いざ、洲股へ
――墨俣一夜城。伝説によれば、敵地美濃国内にある墨俣に、長良川の上流から秘密裏に木材を流して、瞬く間に城を築いてみせたという。
面白い発想だ。しかし、一つ気になる点がある。それは木材を流す前の段階。長良川の上流まで、大量の物、人を移動させること。これを秘密裏に行うことができるだろうか?
当時、川とは重要な通商路だ。川沿いには川湊を始め、多くの集落もある。そんな場所への移動。人々の耳目に触れぬよう、如何に移動してみせたというのか?
無理がある。いくら尾張国内の移動とはいえ、情報封鎖にも限界があろう。やはりここら辺が創作の限界か。
俺は内心苦笑してみせる。人によっては、長良川の上流で木材を伐採したのだと、そう主張する者もいるかもしれないが……。
城を築くのに必要な数をそう簡単に伐採できたなら、苦労が無い。ましてやただ切るだけでない。加工しやすいよう枝を落し、形を整え、それで初めて木材だ。
それを短期間で終わらせられる? 林業の皆様が、馬鹿にするなと怒鳴り込んで来るぞ。
まあ、そもそもからして、生木を建材に使用するなぞ正気の沙汰ではないのだが。
俺は広げられた地図を見る。注視するは、尾張と美濃の国境。現代では、愛知と岐阜は木曽川を県境とするが、この時代では木曽川より北の境川と、境川から通じる長良川の一部を国境とした。
ふむ、国境の川だから境川というわけだ。何とも安直な。まあ、分かり易くていいのかもしれないが……。
しかし、尾張三河の国境に流れる川の名前も境川とくれば、流石に呆れてしまう。
目指すべき墨俣ならぬ洲股は、この国境よりやや北側。つまり敵地である美濃国内の長良川沿いにある。
トントンと、国境に流れる境川を指で叩き川沿いに指を滑らせ、長良川へと。そこから目指すべき洲股は目と鼻の先だ。
一度地図から指を離すと、今度は境川よりやや南、尾張国内をトンと指す。
この時代、長良川を含む木曽三川は、何度も氾濫してはその都度流れを変え、無数の支流が複雑に絡み合っていた。
この土地は、そんな網の目のような支流に囲まれた土地。――その名を大浦といった。
****
尾張国内は新たな事業に活気だっていた。
その発端は、尾張国冨田村にあった聖徳寺であった。この寺は、信長と信長の舅であった斎藤道三が初めて顔合わせをした場所。信長にとって縁深い寺と言えた。
その聖徳寺が、先の大雨で大層被害を被ったというのだ。
これは捨て置けぬと、信長は救いの手を差し伸べることを決める。差し伸べることに決めたのだが、この際に二つの案が出てきた。
つまり、同じ土地で再建する案と、いっそ新たな土地に移して再建する案、これら二つだ。
関係各所の話し合いの末、これを機に元々創建された地に、つまり尾張国大浦に戻してはどうかという意見が強まった。
そう、親鸞の弟子閑善が師から七種の宝物を授かって開山したのが大浦で、そこから今の冨田村に移ったという経緯があった。
最終的な決定は、信長に委ねられることになる。
信長の出した決定は、聖徳寺創建の地である大浦にて再建するというものであった。
一度方針が決定されれば、迅速な行動を好む信長のこと。即座に聖徳寺再建のための予算を捻出し、この再建事業は動き始めることとなった。
尾張中の材木商に、再建のための材木を用立てさせる。また数多くの大工職人たちが手配された。
更に、信長の下で力を強めた御用商人たちもこの事業に協力する。寄進という形で、身銭を切って聖徳寺再建の一助とした。
彼ら御用商人は、材木商に払う銭の一部を負担した。自らが買い取った材木に、それぞれの屋号の一字、『浅』や『山』の焼き印を押し、これを尾張北部の大浦へと送り出していった。
次から次へと大量の材木が北へ送り出されていく様は、信長と彼の御用商人たちの経済力、その威容をまざまざと国内外へと知らしめたのであった。
一人の若者が苛立たし気に体を揺すっていた。
若者の名は斎藤龍興。ここ稲葉山城の、引いては美濃国の主である。
龍興の苛立ちの原因は、尾張国内で沸き立つ聖徳寺再建事業にあった。
これでもかと派手に行われる再建事業。それは最大の敵手である信長の勢いをこれでもかと見せつけてくる。
しかもそれが行われているのが、国境を越えてすぐ向こうの大浦ときたものだ。嫌でも目についてしまう。
結果、美濃国内の領民たちの間でもその話でもちきりだ。そして感嘆したように言うのだ。――織田の勢い飛ぶ鳥落とすかの如く、と。
龍興はギリと歯噛みする。
それに付け加え龍興は、信長の掲げるお題目も気に入らなかった。曰く、『亡き舅、道三公の為に』ときたものだ。
信長の舅、斎藤道三とはつまり、龍興の祖父に当たる。そう龍興の父義龍が弑した祖父である。
これを世間がどう見るか? 未だに亡き舅を想う娘婿と、父親殺しをした男の跡継ぎたる孫息子。……語るまでもないことである。
龍興は怒りのままに境川を越えて、大浦で行われようしている聖徳寺の再建を滅茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られるが、そういうわけにもいかぬ。
――道三公の為に、その名目で行われる大浦での再建事業をぶち壊す。そんなことをすれば、唯でさえ下がっている求心力が地の底まで落ちてしまう。
「殿!!」
襖を開き、近習の一人が駆け込んでくる。只ならぬ様子だ。苛立つ龍興は、その狼狽する近習の姿すら不快に思い怒鳴り返す。
「何事だ!!」
近習の男は、一瞬その怒鳴り声に口を閉ざすが、気を奮い立たせてその報を告げる。
「織田の軍勢が、突如国境を越えて北上! 新加納まで進出し、焼き働きを行っております!」
「何だと!?」
――やられた! 龍興は心中で叫ぶ。
派手な聖徳寺の再建事業で目くらましを行い、密かに整えた兵で電撃的な侵攻をして来たのだと、そのように龍興は思った。
攻め入る場所も、龍興にとっての盲点であった。これまで織田の攻勢は、西美濃への進出が主であった。が、今回は一転中美濃への進出である。
まさにしてやられた形である。完全に後手に回ってしまっていた。
「新加納まで進出した織田軍の規模は!?」
「情報が錯綜し、まだ正確な数までは……。しかし、織田上総介自らが大将となり軍を率いているとの情報が多数寄せられております! それが真なら、大軍である可能性が高いかと!」
「ッ! ……う、討って出る! 織田軍を迎え撃つぞ!」
声を震わせながらも、龍興は果断に出撃を決意する。
「なっ!? されど……!」
「言うな!! 不利は承知の上よ! しかし、しかし、ここで出ぬわけにはいかぬ。織田の侵攻に尻込みして、稲葉山城に籠ったとなれば……」
龍興は苦悶の表情を浮かべる。言葉尻は声にならなかったが、近習の男は続く言葉が何であったかを了解していた。
龍興が斎藤家の当主に就いて以来、彼の名声は落ちいくばかり。これ以上名声が落ちるのを看過すれば、命取りになりかねなかった。
「……承知しました。我ら臣下一同、命を懸けて戦いましょう」
「うむ」
近習の覚悟に、龍興は重々しく頷いた。
****
「……源さ」
俺は自分を呼ぶ声に振り向く。
そこには、材木運搬の車借に扮装した藤吉郎の姿がある。いや、藤吉郎だけではない。彼の後ろにも、同様に車借だの馬借だの大工だのに扮装した男たちの姿。
彼らは、藤吉郎が率いる手勢たちである。
「いよいよオレらの出番じゃな」
「ええ」
俺と藤吉郎は互いに頷き合う。
聖徳寺再建を名目に堂々と美濃との国境の手前、大浦まで材木に兵に大工職人たちにと、物、人を運びこむことに成功した。
更に、信長が中美濃へと出撃。斎藤の目をそちらに引き付けた。恐らく少なくない数が迎撃のため、中美濃へ向かうはず。
なれば、後は決まっている。この大浦を網の目のように流れる川を、水路を使って材木を運ぶ。信長が進出した新加納よりずっと西の洲股目指して。
そして鬼のいぬ間に、一気に洲股にある城を修復するのだ。
寺の再建工事と見せかけて、ここで既に城を築くための下準備は行った。後は伝説通りに事を進める。川での運搬に、プレハブ工法での即席城の完成だ。
「行きましょう、藤吉様。いざ、洲股へ」
伝説が、今ここに再現されようとしていた。
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