吹田城の戦い 二

「明智殿が吹田城に入城の由! 本願寺勢もこれを受けて転進! まずは吹田城を攻略する模様!」

「真か!?」

 

 軍議中に飛び込んだ吉報に、佐久間信盛は思わず腰を浮かせて問い返した。


「相違ありません! 報せに来た伝令の顔を知る者が城中に数名おりました。彼らが言うには、明智様の旗下の者で間違いないと!」


 おお! と諸将が声を上げる。


「明智殿が後詰に!」

「坊主共は吹田城を捨て置いて、ここに直進するわけにも行きますまい!」

「そうじゃな! 横槍の恐れがあるからの!」

「助かった! これで暫しの猶予が出来た!」

「これなら、秩序だった撤退も出来ましょう! 如何?」


 ――如何? と、和田惟正が大将である信盛に顔を向ける。


「うむ、うむ。正しくその通りじゃ! 安全に退ける内に退くとしよう!」


 信盛は満足げな顔で二度、三度頷く。

 窮地を脱する光明が見えて、目に見えて顔の血色が良くなっている。が、そこに水を差すかのような声が挟まれる。


「お待ち下され!」


 信盛は露骨に嫌そうな顔を発言者に向ける。


「何じゃ、木下…殿」


 発言者は、木下藤吉郎秀吉であった。


「ハッ! 撤退それ自体は問題ないかと! 但し! 吹田城への援護は如何なされるお積りか?」


 信盛は益々顔を顰める。余計なことを言うなと、その顔に大書されていた。


 ――はん。やはりの。気付いてなかった、というより、意図的に見ない振りをしとった、ちゅうわけじゃ。佐久間らしいわ。


 藤吉郎は、心中そのように吐き捨てる。


「……吹田城への援護とな?」

「はい。明智殿が殿より預けられた兵は、五千であったかと。京をがら空きに出来たとも思えませぬ。なれば、実際に動かしている兵は更に少ないでしょう。とても、独力で本願寺勢の攻勢を耐え凌げるとは思えませぬ」

「むう……」


 信盛は目を左右に泳がせ、暫し何と答えたものか、と窮したそぶりを見せる。


「…………しかしじゃ、木下殿。明智殿は、我ら一万四千の将兵を救うために決死の覚悟で後詰に参られたのじゃ。ここで吹田城への援護に入り、再び一万四千もの将兵を危機に晒しては、本末転倒であろう?」

「つまり、より多い将兵の為、明智殿ら少数の兵を見殺しにせよ、と?」

「なっ!」


 信盛は顔を真っ赤にする。


「木下! 無礼な! そなた口が過ぎよう! ワシは何も……『あいや!』」


 藤吉郎が遮る。


「分かっており申す! 佐久間様の言わんとされておることは! そしてそれが正しいことも! されど、傍目にはそのように映りかねない、そう注進しておるのです」

「傍目とな?」

「ええ。――『佐久間以下別働隊の諸将は、明智に救われたにもかかわらず、これを見捨てよった』などと、口さがない者が言い出しかねません。そうなれば、この場におる者は皆、天下の声望を失うやも……」

「それは……では、どうせよと言うのじゃ!」


 藤吉郎は、ドン! と己の胸を叩く。


「どうか、某の部隊だけでも、吹田城への後詰に向かうことをお許しください」

「木下の部隊だけか……」


 信盛は虚空を見詰める。数瞬の後、ニタリと笑んだ。


「おお! それは良い! 我ら本隊を危険に晒すような真似は避けねばならぬが、さりとて、吹田城を見殺しにも出来ぬ! なれば、少数精兵の救援部隊を送るのが良かろう! ――『木綿藤吉郎』なら、救援能うに違いない! 任せたぞ、木下殿!」

「ハッ!」


 ――下衆が! 都合の良い逃げ道を提示すれば飛びつきよった。オレ何ぞ、死んでも痛くも痒くもないからのう。むしろ、下賤の成り上がりが死ねば清々するとでも、思っとるんじゃろうが。


 藤吉郎は、心中痛烈に信盛を罵倒するが、おくびにも出さず畏まった表情を作る。


「しからば、急ぎ兵の準備をします。御免!」


 藤吉郎が大広間を退出して暫く歩いていると、弟の小一郎が姿を現す。


「兄上! 軍議の決定は如何!」

「後じゃ、小一郎」


 藤吉郎は軽く手を振ると、小一郎を伴い無言のまま城を出ると、木下隊が陣を張る一画へと足を向ける。

 すると、ここでも軍議の結果を聞くのを待ち切れぬと、木下隊の主だった者たちが藤吉郎を囲う。


「鼠の旦那! 軍議はどうじゃった!?」

「明智様が救援に現れた、と噂が流れとるが?」

「戦うんか、逃げるんか、どっちじゃ!?」


 矢継ぎ早に問い掛けられ、藤吉郎は嫌そうな顔をする。


「ええい! 一旦黙れ! ええか!?」


 藤吉郎は一喝する。全員黙ったのを見て取ってから、再び口を開く。


「明智が後詰に現れたんは本当じゃ。吹田城に入城したらしいで。これで、佐久間隊は何とか退却することもできるじゃろうな」


 おお! と藤吉郎の部下たちは喜色を露わにする。

 もっとも、続く藤吉郎の言葉に、色を失うことになるのだが。


「……じゃが。木下隊は吹田城への後詰に向かうで」


 藤吉郎の言葉に、不満が噴出する。


「そんな!」

「貧乏籤じゃ!」

「どうして断らんかった、鼠の旦那!?」


 咎める声や視線にも、藤吉郎はびくともしない。むしろ、ニヤリと笑む。


「貧乏籤? まさか! 唯一の当たり籤じゃて!」


 予想外の言葉に、藤吉郎の部下たちは毒気を抜かれポカンとする。


「ええか? 明智のお陰で、佐久間隊は何とか退却能うじゃろ。だがな、撤退戦は楽なもんじゃないぞ? まだ正面の三好らの大軍がおるからの」


 確かに、と皆頷く。


「想像してみい? 一万を超える軍勢と、ちっぽけな木下隊、三好らの目を引くのはどっちじゃ?」

「あっ!」


 藤吉郎は更に笑みを深める。


「吹田城への後詰にしても、救援に向かったが既に時遅かっただの、とても救援能う戦況ではなく、泣く泣く諦めた、とでも、いくらでも言い様があるで」

「流石は、鼠の旦那じゃ!」

「なら、吹田城に後詰に行く振りだけして、安全に逃げるんやな!」

「いや……」


 藤吉郎は首を横に振る。


「お前らには、一戦を覚悟してもらうで」

「は!?」

「どういうこっちゃ! さっきと言ってることが違うで!」

「じゃから! よう考えてみい!」


 藤吉郎は再び一喝する。


「吹田城を攻城しているのは、戦の素人どもじゃ。ひょっとすると、とんでもない隙があるかも知れん。その隙を衝けば、見事救援出来るかも知れんじゃろ?」


 藤吉郎は部下たちの顔を見回すが、彼らはまだ納得顔をしていない。そこで更に言い募る。


「権兵衛、弥助、彦六、源三郎……お前ら綺麗な具足を付けとるのう」

「は?」


 藤吉郎は、権兵衛と呼ばれた男に近づくと、ポンポンとその胴を叩く。


「昔は、親父か祖父さんのお古か、どこぞから盗んできたボロボロの具足を纏っていたのにのう。正に、野盗ゴロツキそのものの有様じゃったのに。それが今じゃ、足軽組頭じゃ。ええ? それは誰のお陰じゃ?」


 問い掛けられて、藤吉郎の部下たちは互いに顔を見合わす。


「そりゃあ……鼠の旦那のお陰じゃ」

「違う。正確には、オレが出世したお陰じゃ。ええか? 吹田城には更なる出世の為の武功が転がっとるかもしれん。それを確かめもせず逃げるんは阿呆じゃ」

「…………」

「想像しろ、想像するんじゃ! 窮地に立たされた明智を、颯爽と現れて救援する木下隊の姿を。まるで軍記物語のようじゃろ! オレは名を上げるに違いないし、殿からたんまりと褒美も出るで!」

「けどよう……」


 分かっとる、分かっとると藤吉郎は頷き宥める。


「坊主共に隙がなきゃ、後詰諦めて退却するで! な!」

「それなら、まあ……」


 不承不承頷く部下たちに、藤吉郎は笑みを深くする。


「のう? さっきは、お前たちが様変わりしたと言うたが、一番様変わりしたんは誰じゃ? 水呑百姓から、今や織田の主だった将の一人として、雑兵たちの詠で名を挙げられるまでになったんは? 掛かれ柴田に退き佐久間、米五郎左に――」


 藤吉郎はわざとそこで区切って待つ。が、誰も続きを言いはしない。


「そこは――『木綿藤吉郎!』と、お前らが言う所じゃろうが!」


 藤吉郎が肩を怒らせると、ドッと笑いが起きた。


「十分出世したじゃねえか! まだ出世したりねえか、鼠の旦那!」

「応とも! オレはまだまだ出世するで! のう、更に出世を重ねれば、オレはどのように変わっていくと思う?」

「ん? そりゃあ……」


 藤吉郎の問いに、皆首を捻る。


「分からんか? 国持大名になるで」

「まさか……」

「有り得んと言うか? 今や殿は十か国を治める大大名じゃ。朝倉討つなり、三好を討つなりすれば、更に増えよる。いずれ、大功ある家臣は、一か国くらい任されるようになるじゃろ」


 皆、ごくりと唾を飲む。


「オレが国持大名になったら、直参のお前らはどう変わっていくじゃろな? 家老か? 奉行か? はたまた郡代か?」


 今まで予想だにしなかった未来図に、誰の目にも欲を隠し切れぬ色が宿る。


「さあ、輝かしい未来を掴み取りに行くで」

「「応!」」




 部下らを説得した藤吉郎は、急ぎ部隊を動かすと、吹田城への道を急ぐ。その距離は、十一、二キロと近い。

 普通の行軍でも、丸一日かければ十分踏破できる距離であった。


 翌日の正午には、吹田城まで目と鼻の先という地点まで近づくと、藤吉郎は兵らに休息を与える。

 そうして、自ら吹田城の状況を確かめんと、数名の兵を引き連れて物見へと向かった。



「まだ吹田城は頑張っとるようじゃな、鼠の旦那」

「うむ……」


 藤吉郎たちの視線の先には、吹田城を大挙して攻め寄せる本願寺勢の姿があった。


「で? どうするんじゃ? 坊主共に奇襲でもかけるんか?」

「たわけ! 見てみい、坊主共の本陣を!」


 藤吉郎が指差したのは、本願寺勢の本陣。そこには、まだ戦いに参加していない兵らが、かなりの数いる。


「本陣は目算で、三千といった所か。オレの兵は千二百じゃぞ? 敵うわけなかろうが」

「それじゃあ、後詰諦めてこのまま退却するんか?」

「そうさのう……」


 藤吉郎は思案するように己の顎を撫でた。

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