――津島 大橋家


 強く踏み出した足に、木板の廊下がギッと悲鳴を上げた。

 気が急いて思わず早足になる。親類とはいえ、人様の家で信長よろしくドタドタと歩くわけにもいくまい。

 そう思って自制しても、流石に丁寧な立ち居振る舞いをするには至らない。


 逸る気持ちを抑え切れぬまま、目的の部屋の障子を開いた。

 直後、部屋の中に座る者の見上げて来る視線と俺の視線が重なる。彼女の大きな目が、更に見開かれた。


「旦那様!」


 嬉し気な声を上げた直後、『あ、しまった』と言わんばかりに、於藤は手の平を口元に当てる。

 そうして、恐る恐る視線を自身の胸元に、いいや、胸元に抱き寄せた赤子に向ける。赤子は、スヤスヤと眠っているようだ。於藤はほっと息を吐く。


 俺は今度こそ意識して足音を殺しながら、ゆっくりと於藤に歩み寄る。


「眠っているのかい?」

「はい。赤子は眠るのが、大事な仕事の一つですのよ」


 俺は於藤の胸で眠る赤子の顔を覗き込む。瞼は閉じられ、その目を窺い知ることは出来ない。ちょこんとした鼻に、小さな唇、ふっくらとした頬は赤く色付いている。

 これが親の子びいきというものか、今まで見たどの赤子より可愛らしく見える。


 赤子は、麻の葉文様の着物を纏っていた。――丈夫に真っ直ぐ育つ麻のように育って欲しい、という願いが込められている。

 麻の葉文様の袖からは、紅葉のように小さな手が出ている。そっと、その手に触れてみた。すると、きゅっと緩やかに俺の人差し指を小さな手が握る。赤子特有の高い体温、その温かさがじんわりと俺の指に伝わる。


「幸……」


 俺は初めて、娘の名を呼んだ。

 気のせいかも知れないが、俺の指を握る力が増したような気がした。それだけで、心が喜びで満たされる。

 この世に、こんな幸せがあることを初めて知った。幸が、その名の通り、俺に幸福を運んでくれたかのようだ。

 同時に、幸を産んでくれた於藤に対する感謝の気持ちも湧いて来る。


「ありがとう。ありがとう、於藤。それからすまない。出産に立ち会えず、あまつさえ、娘の顔を見に来るのが、こんなにも遅れてしまって」


 娘の幸が生まれたのは、一月末のこと。しかし、北野の大茶湯関連のあれこれで、どうしても京を離れることができなかった。今、生後一月以上経って、ようやく顔を見に来られたわけだ。


 俺の言葉に、於藤は首を振るう。


「いいえ、旦那様には重大なお役目があったのですから。それに、この子の為に素敵な名を付けて下さいました」


 先月、舅大橋重長から届いた文には、於藤が女児を出産したこと、於藤が俺に産まれた赤子の名を付けて欲しがっている旨が書き連ねられていた。

 そこで、一晩中悩んだ末、俺は『幸』という名を返信の文にしたためたのであった。


「うん。舅殿の文で女の子と知ったから、慌てて女の子なら、どんな名前がいいかと考え込んだよ」


 於藤が身体を固くする。気持ち俯いてしまった。

 ――? と、一瞬疑問を覚えるが、ああ、とすぐに理由に思い当たる。


「初めの子が女の子で良かった。世間では一姫二太郎が良いというからね」


 俺がそう言うと、於藤が目に見えて肩の力を抜いた。


 ああ、やはりそうか。現代と違って、やはりこの時代だと、跡継ぎである男児を望む親も多いだろう。女児が産まれて、俺ががっかりしてないかと気にしていたに違いない。


「本当にありがとう、於藤。元気な子を産んでくれて」

「……はい」


 於藤は涙ぐみながらも、華やいだ笑みを浮かべた。

 俺は空いた方の手で、於藤の目尻から流れ落ちた涙をぬぐってやった。

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