破綻
永禄八年四月 京
大通りの中央を葦毛の駿馬が闊歩する。跨るは、黒い南蛮笠を被り、赤色の布袴を着用した信長である。
その周囲を黒、赤母衣衆を筆頭に馬廻りが固めて行進していた。
信長は元より、馬廻りもまた優れたる馬に跨り、立派な出で立ちをしていて、威風堂々たる様であった。
「見よ、あれぞ将軍様より武勇天下第一と賞された織田様の行列ぞ」
京入りする信長の行列を一目見ようと、大通りの両脇に集まった群衆から、そんな声が上がる。
その威容を目の当たりにして、そこかしこから感嘆のため息が漏れた。
「御立派なことよ。して、此度の京入りは如何なる御用向きであろう?」
若い男が疑問を口にすると、偶々近くにいた老齢の僧侶が答える。
「知らんかね、お若いの? 公方様が織田様に、逆賊三好討伐の命を下されたのじゃ」
「三好討伐?」
僧侶は頷く。
そう。僧侶が口にした通り、征夷大将軍足利義昭より織田信長に対し、逆賊三好討伐の命が下されていた。
元々は、信長側から内々に三好討伐の打診をしていたもので、兄を三好三人衆に弑された義昭は、喜んでこれに応じた形となった。
信長は討伐の命が下るや、自らの勢力下にある諸将に召集命令を出すと、自ら陣頭指揮を執るため岐阜城を出発。本日京入りとなったのである。
「じき、織田様の兵らも続々と集まってくるじゃろうなあ」
顎髭をしごきながら、僧侶は独り言のように言う。
「やはり、凄い数になるんじゃろうか?」
「当然よ。今や織田様は並ぶ者のおらぬ大領を収める大大名ぞ。その上、先月の同盟締結を聞いたであろう? 織田、徳川、浅井、朝倉の四家による大同盟よ。……その動員兵力たるや、想像を絶するものに違いあるまい」
訳知り顔で話す僧侶の言葉に、周囲の者は皆唾を飲み込む。
この言もまた正しい。
先月三月には、かねてより交渉が重ねられていた、織田、徳川、浅井、朝倉四家による大同盟が成立していた。
これにより、三河、尾張、美濃、越前、近江、山城、伊勢、伊賀、摂津、河内、和泉、大和にまたがる一大勢力が誕生したのである。
この同盟を主導したのが、最も力を持つ織田家であったのは言うまでもない。
ただ、同盟内容としては、織田が他三家に大変譲歩したものとなった。
というのも、それぞれの家が味方を背にし、正面の敵と戦うことを基本方針とした同盟であったのだが、何と織田がその為の矢銭の多くを負担すると申し出たのだった。
この申し出通り、織田から三家に対する資金援助として、莫大な銭が回された。
普通なら、悪い条件を呑まされる側が立場の弱いものと見られがちであるが。
織田が誰の目にも明らかな程、他三家より強大であったがために、人々の目にはこれがむしろ、他三家の織田家に対する従属的同盟のようにすら映っていた。
「……確かにその話は聞いた。徳川様だけでなく、浅井様や朝倉様も、織田様の下についたって。なら、その四家の兵が一挙に押し寄せるんか? そりゃあ、一体どれほどの数よ?」
「分からん。分からんが、途方もない数なのは確かじゃ。……いいかね皆の衆、公方様の下に今、これ程までに心強き将がおられる。三好討伐はおろか、天下の隅々まで征伐できるやもしれぬ。そう、天下泰平の世が現実になるかもしれんのじゃ」
「天下泰平……」
呆然とした呟きが漏れた。うんうんと僧侶は頷く。
「長生きはするものじゃて」
過ぎ去る行列の背を見送りながら、僧侶はしみじみと口にしたのだった。
本能寺に到着した信長は、休む間もなく口を開く。
「吉兵衛を呼べい!」
「ハッ!」
使い番は返事をするや、駆け出していく。
吉兵衛――村井貞勝は、信長に先んじて京入りをしていた。
貞勝も、信長が到着すれば呼び出しがあると予測していたのであろう。さほど時を置かずに、本能寺に駆け付けた。信長の眼前で平伏する。
「吉兵衛、本願寺じゃ」
余りに端的で、相手に伝える意思が微塵も感じられぬ言葉だが、それだけで貞勝は理解する。
「如何様に試しましょう?」
「矢銭じゃ。逆賊討伐を名目に、本願寺に矢銭を課す。子細は貴様に任す」
「畏まりまして」
「……諸将の参集と出兵準備は、五月に入る頃に終わろう。それまでにケリを付けよ」
「ハッ!」
信長の命に従い、貞勝は石山本願寺への要求内容を纏める。
曰く『先の公方様を弑した逆賊討伐のために矢銭を支払うべし。応じるなら、寺社領をこれまで通りに安堵しよう』
文面通りなら、単なる金の無心である。見返りは、寺社領の安堵だ、と。
だが、実はより重大な意図が裏に隠されていた。そう、これは一種の踏み絵であったのだ。
本願寺内には、かつての畿内の実力者である三好家に誼を通じていた、親三好派が少なくなかった。そんな彼らに、信長は決断を強いたわけである。
そう、三好を見限って織田に付くか否か、それを矢銭徴課に応じるかどうかで示せ、という問い掛けで。
決断までに時を要するかと思われた、この要求だが、しかし結論から言えば、本願寺はすんなりと五千貫もの矢銭を支払うこととなる。
本願寺の決断を、英断だと思う者もあれば、織田の威光と三好の凋落を見れば、当然の判断だと思う者もあった。
本願寺が示した恭順により、懸念を払拭した信長は翌五月、尾張、美濃、そして畿内全域より、五万とも六万とも言われる大兵力を集結させた。
これは、徳川、浅井、朝倉の援軍を頼らぬ、織田独力での動員であり、正に織田家の威光を内外に示すこととなった。
「壮観じゃ」
京郊外に設けられた大陣営。そこに上がる無数の黄色地の旗――織田永楽銭を見遣って、信長は満足げに呟く。
懸念事項であった本願寺との折衝、出兵準備、これらを終えた今、正に三好討伐の機は熟していた。織田旗下の将兵はおろか、信長でさえ、血が沸き立つのを抑えられぬ。そんな面持ちであった。
「先鋒は丹羽五郎左じゃ! これが淡路国を攻め獲るのを待ってから、次鋒の柴田、ワシ率いる本軍と、三手に分け、淡路を経て四国へと押し出す!」
「「応!」」
信長の号令に、織田将兵は天を衝くような声で応える。
三好家の命運は風前の灯火に思われた。
ところが、ここに来て、誰にとっても予想外の事態が起こる。
――越前 一乗谷
一乗谷の中心に構えられた朝倉館へと、一人の男が歩を進めていた。
男の名は、平手久秀。かつて若き日の信長の傅役を務めた平手政秀の嫡男であり、現在四十一歳になる。
久秀は、織田主導の四家同盟締結と共に、朝倉家の治める越前へと派遣された。
名目上は、連絡係ということであったが、実質上の軍監に近しい立場であることを、誰より久秀が承知していた。
矢銭の支援と引き換えに、朝倉のみならず、徳川や浅井にも同様の役目を負った人物が派遣されていた。
軍監ではなく、連絡係と称したのは、三家の面子を慮ってのことである。
久秀は難しい顔をしながら歩いていた。
というのも、今朝になって突如、朝倉館に来るようにと呼び出されたからであった。
――急な呼び出しとは、どういうわけであろうか?
全く心当たりのない久秀は、内心首を捻るばかりであった。
朝倉館を訪ねた久秀は大広間へと通された。
そこで一人待っていると、先触れの声の直後、朝倉家当主義景が数名の供を伴って入室してくる。
久秀は下座で平伏して出迎えた。
上座からの衣擦れの音で、義景が座ったのだと、久秀は知る。
ところが、中々義景から声がかからない。
訝しく思いながら頭を下げていると、ようやく『面を上げられよ』と義景から声が掛かる。
「ハッ!」
顔を上げた久秀が見た義景は、脇息に肘を置き、少し崩れた姿勢で座っている。
表情はというと、眉は寄り、目が据わり、口は真一文字に結ばれている。ありありと、不快さを前面に押し出していた。
久秀の背に嫌な汗が伝う。――『何か、朝倉様の不興を買うようなことをしてしまっただろうか?』と、そんな不安が鎌首をもたげた。
トンと覚えがないが、知らずの内に不興を買い、それが為に急な呼び出しを受けたのかと、そんな予測を久秀はする。
不興の理由が明らかになれば、即座に申し開きなり、謝罪の言葉なりを口にしようと久秀は思ったが、義景は再びだんまりを決め込む。
久秀の方から口を開くことも出来ず、嫌な沈黙が流れた。
どれほどそうしていたか、出し抜けに義景が口を開く。
「……面白くない」
「は?」
義景の言葉に、久秀は思わず気の抜けた声を出してしまう。
しまったと、益々汗をかく久秀は、焦りながら言葉を重ねる。
「お、面白くないとは、どのような意味で御座いましょうか? 拙者が何か不作法でも?」
義景は、ちらと久秀に一瞥を呉れるだけで、独り言のように続ける。
「ワシは、朝倉に利すると思ったからこそ、此度の同盟を受けた。ただそれだけのことじゃ。なのに、世間は朝倉が織田に臣従を示したなどと言いよる。銭を施され、いいように扱き使われておると」
義景の表情は更に険しくなっていく。
「それだけならまだしも! 織田がお主の様な監視役を放り込んでくるとはどういう了見か! 世間のみならず織田までもが、我ら朝倉を下に見ておるとでもいうのか!?」
「滅相も御座いません!」
久秀は言い募る。
「
弁明しながら、久秀は必死に頭を回転させる。
こうまであからさまに不満を表明するのは、どういう意図だろうか、と。
怒りのままに自分を呼び出し、ぶつけるように不平を口にしているのか?
あるいは、怒っている振りをして、何か織田側から新たな譲歩を引き出そうと目論んでいるのか?
久秀は、そのように推測を立てていく。
前者ならとにかく宥めすかせねばならない。後者なら、相手の要求を引き出した上で、受けるか受けないかの判断を殿に仰ぐまで、言質を取られないようにしなければ!
そう考えた久秀は、判断材料を増やすために問いかける。
「我らがどのようにすれば、朝倉様は誤解を解いて下さるのでしょうか?」
「解く必要などない。朝倉は同盟を破棄し、織田と敵対する。旧友である浅井家の前当主、浅井久政殿も同じ想いじゃ」
『御冗談を』という言葉は声にならなかった。久秀がその言葉を発するより先に、パン、バンと、突如障子や襖が開かれ、ずかずかと槍や刀を持った男たちが踏み込んできたからだ。
「あっ!」
代わりに、そんな声を出しながら、久秀は咄嗟に立ち上がる。同盟を破棄し、織田に敵対するという言葉が、本気なのだと悟った。
久秀は唯一持ち込んでいた脇差を抜いて抵抗しようと試みるも、四方八方から槍刀を突き出されては詮方なし。容易く討ち取られ、自らの傷口から流れ出た血だまりの中に倒れ伏す。
義景は脇息に肘を置いたまま、黙してその様を見遣った。
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