大獄強襲
「義兄上」
信長本陣に浅井長政が姿を現す。
「おお、戻ったか、義弟よ! それで? 如何であった?」
信長は長政に空いた簡易椅子を勧めると、身を乗り出す様に尋ねた。
「はい。城下の民たちから集めた情報を纏めれば、小谷城に籠る兵らの数は五千といった所でしょう」
「五千……」
戦では、現地の民たちから情報を集めることがままある。
地理的なことであったり、敵軍の情報であったり。
勿論、敵地では非協力的な民草が、情報を伏せたりすることもあるし。
情報を話したとしても、勘違いなどから意図せず誤った情報を渡したり、あるいは意図的に欺瞞情報を渡してくることもある。
よくよく注意しなければならないが、今回に限っては、ほぼほぼそのような心配はなかった。
何せ、情報収集を行ったのが、この北近江の国主であった長政の手勢たちである。
誰も彼もが、協力的に情報を提供したのであった。
「また、援軍に訪れた朝倉の軍兵ですが。小谷城北西の田上山に本陣を敷いた模様」
信長は軽く頷く。朝倉本陣の位置は、既に信長も掴んでいた。
「朝倉の兵は、どうやら二万程であるようです」
「二万か……」
此度の、織田軍の全容は四万。ただ、敵方の横山城の包囲など、各所に割いた兵らの数がおよそ一万。
現在、虎御前山にある兵は、三万程であった。朝倉ら二万の後詰は、決して侮れる数ではない。
「他に何か?」
信長の問いに長政は頷く。
「朝倉は、本陣の田上山と、小谷城の中間地点にある大獄山に砦を築き、兵を配しております」
「大獄か……」
信長は思案気に呟く。
長政は、信長が考えているであろうことを推測し、言葉を続ける。
「もしも大獄を落とすことができれば、後詰に現れた朝倉と、小谷城との連絡線を断ち切り、両者を分断できましょう。小谷城を孤立させられます。ただ……」
「難しいか?」
「はい。ここ虎御前山から大獄に兵を向ければ、小谷城からも田上山からも即座に気付かれましょう。最悪、大獄を攻めておる兵らは、小谷城と田上山から出撃した兵に挟撃されます」
「成る程の。ご苦労であった、義弟よ。自らの陣に戻り、休息を取られればよかろう」
信長の労いの言葉に、長政は一つ頭を下げると信長の本陣を後にした。
この時、時刻は夕刻前で、そろそろ日が傾くかという頃合いであった。空には雲が疎らにあるものの、特に風が強いというわけでもなかった。
信長公記は記す。――『その夜思いがけず風雨であった』
「何じゃ!? 急な嵐かて!」
陣幕はめくれ、篝火は倒れ、旗指物が飛ばされる。叩きつけるような雨が、兵らの体を打つ。
誰もが亀のように首を引っ込めて、この夜の嵐をどうやり過ごすか、とそれだけを考える。只一人を除いては。
信長である。雨に打たれるのも気にせず、闇夜を睨み付けている。
それを見た側近の一人が、信長に声を掛ける。
「上様! そのような所にいては、雨に打たれお体が濡れておしまいになります! どうかこちらへ!」
「出陣じゃ」
「はっ?」
「ワシの馬を曳け! 出陣じゃ! 大獄を強襲する!」
「何と!? されど、上様……」
言葉は途切れる。信長のその姿を見て。
瞳に宿るは決意の光。身に纏うは戦国の世を平らげる覇者の風格。
側近は自ら反論の言葉を呑み込んだ。在りし日を思い出したからだ。そう、あの桶狭間を。
いや、その男だけではなかった。信長の姿を見る馬廻り衆たちは皆、同じ想いを抱いた。彼らは興奮に顔を赤らめる。
「者ども、馬を曳け! 出陣じゃ! 上様の出陣じゃ!」
「応とも!」
「出陣じゃ!」
信長本陣の兵たちが口々に叫ぶ。
覚悟を決めた馬廻りの姿に、信長は笑みを深めると、颯爽と葦毛の馬に跨った。佩刀を抜き放つと、その切っ先で天を衝く。
「その意気や良し! 我ら馬廻りのみで、大獄を攻め落とさん! 出陣じゃ!」
「「応!!」」
空気を震わせる気勢そのままに、信長直卒する馬廻り二千は、夜の嵐の中で馬を駆けさせる。一気に本陣を出て、虎御前山を下りきると、大嶽城へと一直線。
その行軍を阻むものなどある筈もなし。
大獄城までの道程を走破すると、稲光に照らされながら大嶽城へと攻め上る。
大獄の兵らに警戒のけの字もない。
いざ攻め寄せられた段になっても、大獄の城兵の大半は何が起きているかも理解できなかった。
夜陰に紛れた、風雨に紛れた電光石火。これを奇襲と呼ばず、何を奇襲と呼ぼう。
時勢を捉える直感。即座に決意する迅速果断さ。
信長は変わらない。齢を重ねようとも、今や天下人と目されようとも変わらない。大うつけと呼ばれた、あの桶狭間の頃から何一つとして。
「掛かれ! 掛かれ! すわ掛かれ!」
闇夜の中、嵐に負けぬ信長の大音声が上がる。
その声を背に、精兵たる馬廻り衆は、早くも急拵えの城壁を破り城内へと雪崩れ込む。
討ち取った者の首すら捨て置き、只管、城の奥へ奥へ。
そうして、夜明けも待たずして、見事大獄を落城せしめる。馬廻り二千の勝鬨の声が轟いた。
『信長公、自ら雨に濡れ、馬廻りのみで大嶽へと先駆け攻め上った。――信長公記』
※※※※
――大獄落城。余りの奇襲と夜の激しい風雨から、その事実は、友軍である織田軍将兵たちすら夜が完全に明け切った朝方になって初めて知った。
無論、敵方である浅井、朝倉に至っては語るまでもない。
信長からの参集命令に、織田軍諸将は慌てて信長の下に馳せ参じた。
――柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀、木下秀吉、滝川一益、客将の浅井長政ら、主だった諸将が揃うや、信長は軍議を開く。
「朝倉めは、遅くても数日の内に。早ければ今夜、夜陰に紛れて撤退する」
信長が開口一番言い放った、その言葉に諸将はどよめいた。
いくら、浅井、朝倉両者を分断し、有利な戦況になったとはいえ、そう簡単に後詰に来た朝倉が退却するとは、諸将には思えなかった。
「好機を逃すなかれ。朝倉が撤退すれば、これを猛追し、その背を打つ。よいな?」
「「はっ」」
釈然としないまま諸将は頭を垂れる。
信長は頷くと、また口を開く。
「禿げ鼠!」
「ハッ!」
「貴様には、虎御前山の守将を命じる! 鉄砲は部下たちにしかりと仕込んだであろうな?」
「はい。万全にございます!」
「又左らに、貴様の指揮に従うよう申し付けておく。もし、我らの留守を小谷方が衝いて来るなら、これを追い払え」
「ハッ!」
藤吉郎は頭を垂れた。
「軍議は終いじゃ! 各々、準備を抜かるな!」
信長は再度念押しすると、簡易椅子から立ち上がる。
ぎらつく眼光は未来をも見通すのか? 分からない。ただ、今度こそ不義の輩、朝倉義景の首を獲らんと、その眼が燃えていることだけは確かであった。
激動の戦の予感に、空気が震えていた。
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