光秀強行
「明智殿、真に兵を動かす気かね?」
幕臣の細川藤孝は難しい顔で光秀に問い掛ける。言葉にしなくても、光秀が兵を動かすことに、彼が否定的な意見を持っていることが分かる。
「ええ、細川殿。明朝には京を発ちます」
光秀は素知らぬ顔で頷いた。益々、藤孝の顔は厳しくなる。
「何だ、その浅田屋とか言ったか。たかが一介の商人の言を真に受けるのは如何なものか? 正直言って、正気とは思えぬぞ」
「やもしれませんね」
何とも素っ気ない相槌。藤孝の苦言も、光秀には全く痛痒とはならなかった。
ぶすっとした顔で藤孝は吐き捨てる。
「全く、何故そこまで商人の言を妄信できるのか……」
「何故、ですか」
光秀は思い起こす。先日、屯所に飛び込んできた源吉の有様を。くくっ、と思わず相好を崩した。
「どうしたね? そのようににやけて」
「いえ。失礼……」
光秀は手の平を口元に当てる。
「そうですな。先の問いの答えですが、常に賢しらで如才ない振る舞いを崩さない男が、目も当てられないような無様を晒したのです。これを異常事態と呼ばず、何と言いましょうや?」
そう、源吉が乱れた姿で現れるやら、交渉とも呼べぬお粗末な交渉をするやら、常とは程遠い醜態を晒した。その一事が既に、光秀にとっては信じられないことなのだ。
――ならば、本願寺が挙兵することがあってもおかしくない。むしろ、そうでもなければ、大山があのような無様を晒すものか。
光秀はそのように思った。が、それは源吉を直接知る彼であればこそ。藤孝からすれば、全く兵を動かすに足る根拠になり得ない。
――さもありなん。
光秀は、藤孝の理解を得るのを諦める。
「何も京を空っぽにするわけではありません。そも大所帯では、行軍が遅れてしまう。連れて行くのは、近江、若狭の国衆を中心とした二千ばかり。三千の兵を残します。この三千は、細川殿にお任せします。京と公方様をお守りくだされ」
「されど……」
まだ不服そうな藤孝に、光秀は笑いかける。
「もし本願寺の挙兵がなく、殿のお叱りがあるようならば、その時は『引き留めたが、明智は聞く耳持たず飛び出した』と仰って下さって結構。責めは、私が一身に引き受けましょう」
藤孝は数秒逡巡したのち、こくりと頷いた。
※※※※
街道を先へ、先へと急ぐ兵らの姿があった。京を進発した、光秀率いる兵たちである。
足軽雑兵らは最小限の荷物だけを持ち、小荷駄は後から追いつけと、足を動かし続ける。いいや、小荷駄部隊はおろか、足の遅い者すら待たず、健脚の者は先を急げとの下知であった。
「こんな行軍聞いたこともなし!」「まこと、まこと! 尋常ならざることよ!」「明智様は、何をお考えか!?」「お味方の危機とのことであるが……」「真に本願寺が?」「異なことよ。先般、本願寺は殿の要求に応え、矢銭を支払ったではないか」
尋常ならざる強行軍に、兵らは訝しがり疑問を口にする。
「じゃかわしい! あの明智様が、出立前にワシら一兵卒にまで頭を下げられたんを忘れたか! ――『疑念はあるだろうが、どうかこの光秀を信じて欲しい』とな! ワシらはそれに頷いただろうが!」
同輩らの疑問の声に苛立った男がそう叫ぶ。
「分かっとるわ!」「じゃから、こうやって走っとるんじゃろうが!」「そうじゃ! 他ならぬ明智様が頭を下げられたからの!」「明智様の命でなくば、このような不可解な命令を真っ当に受けるものか!」
「なら、ぶつくさ言わず足を動かせ!」
兵らは叫び合いながらも、足を動かし続ける。
この行軍に疑問はあれど、兵らは光秀の命令を疎かにする気は毛頭なかった。
それというのも、今光秀が率いる近江、若狭の国衆たちは、前年の三好三人衆による本圀寺急襲の際、光秀と共に僅かな兵力で本圀寺にたて籠り、味方の後詰がくるまで大軍を相手に戦い抜いた、言わば苦楽を共にした者たちであった。
この時光秀は、兵らを励まし、鼓舞して回ると共に、自らも銃弓取りて敵兵を十数名射倒して見せた。その勇敢さに、近江、若狭の国衆たちは心から心服したのだ。
だからこそ無茶な命令であれ、彼らは必死に応えようとしているのである。
そんな懸命に進む兵らの姿を、光秀は馬上から見遣る。
――これならば、想定よりも早く摂津入りできる。
そう思い、一つ頷いたその時、蹄の音を鳴らしながら、一人の騎馬武者が現れる。
「伝令! 伝令!」
それは光秀が、先んじて京から放っていた斥候の姿であった。
「本願寺挙兵! 本願寺挙兵に御座る!」
「ッ!」
光秀はくわっと目を見開く。
「真に動いたか! いつ動いた!?」
「昨日の正午にて!」
「昨日の昼か!」
光秀は頭の中に叩き込んだ地図を思い浮かべる。
「明智様!」「明智様、如何に!?」
光秀の側近たちが口々に尋ねる。
「……吹田城を目指す! 急ぐぞ!」
光秀らは昼夜街道を駆けた。京を発ったのが、六月九日の早朝。吹田城に到着したのは、翌十日の日没から二刻後のことであった。
実に四十キロ近い道のりを、二日かけずに踏破したことになる。
僅か二千の兵で、しかも短期間の行軍であったとはいえ、これは途方もない強行軍であった。
この時代の平均的な行軍速度は、一日十五キロ。まだ起きていない――この歴史において起こるかは定かではないが――秀吉の中国大返しが約十日で二百キロ。一日平均二十キロであることを考えれば、これよりも早い。
無論、秀吉の大返しは、比べるべくもない程の大軍での強行軍であったが。
松明で夜の闇を払いながら進む兵らの先頭に立って、光秀は大声を上げる。
「開門! 開門されたし!」
先行した騎兵から光秀来訪を聞いていた吹田城兵は、開門し光秀らを迎え入れる。
「伊丹城におられる佐久間殿に伝令を! 光秀が吹田城に入ったと!」
門を潜りながら、光秀はそう指示を飛ばす。そんな彼の前に一人の武将が現れた。
「よくぞ、よくぞ参られた、明智殿」
そう言って光秀を迎えたのは、吹田城の城主である男であった。
光秀は頷くと、挨拶もなく尋ねる。
「本願寺勢は何処に?」
「本願寺勢は、淀川堤を越えた辺りであろう」
「淀川堤……」
――間に合った! 光秀は内心そう叫ぶ。
本願寺勢が、真っ直ぐに佐久間隊のいる伊丹城を目指せば、吹田城の南を横切る形となる。
なれば、吹田城に陣取った光秀隊は、南下して本願寺勢の横腹を衝くなり、本願寺勢が吹田城の南を横切るのを待ってから後背を衝くなりが出来る。
無論、吹田城に織田方の後詰が到着したことを本願寺勢が知れば、その脅威を認識することだろう。
吹田城を無視して伊丹城を目指すことは出来ないことを悟るに違いない。
――我ら後詰部隊が吹田城に到着したことを本願寺勢が知れば、彼奴等の取るであろう行動は……。
光秀は、敵の次の一手を予測する。
「急ぎ籠城の準備を……本願寺勢が大挙してこの城に押し寄せようぞ」
光秀は誰に聞かせるでもなく呟いた。
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