日の本のユダ
四畳半の書斎には造りつけの机がおかれ、書院窓から差す温かな日の明かりを受けている。
机の前には一人の男が座している。年の頃は三十半ばを過ぎた辺りであろうか? 何やら書付をしているようで、淀みなく筆を動かしている。
書をしたためる男の姿勢は、正にこれぞ手本であると言うべく程に整っている。さらさらと紙面に走る字体は流麗なもの。
これらを切り取っただけでも、男が一角の教養人であることが窺える。
「……殿」
書斎の外から、女人のどこか遠慮したような呼び声が掛かる。
男は筆を止めて返事する。
「入りなさい」
「はい」
男の許しを得て女が書斎に入って来ると、楚々と下座に座る。年の頃は三十を過ぎたあたりか。立ち振る舞いが優美なもの。控えめではあるが、それでもどこか華がある。彼女は男の細君であった。
「急に呼びつけてすまぬな」
「いいえ。丁度、娘たちのお勉強が一段落付いた所でしたので」
「ああ、そうか。今の時分は、娘たちの習い事の時間であったな。どうかね? 娘たちの勉学の進み具合は?」
「はい。殿に似たのでしょうね、大層覚えがよく御座います」
「それは何より。だが、覚えが良いのは私に似たからかな? 聡明なそなた似たのだと、私は思うておるが」
「そんな……私など……」
女は恥ずかし気に言葉を詰まらせる。
「ははっ、謙遜するものではない。そなたは、私のような者には勿体ない妻じゃ」
「そんなことは……」
恥ずかし気な表情を一転、女はどこか暗い顔立ちで伏し目がちになる。
「ない、と申すか。確かに私とて、亡き道三公が敗れねば、今でも美濃でそれなりの立場にあったろうが……。現実は朝倉様に仕えているとはいえ、大したお役目も与えられず無聊をかこつばかりじゃ」
「そんな! 殿は決してそのような……!」
身を乗り出すようにする女を、男は手で制する。
「よいよい。私がこの地で燻っているは、本当のことだからなあ」
「殿……」
「ああ、そのような顔はしなくてよい。実は、新しいお役目を任されることになったのじゃ」
「それは……おめでとうございます」
女は言祝ぎながらも、物問いたげな視線を男にやる。男は苦笑して、女の疑問に答えることにする。
「昨年、朝倉様を頼って先の公方様の弟君が越前に来られたのは知っているね?」
「はい。先だって還俗なされ、足利家の当主就任を宣言なされた御方ですね」
「うむ。畏れ多くも、その足利家の当主直々にお役目を賜った。使者として、織田上総介様に会いに美濃へ行くことになってな」
「まあ! 織田上総介様へのご使者に……」
男は一つ頷く。
「久方ぶりの帰郷というわけじゃ。まあ、明智郷に寄る暇はなかろうが」
「お役目を賜った上に、美濃にも戻れるのですね。よう御座いました」
「うむ。それも、最近日の出の勢いの織田様にお会いできるのだ。楽しみじゃ……」
女はふふっと笑う。
「殿は近頃、織田様にご興味をお持ちであったようですものね」
「そうじゃな。織田様は、勢いあるだけでなく、色々と目新しいことをなされておる。美濃に行けば、変化著しい織田領の一端を見聞することが出来ようし、それらを主導する織田様の為人も知れよう」
「楽しさの余り、お役目をお忘れになりませぬよう」
女はからかうように言う。男は苦笑しつつ、肩を竦めて見せた。
「意地悪を言ってくれるな」
「あら、そうは仰られても。殿は、今天下に名を轟かせておられる織田様にお会いできるのですから。やっかみの言葉くらい耳にしてもらわねば」
「そうかもしれぬな。やはり、そなたも会ってみたいか?」
「それは勿論、お会いしたいですわ」
「そうか。会わせてやれれば良いのだが……」
そんな男の言葉に、女は呆れたような顔をする。
「殿、奥を帯同してお役目に向かわれるお積りですか? 天下の笑いものになりますよ」
「はは! そうじゃのう。妻に付いてきてもらわねば、何も出来ぬ男と笑われかねん。仕方ない。土産話を沢山持ち帰る故、それで許してくれ」
「はい。楽しみにしております。どのようなお話が聞けるのか、と」
男は虚空を見上げ、思案気な顔立ちになる。
「そうじゃな。商人の話なぞ、どうだ?」
「商人?」
女は怪訝そうな表情を浮かべる。
「うむ。商人じゃ。どうも、織田様のなされる新しい試みの影には、常に商人がいるように思う。彼らがきっと、それらの試みの原動力なのだ。なれば、織田様と織田様のなされようとしておられることを知るには、織田様の下にいる商人を知る必要があると思う」
「はあ、左様ですか」
「左様じゃ。特に会ってみたい商人がおってな。……名は確か、大山、浅田屋大山源吉といったか。楽しみじゃ、この齢になって、まだ見ぬもの、まだ知らぬものに触れられるかと思うと、楽しみでならん。……予感がするのじゃ。このお役目での出会いが、私の進むべき道を示してくれる、と」
男は焦がれるような声音で言った。
有能なれど時機を得ず、長らく越前で無聊をかこつばかりであった男が、かつてあった筈の戦国史で最大の事変を引き起こした男が、ついに歴史の表舞台に立つのだった。
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