三章
信長は空気を読まない
――浅田屋 岐阜支店
「難所は乗り越えた。まだ課題は残るが、それも同様に乗り越えられるだろう。その筈だ。だが、しかし……」
俺はポツリと呟く。
縁側で胡坐をかきながら、庭先を見るともなしに見続ける。
……嫌な予感が拭えない。ずっと、ある恐れが頭から離れないのだ。そんな非科学的なことが、起こるわけもないだろうに。
「杞憂だ。馬鹿らしい」
もう何度目かも分からぬ否定の言葉を吐く。
すると、冷たい風がふっと吹き抜けた。庭の木の枝から、何枚かの葉が剥がれ空を舞う。
「木枯らし、か……」
俺の意識は、内面から外界へと移る。
秋も深まってきた。じき、冬が来る。己の体が冷えているのに、今更ながら気付いた。どれだけ、縁側で呆けていたのやら。
「あー、あー」
不意にそんな声が聞こえる、身を捩り振り返ると、幸を抱いた於藤が歩み寄ってきている。
幸はというと、舞った木の葉の一枚を掴もうと、於藤の腕の中から精一杯手を伸ばしていた。
俺はくすりと笑う。
「どれ、とと様が取ってやろう」
よっと、舞う木の葉の一枚を掴むと、幸の小さい手に握らせてやる。
「あー! あー!」
たったそれだけのことでご満悦のようで、その様を見ていると、赤子は悩みが少なくて羨ましいなあ。なんて、おっさん臭い感慨に耽る。
まだ若いはずなんだがなあ。思うに、信長に日頃気苦労をかけられてばかりいるせいだ。そうに違いあるまい。
「思索はお済ですか、旦那様?」
「うん……」
俺は生返事をする。於藤は肩を竦めた。
「ずっとその調子でいらっしゃいますね。……もうこの時期です。今年はじき戦仕舞いとなりましょう。この前のような大事が、そう起きるとも思えませんが」
「その通りだが、じっとしているのは、どうも落ち着かなくてね」
「先月までずっと方々を駆けずり回られて。足の裏の豆を潰したと音を上げておられたのは、つい先日のことですよ。……はあ。幸、あなたのお父様は、何だかんだと言いながら、織田様に扱き使われる日々が恋しいらしいですよ。天邪鬼なことですねえ」
於藤は溜息を吐くや、幸にそのように語り掛ける。
俺はむっとして言い返す。
「織田様に扱き使われて敵わんのは、本当のことだぞ」
「なら、少しくらい休んでお体をご自愛下さいませ。またすぐにも、織田様からの下知があるのでしょうから」
俺はがしがしと頭を掻く。
確かに於藤の言う通り。休める時に休んでおかねば。
今はその絶好の機会といえよう。
じき冬が来る。どこの大名も、戦仕舞いをし出すころだ。短期的な小競り合いなら、まだ戦を仕掛けるゆとりもあるが……。
織田領の近隣に、織田に仕掛けられるだけの勢力が存在しない。
先だっての坂本合戦で、浅井朝倉は散々に打ちのめされ、暫く軍事行動なぞ出来る余裕はない。
比叡山を焼き払った後、信長は返す刃で三好本願寺も蹴散らした。
三好は四国へと逃げ帰り、本願寺勢は石山の本拠に引き籠っている。やはり、攻め入ってくる余裕はないだろう。
警戒すべきは、武田だが……。
この武田は、八月に徳川と先を争うように今川領へと侵攻をしたばかりだ。
死に体の今川が、武田徳川両雄に抗しきれるはずもなく、今川領は絶好の狩場と化しているらしい。
駿河は武田の手に落ち、遠江も大半が徳川の手に落ちたと伝え聞く。
今川氏政は、遠江の掛川城に籠城しているらしいが、最早時間の問題だろう。
戦国大名としての今川氏は今まさに滅びようとしている。
駿河を落とした武田は、一応手が空いてはいるが、疲れも取れぬ内に連戦とはいかないだろうし。
何より、武田領から織田領は遠い。今から戦を仕掛けて、冬までにケリがつくはずもなく。
ならば、今が一息つく時、か。
「ありがとう、於藤。そうだな、今は暫し体を……ん?」
ドタドタと、廊下を走る音が近づいてくる。
嫌な予感がする。於藤は『あらまあ』と言い出しそうな顔立ちを浮かべた。
家人が駆け込んで来るや、堰を切ったように喋り出す。
「旦那様! 織田様より使いが! 急ぎ登城せよとのことです!」
空気読めよ、信長。
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