債務者羽柴秀吉

 岐阜城下の侍屋敷が立ち並ぶ区画を歩いていく。


「っと、ここだな」


 目的の屋敷の前で立ち止まる。すると、丁度玄関から出てきた男と視線が合う。


「大山殿?」

「お久しぶりです、小一郎様」

「お止し下さい。様、などと呼ばれるような大層な人間ではありません。――兄上に御用で?」

「はい。お祝いを述べに。この度は誠におめでとうございます」

「ありがとうございます」


 礼を言いながらも、小一郎はどこか複雑そうな顔付きで俺を見る。


 分からなくもない。

 俺は、彼の兄である藤吉郎を幾度も助けてきた支援者であると同時に、藤吉郎が莫大な借財をしている相手でもある。

 見ようによっては、借金取りが家に押しかけて来た状況だ。

 どのような顔をすればいいのか分からなくなっても、無理はないかもしれない。


「……どうぞ」


 小一郎に従って屋敷の中に入る。

 廊下を歩いていると、そこかしこに荷造りをしている形跡が窺える。


「引っ越しの準備ですか」

「はあ。お見苦しい限りで」

「いえいえ。――北近江の所領にはいつ頃?」

「来月には一族郎党共に移りたいと思っております」


 成る程、と俺は頷く。 

 それからも当たり障りない雑談を交わしながら歩いていると、小一郎が『ここです』と足を止める。


「兄上、浅田屋の大山殿がお越しですぞ」

「何? 源さが? 入れ」


 小一郎が襖を開く。


「私はこれで。どうぞ、ごゆるりと」


 俺は軽く頭を下げると、部屋の中に入る。


「おう! 急にどうしたんじゃ源さ?」

「勿論、お祝いに参上したのですよ」


 にこやかに笑いながら、藤吉郎の対面に座る。


「しかし、北近江三郡もの所領を宛がわれるとは、正直驚きました。藤吉様、この度の大出世、誠におめでとうございます」


 そう言って、頭を下げる。頭を下げた直後、『いえ……』と口にしながら視線を上げて藤吉郎の顔を見る。


「藤吉様、ではなく、別の呼び方をすべきでしたか?」


 意味深な視線を送る。すると、藤吉郎は感心したように頷く。


「相変わらず、耳が早いの源さは」


 そう目の前の男の名は、もう木下藤吉郎秀吉ではない。

 北近江三郡もの領主になって、『木下』の姓もない。そう思ったのか、藤吉郎はこれを機に、織田の重臣『柴田』『丹羽』の両名から一字ずつを貰い、『羽柴』と改姓した。

 これは周知の事実。


 が、今一つ。彼の呼び名が変わることが実は決まっている。

 藤吉郎が『耳が早い』と言ったのは、こちらの方だ。


「織田の重臣の方々が、これまでの働きを賞され、朝廷より賜姓、あるいは、叙任されるとは、誠に誉れ高きことですね」


 藤吉郎はうんうんと頷く。



 この度朝廷は、朝倉浅井征伐の功に対し、信長に報いようかと思ったが、これが中々難しい。

 というのも、信長はこの前『従三位権大納言右大将』に叙位任官したばかりである。


 すぐまた昇進というのは、いささか都合が悪い。

 しかも、右近衛大将の上といえば、武官では征夷大将軍しか存在しない。

 征夷大将軍任官には、まだ時期尚早であろう、という思惑もあった。


 そこで信長は、自身ではなく、自分の家臣たちへの賜姓・叙任を求めた。


 上手い手だ。

 朝廷の面目を立てつつ、家臣たちにも報いている。

 信長の推薦で賜姓・叙任された重臣たちは、感激ものだろう。一層、信長に尽くすに違いない。


 因みに、賜姓・叙任の具体例を見て行けば、明智光秀の『惟任日向守』、村井貞勝の『長門守』、柴田勝家の『修理亮』、丹羽長秀の『惟住氏』、松井友閑の『宮内卿法印』、武井夕庵の『二位法印』、簗田広正の『別喜右近』、塙直政の『原田備中守』。

 そして我らが猿木藤の『筑前守』である。


 まだ正式に発表されていないが、これらの賜姓・叙任が内示されている。

 つまり、目の前の藤吉郎は、じきに羽柴筑前守秀吉となるわけである。



「誠に、誠に大出世おめでとうございます、羽柴筑前様」


 仰々しく言ってやれば、藤吉郎は鼻をひくひくとさせる。――『ご満悦』とその顔に大書されていた。


「よせ! よせ! オレと源さの仲じゃ! これまで通り藤吉と! そう本来では許されんが! 特別に、特別にの! 藤吉と呼びゃあて!」


 俺は軽く頭を下げる。


「では、お言葉に甘えまして。これまで通り藤吉様、と。……安心しました。藤吉様の余りの大出世に、今までのような関係ではいられないとばかり」


 藤吉郎は身を乗り出す。


「馬鹿言うな! オレらは朋友じゃ! オレがどんな出世しても変わらん! 心配するな、何の遠慮もいらん」


 俺は頷く。


「はい。では、遠慮なく、今後のお話をさせて頂こうかと思います」

「うん?」


 藤吉郎は片眉を上げる。

 おだてられ、のぼせ上っていた猿も、ようやく警戒心を取り戻したようだ。


 ニヤリと内心笑いながら口を開こうとすると――。


「兄上」


 と、部屋の外から小一郎の声が上がる。


「お、おう! 何じゃ、小一郎!」


 藤吉郎は助かったとばかりに早口でまくし立てる。


「義姉上が、是非大山殿にご挨拶したいと」

「ねねが?」


 藤吉郎がこちらに視線で問い掛けて来る。俺は頷いた。


「入れ」


 藤吉郎の言葉に、一人の女人が部屋に入って来る。


「源さは会うのは初めてだったかの? 妻のねねじゃ」


 話では何度か聞いたことはあるが、会うのは確かに初めてだ。


「ねね、お前には何度も話したことあるな。オレの友の大山源吉、優れた商人じゃ。互いに助け合う関係での、まあオレがここまで出世できた理由の一端は、源さにあるな。無論、浅田屋が大きくなったんも、オレの助けがあってこそじゃが」


 得意げに藤吉郎が言うと、藤吉郎の妻ねねの眦が吊り上がる。

 パチンと、藤吉郎の頭を叩いた。


「イタッ! 何すんじゃ!?」

「また調子に乗って! 愚かなことを口にして!」

 

 ねねはまた手を上げる。

 藤吉郎は『痛い! 痛い!』と転げながらねねから距離を置いた。

 

 ねねは俺に向き直ると、丁寧に頭を下げる。


「見苦しい所をお見せしました。藤吉郎秀吉の妻、ねねです」

「大山源吉です」


 俺が挨拶を返すと、ねねは顔を上げる。


「お調子者な主人は、あのようなことを申しましたが。今の主人があるのは、ひとえに大山殿のご尽力あればこそと、重々承知しております」


 ねねは両手で俺の手を取る。


「誠に、誠に有難う御座います。あのようなお調子者ですが、これからも何卒お力添え下さい。よろしくお願い致します」


 そう言ってまた頭を下げた。


 良い女房じゃないか。猿木藤には勿体ない女人だ。


「お顔を上げてください。勿論、これからも藤吉様の助けになる所存です」


 ねねは顔を上げる。その瞳の色が変わった。


「有難う御座います。……ところでお恥ずかしいことを申し上げますが。新しく賜った所領に移るとなると、暫くは何かと入用になるかと思われます。借財の返済ですが、今しばらく猶予が頂きたいのです。お願いできましょうか?」


 ……言質を取られたか。

 一部訂正。良い女房には違いないが、藤吉郎にはお似合いの女人だ。


 まあ、構うまい。

 良い女房ではあっても、良い商人ではない。なれば恐るるに足らない。


 コホンと咳払いする。


「成る程、そういうことなら致し方ありません。一年、あと一年何とか猶予を見ましょう。代わりに、こちらのお願いも聞いて頂きたいのですが」


 恩着せがましく言う。

 が、実をいうと、今すぐ取り立てようとは元々思っていない。


 当たり前である。所領を持った瞬間、大金が天から降ってくる訳も無し。

 新たな領地から上がって来る税収などが藤吉郎の懐に入ってくるのは、まだ先の話だろう。


 但し、話の流れを利用して、こちらのお願いを聞いてもらいやすくするため、渋々一年待つかのように言って見せる。

 これでは、こちらの願いを断れまい。まあ、莫大な債権を盾に押し切れば、そうでなくても断れるものではないが。


 俺は藤吉郎を見る。


「藤吉様」

「……望みは何じゃ?」

「二つあります」

「二つもか!」


 藤吉郎は落ち着かなげに貧乏揺すりする。


「で? その二つは?」

「まず一つ。藤吉様の所領内において、手前ども天正株式組合に優先的な水路の利用権をお与え願いたく」

「水路……琵琶湖のか」

「はい」


 藤吉郎は、重要な通商路である琵琶湖ネットワークの一画を任されることとなった。

 なれば、そこで色々と便宜を図ってもらえるのなら、商売上大いに助かる。


 藤吉郎はがしがしと頭を掻く。


「仕方あるまい。オレたちの仲じゃ。それに、天正株式組合は、上様との繋がりも深いしの。多少の便宜を図るくらいなら、上様からお叱りを受けることもないじゃろ。ただし! 多少じゃぞ、多少! 他の連中が目くじら立てるような、度が過ぎた便宜は流石に無理じゃ」

「ええ。心得ております」


 まあ、そんな所だろう。

 それに余りに依怙贔屓が過ぎて、多くの反感を買うような真似は、俺たちもごめんだ。


「……二つ目は?」


 藤吉郎は、一つ目が小手調べで、二つ目が本命と見てるのか、どこか恐々と聞く。

 安心しろ、猿木藤。お前が、何か不利益を被るような内容じゃない。


「二つ目は、今後の織田の戦略方針において、藤吉様にも西進策を推してもらいたいのです」

「んん?」


 かねてから、俺が信長に推してる西進策だ。

 東は怖い。徳川家康、浅井長政、この両名の盾を挟んで向こうは、甲斐の虎と越後の龍だ。

 手強い上に、これを落として得られるものは、然程大きくない。

 いや、小さいとは言わないが、労に釣り合うとは思えない。


 翻って西は、西国の巨人毛利まで、まだいくつかの小大名たちがいる。

 手強い敵と当たるまで、まだ猶予があるし、落とした時のメリットも大きい。


 やはり重要な通商路である瀬戸内海、そして但馬国の生野銀山だ。


 史実では、但馬国を落としたのは藤吉郎だ。

 この歴史でも、藤吉郎が落としたのなら、真っ先に利権に群がりたいものだ。


 そんな心算をしながら口を開く。


「手前からも、上様に西進策を推しております。恐らくは、上様もその気でしょう」


 藤吉郎は訝し気な表情になる。


「上様がその気なら、何で俺にそんなことを頼む?」

「上様のご意向とは別に、家中の意見というのも御座いましょう。いくら上様とて、それを完全に無視することもできますまい。藤吉様も重臣の一人となられました。評定の場での発言権も高まったことでしょう。是非、藤吉様からも西進策を推して頂きたく」


 ふむ、と藤吉郎は顎を撫でる。


「それくらいなら構わんが。……上様が西進策を望まれてるっちゅうのは、本当なんじゃろうな?」


 まあ、信長の意向とは真反対な意見を口にするのは怖いよな。


「はい。今回の重臣の方々の任官を見れば、一目瞭然かと」

「どういうことじゃ?」

「日向、長門、備中、筑前。見事なまでに、織田領より西の国ばかりです」

「あっ!」


 藤吉郎は膝を叩く。


「正にそうじゃ!」

「これが偶然だと思いますか?」

「いや、思わん。成る程の、了解したで源さ! 上様のご意向に沿う意見を出してりゃ、上様の覚えも良くなるってもんじゃ! 任せとけ、必ずや西進策を推したる!」

「有難う御座います」



 俺は頭を下げて見せたのだった。

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