真打登場

 信長率いる主力四万は、朝倉浅井討伐を断念して畿内へと帰投する。

 信長自身は京の本能寺に入り、善後策を講じようとしていた。

 そんなある夜のこと、人目を憚るように本能寺へと向かう人物がいる。――細川藤孝だ。彼は、足利義昭の企みに恐れをなし、それを信長に密告しに来たのであった。



※※※※



 織田軍主力が畿内入りしてから五日後のことである。

 信長に『至急参上せよ』と命じられた諸将は一堂に会していた。誰もが難しい顔をしたり、不安を隠せない顔をしていたりする。

 無理もないことである。状況は悪化の一途を辿っていた。


 朝倉の裏切りから始まった争乱は、今や織田をぐるりと囲む敵だらけの戦況となっている。

 朝倉、浅井、六角斎藤の残党、延暦寺、本願寺、三好と、それらの兵数を単純に足し合わせれば、並ぶ者のいない大大名となった織田が可能な動員兵数と匹敵する。

 まだ対処可能であれども、一歩踏み間違えれば織田の栄華は崩れかねない。そんな未来予想図を、諸将がつい思い浮かべても責められることではないだろう。


 落ち着かなげに、信長の登場を待つ諸将は皆が押し黙っている。

 下手に隅で何事かを囁き合えば、傍から謀議をしているかのように勘繰られてしまうかもしれない。

 そう、織田を見限り、裏切る積りではないだろうか、と。

 そんな心配をしてしまう位に、戦況の悪化は諸将の心に深い影を落としていた。


 ドタドタドタ! と、重苦しい沈黙を破る足音が近づいて来る。諸将は、信長が来たことを悟り頭を垂れる。


「殿の御成り!」


 そんな先触れの声を追い抜かしかねない速さで現れた信長は、上座に常よりも尚荒々しく座る。


「将軍義昭が謀りおった」


 開口一番、吐き捨てるように言い放った信長の言葉に、諸将はポカンとする。全く理解が追いつかなかったのだ。


「殿、何と仰られましたか?」


 疑問の声を真っ先に上げたのは、村井貞勝だ。信長はぎろりと貞勝を睨み付けると、口を開く。


「義昭が謀った、と言った。彼奴め、信玄坊主に信長を討つようにと、密使を送りよったわ!」

「馬鹿な……」


 誰ともなく呟く。それを皮切りに、場がどよめく。


「今の戦況で武田まで敵に回れば、我らは破滅よ。避けようもなくな!」


 吐き捨てるように言った信長の言葉は、諸将の恐れを増幅させる。


「殿! かくなる上は、公方様を……!」


 思わずといった具合に、ある者がそんな叫びを上げる。が、信長は一顧だにしない。


「義昭めは暫し捨て置く。今排除すれば、多方面に刺激を与えかねん。より敵が増える恐れがある。泳がせるしかあるまい」


 ぎりりと、信長は歯噛みする。


「では……」


 縋るような声に、信長は断固とした声で応える。


「武田の参戦を食い止めねばならぬ。何としても、だ」


 自明のことであった。武田の参戦が看過できないのであれば、それを阻止すればいい。

 しかし言うは易し行うは難しというものでもあった。


「確かに殿の言う通りじゃが……」

「どうやって……」


 そんな声がそこかしこで漏れる。

 信長はそんな諸将を尻目に、独り言のように呟く。


「思えば、此度の窮状は烏の囀りから始まったこと。なれば、烏めに責任を取らせるのが筋というものであろう。のう、うらなり?」


 最後は語りかけるように言った信長。

 その声と同時に、一人の若者が大広間の中に踏み入って来る。控えめながら上等だと分かる着物を身に纏い、やや細身の身体つきをした若者だ。


「あっ!」


 と声を上げたのは、木下藤吉郎であった。が、諸将の大半は彼が誰かも分からずに、何だこいつは? という視線を向ける。

 それもその筈、彼が、源吉がこのような諸将が揃った公の場に出てきたことなど、一度もなかったのだから。


「うらなり――浅田屋大山源吉よ、精々賢しらな悪知恵を絞り出すがよい」


 一番の下座に、信長と正対するよう座した源吉に、信長が言う。

 諸将は悟る。この若者が、音に聞く浅田屋か、と。

 彼らの視線を一斉に浴びても、源吉は気にしたそぶりも見せぬ。ばかりか、ただ信長だけを見詰め、不敵な笑みすら浮かべて見せる。


 これまで裏方に徹することが多かった源吉が、真の意味で歴史の表舞台に立ったのであった。

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