奇襲

 地べたに這いつくばるように伏せる。梅雨も明けた盛夏じゃ。鼻先の夏草の匂いが鼻腔を擽る。

 じっと待つ。お天道様に照らされた髪が熱を持つ。蚊が周りを我が物顔で飛びよる。それでもじっと……隣に伏せる阿呆が嫌がるように身をよじりおった。

 たわけが! オレですら我慢しとるじゃろが! 無言で軽く小突く。恨みがましい目で見られたが知ったものか。


 待つ、待つ、待つ。そして……地を伝う振動を感じ取った。伏せとるからよう分かる。音より先に震えを覚えた。次いで耳が音を捉える。


「鼠の旦那……」

「分かっとる」


 囁くような声音で言葉を交わすと、オレは少しだけ首を持ち上げた。

 オレたちは少し小高い丘の死角に伏せておる。じゃから、全容とは言わんが敵兵の規模を推測できる程度には窺い知ることができた。


 ――五百、いいや、六百ほどか? オレの手勢が五百。内、五十を洲股城に残してきたから四百五十。兵の数はいささかこちらが不利。

 じゃが、この程度の数なら奇襲で十分ひっくり返せる。


 次いで旗印を確認する。……ありゃ、西美濃三人衆の一人、安藤の旗印か? 大物じゃが、何でこいつが留守番役を任される?


 先の稲葉山城乗っ取りの首謀者じゃぞ。あれか? 殿の率いる大軍との野戦で、信用できん男と轡を並べるのを嫌ったんか、齋藤右兵衛大夫は。

 そうじゃとしても一度城を乗っ取った男に城を任せるとは……。


 何じゃ、臆病なのか大胆なのか、よう分からん男じゃな。


 しかし、乗っ取りの時に安藤は二千の兵で稲葉山城下一帯を制圧したと聞いておったが、兵力がずいぶんと少ない。

 城を完全に空に出来んかったか、あるいは、安藤を警戒する右兵衛大夫がいくらか兵を引き抜いて戦場に連れて行ったか。

 分からん。分からんが、まあええ。少なくとも目の前の敵兵は対処可能な兵数。その事実だけで十分じゃ。


「来よる、来よる……鼠の旦那!」

「待て、待て……まだじゃ。待て」


 兵らに言い聞かせとるんか、自分に言い聞かせとるのかよう分からん。ただ、待てと言う。

 そうじゃ、待て。心臓が早鐘を打つ。鼓動が煩い。敵兵にまで聞こえるんじゃ、そんな馬鹿な考えが頭につく。


「待て、待てよ…………」


 向かいに伏せておる連中、先走らんじゃろうな。こっちが動くのを見て動けと、再三言い聞かせたが……。無性に心配になった。大丈夫であろうか? 

 どくん、どくんと鳴る心音。ええい! 心臓の音が煩い! 来る、来る。もう少し、あと少し……!


「今じゃ!! 横槍入れええい!!!!」

「「おっ、お、おおおおおおおおおお!!!!」」


 しもうた! 何でオレが先頭を走っとるんじゃ!? 阿呆か、オレは! 興奮の余りとんでもないことを……。しかし、途中で足止めるわけにもいかん。


「鼠の旦那! そんなに一番槍に銭払いたくないんか!? 下がっとれ、下がっとれ!」


 そう声を上げながら、隊内一脚の速い男がオレを追い抜いて行く。……た、助かった。

 それからも次から次へと男たちがオレを追い抜いていく。

 その事実に少し余裕ができて、丘を駆け下りながら敵兵を通り越して向かいに視線をやる。……よしよし、向こうに伏せていた連中も、こちらの動き出しを見てちゃんと動いとる。


 丘を下り切った。こちらの先頭は既に敵兵に肉薄しとる。そのまま横槍が無防備な横腹に突き刺さる。明らかに浮足立つ敵勢。悲鳴に、困惑の叫びに、怒号。

 ある男は、突然のことに狼狽して動くこともままならず。ある男は、慌ててこちらに向き直ろうとして、手にもつ槍の長い柄で隣の味方をガツンと打ち据える。……阿呆じゃ。


「皆の者、落ち着け! まずは……!」


 何やら馬上で唾を飛ばしながら、狼狽する兵らに指示を飛ばす男がいる。ふむ、安藤じゃないだろうが。何せ、兜を付けてはいるが、大層なものでもない。

 が、こういった指揮する者を真っ先に殺れば、益々混乱に拍車がかかる。


「あれじゃ! 兜首じゃ! 討ち取れい! 討ち取れい! あの首一つに十貫じゃ!」


 抜いた刀の切っ先で馬上の男を指し示す。途端、ウチの阿呆どもの目がぎらつく。


「十貫! ワシのもんじゃ!」「いや、俺のもんじゃ!」


 何人かの男が槍かざして馬上の男目掛けて駆けていく。させじと、馬上の男の周囲にいた敵兵たちが密集して、馬上の男の周りを固めてしまう。

 案の定、首は取れそうにないか。しかし、目をぎらつかせた兵に命狙われた状況で、冷静に指揮も出来んじゃろ。銭も払わんですむ。完璧じゃな。


 おおおお、と味方から幾度も蛮声が轟く。そうじゃ。それでええ。

 声張り上げたら、興奮する。恐怖を一時忘れられる。もっとじゃ。もっと声張り上げて、無我夢中に戦え。


 我武者羅に切り込むこと暫し、ふっと敵味方密集するところから抜ける。オレの周囲には十数名の兵がおった。敵兵はすぐ傍にはいない。

 ふう、と息を吐く。呼吸を整えて、よしもう一度……。


「木下様!」


 傍にいる兵の一人が声を上げる。そいつが指し示す方に目を向けた。……何じゃ? ありゃ、敵の後方部隊か? 何であんな離れた所におる?


 敵味方入り乱れ、喧噪著しい安藤本隊とはぐっと離れた位置に百~二百ほどの兵が固まっとる。こちらの喧噪も何のその、静謐を保ち隊形を整えていた。――こちらに逆襲するために。

 旗印は九枚笹。誰じゃ、あの隊を率いるんは? 何故あんなとこにおる? 偶然か? それとも地形から直前に奇襲の可能性があると勘づいた? 分からん。


 あれが逆襲してきたらどうなる? 安藤本隊は混乱の中。痛打は加えた。加えたが、まだ決定的な一打を与えたわけではない。まだいくらでも息を吹き返しよう。

 ならば、ならば、あの一隊に逆襲されれば……。されれば……。


 頭の中にぐるんぐるんと言葉が回る。やがてそれらは最悪の未来を象っていく。

 

 まずい……! このままじゃあ!

 

 焦燥に叫び出しそうになった瞬間、その声が聞こえた。

 ずっと後方から微かに響いてくる声。鬨の声か? 十町ばかり後方の洲股城に置いてきた兵らが上げたものであろうか?


 オレは振り返る。すると、驚くべき光景があった。

 それは、洲股城の傍に流れる長良川を、織田の旗印を掲げて上って来る船団の姿であった。

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