通信革命
良く晴れた日であった。晴れでなければ、延期されることとなっていたので、晴れであるのは当たり前でもあるのだが。
尾張国内の某所であった。その場に、尾張商人である山城屋、神田屋、遠江屋に、美濃商人の長良屋と、堺商人からも一人、津田宗及が来ている。
これから行われる実験において、共謀してイカサマが行われないようにと、わざとバラバラの立場の者たちが集められていた。
彼らのそれぞれが、自身と、この場にいない面子が認めた封書をそれぞれ何枚か携えて来ている。
ここにいない面子、尾張商人の芦屋、大黒屋、小津屋、それから浅田屋と、他の堺商人たちも、ここにあるのと同一の封書を携えて、別所に集まっている筈であった。
「定刻ですな、山城屋さん」
神田屋の言葉を切っ掛けに、それぞれが保管していた封書を、事前に決められていた通り山城屋に手渡していく。
受け取った山城屋は、全ての封書に破かれた形跡がないか、丹念に確認する。……問題がなかったようで、山城屋は一つ頷いた。
「では、開封します」
山城屋はそのように口にする。
その表情には幾ばくかの緊張と、それ以上に狐に化かされている最中であるような、どこか釈然としない色があった。
――本当に、浅田屋さんの言うようなことが可能なのだろうか?
そんなことを内心思いながら、山城屋は今回の実験の一週間前に行われた説明会を思い起こした。
「……こう言っては何だが、浅田屋さん。流石に今回ばかりは、貴方の言うことを鵜呑みにはできませんよ」
そう言ったのは、山城屋その人であった。
尤も、源吉の開いた説明会に出席した、他の織田の御用商人らもまた、口にしないだけで同様に思っていたのだが。
「でしょうね。無理もありません。ですので、実験を行おうというのです」
源吉は落ち着いた声音で言った。そうして、白紙の紙と封筒をその場にいる面々に回していく。
「どうか皆さま、その紙に米俵の数と、その価格を出鱈目に書いて下さい。同様の内容を二通作成して下さい。……ああ、くれぐれも他の方に見せないように」
御用商人らは互いの顔を見合わせながらも、言われた通りに白紙に出鱈目な内容を認めていく。
「書き終わりましたね? では、それらを封じて下さい。ええ。そうして、それらの一通はご自身で保管して、もう一通は、畿内組と尾張組で交換して下さい」
皆頷き、源吉に言われた通りにしていく。
実験の前準備が整った形となった。
「では皆さま、説明通り一週間後の正午に、実験を行います。――約束しましょう。皆さまの度肝を抜くことを」
源吉は不敵な笑みを浮かべたのだった。
「山城屋さん」
呼びかけに固まっていた山城屋は苦笑する。
「いえ、どうも緊張してしまいまして。では……」
山城屋は片っ端から開封していくと、それらの中身にサッと目を通す。不備がないか、念のため確認する為であったが……山城屋は苦笑を深めることになった。
――神田屋、米二俵、二千三百貫? 俵の中に黄金でも仕込んだのだろうか?
山城屋は軽く首を振って次の封書に目を通す。
――こちらは、芦屋さんか。何々、芦屋、米十四俵、二百五十七貫……また細かい価格を書き込んだものだ。そしてやはり、価格がおかしい。
それから開かれる封書も、揃いも揃って捻くれた内容が認められている。偶然にも当たってしまわない為であろう。
山城屋はそれを理解するも、誰も彼も素直な御仁ではないなあ。などと思う。かくいう山城屋も、それは捻くれた内容を書き込んだのだが。
不備がないのを確認した山城屋は、黙って待っている男――織田家中の滝川一益の配下であるという男に書面を全て手渡す。
無言で受け取った男を、山城屋は武士らしくない男だと思った。ひょっとすると、乱破であるのかもしれない。
書面を受け取った男は、素早く櫓の上へと上がっていく。そうして、もう一人櫓の上に居る男に、何やら指示を飛ばす。
指示を受けた男は、蒼穹の下、何やら不規則な動きで旗を振り始めた。
山城屋たちは、櫓の下からその様を仰ぎ見る。そうしてやはり思うのだ。――こんなことで、本当に? と純粋な疑問を。
※※※※
ここは堺の近郊である。俺は、他の御用商人らと共にあった。
見上げた櫓の上には、両手で持った長筒を覗き込む男と、その男が受信した内容を紙に書き留める男の二人がいる。
やがて全て書き終えたのか、片方の男が櫓を下りて来る。
俺はその男から、認められたばかりの紙を受け取る。
そんな俺を、この場にいる皆が、痛いくらいの視線を向けて来る。彼らに向き直り口を開く。
「では、答え合わせと行きましょうか。皆さま、封書を開封下さい」
皆が開封するのを待ってから、俺は今受け取った内容を読み上げていく。
「神田屋、米二俵、二千三百貫」
「おお! 当たっておる!」
神田屋と封書を交換してきていた大黒屋が声を上げた。
それからも俺が読み上げる度に、驚きの声が上がる。
「……芦屋、米十四俵、二百五十八貫」
「む。ちと違いますな。二百五十七貫です」
今井宗久の言葉に、俺は片眉を持ち上げる。
「……まだ実用段階まで至っておりませんからね。多少の錯誤も出るでしょう」
「成る程」
宗久は頷く。
それからも、俺は最後まで書面を読み上げていった。
「さて、これで終いです。些か、錯誤もあったようですが。どうでしょう、皆さま? おおむね正しい情報を受信できたかと思うのですが」
そんな問い掛けに、商人たちは熱の籠った眼差しで応える。
「まるで狐に化かされた気分だ」
一人はそんな言葉を吐いた。
無理もない。何せ、尾張組が正午に発信した報せを、僅か一刻半(※約四十五分)ばかりの内に伝達して見せたのだから。
この時代を生きる人にとっては、正に魔法のようであったろう。
俺が笑みを浮かべていると、櫓の上に残っていた男も下に降りて来た。その手に長筒――望遠鏡を握りながら。
そう、魔法の正体とは、望遠鏡を用いた旗振り通信である。
旗振り通信とは、江戸時代に商人たちが米相場をいち早く知るために用いた通信手段のことである。
この通信方法では、いくつもの旗振り中継基地を通して、旗と望遠鏡で信号を遣り取りする。望遠鏡で発信者側の旗振りを見て、それを次の中継基地にも旗を振って知らせるのだ。こうして、まるで伝言ゲームのように最終受信者の下へと伝達するわけだ。
通信士の練度が未熟なので、今回の実験では一刻半『もの』時を要してしまった。が、それでも戦国の世では、通信革命とでも言うべき伝達速度である。
因みに、江戸時代の熟練した者たちなら、その通信速度は、時速七百キロを優に超え、大阪―京都間を四分、大阪―岡山間を十五分、大阪―広島間を二十七分で伝達したという。
それまでの飛脚のような、人が文を運ぶのとは次元が違う。これを革命と言わず、何を革命と言おう。
「大山、その筒を覗いても良いか?」
問うてきたのは、千宗易だ。
「勿論」
俺は通信士に、望遠鏡を宗易に渡すよう促す。
望遠鏡を受け取った宗易は、すぐさま覗き込んだ。
「むう。これは……」
宗易はそんな呟きを漏らす。
今宗易が手にしている望遠鏡は、於藤の監督の下、多大な銭と時間を要して、硝子職人に作らせたもの。いわゆる、ガレリオ式望遠鏡である。
ガレリオ式望遠鏡とは、西洋において一六〇〇年前後に発明され、日本に伝来したのは一六一三年、晩年の徳川家康に献上されたのが初めである。
つまり、まだ日ノ本には存在しない筈の代物である。
その原理は単純なもので、凸レンズと凹レンズの組み合わせで製作できる。
因みに、レンズの歴史は実は相当古い。
例えば、凸レンズは火とりレンズとして、紀元前三世紀には世界各地で使われていたりする。
なので、凸レンズと凹レンズを作れと、硝子職人に言えば、それ自体は容易なことなのである。
ただ、それらを組み合わせれば、望遠鏡になるという発想が出てこないだけのことで。
尤も、凸レンズと凹レンズを組み合わせればいいことを知っていても、丁度望遠鏡として満足ないく出来になる塩梅に関しては、不確かであるので。
それを探るのに、銭と時間を要してしまったわけであるが。
トライ&エラーの繰り返しだ。粗悪な望遠鏡もどきばかり出来上がっては、破棄しての連続。さぞや於藤は気を揉んだことであろう。今度改めて労ってやらないと。
「宗易さん、私にも覗かせて下さい」
今井宗久は、そう言って宗易から望遠鏡を受け取るや、覗き見る。やはり、驚きの声を上げた。
それから順々に、商人らが望遠鏡を覗いては驚きを示す。
全員が覗き終わるのを待ってから、俺は一堂に声を掛ける。
「さて、皆さま。存分に堪能されたことでしょう。如何です、この旗振り通信は? 今はまだ試験用に敷かれた仮設の連絡網が一本切り。しかし、これより順次、織田領内に張り巡らされていくことでしょう。そして、織田領が拡がると共に、通信網も拡がりを見せる」
その様を想像しているのか、商人らは各々目をつぶったり、中空を見上げたりしている。
「織田様は、この通信網から得られる恩恵を、織田様ご自身と、織田様が特別に許した者にのみ与えられる積りでいます。分かりますね? その意味する所が。この通信網の恩恵に預かる者は、常に情報戦において覇者足り得ることを」
商人らは、ごくりと生唾を飲み込む。この場にいる者の中で、情報戦を制することが、商いの上でどれほどのアドバンテージを得られるのかを分からぬ者などいない。
「最早迂遠な物言いはしません。直截に言いましょう。銭を出して下さい。更に米を搔き集める助力も願いたい。織田様と、我らの輝かしい未来の為に」
俺はそう言って、商人らの顔を順繰り見回す。
当たり前のことではあるが、頷かない者は、一人もいやしなかった。
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