天命は有りや無しや
永禄六年十月二十九日、稲葉山城陥落す。
その報は、当然の如く日の本中を駆け巡ることになったが。それより遡ること僅か四日前、日の本を震撼させる事変が京の都で勃発した。
――永禄六年十月二十五日 二条御所
四方の堀、土塁をより堅固にする工事が施され始めたばかりの二条御所を、一万近い軍勢が取り囲んでいた。
四方の門は既に破られ、鉄砲衆が攻撃を開始している。御所の中にいる人の数などしれていたから、程なく目的が達成されることは疑いようがなかった。
それなのに、攻め手側の兵を率いる者たちはどこか浮かない顔をしていた。
「日向守殿、誠に宜しかったのでしょうか?」
一人の男が、この場で最上位者である男に囁くように問い掛ける。
「良いに決まっておる。……病床の殿の許しも下りているのだ。何の問題があろう」
日向守と呼ばれた男、三好長逸は断言するが、その声音はどこか空々しい。彼の顔色を見るに、彼自身も迷いを捨て切れていないのが瞭然であった。
――そうじゃ、これで良かったのだ。
長逸は内心で今一度呟くと、そう考える理由を並べ立てていく。
和睦したとはいえ、何度となく争ってきた仲じゃ。そも、和睦後も表立って矛を交えぬだけで、隠然と敵対関係にあった。
近年我らを苦しめた六角なども、彼の男の差し金ではないか。
それに、在京してからの彼の男の行動には目に余るものがあった。各国の大名らの争いの調停に積極的に乗り出したり、政所執事の伊勢守を更迭したり。
それらの目的は知れておる。将軍権威の回復、傀儡からの脱却だ。それだけは、それだけは許してはならぬ。
それに……我らとて、事ここに至るまで何も手を尽くさなかったわけではない。
彼の男の動きを陰に陽に掣肘し、時にはあからさまな警告や脅しも駆使して、彼の男が自制するように仕向けてきたのだ。
実際、彼の男が頼りとする六角が、近頃の浅井との戦で京に出てこられなくなると、その動きが鳴りを潜めたようであった。あったのに……!
長逸はぐっと拳を握り締めた。
彼の男は新たな協力者を得ようと行動に出たのだ! 直、斎藤を下すであろう織田上総介、日の出の勢いのこの男に、彼の男が秘密裏に使者を遣わした! 織田の力を借りて、将軍の権威をないがしろにしてきた者どもを一掃する為に!
その動きが露見しなければ、どうなっていたことか? 決まっておる。我らの方が滅ぼされかねなかったのだ! だから、だから、でもしかし……。
長逸は生唾を飲み込む。自らが行おうとしている大事に恐れおののいて。
彼の男は傀儡、唯の飾り物。されど、確かに征夷大将軍その人であるのだ。それを、それを殺める。殺めるのか……。
物思いに耽る長逸の体がびくりと震える。突如として、御所の中から勝ち鬨が上がったからであった。
その声が何を意味するのか、長逸は瞬時に悟る。そして自分たちが、最早後戻りできない立場になったことを理解したのだった。
――足利幕府十三代将軍義輝、三好三人衆らにより暗殺される。
信長は稲葉山城入城後、三日の内にその報を聞いた。まだ三河にいた大山源吉は、更に遅れること二日後にその報を聞く。源吉の知る戦国史と照らし合わせれば、早すぎるその報告を。
この事変に伴い、京では三好家が、新たに義栄を十四代将軍として擁立する動きを見せる。一方、奈良の興福寺にいた義輝の弟、覚慶は幕臣である細川藤孝らの助けを得て、三好の手が回る前に東へと逃れ行く。
覚慶一行は、六角の所領を抜け、織田浅井斉藤の戦火を逃れるように――既に稲葉山城が陥落した事実を知らなかったので――朝倉が領する越前へと落ち延びた。
覚慶は三好と三好の立てる義栄に対抗して、足利家の当主に就任することを宣言。還俗して、名を義秋、後に、義昭と改名した。
源吉はこの事態に何とも複雑な想いを抱いた。
源吉自身が時の針を速めたことにより、十三代将軍義輝の存命中に稲葉山城陥落が現実のものとなろうとした。
そのままいけば、史実であった義昭を担いでの上洛ではなく、また別の道を歩むことになったろう。
事実、義輝は信長に密使を送っていたのだ。
が、それは叶わなかった。
源吉が時計の針を速めたのと呼応するように、義輝暗殺事変が早まったのだ。
畿内の緊張した力関係を思えば、義輝は常に危険な立場に身を置いていた。なので、史実と異なる流れでも、義輝が暗殺されたことは不思議なことではない。
むしろ、なるべくしてなった、と言ってもいいほどである。
しかしそれでも、まるで歴史の修正力が働いたかの如く、義輝が暗殺されたという事実。
多少歴史を変えた所で、結局全ての物事はなるべくしてなる、収まるべくして収まるのでは?
そんな非科学的な、されど拭い難い嫌な想いに源吉は囚われたのだった。
――永禄七年二月稲葉山城
昨年の信長による稲葉山城落城から時が過ぎ、年も明けたかと思えば、一月も終わりもう二月となった。
信長は史実通り、小牧山城からここ稲葉山城に居城を移すことに決めたらしい。着々と稲葉山城が造営し直されている。工事が完了すれば、きっと岐阜城と名を変えることになるだろう。
正月が明けて手始めに盛大な宴がこの城で催されたが、宴が終わってからもこの城には来客が絶えなかった。
それというのも、信長がついに美濃を奪ってみせたことを誇示せんと、尾張美濃国内、あるいはその外部からも、家中の重臣や賓客たちを招き、稲葉山城で一番高い櫓の上から美濃国を見下ろす眺望を見物させたからであった。
一通り貴人らの見物が終わって、ようやく俺たちの番が回ってきたということである。今日は、俺と俺の舅である大橋重長が、熱田津島を代表して招かれている。
「どうじゃ、二人とも。金華山の一番上から見下ろす美濃の景色は?」
「良い景色です。……微力ながら身を粉にして尽くしてきた労が報いられるというもの。上総介様の差配と、上総介様を主君と仰ぐ者たち皆の尽力が、この眺望へと繋がったのですなあ」
義父重長が感無量とばかりに言う。
「ちと大袈裟じゃな。それにこれで終いでもない。まだまだ働いてもらわねばならん」
「おお、そうですな。感慨深くてつい……。申し訳ありませぬ」
「よい。うらなり、貴様はどうじゃ?」
続いて俺にお鉢が回ってきたので、一刀両断することに決めた。
「つまらぬ景色ですね」
「……ほう」
信長の口から低い声が漏れる。重長の笑みはぴしりと固まった。信長はというと、真顔で俺の顔をじろりと見詰めている。
「このような田舎の眺望でなく、いつの日か京の都を見下ろしてみたいものです。上総介様と共に」
俺はまじめくさった表情で言ってのけた。
「たわけが! またほざきおったな!」
信長が大笑する。重長はほっと胸を撫で下ろした。
「……ウチの娘婿は大胆でかなわん。そも、京を一望できる城なぞあったかな?」
「なければ造れば良いでしょう」
「また簡単に……」
重長は呆れ返ったような顔立ちになる。信長は未だに笑い声を漏らしていた。
「くくっ……京か。時機を捉えた発言ではある。……うらなり、貴様の予想通り使者が来たぞ」
信長の言葉に、俺はぴしりと背を正す。
「使者とは……先の公方様の弟君の使者ですね? やはり上洛を促しに?」
「うむ。亡くなった兄と同じよ。正統なる足利将軍家の当主を助け、上洛すべしと。願ってもない話じゃが……まずは、けんもほろろに断っておいたわ」
「それでよろしいかと」
やはり、義昭の使者が来たか。まあ、これは当然の成り行きであった。
織田は尾張美濃の二国を領する大大名に躍進した。同盟者である松平、浅井も含めると、三河尾張美濃近江にまたがる一大勢力。
足利嫡流の復権を目指す義昭が、この勢力に目を付けぬ筈がなかった。
信長の言う通り願ってもない展開だが、やはり先年の事変のことが頭にちらついて、俺は心穏やかではいられない。
しかしそれをおくびにも出さず、『けんもほろろに断っておいたわ』という信長の言葉に、涼し気に頷く。
俺が頷くと、信長は悪戯気な笑みを浮かべる。
「交渉相手を焦らして、良い条件を引き出す。商人の知恵であったな。どうじゃ? ワシも一角の商人になれそうであろう」
「上総介様にその気があらば、一角の商人になるは容易きことかと。ただ、上総介様には天下人になってもらわねば、手前どもが困ります」
「それは、天下人から甘い汁を吸えなくなるからか? それとも手強い商売敵が生まれるからか?」
「勿論、両方に御座います」
「両方か! それでは仕方ないのう。ワシに尽くす御用商人らの忠勤に免じて、商人になるは勘弁してやろう」
「その御言葉で、日の本中の商人が胸を撫で下ろすことでしょう」
再び場に笑いが漏れる。
「ええい! 無駄話ばかりで話が先に進まぬわ! それでじゃ、義昭め、慌てふためいて文を寄越しおったわ。もう一度使者を送る故、火急話し合いの場を設けて欲しいとな」
「そうでしょうとも」
これも当然のこと。信長を除いて、有力な大名なぞ他に誰がいよう?
真っ先に名が上がるのは、越後の上杉に甲斐の武田であろうか? しかし、越後も甲斐も京からは少しばかり遠すぎる。はい。分かりました。上洛しましょう。とは、おいそれと言えぬ。
ならば、一度断られようとも、義昭が再び信長に泣き付いてくるのは決まりきっていた。
「断られて、今度は本腰入れたと見える。使者の人選も色々と気を使ったようじゃぞ。何でも、帰蝶の親類に当たる男だそうな」
「鷺山殿の?」
帰蝶、鷺山殿。信長の正室、いわゆる濃姫のことだが、彼女の親類……?
「うむ。帰蝶の母方の一族、それに連なる男だそうだが……」
濃姫の母方の一族と言えば、言えば、確か……。どくんと心臓が跳ねた。まさか? あの男なのか? 俺は続く信長の言葉に全神経を傾ける。
「名は何と言ったかのう。……おお、そうじゃ! 確か名は――――」
金華山上空に急に吹き抜けた風が、信長の言葉尻をさらう。それでも俺には、信長が何と口にしたかが分かった。
そう、信長はその名を口にしたのだ。かつての彼に与えられた命運そのものと言っても過言ではない男の名を。
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