本願寺挙兵
「石山本願寺が挙兵……。信じられぬことじゃ」
一人の男が呆然とした面持ちで声を漏らす。
年の頃は四十に届かぬくらいであろうか? 黒髪の中に白い毛が目立つようになってきた頭を抱え込んでいる。
彼の名は、佐久間信盛。信長より摂津方面の別働隊指揮官に任命された男である。
ここは、別働隊が本拠と定めた伊丹城の大広間であった。
――石山本願寺挙兵! その凶報が舞い込み、急ぎ諸将が集められ開かれた軍議の最中である。
「ご、誤報ではないのか? いや、三好めが流した偽報やも……」
よっぽど信じたくないのだろう。信盛は藁にも縋るように、何度目かになる言葉を漏らす。
「右衛門尉殿! しっかりなさいませ! 次々と同様の報せが届いておる以上、本願寺の挙兵は間違いありません!」
苛立ったように言ったのは、摂津三守護の一人和田惟正だ。
普段なら、織田家の重臣である信盛に斯様な物言いはしないのだが、逼迫した戦況から彼も冷静さを欠いていた。
無理もないことである。突如の本願寺挙兵。
門徒兵らは、織田方の砦を落としつつ西進。三好三人衆を助勢すべく、真っ直ぐに佐久間ら別働隊へ向け進軍しているというのだ。
しかも、当初五千に届かぬばかりであった門徒兵らは、途上で合流してくる門徒らを吸収し、今では八千余りに膨らんでいるのだとか。
正面の三好勢二万、東からの本願寺勢八千、この両者に二方向から攻め立てられては、信盛の率いる別働隊はたちまちの内に瓦解するだろう。
「すぐに行動すべきです! 右衛門尉殿、撤退しましょう!」
和田惟正は言い募ったが、『あいや、待たれよ!』と伊丹親興が口を挟む。
「軽挙に動く勿れ! 慌てふためいて逃げ出しては、追撃に遭い甚大な被害が出る!」
尤もらしい言い分であったが、この発言には多分に私情が含まれていた。
それを看破した和田惟正は嘲るような物言いをする。
「これは異なこと! 留まれば袋の鼠と童でも分かることでしょう! それ程までに自らの居城を敵に明け渡したくはないのですかな?」
「なっ!」
図星を衝かれた伊丹親興は顔を真っ赤にする。
そう、現在別働隊が本拠と定める伊丹城は、彼の居城であった。
「何と無礼な物言い! 某はそのような意図は決して……!」
本願寺挙兵、投げ込まれたその凶報に、軍議は紛糾する。
それを制するべき立場の信盛も右往左往するばかりで、いっかな静まりそうにない。
木下藤吉郎秀吉は、そんな様を大広間の下座で窺いながら、怒りやら呆れやらを覚えていた。
このような下らない言い争いをしている間にも、本願寺勢は近づいて来ているのだ。
意を決した秀吉は、ぐっと拳を握り締めると口を開く。
「拙者が思うに……『伝令で御座る!』」
秀吉の言を遮るように、伝令が大広間に飛び込んできた。
居合わせた諸将は皆、恐々と伝令を見遣った。この状況でもたらされる急報は、新たな凶報に違いあるまいと判じたからだ。
「――――――――!」
諸将は驚きに目を見開く。伝令が口にしたのは、予想とは真逆の朗報であったからだ。
※※※※
時は少し遡り、永禄八年六月三日 京
「やっと着いたか……」
俺は棒のようになった足をそれでも無理やり動かしながら、京の通りを歩く。
「大山様、まずはどこか宿を取り休まれては? 旅の垢を落とされ、人心地付かれてからお目通りを願われた方が……」
弥七が気遣うように言ってくる。気持ちは有難いが、俺は首を振るう。
「いいや、そんな暇もなければ余裕もない。急ぎ目通り願わなければ」
津島で於藤と幸の様子を見た後、俺はまずは熱田により、次いで岐阜、京と回る積りであった。
しかし、熱田から岐阜に向かう途中の宿場町で、朝倉、浅井の裏切りの報せを耳にしたのだった。
瞬間、肝が潰れる思いだった。それ以降も、ずっと胃の腑に重たい鉄塊が落ちたかのような苦しい心地でいる。
――不味い、不味い、不味いと、そんな言葉が空回りし続けていた。
石山本願寺は挙兵しない。そう確信したのは、三好が孤立していたからこそだ。
親三好派が多い本願寺だ。心情的には三好に肩入れしたいだろう。しかし、孤立している三好には手を貸すまい。それは自殺行為を意味するのだから。
だが! だが! 朝倉、浅井が反織田に回れば、話が変わって来る。
本願寺は挙兵するかもしれない。いいや、挙兵するだろう!
それを危惧した俺は、急ぎ信長に注進しようと、京までの道を急いできたのだ。
ぐずぐずと、ここで休んでいる暇などない。
「旦那、少しよろしいか」
俺は適当に通りを歩く男を引き留める。
「何だい、俺に何か用か?」
男は少し怪訝そうな顔で応える。
「織田様は、今どちらに逗留されておられるのだろう? 御在所は本能寺かい?」
男は訝しげな表情から一転、きょとんとした顔付きになる。
「兄さん知らんのか? 織田様は大軍を率いて四日も前に京を発たれたよ」
糞! 内心悪態を吐く。信長はもう出陣した後か!
「……織田様のご家来の中で、どなたか京に留まっておられる御仁は?」
信長がいなくても、せめて村井貞勝か、あるいは、誰か俺と知己のある織田家の重臣がいてくれれば……! 頼む!
「奇妙なことを聞くなあ。……誰だったか、ちらっと耳にはしたんだが……」
「思い出せませんか?」
「んんー」
男は唸りながら一つ首を捻る。
「村井様? 柴田様? 森様でしょうか?」
「いや、違うなあ」
「……では、明智様?」
「あっ! そうそう、その明智様だ!」
光秀か! 光秀となら面識がある。話を聞いてもらうことは出来るだろう。
しかし……相手は信長じゃない。
本願寺が挙兵するかもしれない。そんな不確定な情報で、軍を彼の独断で動かすことなど出来ようか? 厳しいかもしれない。ならば……。俺は腹を括った。
それから光秀の逗留場所を聞き出した俺は、弥七を伴い急ぎ向かった。
門番には胡散臭げな顔で迎えられたが――旅の垢も落とさぬ旅装のままだったので――されど『浅田屋』の名を出せば、聞き知っていたようで取次ぎをしてもらえた。
中に通され、一室で待つように申し付けられた。
俺は座して待ちながら、まだかまだかと体を揺する。ほどなくして現れた光秀は、俺を一目見て驚きの声を上げた。
「どうした大山? その身形は?」
若くても大商人の一人だ。常ならば相応の恰好で目通りを願う。それが今日は、汚れた旅装のままだから驚かれたのだろう。ついでに不精髭まで生やしている。
この非常事態だ、恰好などどうでも良いだろう! という苛立ちを覚えると同時に、まだ心のどこか冷静な部分で、常と異なる恰好から非常事態であると、分かり易く光秀にアピールできて僥倖であったとも思う。
さて、光秀を説得しなければ……たとえリスクを度外視してでも。ぐっと、拳を握り締めた。
「明智様、時がありません。単刀直入に申し上げます。石山本願寺が挙兵します」
「何と言った、大山?」
俺は挙兵します、と断言した。
挙兵するかもしれません。そんな推測では――しかも傍から聞けば何ら確証のない推測をだ。光秀に軍を動かさせることなどできないだろう。
もしも、本願寺が挙兵しなければ、俺だけでなく光秀まで罰されかねないからだ。
「本願寺が挙兵すると申しました」
「どういうことだ? 本願寺が挙兵?」
光秀はじっと俺の恰好を見直す。
「その情報を掴み、急ぎ注進しに参ったということか?」
「はい」
俺は頷く。内心を悟られないように努めながら。
ああ、背中に嫌な汗をかく。胃はきりきりと締め付けられる。
こんなことを言って、もしも本願寺が動かなければ? いくら俺でも咎めを受けかねん。只でさえ、織田、徳川、浅井、朝倉の四家同盟を勧めたのは俺なんだ。
それが裏目に出てこんな状況なのに、更に織田家を惑わせるような妄言を吐いたとなれば、首すら飛びかねん。勿論、物理的に。
「……俄かには信じられん。しかし、他でもない大山がそうまで急いで注進に来たとあっては」
光秀は顎に手を当てて考えるような素振りを見せる。
「……真なのだな?」
「はい」
俺は真っ直ぐ光秀の目を見詰める。決して逸らすような真似はしない。
「どのように掴んだ情報じゃ? その確度は?」
「申し上げられません」
「何?」
「申し上げられないと、そう言いました。しかし確度は極めて高いです」
「……何故言えぬ?」
「その訳も申せません。お察し下さい」
場に沈黙が落ちる。空気が張り詰める様だ。俺も光秀も黙ったまま互いの目を見詰め合う。
先に沈黙を破ったのは、光秀であった。
「真に本願寺が動くなら、殿の判断を仰いでいる余裕はない。が! 虚報に惑わされ、勝手に兵を動かしたとあっては、後々殿のお叱りを受けかねん。分かるな?」
「はい」
「それでも私に動けと申すか?」
「はい」
「大山も只ではすまんぞ」
「覚悟の上です」
「……分かった。任せよ」
光秀はそう請け負った。
「……手前がこう問うのもおかしなことですが。宜しいので?」
「ほんに、お主が言うことではないな」
光秀は笑う。
「真に本願寺が動くのであれば、私が行動せねば織田は破滅しかねん。なれば、殿の夢の為に尽くすと決めたのじゃ。万が一にも、それを潰えさせる芽は刈り取らねばならぬ。……まあ、取るに足らぬ者の妄言ならいざしらず、大山、お主の言うことだしな」
「明智様……」
「ただし! 本願寺の挙兵がなければ、私は殿への申し開きの際に、烏めに騙されたのですと、全力でお主のせいにするから、その積りでの。ずる賢く、よく口の回る烏の囀りに騙されたのなら、それも仕方あるまいと、罰も軽くなるだろうよ」
俺は苦笑する。
「相分かりました。御礼申し上げます、明智様」
俺は光秀に対し、深々と頭を垂れた。
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