市姫入輿

 ――永禄六年九月吉日


 尾張一の姫君の入輿ということで、その日は上下を問わず見送りに多くの人が集まった。

 兄、織田上総介を始めとした親族衆に家臣団、更には近年織田家との結びつきが強くなった御用商人らが市姫に別れを告げる。

 方々から集まった民衆が一目お目にかかろうと、遠巻きからその様子を窺った。


 日の出の勢いの織田の威容を示すかの如く、近江へと向かう一行が運ぶ嫁入り道具の品々は何とも壮麗なもの。

 ――武家調度たる御厨子棚、黒棚、書棚の三棚に、化粧、香、茶、裁縫、料理道具類に、坐臥具、火鉢、その他諸々の家具、有松織など色とりどりの着物に、筆、硯、紙といった細々とした文房具に至るまでこれ以上ない一級品が揃えられた。


 これらは、御用商人らがこぞって揃えたもので。わけても、浅田屋大山源吉の揃えたる品々は筆舌に尽くし難く。これを見た人々は、『京の公達の姫君ですら斯様な嫁入り道具を揃えられまい。誠、日の本一の嫁入りじゃ』と、訳知り顔で囁き合った。




「市よ、お前が浅井家で達者に暮らすことを願うておるが……。この時世じゃ。どうなるかなぞ、神ならぬ身には分からぬもの。この婚姻がお前に不遇の未来を齎すやもしれぬ。……許せ、とは言わぬ。その時は、この罪深い兄を存分に恨め」


 信長が市姫に別れの言葉を告げる。

 それは余りに真摯な言葉であった。嘘偽りや、気休めを一切挟まぬ、信長の誠意ある言葉であった。

 市姫は一つ頷くと、姫君らしからぬ勝気な笑みを返す。


「市も武家の娘なれば。さようなことは百も承知。……それよりも、亡き道三公が義姉上の嫁入りの際になされたように、刀をお贈り戴けたなら。このご時世ですから、いずれ兄上に御向けすることになるやもと、言い返すことが出来ましたのに」

「抜かしよるわ! ……市、祈ることしか出来ぬが、お前が恙なく暮らすことを祈っておる」

「ありがとうございます、兄上」


 信長が別れの挨拶を終えると、親族衆や重臣たちが代わる代わる、祝いの言葉と別れを告げていく。

 その列がふっと途切れるや、市姫は少し遠巻きに見ていた俺に視線を向ける。


「うらなり! 近うよれ!」

「はっ」


 俺はすすっと、市姫の前に進み出る。


「うらなり、わらわの入輿に際し、結構な贈り物をしてくれたようじゃな。礼を言うぞ」

「滅相もありませぬ。あの程度の品々、市姫様が手前のためになされたご尽力に比べれば、一体どれほどのものでしょうや。あれらは手前からの細やかな御礼に御座います」

「うん? 尽力とな?」

「はい。過日の、有松での新織物のお披露目のことに御座います」

「おお! あれか! 確かにわらわは、うらなりに尽力しておったの。もっとも、あの催し物は、わらわも大いに楽しんだがの!」

「であれば、よろしゅう御座いました。……市姫様、近江で恙なくお暮しになることを御祈念申し上げます」

「うむ。うらなり、お主も達者でな!」


 そう言って、市姫は花咲くような笑みを浮かべる。

 俺はそんな市姫に対し深々と頭を垂れた。まるで市姫の視線から逃れるように。


 ……罪深い兄を恨め。信長はそう言った。そう、信長はこの婚姻が市姫に不幸を齎す未来もあるやもと想像して。想像してだ。

 でも、俺は違う。俺は知っているのだ。嘗て辿った歴史において、市姫が激動の人生を歩んだことを。

 無論、この先史実と同じ未来を辿るとは限らない。限らないがしかし、織田、浅井、朝倉、この三家の関係を鑑みれば、辿る未来は……!

 それを知るくせに、市姫の輿入れに異議を申し立てるでもなく。あまつさえ恥知らずにも見送りに顔を出している。


 豪華な嫁入り道具の品々を用意したはせめてもの罪滅ぼしであったか。いや、罪滅ぼしにもなってない。ただの自己満足だ。

 ああ、本当に罪深いのは信長ではない。罪深いのは俺の方だ。



 市姫にまた別の人間が別れの挨拶をする。またもや人が連なって、市姫の姿は人の山に隠れて見えなくなった。

 ぼおっと、その人の山を眺めていると、じゃりと近づいてくる足音を耳が拾う。


「何を腑抜けた顔をしておる、うらなり」

「上総介様……」


 傍に寄ってきたのは信長であった。その眼は鋭くぎらついている。

 既に信長は市姫の輿入れに心捕らわれることなく、その先を見据えているのがよく分かった。


「感傷に浸っておる暇はないぞ。三河の一件もある。急ぎ、美濃攻めを完遂させねば」

「……はい。時に、蔵人佐様の旗色は如何なのでしょう? 情報が錯綜して、手前では三河の現状を把握することもままならぬのですが」

「ワシも似たようなものじゃが。……苦戦しておるのは間違いあるまい。が、蔵人佐の奴、ワシに向かって『三河国の騒乱に織田の手出しは無用にて』と文を送って寄こしおった」

「手出し無用……ですか?」


 俺の疑問の声に、信長はニヤリと笑う。


「不思議に思うか? 商人だと不思議なのじゃろうな。……蔵人佐めも、今川の大軍が攻め寄せて来たならば素直に援軍要請をするじゃろう。が、此度は足元の火事よ。これでワシに頼れば、己に三河国を治めるに足る実力が無いと、自ら喧伝するに等しい。……武家は体面を気にするもの。下らぬ意地と商人は思うやもしれんが、それが武家なのじゃ」

「なるほど。……では、上総介様は本当に蔵人佐様に手を貸さぬお積りですか?」


 俺の問い掛けに、信長は暫し考え込むような仕草をする。


「……三河に兵は出さん。兵は全て美濃攻めに使う。ただ、本当に何もせぬわけにもいかぬだろう。まだ松平に倒れてもらっては困る」

「では?」

「蔵人佐の顔に泥を塗らぬよう、周囲に気取られぬように銭を回す。方法は貴様ら商人に任せる」

「はっ。……他に、何かお力になれることはありましょうか?」

「そうじゃな。……正月の宴席の用意でもしておれ」

「は?」


 思いもがけない言葉に、俺は目を点にする。


「正月の宴席の用意じゃ、うらなり。次の正月は、稲葉山城内で盛大に祝うからのう」

「承知致しました」


 得心のいった俺は、信長に頭を垂れたのだった。

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