虎口を脱せよ!
ピリリと肌が痛い。浴びせられる視線に焼かれるようだ。
場にずらりと並んだ諸将の視線に、それよりも尚強い、信長のそれ。
はん! 西洋のメデューサやバロールじゃあるまいし、視線で人が殺せるわけでもない。ならば、この程度なんするものぞ! と心中気炎を吐く。
臆することは許されぬ。緊張や怖れに震え出すなど、あってはならない。
不敵な笑みすら浮かべて見せよう。
己の言の葉に、信憑性を持たせるためにも。
そう自らを奮い立たせていると、まず信長が口を開く。
「先だって、織田、徳川、浅井、朝倉の四家同盟を進言したのは、貴様であったな、うらなり。いや、今の事態が全て貴様のせいだとは言わぬ。ワシ自身納得して、進言を容れたのだから」
そんな前置きを口にしつつも、信長の目は鋭いままだ。
「じゃが、ワシ自身は、既に今の窮状という形で、失態のツケを払っているわけであるし。何より、提案者こそが最も責めを受けるのが道理というものであろう。違うか?」
「違いませぬ」
俺は一つ頷く。
「であるか。……とはいえ、貴様のこれまでの功績は大なるものがある。それに、本願寺挙兵の折り、決定的な破綻をも阻止した。故に挽回の機会をやろう。この窮状を打破する、起死回生の策を出せ。出せぬようなら……」
「出せぬようなら?」
信長は俺に視線を向けたまま、刀持ちに手を伸ばす。刀持ちは、慌てて信長に刀を握らせる。
「ワシ自らの手で、その細首を打ち落とそう。それが、せめてもの情けと知れ」
今や十ヶ国を治める大大名自ら手討ちにするとは、それはそれで名誉なことかもしれないなあ。いや、そんなことより……。
強がりではなく、ふっと自然に笑みを零してしまう。
「懐かしいですね。初めてお目にかかった時のことを思い出します」
「桶狭間の時か。確かにな。じゃが、此度は脅しではないぞ」
「百も承知にて」
「では聞こう。策は有りや無しや?」
場を支配する重圧が増した。諸将は声を漏らすどころか、身じろぎ一つするのも憚れるとばかりに固まっている。……喉が渇く。だがそれでも!
いざ腹を括り、俺は口を開く。
「まず、改めて確認したく思います。弾正忠様、武田の参戦さえ止められれば、この戦に勝てますか?」
「勝とう」
信長は即答する。流石、迷いすらしない。
それに出まかせでもあるまい。信長なら、確かな勝機が見えているのだろう。
「分かりました。……失礼、今一つ問い掛けを。弾正忠様、武田の兵は何故精強なのでしょう? お分かりになりますか?」
「色々と精強な理由はあろうが……」
信長は鬱陶しそうに、蠅でも払うように手を振る。
「回りくどいのは無しじゃ。貴様ならではの答えをとっとと申せ」
「はい。……武田の精強さの秘訣、それは山間部故の貧しさにあります」
武田家が治める甲斐の国は、稲作に不向きな土地が多い。その上、海まで遠いときたものだ。
戦国期は、世界的に見ても小氷河期の時代。
只でさえ、米の収穫量が落ちる。それこそが、そもそも戦の世が現出した理由の一つであろう。
更に稲作に不向きな山間部ともなれば、もはや食糧難は頭を抱えたくなるような問題だ。
武田は、甲斐の国の者たちは、この問題に如何な解決策を見い出したか? それは、単純明快な答えであった。そう、外に糧を求めたのだ。
彼らは戦わねばならなかったのだ。生きるために。その貧しさ故のハングリー精神こそが、武田を戦国の世に在って尚、精強と言わしめたのだ。
「武田の精強さの根幹にあるのは、外に糧を求める必要があるからです。米の為に戦をしていると言っても過言ではないでしょう」
信長は暫し中空を見詰め、一つ頷く。
「成る程、その通りかもしれん。で、それがどうした?」
俺はすーっと息を吸う。意を決して口を開く。
「なれば、戦をする必要性を減じさせれば如何でしょう? 武田と密約を。此度の戦を静観するならば、織田より武田に大量の兵糧米を回すと」
ざわっと大広間が騒めく。
敵に塩を送るならぬ、敵に米を送る、だ。騒めくのも仕方なかろう。
信長は、というと難しい顔をしているな。
「理屈は分かる。が、真にそのように上手く事が運ぶのか?」
信長は半信半疑といった具合で問い掛けて来る。
「武田の立場に立ってお考え下さい。そも、此度の対織田参戦は、武田にとって悩ましい問題でしょう。弱い者苛めではないのですよ? 武田が加われば反織田勢力が優勢になるとはいえ、十ヶ国を治める織田は決して楽な相手とは映らぬでしょう。それに、甲斐から京までの距離も離れ過ぎています。中々、参戦とは踏ん切りがつかぬでしょう」
信長は思案するように顎髭を撫でる。
「無論、それでも現状のまま何もしなければ、天秤は参戦に傾く公算が高い。なれば、参戦しない方に天秤が傾くような、そんな重りを皿に載せればよろしいでしょう」
「……その重りが米か」
「はい。弾正忠様、更に密約を申し出る際に、このように提案なさいませ。わざわざ畿内まで出向かずとも、もっと喰らいやすい獲物が、すぐ横にいるではないか。そちらに存分に噛みつかれよ、と」
信長はにやりと笑む。
「すぐ横の喰らいやすい獲物……今川じゃな?」
「ええ。死に体の今川の方が、武田にとって労せず倒せる格好の獲物です。どうして、それを捨て置いてまで、織田という傷ついた狼に挑みましょうか? 死に体の牛の方こそ、甲斐の虎には魅力的に映るでしょう。ましてや、弱い者苛めに励めば、織田から土産まで届くというのです。否やがありましょうや?」
信長は二度、三度頷く。
「成る程の! 話は分かった。が! 問題は、武田が迷いなく頷くだけの米を、どのように用立てるかじゃ。これがなければ、絵に描いた餅に過ぎんぞ」
そう、それこそが問題だ。
中途半端な量の米を提示して、武田に袖にされたのでは堪らない。
問答無用で頷かせるだけの米を、密約の場で提示したい。この密約の締結にしくじれば、織田は破滅の一途を辿りかねないのだから。
「言っておくが、織田にそれだけの余裕はないぞ。四方敵だらけ、米はいくらあっても足りぬ状況じゃ」
「承知しております。織田領内の大商人らの協力を得て、多大な銭を。それを以て、方々から搔き集めるしかありますまい。幸い、堺の協力があれば、織田領内ならず西国からも米を仕入れることは能うでしょう。そう、銭さえあれば」
銭さえあれば、付け足した言葉に、またも信長の顔が歪む。
「……出すか、商人どもが。いい加減、ワシは連中から、やれ矢銭だ、何だのと、多大な援助を引き出し続けておる。更に出ようか? 貴様らの懐から引き出すにも限度があろう。また、忌々しいことに傍目から見て、織田は明らかな苦境じゃ。そんな状況で、莫大な米を購入能うだけの銭を供出させられるか? 甚だ疑問じゃ」
さて、どうだろう? 正直、ただ出せと言っただけでは、難しいかもしれない。
ならば、彼らを説得する材料がいる。
無論、それは既に手中にあった。でなければ、このような話はしない。
「硝子細工を使う許可を下さい」
ピクリと、信長の眉が動く。
「……貴様が先日完成させ、今は滝川に命じて試験運用させておるアレか」
「はい」
「もう実用できる段階まで至ったのか?」
「いえ、まだそこまでは。ですが、商人たちにその『可能性』を実感させるには十分でしょう。説得すべき大商人たちに、実験への立会いをお許し下さい。それを以て、手前が必ずや説得して見せまする」
「であるか。良かろう」
「有難く」
俺は深々と頭を垂れる。
俺と信長の一連の遣り取りに付いてこられない諸将らの顔には、これでもかと疑問符が張り付いている。
信長は彼らを見遣り、口を開く。
「貴様らは、商人どもがせっせと銭を、米を回すかどうかを見て、策の成否を知るがよい」
投げやりにも程がある。説明が面倒なのだろう。よく分かる。
「手前はこれにて御前を失礼しても?」
村井貞勝辺りに、直接問い掛けられる前にと、俺は撤退を試みる。
「構わん。ああ、最後に何か言い足すことはあるか?」
信長は片手に握り続けていた刀を、刀持ちに返しながら問うてくる。
「そうですね。では、徳川様にも、武田と同時に今川領に攻め入るよう勧めてみては如何でしょう? 朝倉に浅井と裏切られ、徳川にまで裏切られては堪りません。そうならぬよう、徳川にも美味しい目を見せるべきでしょう。それに、今川領を丸々武田が併呑するのも頂けませんし」
そう、いずれ敵に回るであろう武田を、無暗に肥え太らせたくもない。
ならば、徳川に頑張ってもらって、今川領の切り取り競争でもしてもらうとしよう。
「左様か。相分かった。下がれ、うらなり」
俺は最後にもう一度だけ頭を垂れると、大広間を後にした。――『殿! 今の話はどういう意味ですか⁉』という騒めきを、努めて無視しながら。
ふん、信長め、精々説明に苦慮するといい。
修羅場か鉄火場か、兎角緊迫する場を何とか切り抜けた俺は、胸を撫で下ろしながら、そんなことを心中呟いたのだった。
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