坂本合戦
村井貞勝、武田との密約締結を成功させる!
諸将との軍議の場で、その第一報を受けた信長は、『勝った』と一言呟いた。
その様を目の当たりにした諸将らは、過日の不安な想いを払拭し、顔を興奮に赤らめる。それまで織田の頭上に立ち込めた暗雲が払われ、光明が差したかのような心地であった。
信長はそんな諸将らの顔を見回し、檄を飛ばす。
「甲斐の虎は、まんまとこちらが用意した餌に喰いついた! これで障害は取り除かれたわけじゃ! いざ、我らを囲む烏合の衆を根切りにせん! 諸将の才幹に期待する! 後は貴様らの手で勝利を決定付けよ!」
「「応!」」
かくして、信長は軍勢を再編する。
自らは本軍三万を率い浅井、朝倉らの討伐に向かう。
この兵数は、先日四万を率いた時に比べ少ない。
それというのも、三好本願寺双方に備えるため、より多くの兵を畿内に割かざるを得なかったからだ。
畿内の抑えとして、佐久間信盛に二万。また、再び京の守護と、更なる敵が現れないよう目を光らせる為に、光秀に九千の兵を預けた。
信長の本軍三万に対し、浅井、朝倉、それに斎藤六角の残党が糾合した軍勢は、二万の後半、三万には届かぬであろう、という兵数であった。
信長側の方が若干兵数は多いが、決定的な兵数差とは言い難く、また地の利も向こうにある為、必ずしも楽な戦とは言えない。
勝敗は、未だ霧の向こう側にあるかの様に思われた。
それでも信長は、自信を面に出していた。
真実勝利を確信したものか、はたまた虚勢であったのか、それは余人には窺い知れぬこと。
それでも織田将兵は、ただ信長を信じた。
兵卒にとっては、勝てる将こそが良き将だ。
桶狭間以来、常に勝者としてここまで来た英傑に、兵らは信仰に近い想いを抱いていたのだ。
対する浅井、朝倉らの連合軍もまた、京へ向けて南下すべく進軍していた。
三好に加え、本願寺が挙兵したこと、更には将軍義昭の密使から、武田参戦との鬼札を知らされていた彼らは、正に織田を滅ぼす千載一遇の機会と信じたのだ。
琵琶湖西岸を南下し、織田方が守る宇佐山城まで進出した彼らは、意気軒高のまま攻め立て、あと少しで落城せしめる。その段まで至ったのだが、しかし彼らの予想に反して、信長自らが大軍を率いて、連合軍の下に向かってきているとの報を受けた。
信長側の窮状を思えば、自軍に優勢する敵軍なぞ派遣しえぬと高を括っていた連合軍は、慌てて宇佐山城の包囲を解き、北の坂本まで退いた。
そこで一旦留まり陣を敷く。ここで留まったのは、坂本が比叡山からほど近い場所であったこともある。
もしも織田の大軍と合戦と相成った時に、延暦寺の援助も期待してのことであった。本願寺の要請を受けて、反織田に傾きつつあった彼らなら、僧兵を派遣してくれるかもしれなかったので。
兎角、坂本に陣を敷いた連合軍、その首脳部は、ここに留まったまま織田軍と相対するか、あるいは、完全に退却すべきか頭を悩ますことになる。
※※※※
「想定が狂った以上、退却すべきと信ずるが、如何?」
「いや、刃を交えることなく、退くことなどできようか!」
「そうじゃ! それに三好に本願寺、更には武田が、直に信長めの後背を脅かすであろう! 彼奴等の命運はそこでお終いじゃ!」
「三好、本願寺はともかく、武田が来る保証がどこにある⁉」
喧々囂々、軍議は紛糾していた。
こんな筈ではなかった、と朝倉義景は顔を顰める。
始めは意気揚々と出陣したのに、今や連合軍首脳部はこの有様であった。
味方に優越する軍勢を、信長が直卒して向かってきている。
そんな予想外の事態に、連合軍――いや、直截に言えば、寄せ集めの烏合の衆である弱みが出た。
そう、意思統一がままならぬのだ。
義景は、唾を飛ばしながら議論する、斎藤龍興や六角義治らに白々とした目を向ける。
――敗残の分際で、よくもまあ。
口にこそ出さないが、義景は内心そのように毒付く。
退くか、戦うか、意見は真っ二つに割れていた。どちらに決まるにしろ、足並みの乱れは覚悟せねばならない。
そんな悪い予想に、義景は益々顔を顰める。
――足並みが乱れたままの決戦なぞ、御免蒙る。ワシも撤退論を推すべきか?
そう考えた義景が口を開こうとした丁度その時、何やら陣内のそこかしこで声が上がった。
何じゃ? と不審に思いながら、義景は開こうとした口を閉ざす。
「これは何の騒ぎじゃ!」
そう声を張り上げたのは、浅井久政だ。
ほどなくして、その疑問の答えが持ち込まれる。
「報告します! 織田の若武者と思われる者が一騎、離れた場所からどうも言葉争いを仕掛けているようで」
「何じゃと?」
報告を聞いた義景たちは、実際に自分の目で確かめようと、陣外に出る。
果たして、確かに報告の通り離れた場所にポツンとある一騎が、何やら甲高い声を張り上げている。その声から、若武者と判じたわけだ。
義景らからはそこまで分からぬが、その若武者は、若いというより幼いと言っても差し支えのない少年であった。端正な顔立ちをした、まだ十三歳の少年で、先日信長の小姓、側近に取り立てられたばかりの、堀久太郎といった。
紅顔の美少年――久太郎は、まだ声変わりしていない甲高い声で言い募る。
「臆病風に吹かれる勿れ! いざ、日時を示し合わせて決戦しようではないか! 先程からそう言っておるのに、何故黙っているのか! そんなにも弾正忠様が恐ろしいか! 戦う勇気がないのであれば、疾く弾正忠様に頭を垂れて許しを請うか、そうでなければ、所領で亀のように引っ込んでおればよかろう!」
安い挑発だ、義景はそう思う。同時に訝しんだ。あの信長にしては、何ともお粗末なことをするではないか、と。
どうもそう思ったのは、義景だけではないようで、他の者も釈然としない顔付きをしている。
「もしや、信長は焦っておるのではないか?」
浅井久政が呟く。
「というと?」
義景が問い掛ける。
「無論、後背を脅かす敵がおるからよ。故に焦っておる。そこで、あの挑発よ。我らが激昂して攻めかかれば、これを短期決戦で破り、すぐさま畿内へとんぼ返りする。また、あの挑発に、信長が優勢であると我らが怯え退却するようなら……。それこそ、織田の思う壺。我らを見送った後に、畿内に返す刃で、三好本願寺を討つ。そう考えておるのでは?」
「成る程……」
義景は頷く。
「では、我らが採るべき選択は?」
「知れたこと。逸って攻めかかるでもなく、退却するでもなく、ここにどしっと陣を構えて、信長がやって来るのを待ち構えるのよ。そうして、持久戦に持ち込む。さすれば、程なく三好本願寺が畿内を荒らし回ろう。そこに武田が加われば……」
久政は一旦言葉を切る。義景らは生唾を飲み込んだ。
「……織田の破滅よ。信長めは、無様に転げ落ちるわ」
「おお!」
「成る程!」
何人かが同意を示す。義景もまた頷いた。
「正にその通りじゃ! ここに陣を張り、それから比叡山に使者を! 僧兵を派遣してもらい、織田との兵数差を埋めましょう。それで以て持久戦に臨む! よろしいか、諸兄方⁉」
「「応!」」
義景の呼び掛けに気勢が上がった。
かくして、連合軍は坂本にて陣を敷き、徹底抗戦の姿勢を固めたのである。
※※※※
――元亀元年八月十一日 早朝 坂本口
久太郎が言葉争いを仕掛けてから、三日後のこと。ここ坂本でついに、信長率いる織田軍と、浅井、朝倉を中心とする連合軍が相対することとなった。
信長の軍勢は、変わらず三万余。
対する連合軍側には、延暦寺の僧兵の姿がある。連合軍の要請を、延暦寺は快諾したのだ。
これにより、当初の兵数差は詰まり、今ではほぼ織田軍と同数の威容を誇っている。
両軍合わせて六万近い人間が集まる様は圧巻であり、誰もが戦の前のこの静けさの中で、張り詰めた心境の中にいた。
これ程の規模での会戦、戦国の世でも頻繁にお目にかかれるものでもない。
凄まじい激戦になるに違いなかったし、一日、二日で決着が着くようにも思われない。
連合軍の企図通り、長期戦になりかねなかった。事実、信長の意に反する長期戦に。
「殿……」
押し黙り真っ直ぐと連合軍の陣容を睨み付ける信長に、側近の一人が声を掛ける。
信長はこくりと頷いた。
「権六、三左に伝令を。戦端を開け、と」
「ハッ!」
信長のその命を待っていたとばかりに、母衣を背負う騎馬武者が駆け出す。
ほどなくして、信長の命は、最前線の両将、柴田勝家と森可成に伝わる。
まず動いたのは、勝家であった。
勝家寄騎の将が、鉄砲衆と共に進む。
「進めい!」
ガシャガシャと具足を鳴らしながら、鉄砲衆は火縄銃を両手に駆ける。
「止まれい!」
有効射程まで距離を詰めると、騎馬武者は止まるよう指示する。直後、足を止めた鉄砲衆は、その場で腰を下ろし射撃体勢を取る。
「撃て!」
パン、パン、パン! と火縄銃が火を噴く。連合軍前衛部隊にいくらかの被害を出した。
対して連合軍は、少勢で突出してきた織田の鉄砲衆に対して、有効な反撃が出来なかった。
織田の攻勢を待ち構えていた弓兵たちは、少数の敵相手に一斉射撃をして良いのか躊躇ったからである。
連合軍側の鉄砲衆の何人かが、散発的に打ち返したが、効果は皆無に近かった。
この事実に、鉄砲衆を率いる騎馬武者は高笑いした。
「ハッハハハ! 良し! 退けい!」
鉄砲衆は身を翻し、全力で退却していく。正に撃ち逃げであった。
敵の虚を衝いた、真正面からの奇襲と言えるだろう。大胆な采配である。
大局的に見れば、連合軍に与えた損害は軽微だ。
しかし、してやったりと、織田将兵は気を良くする。なれば、自然と将兵の士気も高まるというものだ。
退却する鉄砲衆に入れ換わるように、足軽雑兵が進み出る。――『ええぞ!』『ようやった!』などと、鉄砲衆を労う足軽雑兵たちは、今度は俺たちの番だと奮い立つ。そうして、勝家その人の大音声が戦場に響く。
「掛かれ! すわ掛かれ!」
その声に、足軽雑兵は蛮声で以て応える。天を衝くような雄叫びが上がった。
これぞ『掛かれ柴田』の真骨頂! 古強者の大音声は、兵らを奮い立たせてやまない。
吶喊する兵らは、ある者は木の盾や、竹束を掲げ、またある者は恐れ知らずにも、槍だけを握り締め矢の雨の中を進み行く。――『掛かれ、掛かれ、すわ掛かれ!』、彼らの将が発する檄が、その背を押していく。
戦友が倒れ行くのを横目に、前へ、前へ、只管前へ。
終には、敵の前衛が目と鼻の先の距離まで迫り行く。
この段になって、連合軍側の足軽雑兵らも槍を構えて吶喊した。そして! 両者は真正面からぶつかった!
打ち鳴らされるは、具足や剣戟の金属音。上がる声は、蛮声に断末魔の悲鳴。悲惨な戦場音楽が奏でられる。
まるで櫛の歯が零れる様に、一人、また一人と、敵味方問わず兵卒らが倒れ行く。それでも次から次に、穴を埋める様に新たな雑兵が躍り出る。
戦闘の終わりはまるで見えてくる気配がない。それでも、兵らは進み行く。全ては勝利の為に。
「掛かれ、すわ掛かれ!」
尚も響く大音声。突き動かされる柴田隊の勢い凄まじく、いくらか連合軍側の前衛を押し出していく。だが、それでも押し切れない。
その事実に、勝家は苦い表情を浮かべた。
「ぬう……」
口惜し気な唸り声を上げると、勝家は僚友が率いる部隊の方に視線を向ける。
「攻めの三左も押し切れぬか……」
その言葉通り、次鋒となった森隊もまた、攻めあぐねている様子であった。
「柴田様……」
勝家の近習が案じるような声を出す。
「案ずるな。殿を信じよ。殿が突撃せよ、と命じられるなら、我ら武辺者は愚直に突撃すればいいのだ。殿が、必ずや戦況を変える一手を打って下さるじゃろう」
そう言うと、勝家はすーっと大きく息を吸い込む。
「掛かれ! すわ掛かれ!」
再び戦場に響く大音声を上げた。
早朝から始まった戦闘は、正午を回り、それから四刻(※約二時間)ばかり過ぎても、未だ休むことなく続いている。
信長の本陣に詰めている者たちは、焦りを隠し切れないでいた。
というのも、戦況が完全に膠着状態に陥ったからだ。
負けているわけではない。しかし、勝ってもいない。
連合軍側が予想した通り、織田にとって長期戦は避けたい、いや、避けねばならないものであった。
武田の参戦を阻止したとはいえ、長く畿内を空けるのは、不安要素が多い。長らく、この戦線に張り付けされていては、また畿内で思わぬ事態が勃発するかも知れぬ。
畿内に十分な兵を残してきたとはいえ、前回起きた予想外の出来事――本願寺挙兵の衝撃は、まだ記憶に新しいものであった。
「殿……」
信長の側近の一人が声を上げる。だが、反応はない。
「殿! 某かの手を打たねば! このままでは徒に戦いを長引かせてしまいます!」
声を大にして言い募った。それでも、信長は反応しない。
ただじっと戦場を睨み付けるばかり。まるで、何かを待ち侘びるかのように。
側近たちは、殿はどうなさったのだと、訝しがる。不安に駆られ始めた。
「殿、どうか……」
懇願する様な響きに、ようやく信長は口を開く。
「まだじゃ。もう暫し待て」
信長はそれだけを返し、再び彫像のように戦場を見詰めるばかり。
戦況に変化がないまま、更に二刻の時が経った。
後四刻もすれば、夕暮れがやってこよう。そうなれば、今日の戦は終いとなる。もういくらかも、時間は残されていない。
これは初日では終わらぬ。いや、この調子では、明日もまた決着が付くとは思われん。
側近たちがそのように嘆息したその時、突如として明後日の方向から鬨の声が上がる。
信長は簡易椅子を倒しながら、ガバリと立ち上がる。その視線の先にあったのは――!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます