作戦目標はあのモール内の調査と封鎖ですね」

「ええ」

「中に人がいた場合は?」

「可能なかぎりスキャナーで検疫してください。陽性であればその場で殺処分。抵抗された場合も強制執行の妨害罪で殺処分が適当です」

「分かりました。では、僕からも一つ」

「なんでしょう」

「今から二百年くらい前に世界大戦があったそうです。二度も」

「はぁ」

 ようやく助言をもらえるのか、と耳をすましたところだったのに。

「この戦争で人類は初めての総力戦を経験したとされています。多くの国で徴兵制が導入され、国民が最前線で戦いました。信じられますか? 昔は自律兵器オートキリングもなかったので、国民に殺し合いをさせたのです。あっ、いや、本格的な徴兵制はナポレオンまでさかのぼるかな。まぁいいや。大切なのは、戦争の担い手が貴族階級から国民へと変わってしまったことで、これが中世的な封建主義から近代への変化をうながすきっかけに……」

「あ、あの。何のことでしょうか」

 困惑はいよいよ深まってきた。

 過去の歴史に世界大戦があったことは脳の断片に残っていた。定期的に脳をクレンジングしてはいるが、よく耳にする情報はどうしても海馬にこびりついてしまう。だが、ナポレオンとか徴兵制とは脳のどこにもない。

「デイブ・グロスマンの名著『戦争における人殺しの心理学』[2]です」

「本の話でしょうか」

「はい」

 またずいぶんと攻撃性の高い本を——と眉をしかめながら、それでも彼のことを理解しようと集中した。脳が熱くなっている。共有脳が使えないコミュニケーションがこんなに大変だったとは。

「え〜と、それがどのような?」

「それで一般市民が戦争に放り込まれたのです。当時の銃は実弾が中心で、互いに見える位置まで近づいて撃ち合うのです。塹壕っていう、穴をほってその中に隠れながら、バンバンって」

「はぁ」

「で、ここからです。なんと兵士の発砲率はたったの20パーセントだったそうですよ。撃たれても80パーセントの人が撃ち返そうともしなかった」

 いかにも、信じられないでしょ、とバクバさんは頭をふった。

 それで彼の話が終わってしまった。

「それはあの……。つまり、どういうことでしょうか」

「アルナナさんは銃を持っていますよね?」

「あっ、そういうことですか」

 ようやく糸口がみつかった。すぐに拳銃を取り出す。

 感染の初期段階では、銃火器を感染エリアに持ち込むことは禁止されている。たとえ、このような旧式の実弾銃であってもだ。

 しかし、防疫官相当である自分には、その特権として、ある程度の武装が許可されていた。流石にレーザーライフルや自律兵器を持ち込むのは不可能だが。

「確かに、拳銃はバクバさんが使った方が合理的ですね。現場での装備の譲渡も権限の範囲内です。分かりました。お貸しいたします。ただし、くれぐれもトロルに奪われないよう、ご注意ください」

「あっ、いえ」と手をふって突っ返されてしまった。「それはアルナナさんの護身用ですから」

「はぁ」

「でも、引き金を引けた人は20パーセントです。実際に敵を殺した人はもっと少ないでしょう。ちゃんとした人間には人殺しなんてできない。戦場での殺人は、殺人に心理的抵抗を感じない数パーセントの異常者によるものだった。無抵抗の兵士を一方的に殺せる異常者。それが戦場の英雄エースを産んだメカニズムです」

「……私も撃てない、と?」

「それは分かりません」と彼は首をふった。「ただ、あの本が伝えたかったのは、引き金のちゃんとした引き方です。彼は軍人でしたし、兵士には適切な心理ケアが必要だと訴えていました。別の著書では、未成年の銃犯罪を抑制できない社会に対して、激しい怒りを述べています」

「トロルに対しては現場判断による殺処分が認められています。問題ありません」

「ええ」と彼は頭をかいた。「余計なことだったかもしれません。すみません。そろそろ行きましょうか」

「はい」

 ほっと息をついた。ようやく前に進めるのだ。

「先頭は僕が立ちます。アルナナさんは後ろの警戒を。目標は素材還元プリンターでしたね。場所は……え〜と」

「地下2階です」

「すみません。昔から物覚えが悪くて」

 共有脳がなければ記憶も不安定になる。しかし、どうして自然脳のままなのか。見たところ、まだインプラント手術をためらうような年齢ではない。

「いきますよ。銃の用意も」

「はい」

 拳銃に弾倉を入れた。

 旧式の実弾銃の扱いも脳に入れてある。射撃場で調整も重ねた。彼が言うような懸念はないだろう。

 正面エントランスを抜け、そのまま地下へと降りていく。

 目標は業務用の素材還元3Dプリンターの確保あるいは破壊とした。過去の経験データには、トロルがプリンターで銃火器の複写製造を行い、多数の死者を出した事例があった。

 仮に同じタイプのウイルス型であればモールのプリンターを確保しようとするはず。あれほどの大型プリンターであれば銃の量産も可能だろう。

「止まってください」

 先頭をいくバクバが、背後に手の平を向ける。

「何か?」

 彼は人差し指を口にあて手招きをした。歩みよると、廊下の向こうから声が聞こえてくる。甲高い、空気を裂くような声。女の悲鳴だ。

「トロル?」

 共有脳によって他者への共感が当然になった今、悲鳴をあげるような事態が起きることはない。脳が悪意に感染されていない限りは。

「接近します」

「はい」

 慎重に悲鳴がする方へと進む。

 次第に大きくなっていく悲鳴にアルナナは目眩を覚えた。経験データには似たような状況のものがいくつかあったが、実際に体験すると脳に響くのだ。

「見えました」とバクバが廊下の角で止まる。「距離三十。男が二、被害者らしき女が一」

 アルナナも覗くとそこには、二人の男が女を組み伏せていた。馬乗りになった男は女の顔を何度も殴りつけている。よく見ると、女の服がはだけ、白い肌が露出していた。

「傷害罪。それに……強姦?」

「のようですね」

 感染エリアではこのような時代遅れの犯罪が横行するようだ。少しずつ、他人の経験に自分の実感が追いついていく。

「現行犯により、トロル感染者と断定します」

 膝を折り拳銃を構えた。

「撃てますか?」

「ええ」

 先ほどの20%がどうの、の確認だろう。

「この距離なら外しません。性行為にふけっているなら、奴らは痛覚遮断もしていないはず。問題はありません」

 照準を馬乗りになって上下に動く胴体に定めた。

 トロルは共有脳で痛覚遮断をすることが多く、胴体を撃っても無力化はできない。本来は頭を狙う必要があるが、今なら胴に当てるだけで十分だろう。

 女性の悲鳴が耳をつく。

 安全装置を親指で下ろし、引き金に人差し指をかけた。

 明らかな現行犯。本件は殺処分が適当だ。

 呼吸を整える。

 撃つ瞬間は息を止める。呼吸による照準のゆらぎを抑えるために。

「……万が一は、」とバクバさんに声をかけておく。「援護をお願いします」

「もちろん」

「撃ちます」

 もう一度、呼吸を整えて息を止めた。

 手前のトロルに狙いをつけ直す。

 もう一丁、拳銃を持ってくるべきだった。感染者は二人いる。初弾を当ててももう一人が気づくだろう。バクバさんにも銃を持たせて二人同時に仕留めるのが正解だった。

 それにしても、感染源は何なのだろう?

 あの二人も感染被害者なのかもしれない。だとしたらあわれだ。ウイルスに脳を上書きされただけなのだ。ほんの数時間前まで善良な市民だったのに。

 ——もしかしたら、脳クレンジングが間に合うのでは?

「バクバさん、」

 息を止めても、銃口の震えは止まらなかった。

「申し訳ありません。……お願いできますか?」

「はい」

 彼は私の拳銃をそっと奪い取った。

「申し訳ありません」

「アルナナさんは80パーセントのちゃんとした人間だというだけです」と彼は拳銃を右手に持ち、もう片方の手で腰から短刀を引き抜いた。「そして、僕は、デイブ・グロスマンがいうところの異常者です」

 彼は音も立てず、滑るように向こうへと進んでいった。

 決して急がず、ひたりひたりとにじり寄っていく。時折、聞こえてくる女の悲鳴にすら反応せず、銃口は暴漢にすえ、左手にした刃が濡れたように光りをはじいた。

 その距離は次第に縮まり、暴漢の首裏にある外接ソケットが見えるほどになった。そこから接続コードが伸びて女の首筋と直結している。直結上書きによる脳感染。もはや、彼がトロルであることは確定だ。

「もし」

 と、怒りもなく、バクバは無機質な声で呼びかけた。

 女に興じていたトロルが驚いて振り返る。その喉元にバクバは短刀を突きつけ「警告だ」と告げた。右手の拳銃はもう一人のトロルの眉間に向けられている。

「二人とも両手をあげ、その場にうつ伏せに」

「うぅー」

 男どもは唸り声をあげた。目は血走り、口からはよだれが垂れていた。そこには人間らしい知性が見られない。

 ——グール型か。

 女の引きつった息だけが時を刻んだ。

 トロルが警告に従う気配はない。バクバはこういった状況で猶予を与えるべきではないことを熟知していた。特にグール型であれば警告は無意味だ。

「警告はしました」

 その時、動いたのは女だった。

 彼女が腕を振り上げ、短刀をつきつけていたバクバの腕を払った。

 それは直結された共有脳から操作されたのか、あるいは彼女もすでに感染してしまったのか。女の「違うの!」という悲痛な叫びが響きわたる。

 喉元の刃から解放されたトロルがバクバに飛びかかる。

 しかし、バクバは十分に備えてもいた。

 トロルに組みつかれながらも、その背中から短刀を突き刺した。あばらの隙間から心臓へ刃を入れ、ぬるりと引き抜くと同時に横に飛ぶ。

 バクバが転がった後の床を銃弾の雨が叩いた。

 もう一人のトロルの手にはマシンピストルが握られていた。

 バクバは身を起こすと同時に、そのトロルに飛びかかる。

 短刀でマシンピストルの銃身を切り払うと、別手の拳銃でトロルの腹を撃つ。三発目でようやくトロルの膝が落ち、つづく四発目で頭を打ち抜いた。

 足元に転がる二体の死亡を確認する。そして、「ひっ、ひっ、」と肩を震わせている半裸に剥かれた女の方へと近づく。

「嫌、来ないで。違うの……お願い、許して」

 女がまだ十代の少女だったことに気がつく。

「君は」とバクバは上着を脱ぎ、少女に投げ渡した。「ご両親はいるかい」

「……は、はい」

 少女は錯乱しているのか、渡された上着で肌を隠そうともしない。

「まだ、覚えている?」

「……」

 バクバは少女の共有脳から伸びているコードをたどり、足元に倒れたトロルからプラグを引き抜いた。

「名前は?」

「お、思い出せません」と少女の頬に涙がつたわる。「自分の名前も、お母さんとお父さんの名前も! 弟もいたと思うんです」

「そうか」

 トロルウィルスは感染者のパーソナリティにかかわる記憶を優先的に消去する。自我を曖昧にして、感染しやすくするためだ。

「私も……殺されるんですか?」

「まだ分からない。これから検疫して規定値以内ならクレンジングだ。そうすれば元の生活に戻れる」

 バクバは少女から見えないように短刀を背に隠した。

 そのまま正面にかがみ込むと、うるんだ大きな瞳で見上げられる。彼女のはだけたままの胸元では青い影がゆれていた。

「あの」と少女が頬を赤らめた。「こんなことをお願いするのは、ダメだと思うのですけど」

「なんだい?」

「抱きしめてもらっていいですか? 不安でしょうがないのです」

「ああ」

 バクバがうなずいて少女に近寄ると、彼女はバクバの首に飛びついた。彼女の手には接続コードが握られていた。彼女はそれをバクバの後頭部に何度もあてて「ない!」と叫んだ。

「残念だけど、」

「ソケットはどこ! どこに隠したの!」

「僕は脳無しなんだ」

 バクバは少女をしっかりと抱きしめたまま、その鎖骨の隙間に短刀をあて、心臓に向かって刺しこんだ。



 ◇トロル対策局のオフィスカフェ


「おや、読書が趣味だったのかね?」

 課長はオフィスカフェにいたアルナナを見つけ、声をかけた。

「課長」

 アルナナは読みかけのページにしおり紐を引き、本をテーブルの上においた。

 読書による学習は非効率だ。だからこそ、想いをはせるのに向いているのかもしれない。特に、バクバさんが教えてくれたデイブ・グロスマンはあの事件を整理するのに最適だった。

「バクバの影響かね」

「分かりますか?」

「意外に君は分かりやすいのだよ」

 課長は「前の事件についてだが」といって向かいの席に腰をおろし、自分の首筋を指でとんとんと叩いた。「伝えたいことがある。機密事項だ」

「思念通話でよろしいですか?」

「努力しよう」

 二人は目を閉じてリクライニングに背を預けた。カフェに流れていたBGMが聴覚から遠のいて、脳が溶け合うような共感が波のように押し寄せてくる。

(ふと思ったのだが、今の若者たちは言葉すら必要としないのかね?)

 課長の脳が波打つ。

(いえ、)とアルナナは波をかえした。(思念通話とはいえそこまでは……。『言葉はいらない』と言う人もいますが、いささか誇張が過ぎると思います。直結すれば別ですが、極めて親しい間柄以外では慎むべきでしょう)

(あるいは、トロルウィルスを感染させる場合は、か)

 それを冗談だと判断し、アルナナは笑いをおくった。

(さて、神保町での感染事件についてだが)

(はい)

(本件は三体の感染者を処分し、早期終結となった。感染者が所持していた実弾銃は、君が優先目標に設定していた素材還元3Dプリンターで作成されたことも判明した。上層部は本件の経緯から君の判断能力を高く評価している)

(私ではなく、バクバさんのおかげです)

(だろうな。しかし、これは官僚的な記録作業だ。あまり大っぴらに脳無しの名は記載できない。君が彼の貢献を把握しておくこと、それが妥協ラインだろう。……続けてもいいかね?)

(申し訳ありません)

(以上の官僚的判断に基づいて君に辞令が下った。昇進だ。正式に防疫官を任せたい)

(承りました)

(まったく、淡々としている)と課長は驚きに安心を混ぜた波を発する。(喜びも倦怠も、優越感すら伝わってこない。……以降は防疫官として、神保町の事件の予防システムを構築してくれ)

(はい)

(それと、要請のあったバクバの件だが……)

 アルナナの脳がかすかに震えた。

(安心したまえ、彼も君の指揮下に入ることを了解したよ。あまり防疫官のことを悪く言う奴ではないが、それでも『君なら安心だ』と言っていた)

(……はい)

(やれやれ。内心のプライバシーなど、もはや成立しえないな)

 二人は思念通話を終え、課長は「休憩中にすまなかったな」と席を立った。

 課長を見送った後、アルナナは再び本を開く。

 デイブ・グロスマンは撃たれても撃ち返そうともしない80%の人間を「羊」と、数%の殺人に抵抗のない異常者を「狼」と呼んだ。その上で羊を守る「牧羊犬」の必要性を繰り返し訴えている。時には殺人すら厭わずに異常者から市民を守る番人だ。

「私の牧羊犬、か」

 アルナナはまるで少女のように、くすくす、と笑った。






——————

 以降では物語に出てきた書籍の引用を行います。本作を書く上で非常に参考になりました。謝意をこめて引用はいたしますが、本作の文責はすべて私にあります。


[1]『インターネットによる衆愚政治』(実在しない本です)

 本小説のために創作された本で実在はしません。ただし、類似の主張をする本はいくつか実存します。いずれも保守・リベラル派の立場によったものが多いと感じたため物語中での引用は避けました。

 統計的な立場で逆の主張した本もあります。『ネットは社会を分断しない』(角川新書。田中辰雄、 浜屋敏)は、Webアンケートの結果を分析した上で、若い世代がネットを通して様々な意見に触れることで穏健化していると主張しています。

 なので、私のこの小説のように「ネットに悪意があふれている」と結論づけるのは時期尚早かもしれません。ネットは正しく利用すれば多様な可能性を切り開くツールです。そして若い世代はそれに対応し始めているのかもしれません。


[2]『戦争における「人殺し」の心理学』(二見書房。ちくま文芸文庫。デイブ・グロスマン、ローレン・W・クリステンセン。翻訳は安原和見。)

 第二次世界大戦、ベトナム戦争での前線兵士の行動統計から、戦争における殺人行為の心理的影響をまとめた本です。本書では、少ない発砲率を高めることを目的に訓練を施し、ベトナム戦争では90パーセントまで上昇させたことを述べた上で、同時に兵士の自殺率も上昇したことを指摘し、警告しています。

 本書は「人は生得的に人を殺せないのだ」という主張の引用に使われることが多いですが、私個人はそのようには解釈しませんでした。「環境と訓練によって人を殺せるようになる」というのが私の解釈です。平和な社会を維持するために市民にどのような環境が必要なのか。そして、殺人をいとわない敵が現れた時、その平和な社会をどのように守るか。それが本書の投げかけた現実だと思いました。

 また本物語でも引用している『前線の発砲率が20%』という調査結果に対して、信憑性が低いという指摘もあります。この調査はデイブ・グロスマンが行ったものではなく、彼は別の人物の調査結果を引用しました。


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