十八条の意見書
「意見書ですか?」
俺は信長の言葉を繰り返す。
岐阜城の一室であった。俺を呼び出した信長は開口一番、『将軍義昭への意見書をしたためた』と言う。
「写しじゃ。見てみい、うらなり」
「はっ。……拝見します」
俺は、小姓から手渡された書状に目を走らせていく。
『一、先の公方様(足利義輝)は、帝や朝廷に対して不誠実でした。それ故に、あのような最期を遂げられたのです。それなのに、上様(義昭)も宮中への参内を怠りがちのようで信長は遺憾に思っております。
二、必要なものがあれば、信長に申し付けるよう約束したではないですか。それなのに、諸国の大名に催促して、馬を献上させるのは外聞が悪いのでお止め下さい。
三、上様は忠臣に対しては恩賞を与えず、大した忠勤のない者に恩賞を与えておられます。このようなことでは忠誠心など不要となりますし、外聞も悪いでしょう。
四、信長が建造して差し上げた邸宅から、上様が財産を他所へお移しになった事は内外に知れ渡っています。そのせいで、信長と上様の不仲が噂になってしまい残念です。
五、岩成友通が賀茂神社の社領を押領することを許されたようですね。岩成がもし所領に困っているのであれば、信長から所領をあてがったでしょうに。このようなことはお止め下さい。
六、信長に対して友好的な者は、どんなに下位の身分の者や、女性であっても冷遇なさっておいでです。何故、そのような不当な扱いをなさるのでしょう。
七、恩賞を受けられない者達が信長に泣き言を言ってきます。以前にも、彼らに対して恩賞をお与え下さいと申し上げましたが、上様は未だ恩賞をお与えにならないままです。私の彼らに対する面目がありません。
八、粟屋孫八郎が告訴した若狭国の訴訟、信長からも意見を申し上げたのに、一向に進まないのはどうしたことでしょうか。
九、喧嘩の罪で財産を没収された小泉への処置は不当です。人々は、上様が法を破り、私財を蓄えていると思うことでしょう。
十、元亀の元号が不吉だと、世間で評判が悪く、宮中でも改元を促しているのに、上様は改元の為に何ら手立てを打たず、出費もなさろうとしないのはどうしてでしょうか。
十一、懲戒された烏丸光康から、金銀の賄賂を受け取って、再び出仕を許されたようですね。何とも嘆かわしいことです。
十二、諸国から集めた金銀を、宮中や幕府のため使われないのは何故でしょう。それらの金銀はどうなされたのですか。
十三、明智光秀に命じて徴収させた金銀を、それは寺社領のものだと差し押さえられたと聞きました。そのような行いは不当です。
十四、兵糧庫の米を売って金銀に換えられたそうですね。将軍が商売をなさるなど前代未聞です。上様のなさりように、驚き呆れてしまいました。
十五、上様が気に入った若衆に分不相応な禄をお与えになられるので、世間から批判を浴びています。
十六、幕臣たちが武器兵糧を準備せず、金銀を蓄えるのは、上様がいつでも逃げられるようにと、同様のことをなさっているからです。上様自ら、彼らに対して範を示すべきです。
十七、欲深く外聞も気になされないため、世間の者たちは上様のことを「悪御所」と呼び非難しています。何故下々の者達がこのように陰口を叩くのか、よくお考えになったほうが良いと思います』
……意見書? 意見書かこれは? むしろ弾劾状ではなかろうか?
ちらりと信長の顔を窺う。信長は薄く笑みを刷いている。
「どう思う?」
「……この意見書をご覧になった公方様が、卒倒しないことを祈るばかりです」
「であるか」
信長は笑みを深くする。つまり、義昭を怒らせたいというわけか。
「他には?」
信長は重ねて問うてくる。
「宮中のことは置いておきましょう。それ以外ですと、銭にまつわることが多く思います。商人である手前の目からは、公方様の懐事情の逼迫した様子が窺えますね」
無理もなかろう。担ぎ上げられた義昭が自由にできる領地なぞ、猫の額ほどもない。収入は限られて、それでも幕臣は沢山いるわけだ。
いわゆる『給料未払い』の幕臣が大勢いる事だろう。
……寺社領での押領、これも意見書の中に触れられているが、畿内のそこかしこで幕臣の押領に関する揉め事が絶えない。
まあ、今に始まったことでもないらしいが。これもまた、幕臣がロクに恩賞を与えられていないことの証左であろう。
「義昭めの懐事情か。うらなりの言う通り、お寒い限りであろうな。無い袖は振れぬ、というわけじゃ。……ふむ、どうであろう? 将軍が恩賞を与えられぬなら、代わりにワシの領地から何とか都合を付けようと、助け船を出してやろうか?」
信長はにやにやと笑う。
「公方様は頷かないでしょう」
「であろうな」
そう、頷く筈がない。幕臣の恩賞を信長が持つ? そんなことをすれば、彼らの帰属が曖昧になってしまう。
形だけは幕臣でも、実際に給金を払う信長の影響力が強くなり、逆に義昭の影響力は弱くなるだろう。裸の王様まっしぐらだ。
それが容易に想像できるだけに、決して呑める提案ではない。
「この意見書も、幕臣への恩賞をワシが出すのも、義昭めにとって、中々頷けるものでないのは百も承知じゃ。金言耳に逆らう、とも言うしな。しかし、天下を憂うるワシとしては、それでも口出しせざるを得まい」
相変わらず、信長のにやにや笑いは止まない。
「とは言え、ワシとて将軍の顔を潰したくもない。万に一つも、これらの忠言が外に漏れないようにせんとな」
「ええ。漏れたりすれば大事でしょう。公方様の権威は失墜してしまいます」
俺もこの下らない芝居に応じてやる、直後、二人して笑い声を上げた。
笑い終えると、俺は確認する。
「つまり、公方様を追い詰めたいと?」
この十七条の意見書がばら撒かれたら、どうなるか?
世間は、将軍がおかしなことをしている。そして、信長はそれを正そうとしているのだ、という分かりやすい構図を容易に理解することだろう。
更に、幕臣への恩賞。これを信長が出す、その提案は、ロクな恩賞を与えられていない幕臣たちにとっては、正に天の恵みであろう。なのに、それを義昭が拒絶すれば?
幕臣たちは義昭を恨むだろうし、義昭にどうして拒絶したのか非難するに違いない。
義昭は、これでもかと追い詰められるに違いない。では何故、信長は義昭を追い詰めたいのか?
「公方様を暴発させるお積りですか?」
信長は笑みを深くする。
「腐っても将軍じゃ。ワシから手を出したくはない。折角これまで築いてきた声望が台無しじゃ。が、将軍がおかしなことをした上に、忠臣に攻めかかったとあれば? これを返り討ちにしても、誰も文句を言うまい」
「成る程」
「年内に暴発させたい」
「年内……」
「うむ。年内なら、周囲の鬱陶しい連中も手出しできんじゃろうからな」
「確かに」
冬の遠征は命取りだ。寒空の下の野営は、兵にとって悪夢だろう。それも長引くとなれば尚のこと。そもそも、雪で道が閉ざされれば行軍すらできなくなる。
が、それが領内の戦なら? しかもロクに兵力を持たぬ敵が相手なら?
暴発した義昭を倒すだけなら不可能ではないだろう。むしろ、周囲の反織田勢力が干渉できないことを思えば、今が好機とすら言える。
俺の納得顔を見て、信長は続ける。
「この件は、宮中とも水面下で交渉をしておる。義昭では出来ん銭を用いての交渉をな。うらなり、宮中は随分と話の分かる者たちばかりのようじゃぞ」
さもありなん。力、金、名声を持つ信長、それらを一つも持たない義昭。そして、前者の方が朝廷を蔑ろにしないという。
宮中の者らが、どちらを選択するかは、火を見るよりも明らかだ。
「これは、まだ他言無用じゃぞ」
信長が心なし身を乗り出す。
「義昭めを排除した暁には、ゆくゆくはワシが右近衛大将に任じられると、そう話を付けた」
「右近衛大将!」
右近衛大将への任官、それは大きな意味を持つ。かの源頼朝が任官した役職だからだ。
前例を重んじる朝廷のことだ。それを意識していない筈がない。
つまり、足利将軍に代わる天下人を信長に定めた、ということに他ならない。
「うむ。無論、すぐに、というわけではないがな。……ここまで筋道を付けた以上、義昭を暴発させられなかった、では済まぬ」
「はい」
俺は頷く。
「……確実に暴発させたい、が、細川藤孝の話を聞けば、中々義昭めも容易ならざる男の様じゃ。どうじゃ、うらなり? 更に暴発を誘発する手立てを思いつくか?」
「何かもう一手、というわけですね」
俺は俯き、顎に手を添える。
信長の案は、十分に義昭を暴発させるに足るものだ。しかし、これでもし暴発しないとすれば? 他の手立てを講じても、無駄かもしれない。ならば……。
「弾正忠様、この意見書に新たに一か条書き加えてもらっても宜しいでしょうか?」
「ほう……」
信長が面白そうに笑む。
「うらなり、何か悪知恵を思い付きおったな」
俺も応えるように、笑みを浮かべて見せた。
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