第六天魔王

 逃げた連合軍を追った織田軍は足を止めていた。ただ、その山を仰ぎ見る。


「まさか彼奴等、比叡山に逃げ込むとは!」


 信長の怒声が響く。


 そう、連合軍は殿部隊が時を稼いでいる間に、何と比叡山へと駆け込んだのであった。

 これには、信長も堪らない。いくら彼でも、比叡山を攻め立てるのは躊躇する。


「ええい! 善後策を講じる! 諸将を集めよ! 急ぎ軍議を行う!」


 信長は怒りのままに、そう怒鳴り散らした。



 至急張られた陣幕の中で、信長以下織田軍の主だった諸将が集まった。

 諸将は恐る恐る、上座に置かれた簡易椅子に腰掛ける信長を見遣った。怒り心頭という有様で、体を小刻みに震わしている。


 最早、勝利の余韻は霞の如く。してやられたと、諸将の誰もが頭を抱えたくなった。


 信長の目的は、敵軍団の撃滅である。

 今回の戦で裏切った浅井、朝倉を滅ぼすまでは考えていなかった。

 が、最低でも敵軍に壊滅的打撃を与え、暫く軍事行動を取ることが出来なくするのが、狙いであったのだ。


 そうでなければ、今回の勝利に意味はない。

 このまま敵軍の大多数の延命を許せば、元の木阿弥だ。依然、織田は周囲全てに油断できぬ戦況が続く。

 故に、敵軍に大いに打撃を与えた上で、近江、越前方面の囲いを無効化し、後は悠々と返す刃で、三好本願寺を潰す積りであったのだ。


 だがこのままでは、それもままならぬ。畿内に引き返し、三好本願寺と信長ら主力が向き合えば、また、浅井朝倉たちは、隙を衝かんと攻め込んでくるに違いなかった。


「叡山の坊主共に、彼奴等を退去させるよう要請しましょう。……それしか手がないかと」


 ちらっと、信長を窺いながら口にしたのは、森可成であった。


「坊主共は頷くか?」


 信長は低い声で問い返す。


「正直難しいかと。ですが、条件次第ではあるいは……」

「であるか」


 信長は怒りを押し殺し思案する。比叡山を説得する条件を考えるためであった。


「お待ち下さい」


 が、信長の思考を遮る声が響く。口にしたのは、光秀であった。


「最早、比叡山は明確な敵です。このまま攻め上りましょう。悉く根切りにし、伽藍を破却するのです」


 余りに大胆な発言にどよめきが起こる。

 光秀は続ける。


「何を躊躇することがありましょう。連中は財貨を貯め込み、神域に女人を連れ込み、遊興に耽り堕落しています。かつての国家鎮護の大道場も見る影なく、これを攻め滅ぼしたとて、如何なる義に反しましょうか?」


 信長はじっと光秀を睨む。諸将はおろおろと顔を見回すばかり。


「諸将が戸惑われるなら。私が先鋒を務めましょう。汚れ役は、この光秀めが一身に引き受けましょう」


 信長はにかっと笑む。光秀の言で機嫌が相当回復したようだ。


「その言や良し! 見上げた覚悟じゃ。が、それは最後の手段じゃな。まずは、坊主共と交渉することとしよう。誰ぞ、比叡山に使者を! この信長自ら、坊主共と会談する! その旨を伝えよ!」

 

 かくして、使者が比叡山に送られる。翌日には信長と延暦寺の高僧らで、会談が行われる運びとなった。



 下山し、比叡山を包囲する織田の陣営に、三名の高僧が訪ねてきた。

 彼らを迎えた信長は、早速要求を伝えるべく口を開く。


「延暦寺が、俗世に過度な干渉をするのは如何なものか? 此度、朝倉らを匿うのはやり過ぎであろう。……何も信長に味方せよとは言わぬ。せめて中立を貫いてもらいたい。逃げ込んだ朝倉たちを、比叡山から退去させよ。退去させれば、ワシは一兵たりとも叡山に踏み込ませぬし、先般没収した、織田領内にある延暦寺の荘園もお返ししよう」


 高僧らは、信長の口上に曖昧に頷くばかりで、要領を得ない。

 信長は訝しく思いながらも、刀を鞘から少し滑らせると、また勢いよく鞘の中に納める。キンと鍔と鞘が打ち合う音がした。


「誓おう。色良い返事を期待する」


 金打であった。武士が固い誓いを立てた証である。

 高僧らはおずおずと比叡山に帰っていった。


「殿、坊主共は朝倉たちを退去させるでしょうか?」


 去る高僧らの背を見送り終えると、勝家が尋ねた。


「礼は尽くした。最大限の譲歩も見せた。心配はなかろう」


 信長にしては楽観的な返事をする。


 が、またもや信長の予想は外れる。

 色良い返事がどうこう所ではない。一日、二日、三日経とうとも、返事すらなかった。延暦寺は、信長の要請を黙殺した。


 いくら何でも、これはない。礼儀以前の問題であった。彼らは、完全に信長の面子を潰して見せた。


 信長の怒りは如何ばかりか? 最早語るまでもないことだが……。勿論、これ以上ない怒りを面に出していた。

 比叡山を見上げる信長の目は血走り、体はまるで極寒の中裸で放り出されたかの如く打ち震えている。無言で放つ怒気は空気を重くするばかりだ。


 諸将たちは、それこそ勝家ですら、今の信長に声を掛けることすら出来ない。


「……礼は尽くした。その返礼がこれか! ここまで虚仮にされたのは、初めてじゃ! 良いだろう。坊主共の選択を尊重しよう。彼奴等は、自らの滅びを選んだのじゃ!」


 信長はぐるりと首を動かして、押し黙る諸将らの顔を見る。


「全て、比叡山にある者は全て! 例外なく根切りにせよ! 伽藍という伽藍に火をかけよ。比叡山を灰燼に帰す。何一つ残すな!」

「「ハッ!」」


 否やと答えられる者は誰もいなかった。

 


 その時は、夜間と定められた。寝静まり、完全に無警戒な所を強襲し、万に一つも取り逃さぬようにと。


 松明を掲げた兵らが、比叡山を登っていく。連なる灯は、まるで鬼火を思わせた。


 寝静まった僧房の戸を蹴破ると、何事かと布団から起き上がった坊主たちを、問答無用で殺戮する。そうしてから、僧房に火をかけた。 


 騒ぎに、火の手に、方々で何事かと屋外に飛び出した者たちが見たのは、迫りくる織田兵の姿だ。

 仰天した非武装の者らは、無抵抗を示し降参しようとする。が、許されない。一人の男が、またも問答無用で殺戮される。

 その様を見た者たちは、悲鳴を上げながら逃げ惑った。


 必死に走った子坊主は、その背を串刺しにされる。

 逃げるのは無理だと、命乞いをした女人は、袈裟切りにされる。

 観念して『南無阿弥陀仏』と経を読んだ坊主は、頭をかち割られる。


 そこかしこで鮮血が散った。 

 更には、建物という建物に、兵らは火を放っていく。燃え上がる炎は、天をも焦がす。


 赤、赤、赤。比叡山は、天も地も赤く染まる。そう、血と炎の赤に。

 まるで、この世に地獄が現出したかのような有様であった。

 比叡山に、この世の地獄に、悲鳴が木霊する。



 信長は、比叡山の麓から闇夜を赤く染め上げる紅蓮の炎を仰ぎ見た。


 暫くそうしていると、縄で縛られた一人の高僧が引き出されてくる。

 信長はそれを見遣り、低い声音を出す。


「もう二人はどうした?」


 問い掛けに、高僧を引き出した兵らが震える。


「も、申し訳ありません! 既に事切れておりました!」


 ふん、と信長は鼻を鳴らす。


 引き出されてきたのは、先日信長と会談した三人の高僧の一人であった。

 信長はあの日、金打を打ったのと同じ刀を、今度は完全に鞘から抜き放つ。


 最早助からぬと観念したためだろうか? 縛られた高僧は逆上し、唾を飛ばしながら信長を罵倒する。


「よくも、よくもこんな真似が出来たな! 貴様は人ではない! この天魔め! 必ずや仏罰が下ろうぞ!」

「天魔?」


 くくっ、と信長は笑う。笑いながら、高僧を斬り捨てた。


「ハハ、ハハハハハ! 応とも! 我こそは、第六天魔王織田信長じゃ!」


 天を染める業火の下、信長の狂笑がいつまでも響き続けた。



※※※※


 早朝、俺は弥七と共にそれを見た。天に昇る黒煙を。


「あの方角は……」


 俺の呟きに、弥七は頷く。


「比叡山、だと思うのですが。あの煙は一体……?」


 訝し気に首を捻る弥七に、俺は答えを告げる。


「弾正忠様が比叡山を焼き討ちされたのだろう」

「まさか!?」


 弥七が息を飲む。

 確かにこの時代を生きる人にとっては信じ難い事実だろう。


 ……信長が比叡山を焼いた、か。


 俺の存在が、これまで大なり小なり戦国史に影響を与えてきた。

 変わった歴史も多くある。が、変わらなかったものも。

 それこそ、節目、節目、要所、要所という箇所こそが、変わらなかったりする事が多いように感じるのは、気のせいか? 考え過ぎであろうか?


「歴史の修正力? まさか、な……」


 俺は弥七に聞こえない程度の声量で、その疑念を口の中で転がしてみる。


 まさか、まさか、まさかだ。そんなオカルトめいたことが起きるわけがない。

 偶然に過ぎない。あるいは、戦国の情勢を鑑みるに、起きるべくして起きた必然か。

 少なくとも、修正力などといった、オカルト染みた現象ではない筈だ。その筈なのだ。


「……行こう、弥七」 


 俺は踵を返し、黒煙に背を向けた。




 永禄八年五月のことである。

 信長公、公方様の命を受け、三好討伐の兵を挙げようとなされた折、朝倉義景が突如同盟を反故にした。先の浅井家当主久政も、これに同調した。


 信長公、不義の輩を誅伐せんと近江へと出兵なされたが、同年六月に三好が畿内入りし、あろうことか本願寺までが挙兵した。

 これにより、畿内に残ったお味方は危機に瀕したが、明智光秀、木下秀吉両将の機転と、活躍により事なきを得た。


 元亀元年八月、再度浅井、朝倉討伐の兵を挙げられた信長公は、南進してきた浅井、朝倉らと坂本にて合戦と相成った。

 この戦いでも、明智光秀が目覚ましい戦功を上げた。


 同月、浅井、朝倉らを匿った延暦寺に、信長公は彼らを退去するよう要請したが、断られた。

 延暦寺は、仏門にありながら俗世に過度に干渉するばかりか、卑しく財貨を貯め、神域に女人を引き入れるなど、目を覆うばかりの堕落した姿であった。

 信長公は、義を以て、これを成敗なされた。

 比叡山の僧侶どもを悉く根切りにし、また、比叡山に匿われていた、浅井、朝倉らは散り散りになって逃げ出したが、その多くが討たれることとなった。


 比叡山焼き討ち後、信長公は論功行賞を行い、一連の働きから明智光秀を武功第一位と激賞した。これは、明智光秀にとって大変名誉なことであった。


 ――『信長公記』




※※※※


これにて二章完結です!

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