坂本合戦 二

 時は少し遡る。坂本で戦端を開かれるよりも数日も前のこと。


 光秀は、信長が自らの指揮下に置いた将らの中でも、特に信用のおける将だけを、自らの私室に呼びつけた。


「明智殿、お呼びとお聞きして参上しました」

「御足労下さり感謝します。どうぞ、お座り下さい」


 今やって来た男が、最後であったようで、光秀は集まった諸将らに本題を話し出す。


「つい先程、殿より文が届きました」

「それはどのような?」

「戦況です。敵は、坂本に陣を敷き、殿の軍勢を待ち構える姿勢とのこと。これは、殿の狙い通りの戦況です」


 諸将らは、信長の作戦を知らぬため、ただ頷くばかり。


「敵が待ち構えている以上、決戦の日取りは、殿の方で決められるということです」

「左様ですか」


 律儀に返事をした男も、まだ要領を得ていなかった。光秀の言わんとしていることがまだ見えてこない。


「決戦の日取りは、八月十一日。……実は、私は殿の密命を帯びております。ぎりぎりまで京に残りつつ、決戦のその日に、戦場に駆け付けよ、と」

「なっ!」


 打ち明けられた諸将らは目を見開く。


「何と!」

「八月十一日に坂本に!?」

「なれば、すぐさま京を発たなければ!」

「いえ。それは、なりません」


 光秀はぴしゃりと言う。


「まだ出るわけにはいかないのです」

「それは、どういう……?」


 困惑の声が上がる。


「我らに与えられていた当初の任務を思い出して下さい。京の守護と、また畿内の諸勢力が暴発しないよう目を光らせること。遊兵である我らが京にいることが、畿内の諸勢力に対する重しとなっているのです」

「あっ……」


 諸将らは、己の元々の任務を思い出す。


「我らが京を空ける日が長ければ長いほど、暴発が起こる可能性は高まる。それに、早く出過ぎれば出過ぎるほど、坂本にいる敵に、我らが京から出陣したという情報が伝わる恐れもまた高まることでしょう」

「……なら、出立はいつ頃をお考えで?」

「決戦の前日、八月の十日に」

「御冗談でしょう!?」


 決戦の前日という言葉に、諸将らは仰天した。

 光秀は微かに笑う。


「何も冗談なぞ言っておりませんよ。お忘れになったので? 本願寺挙兵の際、私は吹田城までの道程を二日掛けずに踏破したのを。坂本は、吹田よりも近い」

「その時とは、状況が違います! それにあの時明智殿が率いたのは、二千の兵だった筈。それとも、此度も二千の兵を率いられるお積りで?」


 光秀は首を振る。


「殿は、我らが決戦における決定打となることを期待されておいでです。二千では足りません。少なくとも、五千は動かさなくては」

「五千! ならば尚のことです! 二千と五千ではまるで違う!」

「そうです! それに、吹田城への強行の折りは、畿内での、織田領内での行軍です! 此度は、道程の一部で敵の勢力圏内を進む必要があるのですよ!?」


 諸将の言い分は真っ当なものばかりであった。

 それでも光秀は頷かない。


「出立は決戦の前日です。小荷駄も連れず、兵らには身一つで駆けさせます。補給や休憩は、道々の宿場町で。手配は密かに済ませています」


 諸将らは顔を見合わせる。


「……単純に間に合わせるだけなら、それで何とかなるやもしれませんが。されど、疑問がまだ残ります。織田領内なら良いでしょう。しかし敵領内の宿場町では、補給も休憩も取れぬでしょう。いざ、坂本で戦う直前に、全く休めぬとあっては、まともに戦えるとは……」

「心配無用。近江の宿場町でも、問題なく補給と休養を取れることでしょう」


 諸将らは、もう何度目か分からない驚きを覚える。


「それはまた、何故?」

「大山、浅田屋曰く、『近江の者は敵ばかりとは限らない』だそうですぞ」


 やはり、諸将らには理解できなかった。



 八月十日の昼前、本当にぎりぎりまで待った光秀は、京に四千の兵を残し、自らは五千の兵を引き連れて京を発った。

 兵らを激励しつつ、街道をひた走る。


 端から小荷駄も連れないその行軍は、あまりに異様なものであった。

 吹田強行の際でも、本隊より遅れてでも小荷駄部隊も連れてはいたのだ。


 兵らは本当に身一つ、武器や具足を除いては、水筒と、一食分にもならぬ非常食を忍ばせているくらいのもの。全く以て、奇怪な行軍である。

 が、兵卒らは、『また明智様が無茶を言いなさる』『仕方ない。今回も骨を折ってみせましょう』と笑い合うばかりで、不満を露ほども見せなかった。


 本圀寺防衛に吹田城攻防戦、これらの戦いで、兵らの信を確固たるものとしていたからである。


 走る、走る、走る。やがて、最初の休憩地点と定めた街道沿いの宿場町へと到着する。


 光秀の言葉通り、事前に手配はされていたようで、宿場町では兵らが座って休める場所が、しっかりと確保され、更には握り飯や温かい汁物が供された。


「おお! 有難い!」

「――美味い!」


 空腹が最大の調味料といったところか、空きっ腹の兵らは喜んで飯をかっ喰らう。

 そんな様を横目に、諸将らはずっとこのように休養を取れれば良いのだが、と不安がる。


 織田領内の宿場町で何度か休憩を挟んでは、兵らは走る。ついには、近江国入りし、それからも駆け続けたのだが。

 夕暮れ、もう夜の帳が落ちるという時間帯になる。


「急げ、もうじき次の宿場町だ!」


 そう兵らを励ます諸将らは、本当に休めるのか? という疑念が払拭し切れていない。いやむしろ、不安は増すばかりであった。


 走る、走る、やがてもうほとんど日が落ち、薄暗闇に覆われた街道から、煌々といくつもの篝火が焚かれ、ぼうっと闇の中に浮き上がるような宿場町が見えてきた。


 兵らが宿場町に入ると、すぐさま声を掛けられる。


「お疲れでしょう? さあさ、こちらでお休み下さい」


 なんと驚くべきことに、織田領内の宿場町と変わらぬ歓待を受ける。


「何故?」


 呆然と呟いた将の横に立った光秀が口を開く。


「浅田屋が近江商人の下を駆け回り、説得していったのよ」

「よく……説得出来ましたな?」


 光秀は意味深に笑う。


「何故、説得が難しいと?」

「それは、ここは敵領ではありませんか」

「近江は、浅井の裏切りまでは、同盟国でした」


 光秀の言葉に、将の一人は頷いて先を促す。


「織田領内では、開明的な商いが許されています。正に商人らにとって、楽園のようなもの。近江商人も、味方としてその一端を味わった。……一度口にした果実の味は、中々忘れることは出来ぬものです。とは、浅田屋の言ですよ」


 そういうことだった。近江商人らにとって、織田が敵であるのは、面白くないのだ。


 それに此度のこれを、近江商人らは裏切りであるとは思わなかった。何せ、浅井家当主長政は、織田の庇護下にいるのだから。

 むしろ、先代当主久政こそが裏切者であり、自分たちはそれを正そうとしているのだ、とすら考えていた。


 無論、そう考えるのが、自分たちにとって一番都合が良いからでもある。


「さあ、この宿場町で一晩を明かし、翌朝には行軍再開じゃ! 者ども、今の内に英気を養っておくように!」


 光秀がそのように兵らに声を掛けていると、近江商人の一人が光秀の下に近付いていく。


「もし、貴方様が、この軍の主将であらせられる明智様でしょうか?」

「そうだが。お主は?」

「私、近江商人の千石屋と申します。実は明智様に、耳寄りな情報を持って来ましてな」


 流石に光秀も、これには警戒する。


「ああ、お疑いなさらないで下さい。私は、浅田屋さんの――呂不韋の信を得た商人ですよ、李通古様」


 光秀は片眉を上げ、次いで思わずといった具合に笑みを漏らす。


「成る程。それで? 耳寄りな情報とは?」


 千石屋を名乗った商人は地図を広げて見せる。傍に侍る下男が、手に持つ灯を寄せた。


「明智様はこの街道に沿って、真っ直ぐ進み織田様の本隊に合流されるお積りでしょう?」

「うむ。その通りじゃが?」


 千石屋は地図の一点を指差す。


「ここに抜け道があります。古い街道なのですが、これを抜ければ、坂本に陣を張る朝倉らの陣営の横に出ます」

「ほう」

「ただ、多少遠回りにはなってしまいますが」

「成る程な」


 光秀は暫し黙考する。いち早く織田本軍と合流するのを優先するか、あるいは、多少時がかかっても、より優位な位置に出ることを優先させるか。


 ――殿は、我らに決定打となることを期待しておられる。ならば答えは……。


 光秀は一つ頷くと、どちらの道を選ぶかを決めたのだった。



※※※※



 信長は椅子を倒しながら立ち上がる。

 その視線の先には、突如として連合軍の横を衝く形で現れた、水色桔梗の旗印! 明智率いる五千の部隊であった。


「間に合わせおったか。見事じゃ、金柑、うらなり……」


 信長は思わずといった具合に呟く。


「殿! あれは!?」


 側近の一人が驚きの声を上げる。

 信長は笑みを深めると、全軍に届けとばかりに大音声を上げる。


「皆の者! 見よ、あの水色桔梗の旗印を! あれぞ、我らが飛将明智十兵衛の旗印ぞ!」


 信長の言葉は、まず直接届いた兵らに響き、そこから漣の様に、織田全軍に波及する。

 直後、爆発したかのような歓声が上がった。天地が震える。さしもの信長も、興奮に顔を赤らめた。


「突撃せよ! 突撃せよ! 突撃せよ! 連中の息の根を止めてやれ!」


 信長の単純明快な命令に、織田軍全将兵が応える。天を衝く雄叫びと共に兵らは吶喊していく。

 連合軍にこれを押し留めるだけの力も気概もありはしなかった。


 本軍が正面から、光秀が側面から、連合軍を食い破っていく。


「撤退! 撤退じゃ!」


 ほどなくして、連合軍からそんな叫び声と共に、退却を意味する法螺貝の音が響く。

 連合軍は正面と側面に殿しんがり部隊を残すと、撤退を始めた。


「追撃じゃ! 鬱陶しい殿しんがりなぞ、早々に蹴散らし追撃をかけよ!」


 信長は叫ぶ。

 が、死兵となった殿部隊の抵抗は、思いの外激しく、突破するのに手古摺ってしまう。


 信長は舌打ちしたが、それでも然程焦ってはいなかった。

 多少追撃が遅れたとしても、連合軍が遠路退却していく間に、いくらでも追いつくことが出来る、とそう考えたからだ。


 しかし、結論から言えば、この信長の予想は外れることとなる。

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