ワシは深い溜息を吐いた。つい先程までワシの屋敷の門戸を叩いていた愚か者のせいだ。


 敵の罠にまんまと嵌り馬脚を露わした、否、尻尾を露わにした鼠。名を中川……新左衛門といったか。

 失態を演じた上に、今川様に取り次げとは、面の皮の厚さだけは人一倍である。その自信の根拠は、大山から掠め盗った新有松織であるとは。何とも見当違いに過ぎる。


 先の模造品を作った時とは事情が違う。あちらは同じ轍を踏むまいとするだろう。情報を盗まれたことに気付けていなかった前回と違い、今回はそれが明白だ。

 なれば模造品を出される前に、急ぎ新有松織の新意匠を世に出すことだろう。とてもではないが、模造品を先に世に送り出す時間などあるわけがない。

 そんなことも気付けず、またも新意匠を盗み出した。功は明白であろう、などと戯言を聞かされては頭が痛い。


 そも、盗み出したのでなく、盗ませてもらった、が正しいに違いない。鼠を炙り出すための罠であったのだ。

 これで織田家中に飼っていた鼠が駆除されたというわけだ。


 ワシは白くなった髪を撫でつけると、力なく首を振る。

 こちらが受けた痛手は、ただ鼠を駆除されただけに留まらぬ。そう、新たに鼠を飼い直せないという被害をも被っている。


 中川新左衛門が今川に内通したのが白日の下にさらされた。そして直に、その惨めな末路も周知の事実となるだろう。

 織田を卑怯にも裏切った。逃げ出し今川の元に奔ったが、今川に見捨てられた。使い捨ての駒にされた。この事実が知れ渡るは、我々にとって痛い。

 今川は寝返って来た者を冷遇する。そう認識されれば、誰も中川の後に続こうというものは現れまい。


 可能であるなら、中川を厚遇したい。が、それは無理な相談だ。

 裏切りという事実が問題なのではない。この戦国の世、返り忠は褒められた行為ではないとはいえ、左程珍しくもない。それだけでは致命的な傷とは言えぬ。

 問題は……商人に返り討ちにあったという事実。武士は体面を気にする生き物だ。それが商人に返り討ちにあったとなれば……。


 それにワシの謀略も裏目に出ている。織田家中と商人の不仲を煽ったこと。これが理由で、中川は商人に嫉妬して主君を裏切った男という、どうしようもない風評が立つことは避けられぬ。


 そんな醜聞極まる男を今川家で厚遇する? それを天下の人々がどう見るか? 言うまでもない。天下の声望を失いかねぬ。そんな真似が出来るはずもない。


「旦那様」


 障子に人影が写る。家人が声をかけてきた。大方今しがた追い払った中川の件だろう。


「入りなさい」

「はい」


 家人がすっと障子を開けてワシの私室に入って来る。その腕の中には風呂敷が抱えられている。ワシは目を細めてそれを見た。


「ほう。中川からそれを回収できたのか」


 ワシの感心したような声に、家人は誇るでもなく苦笑を以て応える。


「いの一番に、誇示するかのようにこちらに差し出してきましたから。追い出す段になっては、返せだ、何だと叫んでおりましたが……。盗人が返せとは、まあよくも言えたものです」


 ワシも苦笑して見せる。


「恥知らずが、何故外聞も気にせず恥をさらせるか。それは、字義通り恥の何たるかを知らぬからだ。それを恥と思わねば、いくらでも恥をさらすも道理というもの」

「まさしく」


 家人が頷く。ワシは彼に一つ命じることとする。


「その着物を衣桁いこうに架けてくれぬか」


 ワシの言葉に家人は風呂敷を解くと、衣桁に架けるために着物を広げる。その時、何やらぽとりと畳の上に落ちる。……あれは文、か?

 訝し気な顔をした家人は、まず着物を衣桁に架けた後、その文を拾い上げる。直後、その瞳の中に動揺の色が混じる。見てはいけぬ物を見た、そんな表情をした。


「どうかしたかね?」

「いえ、その……」


 家人は言葉を濁しつつ、その文をおずおずと差し出してくる。ワシは受け取ると、その宛名を見て推測を確信へと変えた。

 文に書かれた宛名は、友野宗善様とある。裏に返すと大山源吉の署名。

 やはり初めから仕組まれた罠であったのだ。見事な手前だ。鼠を炙り出し、また今後の防諜対策をもやってのけたか。


 さて、この文には何が書かれているのか? 想像するだけで面白いではないか。

 此度の上首尾に終わった自らの企てを勝ち誇る内容か。あるいは、ワシに対する罵詈雑言の類か。

 純粋な興味と共に、その内容で大山という人物を推し量る良い材料になるだろうと、そんな冷徹な思いも浮かぶ。


「旦那様……」

「ああ、もう下がっても良いぞ」

「はい」


 ワシの言葉に家人は私室を出ていく。その背を見送ったワシはさてと、まずは衣桁に架けられた新有松織に目を向ける。

 文は後の楽しみに、まずはこの新有松織を見分することにしたのだ。

 模造品は間に合わぬにしても、商売敵の新たな商品を分析することは大事なことだ。


 暫くまじまじと見る、ほどなく、思わずといった具合に感嘆の溜息を吐いた。

 相変わらず見事なものよ。そして気に掛けるべきは、この新意匠が男物であることだろうか。


 思えば、国主織田上総介への献上品という名目であったな。てっきり、奥方か妹君に宛てた女物と思っていたが……。

 そうか。今度は男物を出すか。意匠も見事であるし、国主がその身に纏うとあれば、その名声は天井知らずと高まるやもしれぬ。……成程のう。そう来たか。

 意図は分かる。悔しいが、これは上手い手だと言わざるを得ない。しかし、一つ不自然なのは……。


 見事な意匠ではあるが、少しばかり派手に過ぎぬだろうか? ……いやそうか、国主と同じ意匠を他の者が纏う。そんな無礼は許されぬ。故に、国主の物を最上級という体で、一つ格が落ちる意匠として、一般向けの着物を売り出す気なのか。


 恐らくこの意匠を少し控え目なものとするのだろう。ふむ、そう考えれば、丁度良い塩梅になりそうだ。

 ワシはそう結論付けると、文机の方に歩み寄る。そこで文を開く。文面に目を通していく。

 まずは型通りの時候の挨拶が連なる。読み飛ばしてその先を見る。


『――此度、我々が手掛けた新意匠を御覧頂けたでしょうか? 手前味噌ではありますが、職人たちの協力を得て見事な出来栄えになったかと思っております。斯様な最上品を扱えるは、商人にとって望外の喜びと言えましょう。

 取るに足らぬものを売り捌く。売り捌ける。それこそ正に、商人としての腕の見せ所かもしれませぬ。が、それでも天下に誇れる一品を売ること。これは商人にとっての一つの夢ではないでしょうか?


 回りくどくなりましたね。単刀直入に申し上げましょう。友野様も、この新有松織を売ってみたいと思いませぬか?

 益々新有松織は進化していくことでしょう。商人である貴方様がそれを扱ってみたいと思わぬことがありましょうか?


 織田に靡いてはくれませぬか? 風聞はお聞きかと思いますが。織田上総介信長という男は、他の大名とは異なります。

 織田様は商人を卑賎と蔑むことをなさらぬ御仁。ばかりか、商人の、銭の重要性を誰よりも理解できる先見性をお持ちです。

 織田様の下で商人は皆、他のどの大名の下でよりも己の才幹を存分に振るえるのです。

 どうか、どうか。友野様が今川から袂を分かち、織田側にお付き頂けることを願っております』


 なんとまあ。悉く予想を外してくる男だ。……夢か。青いな、しかしどこか羨ましくもある。

 くくっ、危ないな。ワシが若ければこの文一つで鞍替えしたやも知れぬではないか!


「大山源吉、若く夢追う商人。そして夢を掴み取るだけの器量をも持ち合わせておる。……潰すは余りに惜しい。真実そう思う。しかしだ。だからこそ、この老いた商人が未来ある若者を潰す。それに昏い悦びをも覚えてしまうのだよ」


 私の顔は今、笑みを浮かべているのだろう。愉し気に笑んでいるに違いない。

 失策であったな、大山。この文はワシの黒い炎を一層燃え上がらせるばかりであったぞ!

 そのように好敵手に思いを馳せていたが、どたどたという慌ただしい足音で現実に引き戻される。


「旦那様!」


 障子が開かれ、先程下がった家人とは別の家人が飛び込んでくる。


「何事か、騒々しい」

「急報です! 松平蔵人佐が、尾張との国境に兵を張り付けました! 尾張商人も完全に締め出された由!」

「何!?」

「更に松平蔵人佐は、今川様に急使を遣わした模様!」

「松平は今川様に何と?」

「そこまではまだ……」


 それもそうか。急使が遣わされたばかりだろう。その内容を掴めている筈もなし。

 が、問題はない。今川様に聞けばそれで分かることであるし、大方の内容も想像がつく。

 昨今の尾張三河間の軋轢により、織田に不信を抱いた松平が方針を転換したのだ。

 つまり、織田と手を切り、再び今川と手を結ぼうというのだろう。


 謀略の一環として、織田松平の離間工作もしてはいたが。正直芽が出る可能性は少ないと思っていたのだが……。

 思いの外、尾張三河商人たちの互いの不満は大きかったと見える。


 そう、尾張商人は新有松織の製作を主導した立場から、自分たち優位でないのが気に入らず。三河商人はそれを態度として前面に押し出してくる尾張商人に我慢ならなかった。


 先日起きた関所での尾張商隊の締め出しが、それを決定的にしたのか? あるいはその内容を誇張して流言を飛ばさせたのが功を奏したか? それともまだワシの預かり知らぬ問題が尾張三河間に勃発したか?


 その辺りの事態をしっかり把握する必要があろうが、悪い展開ではない。

 全く、これだから方々に種を蒔くのは止められぬ。思いもせぬ芽が出て花開く様は、実に心躍るものよ。


「急ぎ登城し、今川様に面会する! すぐさま使いを送れ!」

「はい!」


 家人が入って来た時と同じく慌ただしく部屋から出ていく。

 ワシも身支度をしようと立ち上がる。立ち上がるが、手にまだ大山の文を握ったままなのに気付く。


 ワシは少し身をかがめると、文机の引き出しを引き、そこに文をそっと仕舞い込む。

 そうして今度こそ身支度を整えようと、足を踏み出したのだった。

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