詰めろ

 松平蔵人佐、突如清洲同盟を破棄。今川に急使を送るや、西三河勢ならび、併呑した東三河勢共々、今川方に付くことを表明。

 この電撃的な知らせは、多くの者を震撼させた。


 突如の鞍替えに、今川から松平に下った東三河勢の一部には、これに不満を持ち松平に反旗を翻す国人もいたが、それは僅かな者で、瞬く間に松平に攻め滅ぼされた。

 多くの東三河国人は、今川に不満を持ちながらも、今川に代わる大樹と寄りついた松平が今川に付いたとあって、渋々この動きに同調せざるを得なかった。


 ただ鞍替えと言っても、再び今川に臣従する姿勢を示したわけではなかった。

 松平の使者が携えた蔵人佐家康の文には以下のような内容が記されていた。


 曰く『織田の甘言に乗り今川殿と袂を分かったが、今はほとほと後悔している。この家康の過ちを詫びたい。またこの家康、三河守として、三河勢をまとめて織田と矛を交える所存。何卒、今川殿に後詰をお願いしたい』


 これは対等な同盟関係の申し出であり、また、この文の中で初めて自らを三河守と称している。

 無論これは、朝廷から正式に任じられたものでなく、自称の官位であった。

 敢えてこの場で三河守を名乗ったのは、桶狭間以降の三州錯乱にて、松平が併呑した現所領を今川に認めろという意味に他ならなかった。


 随分と大きく出たものだったが、桶狭間以降屋台骨が揺らぎつつあった今川にとって、この申し出は無視しえぬものであった。

 そこで今川家当主氏真は、使者を客人という名の質として駿河に留めおき、冬の終わりを待った永禄六年春、自らを総大将とした出馬を決意することになる。




 慌ただしく人、物が行き交う。ついでとばかりに怒号のような大声も行き交う。

 急な戦支度とあって、誰も彼もがてんてこ舞いだ。全く、慌ただしいことよ。


「友野殿!」


 名を呼ばれ振り向く。こちらに駆け寄る男の姿があった。


「友野殿! 依頼しておった物資の準備は問題ないか?」

「ええ。恙なく」

「そうか! そうか! いや、友野殿に頼めば間違いないとは思っておるが。何せ、急な話であるからな!」

「左様ですなあ。この老骨の体には、少々堪えました」


 目の前の男は、小荷駄奉行として、戦支度の差配と運搬を任された男であった。

 しかし急な戦支度とあって、その手に余る仕事量を抱えることとなった。そこで、駿河領内の流通を統制する友野座、その元締めたるワシに泣きついてきたというわけであった。

 

 ワシは少しばかり非難がましい声と視線を送る。実際には、少々などと可愛らしい表現では済まされぬほどの労苦を負わされたのだ。これくらい許されよう。

 ワシのそんな言葉に、小荷駄奉行の小島はバツの悪そうな顔立ちになる。


「いや、すまぬとは思っておるのだ! しかしこれは……」

「分かっておりまする、小島様。全ては今川様、引いては、ここ駿河のためなれば」

「おお、分かってくれるか!」

「勿論。ただ、国のために尽くしておるのです。働きに見合った報奨を期待するのもまた当然のことでしょうな?」

「むう……。それはどのような?」


 小島の表情に警戒心が滲む。


「なあに、大したことではありません。小島様が指揮される小荷駄隊が運搬する兵糧やその他物資と共に、ウチの荷物も運んで頂ければそれで。ああ、それと何人かウチの家人も同行させて頂ければ有難い」

「……構わぬが。何のためにじゃ?」

「無論商売のため。戦が終わった直後の三河に、誰より先に大掛かりな商売に乗り出すためで御座います」

「……抜け目ないことよ」

「お褒めの言葉として受け取っておきましょう」


 ワシは微笑を浮かべながら、軽く一礼して見せた。



****



「皆、無事に渡河を終えたであろうな」


 遠江と三河の国境に流れる川を全軍が渡河し終えて、休息を取り始めたところである。

 ワシは馬廻の一人に声をかけた。


「はっ! 恙なく。現在、火を焚いて兵らを休ませております」

「うむ」


 ワシは重々しく頷いて見せた。そうして西の方角を見る。


 父義元が戦死してからというもの、上手くいかぬことばかりであったが……。

 それもこれで終わりよ。

 この戦に勝利すれば、また強い今川が戻って来る。国人らの信用も回復できよう。ばかりか、この今川氏真の武名が天下に轟くというもの。

 父のように、海道一の弓取りなどと呼ばれるようになるかもしれんな。


 ワシはついニヤリと笑みを浮かべる。その直後のこと、慌ただしく陣内に駆け込んでくる伝令の姿があった。


「報告! 至急の報告でござる!」

「何事じゃあ! 申せ!」

「先鋒として尾張国境へと向かっていた松平本軍が急に反転! 進路を東へと変えました!」

「どういうことじゃ!?」

「物見の報告によらば、松平勢と共に、織田の旗印を掲げる兵らの姿もあったとの由にございます!」


 その報告に、ワシは怒りで全身をわななかせる。


「謀ったか、蔵人佐! ええい! それならそれで、織田諸共討ち取ってくれる!」

「お待ちくだされ、殿!」


 横で聞いていた馬廻の一人が反論の声を上げる。ワシはそやつを睨み付けた。


「何を待てと言うか!」

「落ち着いて下され、殿! 確かに松平の謀り、まっこと許しがたき所業! されど、怒りに身を任せてはなりませぬ! ここは冷静に! 出馬した当初と今では状況が違いすぎます! ……当初の戦況を鑑みて出兵した兵数ではいささか不安があります。ここは一度兵を引き、再度松平織田を討つための兵を再編すべきでしょう」


 冷静な諫言に、頭に上った血が下がっていく。

 確かにその通りだ。口惜しいが……。


「……相分かった。ふん! それにしても蔵人佐め、我らを引きずり出したまではいいものの。何とも愚策を打ったものだ。奇襲のつもりであったのやもしれぬが。全く奇襲になっておらんではないか! ほんに、愚かな男よ!」


 ワシは右手に握った扇子でバシバシと左の手の平を叩きながら吐き捨てるように言う。


「ははっ、正しくその通りですな!」


 諫言をした男が、相槌を打つ。多少追従の色があったが、この男も真実同じ思いに違いない。

 途中で進路を反転しても、こちらに近づくまでに気付かれるに決まっておろうが。

 それに、彼我の距離よ。ここから松平勢がいる位置までまだまだ距離がある。迎撃の準備を整えるも、撤退するも難しくない。

 どうせなら、もっと引き付ければ良いものを。馬鹿なことをしたものだ。


 それにしても……。蔵人佐の彼奴めを完全に信用しなかったのが幸いよ。

 彼奴が裏切る可能性を考慮して、先鋒を任せたは正解であったか。


『一度はこちらと手切りしたも事実。氏真は信じるが、家中の者どもにはそうでない者もおる。家中の者を納得させるために、蔵人佐殿の言が偽りでないことを明かして欲しい。まずは松平勢が先鋒として織田と刃を交えて見せてくれぬか』


 そう言って、先に織田とぶつかるように仕向けたわけだが……。

 そうせず、共に行軍して着陣。織田と相対していたかと思うと、ぞっとせぬ。

 戦端を切ったその瞬間、蔵人佐が織田に呼応して裏切る。もしそうなっていれば、大敗は免れなかったで――


「急報! 急報!!」


 ワシは眉を顰める。再び慌てふためいた伝令の声を聞いたからだ。


「今度は何じゃ!?」

「殿! 返り忠でござる!」

「蔵人佐のことならもう聞いたわ!」

「ち、違いまする! い、井伊谷城の井伊直平、曳馬城の飯尾連竜ら、遠江国人の一部が謀反! 我らの退路を塞ぎにかかっております!」


 ワシはいつのまにか、握っていた扇子を落としてしまっていた。扇子が地に落ちた音で初めて、手の中に扇子がない事実に気付く。

 それでも落とした扇子を拾おうなどという考えは浮かばぬ。周囲の顔を見回した。誰も彼も血の気の引いた顔をしておる。


「て、撤退じゃ! 追撃をかけるであろう松平織田を足止めするための殿しんがりを残して、すぐさま撤退する! 朝比奈に、備中守に命じよ! 先鋒となり井伊、飯尾を蹴散らし、何としても退路を確保せよと! 急げ!」


 咄嗟に命じるが、これでよいのか? あ、後は何をすればよい!?

 再び周囲を見回すが、誰も何も言わぬ。


 どうしてじゃ! どうしてこんなことに!?




 永禄六年春のことである。

 信長公、家康殿と共に一計を謀り、今川の軍勢を誘引することに成功なされた。

 遠江の井伊、飯尾らとも通じ、今川を大いに叩いた。

 逃げ惑う今川の醜態は何とも酷い有様で、荷駄はおろか具足すら打ち捨てて落ち延びていく者も珍しくなかった。

 この戦において、今川は二千余りの損害を出すことになったのである。


 ――『信長公記』

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