暴発

 ――烏丸中御門第(将軍義昭邸)


 ここ数日、義昭は自らの邸に籠っていた。

 それというのも、信長から義昭へ面会の申し出があったからだ。


 信長が何のために義昭に会おうとしているのか、それは義昭にも分からぬ。

 が、会おうというからには当然意図があろう。

 なので、病に臥せっていると称して、信長の目論見を遅滞させる嫌がらせをしているのであった。


 何とも子供じみた手段だが。

 しかし病で臥せっているという将軍の寝所に無理やり押し掛けることなど誰にも出来るわけもない。

 中々どうして、効果的な嫌がらせである。


「上様!」


 そんな仮病を決め込んでいる義昭の下に、幕臣の一人が駆け込んで来る。彼は、信長に接近した細川藤孝に代わり、義昭の取次役となっていた男であった。


「何じゃ、騒々しい」


 義昭は顔を赤くした部下の顔を見遣りながら問う。


「これをご覧ください! 織田弾正忠めが意見書などと嘯いて寄越してきました」

「ふむ。中身を検めたのか?」


 部下の怒気から、その中身を既に見たのだろうと義昭は判断する。


「はっ。もしや……と思う所がありましたので。先に検めさせて頂きました。これです」

「そうか」


 義昭は受けとった意見書を開くと、一つ顎髭を撫でながら目を通していく。

 頭から読んでいって、部下の怒りの理由を知り義昭は苦笑を浮かべる。


 ――何とまあ、挑発的な『意見書』であろうか。


 義昭は怒らない。むしろ面白がる余裕すらあった。


 ――この挑発、信長の狙いはこの義昭を暴発させることであろう。成る程、なれば何ら恐れることもないではないか。


 義昭はそう思う。


 将軍義昭を激昂させ、暴発させる。それが信長の狙いである。

 それはつまり、自分からは手出しできないと言ってるに等しい。そう、さしもの信長も大義名分なく、征夷大将軍を攻め滅ぼすことなどできないのだ。


 故に、義昭はこの意見書の苛烈な内容に、怒るどころか面白さすら感じる余裕があったわけだ。

 しかしその余裕も、最後の条文を読むまでであった。十八条目に目を通すや、その笑みは凍り付いた。


『――十八、上様が斯様な振る舞いをなされるのは全て、側近の者たちが上様に悪しきことを吹き込んでいるからだと聞きました。彼らのような奸臣をお傍に置くべきではないでしょう。彼らとは、上野秀政、三淵藤英、真木島昭光らのことです』


 義昭はわなわなと震える。

 手に力が入りすぎて、意見書はくしゃりと皺が寄った。


「……この意見書が表に漏れるのは不味い」


 義昭の震える声に、取次の男は顔を顰める。


「それが……実はこれと同じ内容が洛中にばら撒かれているのです。先に、この意見書を検めたのも、それが理由で。もしや、洛中にばら撒かれたのと同じものを、本当に弾正忠めが送ってきたのか、と」

「何じゃと……」

「まこと腹立たしいことです! 斯様な出鱈目を……。上様の評判に傷が付いて……」

「そんなことはどうでもよい!」


 義昭の珍しい怒声に、取次の男は面食らう。


「上様?」

「急ぎ、邸の門を閉じ、何人も立ち入れぬよう封鎖せよ! ……いや、すぐに京を脱出すべきか? しかし、昼間では容易に捕捉されよう。なれば夜間に……」

「一体、どうなされたので……?」


 その問いに義昭が答える前に、何やら騒々しい音が邸の外から聞こえてきた。

 遅れて、バタバタとまた別の男が駆け込んで来る。


「何事じゃ!?」

「そ、それが、兵がこの邸に詰めかけて来ておりまして……」

「まさか、弾正忠の兵が……」


 先程の義昭の言を聞いていた取次の男は、信長が攻めて来たのかと疑った。


「いえ。どうやら、真木島殿らの兵のようで……」

「何? そうか織田の兵ではないのだな」


 義昭の側近の一人の名が挙がり、取次の男は胸を撫で下ろす。そうして義昭に向き直り話しかける。


「どうやら心配ないようですぞ、上様」

「ッ! この愚か者! これが予の恐れていた事態じゃ!」


 義昭の怒声と共に、ドカドカという足音が近付いてくる。

 新たに現れた男こそ、件の真木島昭光であった。数名の兵を従えている。義昭の前で座すると、声を上げる。


「上様、お迎えに上がりました。弾正忠めの意見書はもう目を通されましたか? 最早、弾正忠めが上様への対立姿勢を取ったのは明白でしょう。京におわすのは危険です。まずは、我が居城にお逃げ下され。しかる後に、逆賊織田討伐の号令を掛けて下さればと」


 言葉面だけを見れば、忠臣のそれである。

 しかし、義昭を見る真木島昭光の目には、義昭を案じるような色はない。ギラギラと危うい色を宿している。


「貴様……」


 義昭は怒りに震え睨み返すが、最早どうすることもできない。


 そう、真木島昭光は義昭を守るために馳せ参じたのではない。自らを守るために、馳せ参じたのだ。

 意見書の最後の条文。


『――十八、上様が斯様な振る舞いをなされるのは全て、側近の者たちが上様に悪しきことを吹き込んでいるからだと聞きました。彼らのような奸臣をお傍に置くべきではないでしょう。彼らとは、上野秀政、三淵藤英、真木島昭光らのことです』


 これを読んだ真木島昭光は恐れたのだ。

 信長との対立を避けたい義昭に、自らが切り捨てられるのではないか、と。


 なれば生き残る手段は一つしかない。

 無理やりにでも、将軍義昭を担ぎ上げ、反織田の兵を挙げてもらわねばならぬ。


 そうつまり、此度のこれは、義昭の保護ではなく、誘拐に等しかった。

 正に信長の、いいや、源吉の狙い通りであった。


 先の十七条で、義昭自身が暴発するならばそれで良い。

 しかしそれでも、義昭が暴発せぬなら、義昭の周囲を暴発させ、彼らに義昭を巻き込ませたらよい、と。



 真木島昭光は義昭を京より連れ出すと、自らの居城である槇島城へと迎えた。

 そして、上野秀政、三淵藤英らもこれに合流する。


 槇島城にて、義昭が逆賊織田討伐の檄文を出したのは、元亀元年九月二十八日のことであった。

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