怒髪天
永禄六年は激動の年となった。
春、織田松平が一計を案じ、今川の軍勢を誘引した上でこれを大いに叩いた。この戦いに前後して、遠江国人の今川からの離反が相次ぎ、今川の信用は失墜することとなる。
夏、織田勢が美濃国への侵攻をより強め、各地で勝利を重ねた。わけても、洲股の戦いでの勝利がもたらした戦果は著しく、美濃国内での橋頭堡の確保と、それによる美濃国人の動揺は、斉藤家の屋台骨を揺るがすに足るものであった。
秋、市姫の浅井家輿入れに伴い、織田浅井同盟が成立。只でさえ織田との戦いで劣勢に立たされていた斉藤家は、その上南北を敵に挟まれ、二正面作戦を強いられることになる。最早、先見の明なくとも、斉藤家の滅亡は誰の目にも明らかであった。
織田浅井は、時に力攻めで美濃国内の城々を落とし、時に調略で美濃国人を離反させていく。
特にこの秋の激動著しく、まるで何者かが時間の流れを早めたかの如くであった。織田の興盛すさまじいものがあった。されども、この年の激動全てが織田に利したわけでもなかった。
永禄六年九月――三河国岡崎城
一人の若者が評定の行われる大広間へと向かっていた。まだ、年齢は十六であったが、桶狭間の合戦時の武功などを評価され、その若武者は評定の末席に加わることを許されていた。
そもそも当主である家康がまだ二十、他の家臣団も全体的に若い者が多かった。だからこそ許されたとも言えよう。
若者は、何ぞ腹立たしいことでもあったのか、鬼もかくやという表情をしていた。内心の苛立ちが、その荒々しい歩みに表れている。廊下の木板が先ほどから悲鳴を上げていた。
「平八郎」
誰もが避けて通りそうなほど怒気を露わにする若者に、背後から声を掛ける者がいる。怒りに顔を染めた若者は声の主を振り返った。
「小平太か」
後ろから小走りで寄ってきた男もまた若い。気安く互いの名を呼んだのは、二人が同い年の友人同士であったからだ。
「大変なことになったな。まさか足元で斯様な大火事が起きようとは」
何とも参ったという風情で掛けられた言葉に、平八郎と呼ばれた若者――本多忠勝はギリっと歯を噛みしめる。
「何たる曲事か! 坊主共や、兼ねてから殿に不満を抱いておった連中に飽き足らず、家中からも離反者が相次いでおる。……許せぬ! 彼奴ら、全員の首を捩じり切ってくれるわ!」
忠勝の激情に、小平太と呼ばれた若者――榊原康政は肩を竦めて見せる。
「落ち着け。気持ちは分かるが、冷静さを欠いてなんとする。まあ、お主の場合は無理からぬことか。弥八郎殿に三弥殿と、一族からも相次いで離反者が出ては……」
ぎろりと睨みつける忠勝の眼光に、康政は思わず口を閉ざす。
「一族? 彼奴らは断じて一族などではないわ!」
「失言だった。許せ。しかし、それでも繰り返し言うぞ。冷静になれ、平八郎。……状況次第では、我ら二人がかりで殿を諌めねばならぬかもしれないのだから。何せ、殿の方がお主よりも腸煮えくり返っておられるだろうからな」
康政の言葉に、忠勝ははたと思い当った顔をする。そうして初めて、怒り以外の顔色を滲ませた。
「……確かに、小平太の言う通りじゃ。今日の評定荒れるかもしれぬ。いや、必ず荒れよう」
「うむ。だから冷静にな。俺はまだ参加できぬのだから。代わりにお主がしっかりしてくれよ。まかり間違っても、殿と共に燃え上がるでないぞ」
康政は此度の戦で初陣となる。ついこの前までは、家康の小姓であったのだ。家康に近しい人物の一人であったが、武将としてはまだ評定に顔を出せる立場にない。
「……善処するが、他のお歴々ならいざしらず、俺のような若造の諫言なぞに耳を傾けられるだろうか?」
「逆じゃ。年嵩のお歴々に上から諭すように言われれば、殿とて面白くなかろう。我らのように殿より年下であるからこそ、為せる諫言もあろう」
そういうものかと、忠勝は頷く。
「相分かった。出来る限りのことはしよう」
「頼んだぞ」
康政が忠勝の肩を叩く。忠勝は一つ頷いて見せると、再び大広間に向かって歩き出した。その足取りは、先程までよりずっと落ち着いたものとなる。
いくつか角を曲がり、ようやく大広間に到着した。忠勝は一礼してから、大広間に入ると、すっと一番下座についた。
まだ、他の参加者の多くは大広間についていない。忠勝より早く来ていたのは、唯一人である。
忠勝とは余り知己がない人物であったので、一度頭を下げたきり、忠勝は瞑目しながら他の参加者が集うのを待った。
「殿の御成り」
その先触れの声に、忠勝は目を開くと、深々と頭を下げる。そうして耳をそば立てた。
おや? と、忠勝は不思議に思う。てっきり、康政と会う前の忠勝がそうであったように、家康も荒々しい足音を立てて現れるものとばかり思っていたからだ。
「皆の者、面を上げよ」
許しを得て、忠勝は他の者と共に頭を上げた。そっと窺うように家康の顔を見る。その表情は難しいものであったが、少なくとも怒り狂っているように見受けられない。
――殿はそれほどお怒りになっておられないのだろうか?
忠勝は、内心首を傾げる。
「与七郎、状況を説明せよ」
「はっ!」
家康の呼びかけに、与七郎と呼ばれた男――石川数正が応える。
「一向宗門徒らの蜂起は各地で起きております。三河国中の一向宗の寺はもとより、これに兼ねてより殿に含むところがあった、桜井松平家、大草松平家、吉良、荒川らが呼応。それから……」
ゴホンと、数正は一つ咳払いする。
「家中を離反した、本多正信、政重兄弟、渡辺守綱、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、内藤清正、加藤教明らが門徒側に加担しました」
ざわりと、場が騒めく。言葉にならぬ声が漏れた。それは一同の驚きを示していた。何故なら、数正が離反者たちを諱で呼び捨てたからであった。
既に、家中から離反者が多数出たことを知ってはいたが、この場にいる面々は未だ実感しきれていなかったのだが……。
数正の言葉で否応なく、かつて同じ釜の飯を食らった朋友たちが、完全に敵に回ってしまったことを悟らされたのだった。
「……状況は芳しくありません。門徒側は方々に集結しております。ここ岡崎城より北は、上野城を拠点とし、南は近い順に、上宮寺、勝鬘寺、桜井城、本宗寺、本證寺、荒川城、東条城を拠点としておる模様です。その規模は、七千ばかりまで膨らんでおるとか」
「七千……」
誰ともなく呆然と呟いた。七千とは尋常な数ではない。最早、暴徒や一揆などという言葉に収まらず、三河国を割る内乱の体を為していた。
「……七千、確かに数は多い。されど一枚岩ではなかろう」
ばっ、と皆が上座に目を向ける。家康が口を開いたのだ。
「僧兵、門人たる民草に、武士にと、皆立場の違う者たち、言わば烏合の衆よ。数ばかり多いだけで、連中に結束力などあるまい。なれば、付け入る隙はある」
――おお! 確かに! そんな声が大広間のあちこちで囁かれる。
「与七郎」
家康は数正に目を向ける。
「家中を離反し、門徒側に奔った者らに使いを送れ。今帰参すれば、全てなかったことにする、と」
「なっ!? 殿それは……!」
「離反者たちをお許しになられるのですか!?」
何人かが腰を浮かせ、非難するように家康に問うた。が、家康は落ち着き払った様子で、ゆっくりと頷く。
「考えてもみよ。家中を離反した者らは皆、御仏への信仰と主家への忠誠、この二つの板挟みに合い、苦しんでおるのだ。間違いを犯すこともあろう。なれば、こちらから手を差し伸べてやるべきではないか?」
しんと、大広間に水を打ったような静けさが覆う。
確かに家康の言うことは分かる。それに、離反者の全てでなくても、いくらかが帰参すれば、敵兵の数は減り、味方の数が増えるのだ。理屈だけで言えば、家康の言う通りするのが良いに決まっている。
しかし、感情が容易には納得できぬ。一度主君を裏切った者たちを、これまでと変わらず友として共に戦うことができるのか?
この場にいる者は皆、等しくそのように腑に落ちぬ思いであった。
いや、一人違う心持の者がいる。忠勝だ。評定前に、康政と交わした会話が頭に入っていたが故に、家康の常ならぬ様子に不審を抱いていた。
――あれは本当に殿か? 別人がすり替わったのではあるまいか?
忠勝はまじまじと家康の顔を見詰める。しかし、その顔は確かに家康のもので間違いなかった。
家康は右手に持つ扇子で、ぱしぱしと己の左手の平を打つ。はっ、と皆が物思いから離れ、家康に注目する。
「これは決定事項じゃ。異論は許さぬ。……門徒側の切り崩し工作を行い、然る後に合戦で雌雄を決する」
「……分かり申した。なれば、切り崩し工作の後に、如何に戦いを進めるかですが」
数正の言に、集った武将らが一斉に、我が我がと声を上げる。
すると、パシン! と一際大きな扇子の音がした。
「戦は、ワシ自らが先頭に立って門徒衆と矛を交える」
「はっ? と、殿、何を仰って……」
家康は右手で扇子の持ち手を、左手で扇子の先を握る。何やらミシミシと音がするのは、どうも幻聴の類ではないようだ。
「温情は示した。それでも我が下に帰参せぬとあらば……!」
バキっと、扇子が真っ二つにへし折れる。大広間が凍り付いた。
「まだ、まだ! それでも門徒側に付く者がおれば! ワシ自らの手で、その首をぉぉ……斬り取ってくれるわぁああ!!」
忠義に厚く勇敢で知られる三河武者が誰一人声を上げることが出来ない。
先程までの冷静さは何処へ行ったやら。嵐の前の静けさとはよく言ったものである。その体は怒りに打ち震え、顔は赤く染まり、髪は逆立っている。
――これを諫めよと言うのか?
忠勝はここにいない友のことをひどく恨んだのだった。
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