策動
――烏丸中御門第(将軍義昭邸)
幕臣細川藤孝は、各地から届く目まぐるしい情勢をまとめ上げると、主君足利義昭に報告すべく将軍邸に赴き、義昭と面会をしていた。
「上様、本願寺の挙兵は先般一報を入れた通りです。三好を後詰すべく動いたようでして、佐久間殿の軍勢が危機に瀕しましたが、これは明智殿の果敢な行動によって、何とか事なきを得たようです」
「左様か」
藤孝は眦をきつくする。というのも、彼の視線の先で義昭は、以前信長から献上された清水焼を捧げる様に持ち上げては、眺めていたからだ。
とても真剣に聞いているようには見受けられず、事の重大性が分かっているのかと、藤孝は内心憤る。
「されど、危機を一旦脱したとはいえ、三好本願寺連合の方が、織田弾正忠殿が畿内に残して行かれた留守部隊より強力です。……弾正忠殿はこの事実に、断腸の想いで朝倉浅井討伐を諦め、畿内へと引き返しておられる所です」
「左様か」
「ッ! 上様!」
藤孝は思わず厳しい声を上げるが、それでも義昭は痛痒を感じていないようである。変わらず、しげしげと手の中にある黒焼きを見遣る。
「それで? 報告はそれだけか?」
「……本願寺が比叡山に使いを送った模様。延暦寺もまた、反織田に靡きそうです。もしそうなれば、敵は朝倉浅井に、これに加わった斎藤六角の残党、それから三好本願寺、更には延暦寺と、周囲敵だらけとなります。のっぴきならない事態ですぞ!」
「……足らぬよ」
義昭はポツリと呟く。
「はい? 何と仰られましたか?」
藤孝の問う声に、ようやく義昭は藤孝へと視線を向ける。
「足らぬと言った。……織田弾正忠信長、彼の男は真の英傑よ。初めて会った時から、余はずっとあの男を見てきたが、そのように確信した。朝倉、浅井、三好、本願寺に延暦寺と、その他の小勢? その程度では足らぬ、足らぬ、全然足らぬわ」
「はあ」
藤孝は生返事を返す。
「まあ、流石に苦戦くらいはするやもしれんが……。ふむ、何の問題があろう? 弾正忠が苦戦するのは、余にとって都合の良いことじゃ」
藤孝はぎょっとする。思わず左右に目を走らせた後、囁くように言う。
「上様、滅多なことを申されますな」
義昭は、かかっと笑う。
「本当のことではないか? 弾正忠が苦戦すれば、ひょっとすると敵対する勢力のいずれかとの和睦をしようと、征夷大将軍たる余に仲介を頼んでくるやもしれん。貸しを作ることができるではないか」
「それは……仰る通りやも知れませんが」
義昭の大胆な発言に、藤孝は肝を冷やす。落ち着かなげに、言葉を重ねる。
「もしも、もしも一歩踏み間違え、万が一弾正忠殿が破れるようなことがあったら、どうなさる積りか? 大事も大事。そのように悠長に構えられては……」
「弾正忠が破れる? それもまた良しじゃ。弾正忠の次に余を担ぎ挙げるのが誰になるかは知らんが、弾正忠より与し易かろうよ」
義昭は何でもないことのように言ってのける。大恩ある信長が破れても構わないと。藤孝はあまりのことに固まった。
「ふむ。一番困るのは、弾正忠が容易く敵を撃破してしまうことか……。やはり足りぬな。足りぬ。確実に苦戦以上をしてもらわねば。そうさなあ。どこぞ、大名を嗾けてみるか」
「上様!?」
密かに信長の苦戦を願うくらいなら、まだ許されよう。が、更に信長の敵を増やそうというのは、明確な裏切り行為であった。
「上杉、は動かぬであろうなあ。毛利は今、尼子を攻めておるし……なれば、武田であろうか?」
「上様、正気ですか?」
義昭はその問いに答えることなく、すっくと立ちあがる。両手で抱えていた黒焼きを、信長からの献上品であるそれを、中空で手放した。――ガシャン! と茶碗は砕ける。藤孝は体を震わした。
「弾正忠は、暫くは戦場を駆けずり回るのに忙しかろう。鬼の居ぬ間じゃ。余も動くとしよう。まずは、武田に密使を送る」
「う、上様……弾正忠殿は、上様の将軍位就任に尽力された恩人ですぞ。そ、それを、真に裏切る、と……」
義昭は首を傾げる。
「無論、弾正忠には恩義を感じておるよ。じゃが、だからといって、裏切ってはならぬ理由にはなるまい。恩人どころか、親兄弟、主君をも裏切るようなこの世の中で、どうして恩人だからと、遠慮をする必要がある?」
心底不思議そうに口にした。
――こ、この方は……。
藤孝は、自らが義昭のことを見誤っていたことを悟る。
「おお! そうじゃ! 鬼の居ぬ間にもう一手打っておこう! 将軍権威を高めるため、帝に改元を奏請しよう! ふふ、実は改元は前々からいつか実現させようと考えておってな! 『詩経』からの出典で、元亀はどうじゃ? 改元によって、戦乱を断ち切り、室町幕府による治世が来るようにと! 永禄を元亀へと改元する!」
義昭は高らかに宣言する。
永禄の元号は、嘗てあった史実と異なり、永禄八年で終わりを告げる。五年も早く元亀へと改元されることとなったのである。
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