美濃攻略開始
友野との謀略戦の後、俺たち尾張商人は様々な施策を講じて、商売拡大のための準備に奔走した。
信長や、村井貞勝を始めとした織田家中の行政畑の連中と膝を突き合わせながら何度も話し合った。
その成果の一つが
この時代、貨幣経済は農民にまで広く及び、税を銭で納めることもあった。貨幣経済が広がるにつれ、当然銭の需要が高まるのだが……。
一口に銭と言っても、あらゆる種類の銭があった。
信長が旗印として用いた“永楽通宝”に代表される『渡来銭』、公的な銭を模倣した『模造銭』、堺で作られた“さかい銭”などの『私鋳銭』、古く欠けたりした『破銭』などなど。
当然それら銭の違いによって、信用のあるなしが顕著になる。
信用の低い
まあ、理解できる話だが、このようなことでは円滑な商売に支障をきたしてしまう。
それに撰銭云々を抜きにしても、こうも多くの種類の銭が溢れては余りにややこしい。混乱の下であるし、どの銭がどの程度の価値かという明確な決まりがないのだ。これは大問題である。
各々の価値観による銭の運用など悪夢以外の何物でもない。
これを正す必要がある。流通する銭に明確なルールを与え、銭の信用を確保する。もって、銭の流通を円滑なものとして、商活動を活発化させる。
そのため、織田領内で撰銭令を発布したのだ。
俺たち商人の視点から、極めて現実に即した銭の運用ルールを定めた。
つまり、永楽通宝などの良貨を基準銭として、その他事細かにあらゆる銭の交換レートを定めてやったのだ。
これで、よっぽどの鐚銭でない限りは、一定の価値を与えることができ、銭の流通を促進することに成功したのだった。
撰銭令の発布と並行して、織田ブランドを拡大するための準備も行う。
有松工場の拡張と、職人を新たに大量採用。既に熟練工となった初期の工員に彼ら新人の教育に当たらせる。
こうして増員した職人の数は、拡大した有松村をもってしても手狭に思わせるほどの人数である。
そうつまりは、近い将来第二工場を別の場所に建てる腹積もりであった。
かように、内側での準備に専念するは、その時を待っていたからである。織田経済圏の拡大の時を。
限られた商売圏で売上を上げ続けるには限界がある。かといって、他の商売圏に殴り込みをかけ続けるのも厳しい。
現地に根差す商人らの抵抗もあるし、何より商道を抑えていないのが大きい。
というのも、交通の要衝には無数の関所が設置されている。国人や寺社がのべつまくなし関所を設けやがるからだ。
これは、関銭という交通税を取るために他ならなかった。
そのため、遠方であればあるほど、運送費の外に、度重なる関銭がかかる。これでは価格競争力が低下する。現地商人に大きなハンデ戦を強いられるのだ。
故に、これ以上商売を拡大するためには、織田家の領地拡大が必要不可欠。
以前、戦をするために銭が必要だと言った。
しかしこれは一方的な関係ではない。商売を大いに広げていくためにも、戦が、織田家の領土的躍進が必要なのだ。
言わばこの二つは、天下取りのための両輪。
織田ブランドの一定の成果が、織田家に潤沢な軍資金をもたらした。更にブランドを拡大するための準備も整いつつある。
なれば、織田がなすべき次の一手は、軍事的大攻勢に他ならなかったのである。
****
「おう、ご苦労さんじゃのう」
「……これは木下殿」
小牧山城に向かっている最中、見回りの兵とすれ違ったので声掛けてやったんじゃが……。
ふん! 面白くなさそうに返事しおって。オレのような者が上に立つのが気に入らんいうことか。
すれ違った兵が遠ざかるのを待って、ザっと草履の底で地面を擦るように砂を蹴る。
っと、イカンイカン。緊張の余り、気が立っておる。あの程度、何のことないじゃろ? いつものことじゃ。
はあ、殿に呼び出されて、小牧山城に登城となったからといって、これではイカン。
しかし緊張するのう。格好はこれで問題なかったじゃろうか?
オレは自身の着る羽織袴に視線を落とす。こう確認するのも何度目か分からん。自分でも肝の小さいことよと思う。思うが仕方なかろうが。
……大丈夫じゃ。ねねが太鼓判押してくれた着物じゃ。などと、これも何度目か分からぬ言葉で自身を宥める。
ま、まあ、それほど緊張するものでもないじゃろ。登城するよう命じられたのはオレだけじゃない。
そうこの小牧山城に諸将が呼び集められとる。オレ何ぞ、おまけもおまけじゃ。とはいえ、昔なら呼ばれることもなかったろうになあ……。
などと、今度は感慨深く思っておると、御城の大手門がもう目の前じゃ。……うん?
オレとは別の方向から何人かが大手門に近づいて……ってありゃ、柴田様じゃ!
オレは慌てて道を譲ると、頭を下げて見せる。
無言でオレの前を過ぎていく柴田様。ところが後ろに続く男の一人が、ふんと不快気に鼻を鳴らしてみせた。
そっと視線を上げると、こちらを汚らしいものを見るような目で見てくる男と視線が合った。
合った視線は一瞬のことで、その男もそのまま通り過ぎていく。しかし一瞬とはいえ、その視線は強く印象に残った。
……ありゃ、佐々内蔵助、殿か。けっ、お前もか。お前も、オレのような下賤な出の成り上がりは気に入らんかね?
幾ばくかの腹立たしさと、それに勝る昏い喜びを覚える。
以前なら路傍の石よと、柴田様みたいに目にも留めず通り過ぎたじゃろ。
じゃが、佐々はそれができんかった。それは佐々の中でオレが無視できん存在になっとる。その証左に違いなかった。
まだよ。まだまだ、オレは出世する。そんでいつかお前に頭下げさせる。この木下藤吉郎秀吉にじゃ。
屈辱に歯を食いしばりながら頭下げりゃええ。オレがそれを見下してやるで。
オレはそう決意する。一行が完全に通り過ぎるのを待ってようやく頭を上げた。
そうしてオレも大手門をくぐったのだった。
大広間に織田家中の諸将が勢揃いしとる! 柴田様に森様に佐久間様に……。今まで遠くから見ていた諸将と同じ場所にオレが!
末席とはいえ、震え上がりそうになる。畏れにか、あるいは、喜びにか。
「殿の御成り!」
殿の到着を知らせる先触れの声じゃ。諸将が一斉に頭を下げよる。オレも慌てて後に倣った。
どすどすという足音。どさっと上座から殿が身体を投げ出すように座ったのであろう音が聞こえてくる。
「面を上げよ」
その声におそるおそる頭を上げる。殿は暫し黙り込みながら諸将の顔を見回しておられる。そして出し抜けに声を上げられた。
「美濃攻めじゃ……長らく続いた戦にけりをつけるぞ」
その強い言葉とは裏腹に、静かに告げられた声音。一瞬諸将はその意味を掴みかねたんか、何の反応も示さんかった。が、次第にその言葉が頭に浸透したのか、興奮したようなざわめきが起こりよる。
「ワシ自ら大軍を率いて美濃国内深くまで攻め上る。龍興めを野戦に引き摺り出し、決着をつける。……何か意見はあるか?」
「……敵が臆病風に吹かれ稲葉山城に籠り続けるようだと如何します?」
殿の言葉に諸将が目配せし合う中、いち早く声を上げたは柴田様じゃ。何とまあ、肝の据わったことじゃなあ。
「龍興は家督を継いで以来、国人たちからの評判を落とし続けておる。これ以上落とすは命取りよ。我らが領内を好き放題荒らしても出てこぬとあらば……」
「信用が失墜する。……そういうわけですな?」
「そうじゃ。出兵せざるを得まい。そこで止めを刺す」
おお! と諸将が色めき立つ。斎藤との決着、それが現実に見えてきたからじゃろう。
オレの中にも熱い思いが沸き上がって来よる。
場の熱が高まる中、殿が手振りで黙るように示す。ぴたりと口を閉ざすも、誰もが高揚した顔付きで殿の次の言葉を待つ。
「権六、勝三郎……それに禿げ鼠!」
「「「はっ(ひゃっ)!」」」
こ、声が裏返ってしもうた。何たる失態じゃ。
「お前たちには小牧山城の留守を任せる。それ以外の諸将はワシと共に出兵じゃ!」
「「「「はっ!」」」」
諸将の声に殿は一つ頷くと、すくっと立ち上がる。そのまま大広間から立ち去る。オレたちは平伏して見送った。
それから暫く待って、諸将も順々に退出していく。それも見送って、オレは最後に大広間から退出する。
肩を落とす。ああ、留守役じゃて! 何てことじゃ! これでは武功を上げられんて!
思うに、家中でオレが軽く見られるは大きな武功がないからじゃ。方々駆けずり回り、小さな功を拾い集めたり、調略の成功なんかでいくらか出世できたが、やはり大きな武功が必要じゃ。でも、留守役じゃあのう……。
「木下様!」
とぼとぼと歩いておると、後ろから名を呼ばれる。
振り返ると、オレなんかと違って整った顔付をしとる男児がいた。見覚えがある。確か、殿の小姓の一人じゃ。
「木下様こちらに。……殿がお呼びです」
「にゃ!? と、殿が……?」
小姓は一つ頷くと、先導して歩き出す。オレも慌てて後に続く。暫く歩いていくと、殿が渡り廊下の途中で一人立っている姿があった。
小姓の顔を見ると、目配せで先に進むよう促してきよる。
オレは手に汗握りながら、殿の近くまで歩み寄る。そうして平伏した。渡り廊下の木板に額をこすりつけながら口を開く。
「せ、拙者をお呼びとのことで……」
「禿げ鼠……貴様にやってもらうことがある」
「はっ! 何なりとお申し付けください!」
急な殿の呼び出し。やってもらうこと。一体何じゃ……?
「他言無用じゃ。……出兵は陽動。敵の目を引き付けている間に稲葉山城の喉元に刃を突きつける算段じゃ」
喉元に刃? ま、まさか密かに稲葉山城を?
「長良川の洲股に城がある。いや、あった。元は斎藤の築いた城じゃが、度重なる戦で打ち壊され、修復もされず放ったらかしになっておる」
「は、はあ……」
ううん? 稲葉山城を奇襲するわけではないのか。ではどういう……?
「この城跡を利用する。ワシらが敵の目を引き付けている間に、この城を改修して美濃攻めの最前線基地とする。この任を禿げ鼠、貴様に一任する」
「そ、そのような大任を拙者に!?」
どえらいことになった。確かに武功を欲したがこれは……。敵前での城の改修! 何と無謀な任務じゃ! 成功すれば大功じゃけど、下手すりゃあ……!
思わず顔を引き攣らせる。それを見て殿はふっと笑った。
「禿げ鼠一人では厳しかろう。貴様に力を貸すように、別の者に申し付けておる。……あの部屋の中に待たせておる。今からよく話し合え」
殿は顎で部屋を示すと、そのまま歩み去っていく。オレは平伏して見送った後に立ち上がるや、恐る恐るその部屋へと歩み寄る。
協力者は誰じゃ? そいつは能力があるのか? いやそもそも、オレのような者の下で不満も露わにせず協力してくれるのか?
――ええい! ここで悩んでも埒があかん! 腹を括れ、藤吉郎!
オレはぴしゃりと障子を引く。部屋の中に一人の男が座している。その男は……。
「げ、源さ!?」
「お待ちしておりましたよ、藤吉様。では、早速仕事の話をしましょうか」
そう言って源さは、涼やかな顔で微笑んで見せたのだった。
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