鐘は打ち鳴らされた

 信長の眼前で、手をつき首を垂れているのは浅井長政であった。

 敗残の将として京まで逃れてきた彼は、面目の無さ故にか一向に頭を上げようとしない。大きな体を震わせ、俯き涙ながらに詫びの言葉を重ねる。


「此度の父久政の不義は申し開きのしようもなく。某もまた、それを掣肘出来ぬばかりか! 敗れ、織田より迎え入れた妻をも置き去りに……! 置き去りに落ち延びる生き恥を晒す始末! 弾正忠殿、誠に申し訳ありませぬ! 申し訳ありませぬ! 申し訳……!」


 信長は詫びの最中に立ち上がると、長政へと歩み寄る。片膝をつくと、長政の肩に手を置いた。


「面を上げられよ」

「されど、弾正忠殿……」

「それ以上何も申すな。不義を働いたは其の方に非ず。故に詫びはいらぬ。只、共に戦ってくれればよい。そう、悪逆な輩どもを共に成敗しようではないか、義弟よ」


 長政は涙に濡れた顔を持ち上げる。


「……はい! はい、義兄上!」


 信長は一つ頷くと、すっと立ち上がる。怒りを灯す眼光を、部屋の隅に控える近習へと向ける。


「諸将を集めよ! すぐさま軍議を開く!」



 事態の急変と、落ち延びて来ていた長政が信長と面会することを聞き知っていた諸将は、信長からの新たな下知が下ることを予想していた為、すぐに召集に応じた。


 怒りに燃える信長は、諸将を前に開口一番『三好攻めは止めじゃ!』と吐き捨てた。

 信長の剣幕に、諸将は慄き震え出しそうになる。


「ワシ自ら軍を率い、裏切り物共を根切りにしてくれん! ……備前守殿!」


 信長は出し抜けに、備前守――浅井長政に呼びかける。


「備前守殿には先鋒となってもらい、先導役を頼みたい」

「承りました」


 信長の頼みを、長政は二つ返事で受けた。信長は一つ頷くと、次いで佐久間信盛に視線をやる。


「右衛門尉! 貴様には別働隊を任せる! 摂津方面へ進出し、三好めの畿内侵攻に備えよ! ワシが主力を率い畿内を離れれば、奴らはまたぞろ動き出すに違いあるまい!」

「ハッ!」


 信長は更に明智光秀にも声を掛ける。


「金柑!」

「ハッ!」

「貴様にも一隊を任す! 京に留まり、この地の守護をせよ! また、此度の動きを受けて、畿内で曲事を企む者も出るかもしれん! 目を光らせよ!」

「承知しました!」


 信長は最後に諸将の顔を見回す。


「以上じゃ! 出陣の準備を急げ!」

「「ハッ!」」


 諸将は一斉に応える。

 信長はバッと立ち上がると、肩を怒らせ、ズカズカと常よりも更に荒々しい足音を立てながら、部屋を後にした。



 ――永禄八年五月末


 信長は軍を動かす。

 自らは織田軍主力四万を率い、朝倉、浅井(久政)討伐に向かう。

 対する朝倉、浅井連合軍には、拠点を捨てて以降も反織田として動いていた六角も合わさり、二万から三万の兵力で迎え撃とうとした。


 一方、佐久間信盛を大将とする別働隊の下には、畿内に明るい松永久秀や、木下秀吉らが配され、三好への備えとして摂津国へと向かう。

 枚方を経て摂津入りし、ここで摂津三守護の和田惟正、池田勝正、伊丹親興、更には雑賀衆と合流し、兵数を一万数千とした。


 また、信長の主力、佐久間の別働隊が出陣した後の京には、明智光秀率いる兵らが残った。

 兵力は、先の本圀寺防衛にて、光秀と共に奮戦した若狭衆らを含む五千ばかり。彼らには、京の守護と畿内各勢力への牽制を任された。


 ――永禄八年六月初頭


 織田側の危惧通り、三好三人衆が動く。

 阿波・讃岐の兵らを搔き集め、二万近い軍勢を動員。海を越えて兵庫浦に上陸すると、織田方の瓦林城、越水城を瞬く間に落城させる。

 これを受け、佐久間率いる別働隊一万数千は、伊丹城を本拠とし、その周辺に防衛の為の陣を敷いた。


 兵力は、若干佐久間隊の方が少なかったが、十分対処可能な兵数差であり、そもそも彼らには必ずしも三好を撃破することを求められていなかった。防衛を第一にするようにとの、信長の厳命があったのである。


 佐久間信盛が大将として抜擢されたのも、彼には血気にはやり決戦を行う積極性などなく、むしろ決戦を避けたがるだろうとの思惑があってのことだった。


 この時、信長率いる主力は、まだ朝倉、浅井、六角連合軍との戦闘には及んでいなかった。

 信長の軍勢が優勢なのを見ると、連合軍は一旦兵を後退させ決戦を避ける素振りを見せていたからである。

 とはいえ、信長が更に敵領内へと深く踏み入れれば、いずれ決戦とならざるを得ず、全ては信長の戦略通りになる筈であった。


 決戦にて、朝倉、浅井、六角を蹴散らし、返す刃で畿内に侵攻した三好をも蹴散らす。

 信長は自らの勝利を確信し、京の光秀宛てに『敵領内に踏み入り、決戦を望もうとしている。朝倉どもを根切りにするのも間近だ』との文を出してさえいた。


 だが運命は信長に微笑まない。


 この時代を生きる誰にとっても予想外なことに――唯一人源吉を除いては――その鐘が打ち鳴らされる。

 そう、永禄八年六月八日、突如として石山本願寺の鐘が打ち鳴らされたのだった。

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