戦仕舞い
大山源吉の仕掛けた悪戯は、早い段階で明るみになった。
何せ、民草たち一般信徒らが揃いも揃って同じお札を持っているのである。一体、何のお札だと、気にかかる者も出て来る。
当然の如く、一向宗の軍勢内では蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
坊主共は顔を真っ赤に染めて、信徒らを咎める。悪いことをしたという自覚のない無知な信徒らは、坊主共の剣幕の激しさにうろたえるばかり。
何ぞ、自分たちが不味いことをしたことは悟ったが、何が悪いのかも分からないので、大いに混乱する。中には、自分は極楽に行けなくなるようなことをしでかしたのか? と、顔を青くしながら坊主に泣きつく者が出る始末。
ここで坊主共が大人な対応で民草たちを慰撫したのなら、まだ騒ぎが収まったやも知れない。が、戦場に出て来るような僧兵である。血の気が多いし、まだ若い者も多かったので、鷹揚な態度を見せられる者も少ない。
若き信仰心故の潔癖さを以て、うろたえる信徒らを糾弾してしまう。益々混乱は助長されるばかりであったし、それを見る三河武者たちの目は白いものであった。彼らの多くは、主君を裏切って信徒側についたことを後悔し始めていた。
また斯様な醜聞、周囲に漏れ聞こえぬ筈もなし。一向宗に対立する宗派たちは一斉に、この一向宗の無様さを嘲笑った。
法華宗のある坊主などは、『一向宗の信徒には見所のある者も多いようだ。改宗する気があるなら、喜んで受け入れよう』と、痛烈な皮肉を言ったものだった。
益々、三河一向一揆に参加した者たちの立場はない。彼らの中には、一向宗から心離れる者も少なからず出て来る。
そんな折、松平蔵人佐家康が三河中に触れを出す。それは以下のようなものであった。
『信徒らは何も間違っておらぬ。どの宗派の信徒であれ、御仏が救いの手を差し伸べないことなどあろうか。どのような作法であれ、御仏にすがることは間違いではないのだ。
一向宗は斯様な騒ぎを起こしたがために、三河国内での存続を許すわけにはいかぬ。だが、改宗さえすれば、一般信徒らは勿論、一揆に参加した寺の存続も許すし、その主導者らも罪に問うことはしない。三河武士らも、今一度帰参を許す』と。
普通なら到底信じられない温情であるが、家康は戦が始まる前に、一向一揆方についた三河武士らに帰参を促し、いくらか説得に応じた者たちを、何ら咎めることなく再び家中に迎え入れた実績があった。
故に、この家康の御触れには、一定以上の信憑性が生まれたのである。
ここに一人の三河武士が目を覚ます。目を覚ますというより、一向宗側の無様さに愛想が尽きたというべきか。その者の名は、本多正信。三河武士には珍しく、武よりも智に長けた男である。彼は密かに家康の下へと密使を送ったのであった。
「そちが、正信の使いの者か?」
「はっ。左様に御座います」
暫し家康は、平伏する男の頭をじっと見下ろした。
「……して、如何な用件か?」
「はっ。主正信は、此度一向宗側についたことは間違いであったと悟りました。殿の下に帰参したいと願っております」
家康は黙してその言葉を聞く。周囲の松平家中の者らは、家康の手前、横から口を出すことは慎んだが、白い目で正信の使いを見ている。
しかし、使いの者は慌てるでもなく、言葉を継ぐ。
「されど、これほどまでの不始末を仕出かしながら、おめおめと家中に戻れるものでないことを正信は重々承知しております。そこまで厚顔無恥ではないと、殿におかれてはご理解頂きたく存じます」
「……つまり?」
「正信は申しました。手ぶらでは帰れぬと。殿の御為に働き、功を為して帰参する積りであります。具体的には……」
使いの者が口にした正信の謀略に、家康は満足げに頷く。
「よい。正信がまっこと、その通りに功を上げたなら、再び家中に迎え入れる。ばかりか、褒美すら取らそう」
「殿のご温情、正信になり替わり御礼申し上げます。必ずや、成功させて見せまする」
正信の使いは、深々と頭を垂れて見せた。
永禄六年十月末。
信長は戦装束を身に纏い、陣中にあった。周囲には織田家臣団の重臣らが顔を連ねている。重苦しい雰囲気はない。戦時中故に、ほどほどの緊張感は保っていたが、どこか高揚しているような顔立ちを諸将はしている。
そこに一人の伝令が早足で訪れた。
「三河国より知らせが! 松平勢、馬頭原に結集した一向宗の軍勢と交戦! これに大勝した由に御座います!」
「ほう。大勝したか! ……坊主共の旗色悪しとは聞き及んでいたが、それでもまだ、一向宗側には大兵力が残っていたと記憶しておるが?」
信長は同盟者である松平の戦勝の報に喜びながらも、疑問を呈する。
「はっ。何でも聞き及ぶ所によれば、馬頭原にて戦端が開かれた途端、一向宗側に付いた三河武者らが一斉に松平方に寝返ったと。いえ、その後に流布した噂では、元より一向宗側に付いた三河武者らはその実、蔵人佐殿の密命を帯びて一向宗側に付いた振りをしていたとのことで……」
「がははっ! なるほどのう! 竹千代の奴、そういうことにしおったか!」
事の真相を察した信長は、膝を叩いて大笑する。
そう。そういうことにしたのであった。それこそが、正信の献策であった。
一向宗側に付いた三河武士の多くは、自らの選択を後悔していたが。一度主君に背いた負い目があるため、家康が帰参を許すと言っても、中々踏ん切りがつかないでいた。
そんな彼らに、正信は囁いたのだ。
『決戦の場で寝返り、殿の側に立って戦うのだ。さすれば、貴殿らの名誉は保たれる。一向宗を混乱させるために殿の密命を受け、汚名を着てまで一向宗側についたことにして頂ける。大手を振って帰参することが出来るぞ』と。
同時に正信は、一向宗主導者らに進言した。
『これ以上混乱が拡大する前に一戦すべし! 総兵力を結集して、敵勢を打ち破る。一度戦場で勝ち星を上げれば、自然と混乱は収束するでしょう!』と。
かくして、各地で蜂起していた一向宗の軍勢は馬頭原に結集。松平の軍勢と矛を交えたのだが、ここで三河武士らが一斉に寝返ったがために、瞬く間に壊滅したのであった。
「三河の騒乱、終わってみれば愉快な顛末であったわ!」
信長は愉快気に笑うが、急にぴたりと笑うのを止めると空を見上げる。
灰色の空からはちらちらと白いものが舞い降りていた。それを見て、信長は忌々し気に鼻を鳴らす。
「雪か。初雪が降る前に全てに片を付ける積りであったが! ……まあよい。大した問題にはなるまい。何せ……」
信長は目前に聳える山。その上にある城を仰ぎ見る。
「あと数日の内に、稲葉山城は落城するであろうからな」
稲葉山城、その城下町は既に制圧され、残すところは、山の上にある城ばかり。周囲を軍勢が取り囲んでいた。
織田の旗に、浅井の旗、西美濃三人衆を始めとした、寝返った美濃勢の旗も、その取り囲んだ軍勢の中に見ることが出来る。
美濃攻めは既に最終段階に差し掛かっていた。稲葉山城攻囲。誰の目にも、その落城が間近であるのは瞭然であった。
「かかっ! うらなりに言うた通り、正月の宴は稲葉山城で取り行えるのう」
「うらなり……大山ですか」
面白くなさそうな声音に、信長は声の主に目を向ける。
「何じゃ、権六? 未だにうらなりのことが気に食わぬか?」
「はい。某はあのような人間は好きになれませぬ。尤も、彼の男が、織田にとって最早なくてはならぬ人間の一人と理解はしておりますが」
「全く、頭が固いのか柔らかいのか分からぬことを言うな。……時に権六よ、宴の差配はうらなりに任せたのじゃが……」
信長が何やら勿体づけた話し方をする。勝家は嫌な予感を覚えたが、続きを促した。促さざるを得なかった。
「大山に任せたのが如何なされましたか?」
「うむ。あのうらなりのことじゃ、ワシらを失望させぬ為に、一等良い酒を、良い肴を用意するじゃろうが……。権六よ、お主のことだ、気に食わぬ男が用意した酒や肴などは、当然喉を通らぬのであろうな?」
勝家は苦虫を嚙み潰したような顔をする。次いでわざとらしい咳払いをした。
「ん、んん! ……大山が気に食わぬとはいえ、大山が用意した酒肴にまで罪はありますまい。それに、殿が開かれる宴で、憮然とした態度を取るわけにもいきませぬ。我を殺して、頂くことにしましょう」
「無理をするでない。ワシが許す。宴の席で仏頂面をしておればよかろう」
「殿! これ以上、殺生なことを申されるな!」
ついに勝家は白旗を掲げる。再び信長の大笑が陣中に響き渡ったのだった。
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