朝倉滅亡

 ――田上山 朝倉本陣


「あれよ、あれよ! 煙が上がっておるぞ!」

「大嶽山の方角じゃ!」

「大嶽が陥ちたんか!? 一夜の内に!?」


 風雨が夜の闇と共に去ると、大嶽から立ち昇る煙は朝倉本陣からも見えた。

 雑兵らは俄かに騒めき出す。


「織田の兵が、直ここにも雪崩れ込むで!」

「否とよ! 織田がここを攻めれば、小谷の浅井が織田の隙を衝く! 挟撃じゃ! 思う壺よ!」

「信じられるものか! 寡兵の浅井が打って出る保証が何処にある!」

「それは……」

「塀も堀も無いここでは、単独で織田の兵に抗し切れまい……」


 雑兵らの顔は暗い。悲観的な言葉が大勢を占める。特に最後の言葉に、最悪な未来が頭を過ったのか、誰もが黙り込んでしまった。


「……殿は何故織田を裏切ったんじゃ」


 沈黙の中一人の兵がポツリと呟く。

 ただ、その声は声量に反して、不思議と多くの兵の耳に届いた。

 皆強張った顔で、周囲の顔を見回す。


「……滅多なことを申すな」

「されど、されど、織田との盟約に背かねば、このような事には……!」


 大胆な発言に、しかし厳しく咎める者は現れなかった。


 無理もない。

 織田に対立して以来、朝倉は連戦連敗と苦境に立たされたのだから。

 朝倉義景は兵卒からの信望を失っていた。


 そんな雑兵らの様子を遠目に窺う男がいた。

 義景の近侍の一人、鳥居景近であった。

 彼は黙ったままその場を立ち去ると、主君である義景の下に向かう。




「どうじゃ、兵庫助? 兵らの様子は?」


 鳥居景近の顔を見るなり、憔悴しきった義景は尋ねる。

 尋ねられた景近は苦り切った顔をする。それだけで、義景は全てを察した。


「駄目か」

「はっ。……兵らの士気は落ちております。その上、大嶽が陥ちたことにより、浅井との連絡線が切れました。今後、連携を取るのは難しいでしょう」

「戦えぬか……」


 義景の呟きに、景近は無言で頷く。


「やむを得ん。撤退じゃ。夜半に撤退する」



 戦意を喪失した朝倉本軍は、刃を交えぬまま撤退を決意した。――信長の予言通りに。



※※※※



 ホウホウと、どこからともなく梟の鳴き声が響く中、夜の闇に紛れて行軍する兵らの姿があった。――朝倉兵である。


 灯りを最低限に、声を殺しながら去り行く姿は、情けないものである。

 馬上の朝倉義景の心中も惨めなモノであった。


 ――何故じゃ? 何故こうなる?


 義景は納得がいかぬと顔を顰める。


 ――織田なぞ、越前守護たる我ら朝倉の“陪臣”に過ぎぬ分際の癖に! それが何故、織田が朝倉を飛び越え、更には公方様をも越え、天下人の如く振舞う事になるのか!?


 この想いこそが、義景の信長に対する反感の全てであった。


 織田と朝倉の関係は古い。

 元をただせば、両者ともに足利氏の有力一門である斯波氏の家臣であった。


 やがて、力を付けた朝倉が斯波氏から越前守護の座を奪う。

 斯波氏の立ち位置に取って代わった朝倉にとって、織田は陪臣に過ぎぬという認識であったのだ。

 

 その織田が台頭し、嘗ては自らが保護していた義昭を奉じて上京し、将軍の名の下に、織田、徳川、浅井、朝倉連合の盟主面をする。

 義景にとって我慢ならぬことであった。



 ――増長したうつけに身の程を知らせる筈が、どこで間違えた? おかしいであろう? ワシはこうも無様を晒し、彼奴は右大将権大納言? 何故そんな事になる? 彼奴は、織田信長は一体何なのだ!?


 悶々と終わりなき疑問と鬱屈の中にいた義景の思考を、後方、闇の奥から唐突に上がる喧騒が遮った。


「な、何事じゃ!?」


 義景は動揺に視線をさ迷わせる。馬廻り衆の顔を順繰りに見回していると、やがて後方から一人の武者が駆け寄って来る。


「殿、敵襲です! 織田が追撃を!」

「馬鹿な……」

 

 義景は呆然と口を開いたまま固まる。


「どうして、どうして、今夜撤退すると読めた? 何なのだ彼奴は? ワシは何を相手にしているのだ?」


 義景は呆然としている間に、浮足立った兵らから悲鳴のような声が上がる。


「天魔じゃ! 天魔が追って来る! 早う逃げねば!」


 天魔、それは近頃流布している信長の異名であった。


「天魔……」


 義景は呟く。やがて、肩を震わせた。


「くくっ。ハハハハ! そうか! そうであったか! 天魔! 彼奴は真に第六天魔王の化身であったか! であるならば、致し方なし! ハハハハ!」


 義景の狂笑が闇夜に響き渡った。





 一方、追撃する織田軍からは勇猛な鬨の声が上がる。

 その先頭付近に、信長本隊があった。


「上様! 諸将の兵が遅れておるようです!」


 近侍の言葉に、信長の顔は怒りに歪む。


「たわけどもが! 好機を逃すなと、あれ程口にしたものを! よい! 我ら馬廻りのみで追撃する!」


 信長の怒声が響いた。

 兵らは肝を冷やしながら懸命に走る。


 しかし程なくして、信長本隊より先行する部隊があることに兵らは気付く。


「上様! 先行する部隊がある模様!」

「誰の兵か!?」

「どうやら、浅井備前守殿のようです!」


 信長は片眉を上げ、次いで機嫌良さそうに笑む。


「流石は義弟よ! 越前切り取り次第と発破をかけておいたからの! 張り切っておるわ!」


 信長の言う通り、国替え、越前切り取り次第を申し付けられていた浅井長政は、他の織田の諸将に遅れるわけにはいかなかったのだ。

 何としても、越前攻めの第一功を挙げねばと奮起していた。


「よし! 朝倉を追撃しつつ、越前は一乗谷まで乗り込むぞ! 一番槍は義弟に譲るが、二番槍は貴様らじゃ! 奮起せよ!」

「「応!」」



 織田軍の士気は最高潮に高まる。一方、朝倉の士気は地を這い、かつ、主君義景への忠誠心も揺らいでいた。

 それでなくても、逃げる背を打たれれる撤退戦である。


 朝倉軍のある者は追い首を挙げられ、ある者は具足を脱ぎ捨て蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑う。

 大嶽山に引き続き、またもや一夜で勝敗が決した。


 翌日以降も、織田軍は勝勢そのままに追撃に、追撃を重ね、朝倉の本拠一乗谷に侵攻。ロクな抵抗もないまま占領する。

 やがて、一乗谷からも落ち延びた義景が、一族の朝倉景鏡に裏切られた末に自刃する。

 越前朝倉氏の、呆気ない滅亡であった。


 義景自刃の報を、信長は一乗谷で聞いた。


「戦勝、おめでとうございます!」

「おめでとうございます!」


 言祝ぐ近侍らの声に、信長は煩そうに手を振る。


「まだじゃ! まだ、小谷城が浅井久政が残っておるわ!」


 近侍らは顔を引き締め直す。


「では、すぐに小谷城攻めを?」


 信長は頷く。


「されど、この追撃戦で兵らに疲れがあるかと思いますが」

「言われずとも、分っておるわ。主攻を、虎御前山の留守部隊に任せればよかろう」

「留守部隊。では……」

「うむ。小谷城攻めの主攻は――」



※※※※



「鼠の旦那! 小谷城に動きが!」

「おう! 打って出てくるようじゃの!」


 藤吉郎は目を細める。

 視線の先に、小谷城を出撃してくる兵らの姿があった。


 三つ盛亀甲に花菱の旗指しを掲げた兵らの数は、三千といったところか。

 騎馬武者の檄に、徒歩の兵らが応えて蛮声を上げながら突き進んでくる。


「兄者」


 小一郎が藤吉郎を見る。


「心配ないじゃろ。後手後手に回った挙句の、破れかぶれの出撃じゃ」


 藤吉郎の言は正しい。


 大嶽城陥落により、朝倉、浅井間の連絡線が途切れた。

 小谷城に籠る浅井勢は、後詰に来た朝倉が撤退することを知らなかった。更には、それを織田本軍が猛追したことに気付いたのも、遅れに遅れたのだ。


 朝倉を追う織田の背を衝こうにも、最早届かない。

 かといって、このまま小谷城に籠り続けても、後詰の朝倉がいなくなった以上、やがて朝倉追撃から織田本軍が戻ってくれば、そこで命運が尽きる。


 残された手は一つ。

 織田本軍が不在の今、手薄になった虎御前山を攻略する事。

 織田の留守部隊を蹴散らせば、織田軍の兵を減らすことが出来るし、小谷城の周囲に主だった織田の兵がいなくなれば、小谷城以外の城と連携し、戻って来る織田本軍を迎え撃てるかもしれない。


 ただ、問題は虎御前山攻略に成算があるかということだが……。

 これを考えても仕方のないことであった。

 

 手薄になった虎御前山なら落とせる。落とせるに違いあるまい。

 そんな希望的観測に縋って出撃するしか、浅井久政には道がなかったのだから。


 しかし、往々にしてその手の希望的観測は外れるのが世の常だ。



「お前ら、準備はええか!」

「応よ! 鼠の旦那!」


 応える木下隊の兵らは、めいめいが火縄銃を掲げて見せる。

 配された重火力は、陣地防衛にこれ以上なく適したものだ。

 その頼もしさに藤吉郎の笑みが深くなる。


「訓練の成果を見せる時じゃ! 揃いも揃って外しまくったら容赦せんぞ!」

「分かっとりますわ! そんなことより旦那! 兜首を射抜いたら、褒美を貰えるんで?」

「阿呆! 誰の弾が当たったか何ぞ、分かるわけなかろうが!」

「ちげえねえ!」


 ははは、と笑い声が弾ける。


「よーし、減らず口はここまでじゃ! 連中が近付いて来よる! 鉄砲構えぇ!」


 木下隊が一斉に銃を構える。


「まだじゃ! まだ撃つなよ! まだじゃ! まだ…………今じゃ! 撃て!」


 パンパンパンパンパン! とおびたたしい数の炸裂音が重なる。


 一斉射撃に、攻め手である浅井勢は算を乱す。

 銃弾を浴びたのか、悲鳴を上げながら倒れたり、蹲ったりする者。

 怯み、思わず足を止めてしまう者。

 中には、勇猛果敢に突き進む者もいるが少数だ。


「弾込めい! 敵が動揺している内じゃ! ……よしよし! 弾込めちょる間に、ちゃんと長槍持った連中が前に出とるの!」


 藤吉郎は興奮に顔を赤らめる。


「急げ、急げ! 弾込め急げ!」

「分かっとる! 分かっとる! 急かすな旦那!」


 藤吉郎の視線の先、浅井勢は騎馬武者が声を張り上げ、混乱した兵らを再度纏め出している。再び、組織だった突撃を敢行しようとしていた。


「急げよ、急げ!」

「…よし! 弾込め終わったわ!」

「俺もじゃ!」

「こっちも終わったで!」

「よっしゃ! 丁度ええ! 見えるな!? 目標は、あの固まって動き出した連中じゃ! 構えい! 撃て!」


 無数の火縄銃が火を噴く。

 再度、突撃を敢行した一団に無情にも鉛弾の雨が浴びせられる。


 これには堪らず、浅井勢は完全に崩れ出す。ばらばらに退却を始めた。

 虎御前山に歓声が上がる。


「どうじゃ! ワシの撃った弾が兜首を仕留めたで!」

「嘘吐くな、嘘を!」

「本当じゃ!」


 木下隊の兵らが馬鹿騒ぎする中、小一郎が指をさす。


「兄者! あれを!」


 虎御前山の陣営を飛び出し、退却する浅井勢を追いかける部隊があった。


「抜け駆けじゃ! 鼠の旦那!」

「……ありゃ、又左どんか。ほっとけ、好きにさせりゃええ。この陣を守った、ちゅうことが大事なんじゃ。追い首は大した功にならんて」

「そんなもんか」


 木下隊の面々は納得半分といった風情で頷く。

 


 やがて、前田隊が僅かに戦果を拡大し、虎御前山に引き返して来た。

 丁度その時、母衣を付けた騎馬武者が別の方角から虎御前山に駆けて来る。木下陣に近づくと、『木下殿は何処か!』と繰り返す。


「ありゃ、上様の伝令か? おーい、ここじゃ! 木下秀吉はここじゃ!」

「おう、そちらであったか!」


 下馬して、近付いて来た伝令に、小一郎が竹筒を差し出す。


「忝い」


 伝令の男は、水を一口飲んでから口を開く。


「木下殿、某は黄母衣衆の長井にござる」


 長井と名乗った男に見覚えのあった藤吉郎は、一つ頷く。


「伝令御苦労。……上様は何と?」

「はい。まず、本軍が一乗谷を制圧。朝倉左衛門督が自刃したことをお伝えします」

「何と! 祝着じゃ!」


 長井は頷く。


「されど、上様はまだご満足されておりません。返す刃で、一息に小谷城を陥とすお積りです。……木下殿」


 長井は藤吉郎の目を見る。


「上様は、木下殿に小谷城攻めの主攻を任せると仰せです。大役でござるぞ!」

「オレが、小谷城攻めの主攻……」


 藤吉郎は呆然と呟く。無意識に、視線を移した。

 その目の先には、泰然と聳える浅井家の居城小谷城の姿があった。

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