謀多き者の最期

 なんということだ。今川様の出兵は敗北という結果に終わってしまった。

 松平が裏切る可能性は誰もが理解しておったろう。しかしまさか遠江でも謀反が起こるとは……。

 ワシが思っていた以上に今川の屋台骨は揺らいでおる。そういうことか。


 今川は此度の敗走でいくらかの兵を失ったが、本当に痛いのはそこではない。

 遠江の一部を失陥したことも大きいが、これでもない。

 本当に痛いのは、今川家の威光、その陰りが衆目にさらされたこと。このご時世じゃ、沈み行く屋形と判断されれば……。


 ワシは首を振るう。いや、まだじゃ。今川の名はまだ堕ちぬ。しかし、駿河は別として遠江では謀反の動きを見せる者も出てくるに違いない。

 何らかの引き締め策がいるが……。それは商人に過ぎぬワシが講じることでもない。ないが、念のため今川様に注進しておこう。


 後の問題は……。小島を言いくるめて前線に送ったワシの荷駄か。

 あの敗走では致し方なしとはいえ。痛い。痛すぎる。この損失を埋め合わせるは簡単ではないぞ。それほど多くの荷駄を送り出してしまった。


 はあ、とワシは溜息を吐く。自身の髪を手で撫でつける。丁度その時であった。慌ただしい足音が聞こえてくる。

 ……良い予感がせぬな。十中八九悪い知らせであろう。


「旦那様!」


 障子に家人の影が写る。ワシは返事をしたくない気持ちに駆られるが、そういうわけにもいかぬ。


「……何かね?」

「御城より使いが! 今川様が至急登城せよと!」

「何……?」


 今川様が城に戻られてからまだ一週間も経っていない。戦後処理も終わってないであろうに、至急登城せよとは……。

 今後の動きで何かワシに相談でもあるのだろうか? まあ、丁度良いかもしれん。遠江国人引き締めのため、いくらかワシなりの助言もしよう。


「分かった。すぐに登城の準備を」

「はい」


 障子から家人の影が消える。ワシもまたすっと立ち上がった。



****



 その部屋に足を踏み入れた瞬間、ワシは異常に気付く。

 ひりつくような空気。僅かな音を立てるのも憚られるような重い沈黙。


 何だ? 一体……。上座に座る今川様を見る。そう既に今川様が部屋におられる。これがそもそも異常なのだ。

 普通なら、後から姿を現すべきだ。それがワシを待ち構える? それに、その纏う空気もいつになく荒々しいもの。

 先の敗戦で気が立っておられるのか? いや、しかし……。


「早う座れ」

「は、はっ!」


 そうだ、呆けておる場合ではない。ワシはすぐさま下座に座して平伏する。


「よい、面を上げよ」

「はっ……」


 ワシはゆっくりと顔を上げると、今川様の表情を窺う。背中には冷たい汗が流れた。


「知っておろうが、先の戦で蔵人佐に謀られた。松平、織田、それに背いた遠江国人の一部も噛んでおった謀りよ」

「……はい。聞き及んでおります」

「うむ。でじゃ、家中の中で今、この謀りにここ駿河のとある人物もまた、一枚噛んでおったのだと、そういう声が上がっておる」

「それは……」


 話の流れがいまいち掴めず、今川様の顔を見る。今川様の目は真っ直ぐにワシへと向けられている。まるで刺すような視線で……ッ、まさか!


「……顔色が変わったの? そうじゃ、お主の名が上がっておる」

「何を!? 一体誰がそのような戯言を!?」


 ワシは唾を飛ばしながら抗議する。

 何故だ? 何故、ワシの名が上がった?


「ワシも、長年今川に尽くしてきたお主を信じたい。が、お主、小荷駄奉行の小島を上手く言いくるめて、戦と関係ない荷駄を大量に送り出したそうじゃな?」

「左様ですが。それがどのような……」

「お主が今川を裏切り、織田松平に付く。その前準備として、家財を先に向こうへ逃したのだと言う者がおる。家財を先に送り出し、後は身軽な身一つであちらに出奔するとな」

「何と!? ひどい濡れ衣にございます! 手前はただ、戦後の三河にいち早く商売に乗り出そうと思ったまでのこと! 誓って、そのような意図は決して!」


 ワシが声を大にして反論するが、今川様の目の色は変わらぬ。

 その眼には猜疑の色がありありと浮かんでいた。


 おかしい。かような讒言一つで損なわれるような、そんな脆い信頼関係しか築けていなかったわけではない。

 であるのに……いや、此度何人もの人間に裏切られたという事実。それが今川様の目を曇らせておる。あらゆる者が疑わしく見えてくる。そういうわけか!


「お主を信じたいと言ったは嘘でない。実は、登城するお主と入れ違うように、人をお主の屋敷に向かわせた。……悪いが屋敷の中を調べさせてもらうぞ。お主の裏切りの証が出てくるやもしれぬ」

「……よろしいでしょう。この身は潔白。いくらでもお調べくだされ」

「うむ。何も出てこねばよいがな」


 こうなってはジタバタしてもしょうがない。

 ワシは背筋を伸ばすと、瞑目して待つこととする。




 瞑目したままどれほどの時が経ったであろうか?

 何人もの人がいるにもかかわらず、誰も物言わぬ静かな部屋に、外から人が近づいてくる音が聞こえてくる。


「来たようじゃな」


 ワシは今川様の言葉に瞼を持ち上げる。


「どうであったか?」

「はっ! 友野宗善の私室からこのようなものが」


 そう答えた男が振り向く。その視線の先、後から部屋に入ってきた男が、見事な藍染の着物を抱えている。

 ワシは思わず腰を浮かしかけたが、何とか自制する。何でもないという風を装って、座したまま運ばれてきた着物を見やった。


「それは織田松平が拵えておるという、新有松織ではないのか? 何故、お主の手元に敵方が拵えておる着物がある?」

「手を尽くして、盗み出したものです。以前も新有松織の意匠を盗み、その模倣品をばらまいたのを覚えておいででしょうか? それと同じことにございます」


 ワシはただ事実を述べている。そんな平坦な声音で答える。が、今川様は目を細めて見せた。


「そう何度も盗むことが能うのか? それに此度は模倣品を作ってはおらぬではないか?」

「それは、どうも此度は模倣品が間に合いそうになかった故」

「ううむ……」


 真偽をはかりかねたのか、今川様が唸り声をあげる。


「殿! そのような問答の必要はありませぬ! これをご覧ください!」


 横から声がはさまれる。その声の主が懐から文を取り出す。

 ッ! あの文はまさか……!


 今川様が文を受け取る。広げて中身を読んでいく。その身に纏う怒気が見る見る内に膨れ上がっていく。


「何か……申し開きが、あるか?」


 怒りのあまりか、逆に押し殺したような小さな声が今川様の口から零れる。

 ワシは反射的に口を開いて、そして閉じた。


 百言を尽くしても、疑いが晴れることはあるまい。

 ワシは申し開きの言葉の代わりに、一つ助言をすることにした。


「ありませぬ。ワシは今川様を裏切っておりませぬが、何を言っても信じてはもらえないでしょう。代わりに、一つ記憶に留めておいてもらいたいことが」

「……何じゃ?」

「此度、手前の屋敷を捜索しようと、そう思われたのは何故でしょう? もしや、誰ぞが今川様に進言したのでは? 友野の裏切りの証が出てくるかもしれぬと」

「…………」

「もしもそうであるのなら、その者もまた敵に通じている可能性が高いでしょう」

「さような言で、更に家中を乱そうとするか!?」


 今川様の怒声に、ワシはふっと微笑んで見せる。


「手前の言は信じられないでしょう。しかし、記憶の隅に留めおき下さい。さすれば、今川様は嫌でも、その者に用心深くなるでしょうから。……これが手前の最後の奉公にございます」


 ワシは言葉を締め括ると平伏する。深々と頭を下げ、畳に額をつけた。


「……引き立てよ」


 今川様の言葉に、男が二人ワシの脇の下に腕を回すと、無理やり体を起こさせる。

 そのまま男二人に挟まれたまま、部屋の外へと連れ出されていく。


 これがワシの最期か。ふむ、謀多き者の最期に相応しいのかもしれぬ。

 そうじゃな。畳の上で死のうなど、過ぎた望みであったか。


 それにしても、大山源吉。ワシの最後の敵手。末恐ろしい若者よ。

 この老いぼれに引導渡すは、次の時代を担う若者であったか。

 はは、まさに道理ではないか。


 ワシはどうしてか愉快な気分になって、思わず口の端を釣り上げたのだった。



****



「旦那様、風が出てきましたね」

「ああ、そうだね」


 俺は妻である於藤の言葉に相槌を打つ。

 場所は俺の家の縁側だ。ごろりと横になり、於藤の膝を枕にしている。


 ……友野宗善が処刑されたという報が、今日の昼間に届いた。

 それきり今日は、何かをしようという気になれない。


 駿河の木綿商人たちを牛耳っていた友野座、そのトップが処刑されたのだ。

 その混乱は計り知れない。

 織田・松平の新有松織に対抗する所の話ではないだろう。


 ……これで駿河の木綿商人は市場から駆逐され、新有松織が代わって木綿市場を席巻することとなる。


 なのに――勝った、という感慨は湧いてこない。勝ったはずなのに、何やら苦い思いばかりが心の内に湧いてくるのだ。


 これは、謀略で人を陥れた者が皆等しく抱く思いなのか?

 それとも俺だけかな? だとしたら余り精神的に謀略に向いていないのかな? それとも数をこなせば慣れてしまうのだろうか?


「旦那様……」

「うん?」

「次は……もっと気持ちの良い商売ができればよろしいですわね」

「そう……だね。うん、於藤の言う通りだ。次は、気持ちの良い商売ができたらいいね」


 俺は寝返りを打ち、真上に向けていた頭を横に、於藤の体の方に向けた。

 於藤が無言で俺の頭を優し気に撫でる。


 俺はそっと瞼を閉じたのだった。

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