門徒物知らず

 岡崎城にほど近い平野が、松平、一向宗の両者が初めて刃を交える緒戦の地となった。

 門徒側には、僧兵や民草のみでなく、武勇優れたる三河武者も多数参戦している。その戦振りは、松平側と比べても見劣りするということもない。

 特に、勇将と名高い蜂谷貞次とその手の者たちの奮戦が著しかった。


 貞次は自ら積極的に前に出て槍を振るい、味方を鼓舞する。一人、また一人と、その槍で松平側の武者を討ち取っていく。その活躍は、正に勇将の評に恥じぬものである。

 しかし、貞次は内心忸怩たる思いであった。彼はまだ、松平家を離反したことを心苦しく思っていたのだ。どこか晴れぬ気持ちのまま戦場を闊歩していると、配下の者が何やら指差して叫んでいるのに気付く。


「蜂谷様、あれを!」


 指差された方に視線を向ける。


「馬鹿な……」


 貞次は目を疑った。こんな前線で松平蔵人佐家康、その人の馬印が間近くに見えたからだ。

 偽装か何かかと思った。しかし、馬印の下には見知った家康の馬廻り衆の姿。そして、姿こそ見えぬが、心当たりのありすぎる怒声が飛んでいるではないか!


「い、如何なさいます?」

「如何とな!? まさか、あそこに分け入って殿の御首を上げるわけにもいかぬだろうが! 引け、引け!」


 貞次始め、門徒側についた三河武者たちは、最前線に家康が出張っていることに驚嘆し、及び腰となる。

 一方、僧兵や民草ら門徒兵たちはこぞって総大将の首級を上げんと、前へ前へ進み出ようとする。


 てんでばらばら、もとい、真逆の行動をとったことで、門徒側の足並みは大いに乱れる。

 それを見逃すほど、松平家臣団は甘くない。隙を突かんと、果敢に攻勢をかける。まるで何かに急かされるように。

 我が身顧みず、死をも恐れぬ奮戦ぶり。それもそのはず。何せ、地獄の獄卒などより、今の家康の方がよっぽど恐ろしい。


 途端に崩れだす門徒側。勢いづく松平側の武者の一人が、敵勢の中に背中を見せる貞次の姿を見つけた。勝勢に乗って威勢の良い言葉を吐く。


「逃げるか、蜂谷! 卑怯者め! 三河武者としての矜持が僅かでも残っているなら、逃げずに戦え!」


 これには貞次も堪えられない。大音声で叫び返した。


「誰が貴様なぞに恐れをなして逃げるものか! 俺は殿が来たから逃げるのだ!」


 そう言うや、馬首を返して自らを侮辱した者へと一直線。槍を突き立て討ち取って見せる。


「どうじゃ!」


 面目躍如と昂揚する貞次の顔。しかし、それも直後に凍りつく。


「蜂谷ぁぁああああ!! 待てぇぇええええ!!」


 今度は声ばかりでない。貞次の目に家康の姿が映る。鬼の形相で、貞次に向かって一直線に馬を駆けさせていた。


「ひっ、引くぞ!」


 貞次はまたもや背を向けて逃げ出した。

 貞次は心中で、いいや、この場にいる敵味方問わず全ての三河武者が心中で叫ぶ。――誰ぞ、殿をお止めせよ! と。





「蔵人佐様の軍勢が、門徒側を追い散らしておりますね。烏合の衆相手とはいえ、これは……」


 俺は感嘆したように呟く。

 ここは、戦場から少し離れた高台の上であった。周囲にはちらほらと、戦場の様子を眺めている者たちがいる。

 いわゆる合戦マニアとでも言おうか。戦を観戦するのを楽しむ好事家たちが、この時代には少なからずいた。俺は、そんな彼らに混じって戦場見学と洒落込んでいたのだ。


「大山様、尾張を空けて本当に宜しかったのですか? 上総介様の命とはいえ、自ら出向くこともないでしょうに」


 護衛の弥七が背後から苦言を呈してくる。


「うん? そうは言うがな。今尾張で何をするのか、という話だ。店は番頭に任せていてもそうそう傾かないし、有松工場も軌道に乗っている。美濃攻めで何か手伝えることもなし。ああ、正月の準備があったか……。しかし、それもまだ早すぎる」


 事実である。美濃攻めは最早消化戦といった有様。店や工場はむしろ、俺がいなくても上手く回ってもらわねば困る。近い内に、俺は岐阜と名付けられるであろう城下町に、拠点を移すことになるだろうから。

 浅田屋熱田本店と岐阜支店といった所か。もっとも実情は岐阜の方が本店となるだろうが。

 あれだ、現代で大阪発祥の企業が、大阪本社と銘打っていても、実質的な本社が東京であるのと同じパターンだ。


 安定した基盤を持つ熱田本店は番頭の彦次郎に任せ、俺は岐阜支店にかかりきりになるだろう。当然、有松工場の方にも顔を出しにくくなる。

 前々から、俺が不在でも回るような体制を作ってきた。その試運転も事前にしておきたいと思っていたのだ。今回の三河行は正に打ってつけであった。

 何か拙い所があれば、俺が尾張にいる内に是正しておきたいからな。


 まだ納得顔ではない弥七に対し、俺は更に言葉を重ねる。


「それに、俺もまだまだ若いんだ。足を使って商売しなくてはな。若い内から楽を覚えるのも、よくないと言うではないか」

「はあ。左様ではありますが……。しかし、こっそりと松平様を支援する。その程度のことでしかありませんが」

「おいおい、馬鹿を言うな、弥七。まあ、お前は商人でないから仕方ないか。商人たる者、そこに客が、しかも沢山いるのに、何も売らないなどありえんよ」

「客? 松平様やその家中の方々、あるいは、その配下の兵卒らでしょうか?」

「それでは半分だな」

「半分?」


 俺は合戦場を眺めながら言った。訝しげに繰り返した弥七は、俺の視線を追って、その意味を悟ると狼狽したような声を出す。


「まさか! 一向宗に戦に必要な物資を売り捌くお積りか!?」


 俺は口角を持ち上げる。それも悪くないなと思って。いわゆる死の商人の真似事だ。

 武器商人というのは、戦があれば必ずそれが長引くように立ち回る。戦が泥沼化して長期戦になれば、その分だけ商品が多く売れるからだ。


「悪くない発想だ。俺もそれを考えないではないが、ばれた時が怖すぎる。いくら上総介様でも許してくれんよ」


 こっそり悪事を働く。ばれない時はとことんばれないものだが。ばれる時はあっけなくばれるものだ。例え、どれほど巧妙に立ち回ろうと。世の中そういう風にできている。

 なれば、そこまで危ない橋を渡る場面でもなし。死の商人の真似事は、今回は自重しておくことにしよう。


「武器や兵糧の類は売らん。そもそも、俺らが売るまでもなく、既に売り捌いている流れの商人が多くいるさ。連中と競争しても、大した旨みにならないよ」


 これも事実。人が多く集まる所は、商売の機会に溢れている。つまり客の集団がいることと同義だから。

 では、より多くの人が一所に集まるのは? 町などを除いてだ。そこには既に地場の商人がいよう。そこで大稼ぎもくそもない。ほんの束の間にだけ現れて消え行く大市場。それは戦場に他ならなかった。

 掣肘してくる地場の商人がいないから。流れの商人にとって格好の稼ぎ場だ。……命の保証がないという玉に大きすぎる瑕が入っているのが難点だが。


 野外に張られた陣中には、命知らずの商人が群がり、市のような賑わいになるのが常であった。

 きっと一向宗側の陣中もそうなっていることだろう。だったら適当な人間をやり――流石に俺自身が行くのは憚られる――何か物を売って来るのもいいだろう。


「……戦とは無縁のものを売ると? はて、一体何を売る御積りか?」

「無縁ではないな。でも、戦に際して実益のある物ではない」

「はあ……」


 何ぞ、謎掛けでもされたような表情を浮かべる弥七。俺はくすりと笑うと、これ以上勿体ぶらずに何を売ろうとしているかを口にする。


「御札か何か、お守りを売り捌こうと思ってね」

「お守り……ですか?」

「ああ。信仰心に奮い立っているとはいえ、慣れぬ戦に民草は精神的に疲弊していよう。何か手軽にすがれるものがあれば、すがるものではないかな? そりゃ、高ければ手を出すのに躊躇もしようが……。そうだな、簡素な御札を五文辺りで売ったらどうか? きっと戦場で身を守って下さると言ってね。たった五文だ。出し惜しみする値でもない。飛ぶように売れるんじゃないかな?」

「やもしれませんが……。たった五文では大量に売れても、大した稼ぎになりませんが」


 弥七は尚も訝し気な声を上げる。


「確かにね。小銭拾いの類だよ。それでもやらぬよりはマシだ。それに……」

「それに?」

「御札に南無妙法蓮華経とでも書いておけば、面白いことになりそうじゃないか」


 俺は口の端を吊り上げる。弥七が呆れたような目を向けてくる。


「南無妙法蓮華経、ですか」

「そうだ。南無妙法蓮華経とでも書いておく。……これは何だ、と問われれば、南無阿弥陀仏に並ぶ有難いお言葉だとか。戦場ではこちらのお経にすがるとご利益があるだの、適当に言えばいい。ああ、まかり間違っても僧兵や三河武者、あるいは、教養のありそうな民草には売らないよう注意しないとね」

「……本当に売れましょうか? 流石にそこまで無知とは。よしんばそうでも、途中で知識のある者が見咎めるやも」

「それならそれで。上手くいけばいい、その程度で構わない。失敗しても失うものがあるでもなし。……もしも上手くいけば、上総介様は手を叩いて面白がるやも。それに、蔵人佐様の溜飲も大いに下がるというものさ」


 俺がどこか弾んだ声で言う。悪戯はいくつになっても心躍るものだ。

 そんな俺の様子に、弥七は額に手を当てながら大仰にため息を吐いたのだった。

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